怪異の闇、人間の闇

 洛陽でのスリリングな一夜から数日後。


 曹丕と司馬懿は、下痢から回復したばかりの費長房ひちょうぼう縮地しゅくちの術をもう一度やらせて、ぎょうに帰還した。(もちろん、費長房はまた下痢になった)。


 そして、さらに十数日後に、馬騰ばとうの書状が涼州から届いた。手紙には、息子の暴挙を謝罪し、今回の不始末を曹操に報告しないと約束してくれたことを深く感謝する旨が記されていた。


「馬超の奴、すっかり父親に愛想を尽かされたようだ。『馬超は廃嫡します。すぐ下の弟の馬休と馬鉄も頼りないので、後妻が産んだ子を跡目にしようと思います』と馬騰は書いてきている」


「廃嫡……。馬超の気性を考えたら、それは逆に危ないのでは? そんな屈辱を味わえば、あの男のことです。必ずや暴発しますぞ」


「俺もそう思う。だから、『早まったことはせず、よくよく父子で話し合い、平和的に解決するように』と返書にはしたためておいた」


親父曹操のこと大嫌いなこいつ曹丕がそんなことを言っても、ぜんぜん説得力が無いんだよなぁ……)


 曹丕と司馬懿は、司空府しくうふの楼閣の上で城邑まちの夕景を眺めつつ、馬騰が手紙と一緒に贈ってくれた葡萄酒ぶどうしゅを酌み交わしている。



 ――葡萄マジ最高。酒にしても良い。考えただけでよだれが出る。



 フルーツ男子の曹丕は、皇帝即位後にそんな趣旨のみことのりを出してしまうぐらい、葡萄が好物だ。だから、葡萄酒を誰かにプレゼントされた日などは、非常に機嫌がいい。この日も、涼州の使者が来た昼頃からずっと鼻唄を歌っていた。いまなら、少々失礼なことを言っても、たいていのことは笑って許してくれそうである。


「……公子様。貴方は、人がいいのか悪いのか、よく分からない御仁ですね」


「何だ、藪から棒に」


 半分酔っ払っている曹丕は、妖艶な微笑をたたえながら司馬懿に眼差しを向けた。怒っている気配は無い。安堵した司馬懿は「だって、そうじゃないですか」と言葉を続ける。


「最初から、董卓軍に殺された悪鬼たちの怨念を馬超一人に引き受けさせるつもりだったのでしょう? そうすれば、洛陽が何万もの亡者に祟られることもなくなるし、馬一族が馬超を救うために大量の人骨を綺麗に拾い集めてくれる……。馬超が怪物化してしまったのはさすがに計算外だったようですが、おおむねは公子様の望んだ通りとなり、これで洛陽の復興計画は順調に進みます。鍾繇しょうよう殿も大助かりでしょうな」


「フフッ。お前の言う通りだ。洛陽に散乱する人骨の問題は早期に解決せねばと鍾繇も頭を痛めていたからな。それゆえ、馬超を利用させてもらった。人が悪いと言われれば、反論はできぬ」


「しかし……そんなことをしたのは、虐殺された洛陽の民たちを救済するためでもあった。おかげで、彼らの魂は、龐徳ほうとく殿たちの手で冥府に送られることでしょう。馮貴人ふうきじんもまた、公子様の言葉で自信を取り戻し、生まれ変わるべく冥府に帰って行った……。

 曹洪そうこう将軍に囚われた奴隷たちを救った時もそうです。貴方には、理不尽な暴力にさらされた人々を哀れむ慈愛の心がある。残酷だが、優しい。鍾繇殿の言葉の通りだ。なんて矛盾した二面性を持つ人なのでしょう。不思議な方ですよ、貴方は」


 曹丕はどういうわけか、「善人」という人物評価をほんの少しでもされると、たちまち不機嫌になる。素面しらふでこんな話題を振ったら、叱り飛ばされかねない。だから、司馬懿は彼がほろ酔い加減の時を狙って、曹丕の人物評を語ったのだ。


 この時代には、人物鑑定をする知識人が多く現れて、人々は自分や他人の人物評をとても気にした。若き日の曹操などは、毎月一日に人物の批評をすることで有名な許劭きょしょうというインフルエンサーを執拗に追い回ストーキングして、「君は治世の能臣、乱世の奸雄だ」という評を強引にもぎ取ったほどである。


 この乱世、人物を見定めることは非常に重要なことだったのだ。司馬懿も、己の命運を託す曹家の公子がどういう人間なのか早く見極めたい。そう思い、自分なりの曹丕像を模索し続けているのだが――。


「ハン、くだらん。前にも言ったが、俺にそういう人物評を押しつけようとするのはやめろ。俺は俺なのだ。誰かに品評されて、俺という人間の生き方を束縛されるのは好かん」


 この通り、曹丕は全く取り合ってくれない。馬鹿々々しいとばかりに鼻で笑うと、盃をぐいっとあおった。


 葡萄酒を飲んで上機嫌の時でも駄目なのか……と司馬懿はがっかりした。


 人物評価が一大ブームのこのご時世に、まことに珍しい男である。


「あんた、性格悪いですよ」とけなしてもそんなに怒らないのに、なぜちょっとでも人格を肯定するようなことを言うと過剰反応するのだろうか。


「そもそも……別に不思議でも何でもないことを不思議がるな。人間ならば誰でもあることだろう、二面性というやつは」


「え? そうですか?」


「そうさ。人は、矛盾した二つの顔を使い分けて生きていく動物だ。人に好かれやすい白の面を表に出し、嫌われる黒の面を裏に隠してな。俺のクソ親父がいい例だ。漢王朝の庇護者として振る舞い、名士たちを手懐ける一方で、徐州じょしゅう大虐殺や袁紹えんしょう軍の捕虜を生き埋めにするなどの残虐行為をやってのけている」


「またそうやって父親の悪口を言う……」


「フフッ。……だが、これは少々真面目な話になるが、自分の二面性との向き合い方を間違えると、厄介なものだぜ。

 黒い面は、巧妙に隠せば隠すほど、闇が深まる。いつか必ず、自分の心の闇を隠しきれなくなってしまう。人間は、正しくありたいと願う生き物だ。心奥しんおうからあふれ、明るみに出てしまった暗黒面を『悪である』と認めたくない。だから、自身の悪を、暴力を正当化し、他者の命と財を奪う行為すら『正義である』とうたうようになる。上は俺の父や、董卓、呂布、馬超……下は墓荒らしの賊たちまで。何の大義も無いのに他人の土地を侵略し、弱き者たちを蹂躙じゅうりんするのだ。乱世とは、黒を白と言い張る奴らが増えた世の中のことさ」


「それは……何というか……。ある意味、悪鬼や精魅もののけよりも恐いですな」


「そうそう、それそれ。『実は、怪異よりも人間のほうがよっぽど恐かった!』というのは怪異譚ではよくあるオチなのだよ。アハハハハハ」


「ぜ、ぜんぜん笑えない……。しかも、今回の馬超や墓荒らしの賊のおぞましさを考えると、たしかにそうかもねって言えちゃうところが何とも……」


「そう青くなるな、仲達。怪異の闇をのぞくことは、得てして人間の闇をのぞくことにつながるものさ。董卓軍の市民虐殺が悪鬼馬超を生む遠因となり、墓荒らしの賊たちの異常性欲が死女の悲劇をもたらしたようにな。これからも、どんどんと怪異に首を突っ込んでいこうぜ。俺の志怪しかい小説完成のために」


(い……嫌すぎるぅ~……)


 司馬懿は眉をひそめ、心の中でそう呟いた。


 ヤバイ怪異現象が起きる場所に行けば、怪異に負けないぐらいヤバイ人間と遭遇する可能性があるということではないか。もう二度と、馬超みたいな闇深き戦闘狂とはお近づきになりたくない……。


「ああ、そうだ。お前に贈りたい物が二つあったのだ。これ、お前が持っておけ」


 曹丕は、急に思い出したようにそう言うと、霊剣泰山環たいざんかんを司馬懿の胸に押しつけた。


「え……? こんな凄い霊剣、俺では扱いきれませんよ」


 困惑した司馬懿は、受け取りを拒絶しようとしたが、「命令だ。持っていろ」と曹丕は聞く耳を持たない。


「泰山環には、『同じ人間が三年以上所持してはいけない』という決まりがある。剣を手に入れて三年が経ち、望む者が現れたら、譲渡せねばならんのだ。俺がこの剣をある者から譲り受けて、今月でピッタリ三年になる。そろそろ誰かに譲る時が迫っている。譲るのならば、俺の助手であるお前がいい。泰山環は何かと便利な霊剣ゆえ、手放したくないのだ」


「で、でも、俺は一言も、その剣が欲しいって言っていないし……」


「じゃあ、言え。『剣が欲しいです』と」


「え……ええぇぇ……。そんな無理矢理なかたちの譲渡でもいいんですか?」


「拒否権無いから。さっさと言わないと、次に葡萄酒が手に入っても、もう飲ませてやらんぞ」


「うっ。そういう脅しはちょっと卑怯ですぞ。け……剣が欲しいですぅ~……」


「はい、どうぞ」


 司馬懿は、めちゃくちゃ不本意ながら、霊剣泰山環を手に入れた。


 こんなブツを持たされたからには、怪異とのバトルで戦闘員に加えられてしまうのは必至である。いますぐ誰かに譲渡したい。


「そ、それで……。俺に贈りたい物の二つ目って何ですか? どうせろくな物じゃないと思うけど」


「おやおや? そんなことを言っちゃってもいいのか? その贈り物を見たら、お前はこの楼閣から飛び降りる勢いで喜ぶぞ」


「いやいや。そんないい物を貴方がくれるはずがないでしょう」


「ほほーう。いらないと言うのならば、たったいま門前に着いた彼女を実家に帰してもいいんだぜ?」


「門前の彼女……?」


 司馬懿が、楼上から司空府の正門前を見下ろしたところ、数人の武者に守られた馬車が一輌いちりょうとまっていた。


 おや……と思って目をらしていると、車の中から見覚えのある女人が出て来た。彼女の端麗な容姿を見た途端、



「し、春華しゅんかッ!」



 と、司馬懿は絶叫し、発作的に楼閣から飛び降りかけた。


 曹丕が首根っこをつかみ、「馬鹿。本当に飛び降りる奴がいるか。普通にきざはしから降りて、妻のところへ行ってやれ」と叱る。


「ど、どどどどど⁉」


「どうして家出した俺の嫁がここにいるのかって? お前が『妻に会いたい、妻に会いたい』と泣きごとを言ってうるさいゆえ、使者を遣わして連れ戻してやったのだ。嫁がいないせいで欲求不満がたまって、事あるごとに鼻血ブーされていたら、こっちが迷惑するからな」


「あ、あああああ‼」


「ありがとうございます、と言いたいのか。感謝しているのならば、今後のお前の態度でそれを示してもらおうか。これからも怪異調査でこき使うつもりだから、そのつもりでいろよ」


「わ、わわわわわ‼」


「ん? 分かりました……か。もういいから、とっとと行け。いまのお前と会話するのは疲れる」


「しゅんかちゅわぁぁぁーーーん‼」


 楼閣を駆け下りた司馬懿は、光の速さで正門まで走り、幼な妻を我が胸に抱き寄せた。そして、愛する女の香りを鼻いっぱいに吸い込み、「春華! よく戻って来てくれた!」とわめきながら頬ずりした。


 春華は迷惑そうに顔をしかめている。「人前でやめてください」と言うと、身をよじって夫から離れた。


「えっ。久しぶりの再会なのに冷たい。なんで? もしかして、まだ怒ってる?」


「そうです。怒っています。私に『出て行け』なんて言った仲達様の元へ戻るつもりなんか、ぜんぜんありませんでした。でも、曹丕様がご使者を直々に遣わしてくださったのに、拒絶するわけにもいかないじゃないですか。だから、渋々ながら復縁してあげるのです。それに……」


「それに、何だ?」


 司馬懿が問いかけると、春華はわずかに頬を赤らめた。夫の秘密を守るために下女を躊躇ためらいなく首チョンパしちゃう冷徹系女子にしては、珍しい反応である。


「できちゃったみたいだから……仲達様と私の赤ちゃん」


「なっ……! それはめでたい! でかしたぞ、春華!」


 司馬懿は欣喜雀躍きんきじゃくやく、春華を護衛していた武者や門兵たちがそばにいるというのに、その場にひざまずいて春華のお腹に自分の頬を押し当てた。


「ち、仲達様。恥ずかしいからやめてください」


「男でも女でも、どっちでもいい! 健やかな子を産んでくれ!」


「……もう。仕方のない人ですね」


 子供みたいに無邪気に喜んでいる年上の夫を見て、春華は初めて微笑んだ。


 これにて、めでたし、めでたし。


 と、言いたいところだが――。


「奥方様に赤ちゃんができたのですか⁉ おめでとうございます!」


 まだ日が暮れきってもいないというのに、気の早い幽鬼メイド小燕しょうえんが忽然と現れ、春華に祝いの言葉を述べたのである。


 自分が首をねたはずの少女が、ニコニコ笑顔で目の前に。春華が驚かぬはずがない。


「で……で……で……」


「で?」


 死亡時のショックで、小燕は自身が春華に殺されたことを覚えていない。のほほんとした顔で首を傾げた。


「出ましたねぇーーーッ‼ 小燕の幽鬼ぃーーーッ‼」


「ほええぇぇぇ~⁉」


 春華は抜剣するや、悪鬼の形相で小燕に襲いかかった。驚いた幽鬼メイドはひたすら逃げ回る。


「しゅ……春華、落ち着け! 身重なのに走るんじゃない! ちゃんと事情を話すから! あと、小燕もいったん冥界に戻れ!」


「ひ、ひえ~! 旦那様、おたすけぇ~!」


「お待ちなさい! 幽鬼め!」


 春華と小燕には、制止の声など聞こえていないようだ。司馬懿の周りをひたすらグルグルと走り回っている。


「あっはっはっはっ。仲達の奴、複雑な関係の妻と下女の間で板挟みになっていやがる。これから大変な日々が待っているであろな」


 楼上の曹丕は、葡萄酒に舌鼓を打ちつつ、大いに困り果てている司馬懿を見下ろして大笑いしていた。


 そろそろ秋が近づく晩夏の、ある日の一幕であった。


 余談だが――ちょうど同じ日。

 荊州の新野では、雌伏中の劉備が「諸葛孔明」という若者の噂を初めて耳にしている。








            ~第四章につづく~

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