劉勲の悪行

 劉勲りゅうくんは、本気で忘れているらしい。

 これは悪行の報いだと華佗かだに言われても、「七、八年前、俺が何をしたというのだ」と真顔でたずねる始末だった。


「おいおい。まことに綺麗さっぱり忘れておるのか。呆れた男じゃのぉ」


「華爺さん。下衆げすな人間とはそんなものさ。曹洪のクソジジイも、自分が奴隷市場で売り飛ばした者たちの顔をひとつも覚えていないに違いない」


 ゴミを見るような冷たい眼差しを劉勲に向け、曹丕は笑顔で毒を吐く。


 この男は実際、山ほど犯した過去の悪事をおおかた忘れてしまっていた。そんなことをいちいち覚えていても、自分に何の得も無いと考えているからだ。


 劉勲が自力で思い出すのを待っていたら日が暮れそうだ、と思った曹丕は、答えを教えてやることにした。


「この二人の名を聞けば、下衆げす野郎の貴様も自分が何をしたか思い出すだろう。楊弘ようこう張勲ちょうくん――貴様のかつての仲間で、共に袁術に仕えていた者たちだ」


「あっ」


 バッチリ心当たりがあるらしい。劉勲はギクリと肩を震わせた。


「そういえば……あれは八年前。劉備にフルボッコにされた袁術様が『蜂蜜水が飲みたいプー~』と叫びながら絶命したすぐ後のこと。主君死んじまったけど、どうすんべぇ~と悩んでいた俺は、気がついたら独立してしまっていた。完全なる成り行き任せ、その場のノリだった。

 しかし……困ったことに、拠点の城を守るための兵力や銭がぜんぜん足りなかった。そんな時、元同僚の楊弘と張勲が孫策の元に身を寄せるらしいと噂で聞いた。しめたと思った俺は、その道中を待ち伏せして二人を捕まえ、あいつらの兵と財産を全部奪ったのだった。すっかり失念していたわい……」


「その後、気の毒な二人の行方を知る者はいない。捕虜にした楊弘と張勲をお前はどうしたのだ?」


「ええと……。『元同僚を襲うなんて人間のクズめ!』『顔がきっしょいんだよバーカ!』と俺を口汚く罵るので、その場で殺して埋めました」


 それは呪われるに決まっている。


 やっぱりこいつ、曹洪と同類の鬼畜野郎だな……と司馬懿は心の中で呟き、眉をひそめた。


「え? ま……まさか、楊弘と張勲の怨念が、我が娘を苦しめているというのですか? ええ~……。ちょっと追いぎして殺しただけなのにぃ……」


「その感覚がまずおかしいが、祟りの原因はそれに違いあるまい。お前は、俺の親父の配下になってからも、汚職やら何やら悪さをして他人の怨みを方々で買っているが、七、八年前から娘の足に腫物はれものができたというのなら、十中八九は楊弘と張勲の怨念だ」


「さ、されど……。あの時、奴らが化けて出ないように、たまたま我が城を通りかかった方士にまじないをしてもらっているのです。もしかして、まじないの効果が無かったのでしょうか?」


「その方士の名は?」


「たしか、費長房ひちょうぼうという男だったと思います」


 よく知っている方士の名を聞いた曹丕は「ああ~……あいつか。ダメだな、それは」と言いながらかぶりを振った。


「費長房は、本気を出しさえすれば凄い方術使いなのだが、だいたいの場合はやる気が無い。しかも、うっかり者で、とてつもなくだらしない。どうせ、あいつが二日酔いで頭がボーっとしている時にでも頼んでしまったのだろう。それゆえ、中途半端な力しか発揮できず、まじないの効果も中途半端になったのだ」


「中途半端、と言いますと?」


「費長房のまじないは、怨みを買っている本人である貴様のことは守った。だが、家族であるお前の娘までは守りきれなかった、ということだ。悪鬼の中には、家族を狙って、憎い敵を精神的に苦しめてやろうと考える奴も時々いるようだからな」


「ぐ、ぐぬぬぅ~。楊弘と張勲め。なんて性格の悪い」


「性格が一番悪いのはお前だがな。……まあ、それでも、腫物がかゆい程度で済んでいるのは、中途半端でもまじないが効いているということだ。それだけ酷い仕打ちをされて死んだならば、もっと凄まじい祟りになっているはずだからな」


 曹丕がそう説明すると、華佗が自律神経を整える手の経穴ツボをおしながらうなずき、「おおよそは子桓しかん殿の申された通りじゃろうのぉ」と言った。


「ただ、そのまま放置しておれば、やがてまじないの効果は失せる。その時は命に関わるやも知れぬ。お前さんの娘がさほど苦を感じていない今のうちに、楊弘と張勲の怨毒えんどくを取り除くのが賢明じゃろうて」


「怨毒を取り除くと言っても、おぬしは医者であろう。悪鬼を退散させる術を知っているのか」


「けっ。めてもらったら困るわい。医者として独り立ちしてから八十数年、わしは大勢の病んだ人々を診てきたのじゃ。救った人間の中には、呪いが原因で衰弱していた者も少なからずおった。これぐらいの祟りを癒せずして、何が天下の神医じゃ」


 そう啖呵たんかを切った華佗は、百歳を超えた老人らしからぬ敏捷びんしょうさで立ち上がる。そして、右手の人差し指と中指を立て、「駿馬しゅんめが二頭――」と言った。


「必要じゃ。あと、赤犬が一匹。犬のほうは儂が用意するゆえ、劉勲将軍は馬を頼む」




            *   *   *




 それから一時間後。


 曹丕と司馬懿、劉勲、そしてその娘は、ぎょう城を出てしばらく歩いた街道にいた。


 曹丕の部下のしんも、司空府から呼び出され、駆けつけた。彼は、劉勲が用意した二頭の馬に、近くの村の井戸からとってきた水を飲ませてやっている。


「遅いッ。華佗の奴、何をしておるのだ。もう秋だというのに、こんな吹きさらしの場所に長くいたら、俺の娘が風邪を引いてしまうではないか。……へっくちょん!」


 華佗がなかなか現れないため、劉勲は苛立っているようだ。


 司馬懿もいささか不安だった。呪いを取り除くために、なぜ馬と犬がいるのか。どうしてこんな所で治療をやるのか。皆目かいもく見当がつかない。


「あの、公子様。先日拝領した霊剣泰山環たいざんかんは、邪悪な存在に反応して光るんでしたよね。鞘から抜いた剣を劉勲将軍の娘御の足に近づけてみても、何の反応も無いようなのですが。これは、本当に祟りが原因の腫物なのでしょうか」


「華爺さんは誤診をせぬ。ただの病か、祟りのせいなのか、見誤ることはまず無い。あの爺さんが死者の怨毒が原因だと言えば、必ずそうだ」


「では、腫物に宿るけがれれに、この霊剣はなぜ反応しないのです?」


「それもきっと、費長房の中途半端なまじまいの効果のせいだ。腫物に宿っている穢れは今のところ、劉勲の娘の健康を害するほど強力なものではない。ごく微弱な穢れで、人体に悪影響がほとんど無ければ、潔癖症な性格の泰山環もさすがにいちいち反応せぬのだ。たぶん、ただの腫物だと勘違いしているのだろう」


「なるほど。つまり、呪いの有無を見定める能力は、霊剣よりも神医のほうが上ということですか。

 ……されど、華佗先生は城外の街道でいったい何をするつもりなのでしょう。ここは広々としているので、足の速い馬を思い切り走らせるのにはもってこいの場所ですが……。そんなことは、治療とは別に関係ありませんよね?」


「まあ、落ち着いて華爺さんが現れるのを待て。本人も言っていたが、あの爺さんは病であれ呪いであれ、人を癒すことにかけては天下無双なのだ。呪いを消す知識だけならば、恐らく俺よりも豊富に知っているはずだ」


「えっ。怪異バカの公子様よりも知識が豊富なんてこと――あいたっ⁉」


「誰がバカだ。バカ野郎」


「しゅ、しゅみません……」


 蹴られた尻を司馬懿が涙目でさすっていると、「待たせたのぉ~」という呑気そうな声が秋空に響いた。


 振り返ると、華佗が元気な足取りで城の方角からこちらへ向かって来るのが見えた。首に縄をかけられた赤毛の犬を連れている。


に庭で飼っていたこの犬を屋敷の外に出そうとしたら、急に走りだしてな。ちょいと追いかけっこをしておったのだ。カッカッカッ」


「笑っておる場合か! 馬と犬で、我が娘をどう治療するというのだ! もしも失敗したら叩き斬――あいたぁぁぁぁぁぁ⁉」


 曹丕は、今度は劉勲の尻を蹴った。司馬懿の時とは違って、手加減は一切していない。劉勲の太った体は、空気が抜けた風船のように吹っ飛び、そこらへんの木に顔から激突した。


「今から面白い治療が始まるのだ。余計なことをぎゃあぎゃあ言って、華爺さんの邪魔をするな」


「ず……ずみまぜ……がくっ」


「どうやら劉勲は気絶したようだ。華爺さんよ、口出しする邪魔者はもういないゆえ、好きなようにやってくれ」


 そう言いつつ、曹丕はふところから木簡と筆を取り出した。怪異譚収集に余念がないこの若者は、どこへ行く時でもメモの用意を忘れない。


「承知した。……呪いがこびりつきやすい場所は喉や足、あと頭。最も治療が容易なのは喉で、とびきり酸っぱいにんにく漬けの酢を三升(約六デシリットル)ほど飲ませたら、がビックリして口から出て来る。だが、今回は足じゃ。しかも、七、八年ほど膝頭の皮膚の下にこびりつき、簡単には引き剥がせなくなっておる。にんにくの酢では効果が期待できん。それゆえ、可哀想じゃが今回はこの犬に犠牲になってもらう」


 華佗はそう説明すると、真に向かって「子丹したん殿。この犬を縄で馬と繋ぎ、引きずりまわしてくれ。馬が疲れたら、もう一頭の馬と交替して、さらに犬を引き回すのじゃ」と言った。


「あい分かった」と真は頷き、言われた通りに犬と馬を繋ぐ。そして、肥満体とは思えぬ軽やかさで馬上の人となり、


「えいやッ!」


 と叫んで、馬を走らせ始めた。縄で繋がれている赤犬は「キャンキャン! キャウーン⁉」と驚愕と恐怖の声を上げながら、引きずられていく。


 なんて可哀想なことをするんだ、と司馬懿は眉をひそめた。

 しかし、これから始まる華佗のも気になるが、他にも気になることがある。華佗が真を子丹殿と呼んでいたことだ。


「公子様。子丹というのは、真の野郎のあざなですか? たしか、曹家って、字に『子』を使う人がけっこういますよね。子桓(曹丕)、子脩ししゅう(曹昂)、子廉しれん(曹洪)、あと子孝しこう(曹仁)とか。あの……もしかして真は……」


「何だ、真のやつ。知り合ってけっこう経つのに、お前に自己紹介のひとつもしていなかったのか。ああ、そうだ。あいつの姓名は曹真そうしん、字は子丹。我ら曹一族の一員だ」


「えっっっ!!!???」


 司馬懿は絶句し、背中に冷やりとした汗を流した。


(マジで曹家の人間だったのか、あいつ。俺のことをやたらと嫌って無礼な態度を取るから、こっちもずっとタメ口だったけど……もしかして、まずかった?)









<劉勲の娘の治療に登場する犬について>


正史『三国志』の裴松之はいしょうし注に引く『華佗別伝』や、『捜神記』には、華佗は劉勲の娘の治療に米糠こめぬか色の犬を使ったと記されています。(ちくま学芸文庫『正史 三国志4』、平凡社『捜神記』の訳文より)


「米糠色の犬……? 赤犬のこと……?」


と悩んだ挙句、赤毛の犬ということにしておきました(^_^;)

米糠色の犬だと、ちょっとピンとこないので(汗)


華佗がどうやって犬で治療するのかは、次回に詳しく語られます。

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