馬超事件の始末

 馮貴人ふうきじんの墓室から出た曹丕たちは、東の空から差し込む暁光ぎょうこうを浴びた。


 司馬懿が朝日をまぶしそうに眺めつつ、


「そういえば、龐徳ほうとく殿と馬休殿は大丈夫でしょうか。馬超の奴が復活して、二人を襲っているのでは……」


 不安げにそう言うと、曹丕は「もう夜が明けたのだ。その心配は無い」と即答した。


「なぜ自信満々に言えるのです? 馬超と夜明けに何の関係が……む? 馬のいななき声?」


「馬休だな。見ろ、ずいぶんと血相を変えているぞ」


 曹丕があごで指し示した方角を見ると、陵墓の石門前に馬をとめた馬休が、必死な形相でこちらに走って来ていた。


「ほら、やっぱり! 馬超がまた暴れ出したから助けを求めに来たのですよ!」


「いや、逆だ。あの馬鹿は今頃、息も絶え絶えになって苦しんでいるはずだ」


「え? それはどういう――」


 意味ですか、と問おうとした司馬懿の言葉は、救いを求める馬休の声によって掻き消された。


「そ……曹丕様! お助けくだされ! 夜が明けた途端に兄の容体が……い、いまにも死にそうなのです!」


 悲痛な叫喚きょうかんである。馬超はよほど重体なのだろう。


 司馬懿は、曹丕の予想が当たったことに驚き、「い、一体どういうことですか⁉」と言いながら曹丕を凝視みつめた。


「霊剣でボコられてもしぶとく立ち向かって来たあの怪物ですよ? それがなぜ、とつぜん死の淵に……」


「別に死にはしないさ。とりあえず、馬超の元へ行ってやろう」


 悠揚ゆうようたる微笑を浮かべながら曹丕はそう言うと、司馬懿の背を軽く叩き、馬超との激闘があった林道に戻るべくゆったり歩きだした。




            *   *   *




「龐徳! 曹丕様をお連れしたぞ! 兄上はまだ生きておるか⁉」


 のんびりとしている曹丕を急かしつつ、兄のいる場所へ帰還した馬休は、瀕死の馬超をていた龐徳に声をかけた。


「そ……それが……。曙光であたりが明るくなればなるほど、お体がどんどんしぼんでいかれて……」


 司馬懿たちが見れば、なるほど馬超の肉体が萎んでいた。


 十三尺(約二九九センチ)以上あった巨体は、彼本来の背丈に戻っている。肌は死人しびとのごとく青白いままだが、ひたいつののこぎりなどの化け物じみた特徴が消え失せていた。


 ただ、全身の肉が驚くほど削げ落ちている。げっそりと頬もこけ、断食の末にミイラ化した僧侶のような体貌たいぼうになっていた。踏みつけたら、簡単に骨が粉々に砕けそうだ。


 これがあの錦馬超きんばちょうなのか――と司馬懿は驚愕きょうがくしたが、極端に変わり果てた蒼白そうはく痩削そうさくの姿が衝撃的すぎて、言葉を発することすらできない。鍾繇しょうようと馬休も、呆然と馬超を凝視めていた。


「はぁはぁ……。ち、力が……力が出ない……。息をすることすらままならぬ……。ひ……卑怯者の曹丕め……俺に何をした」


 馬超は、錯乱状態から正気を取り戻していた。しかし、地べたにいつくばり、指一本すら動かせない。せいぜい憎まれ口を叩くのが限界だった。


 曹丕は、負け犬にいくら吠えられても、痛くもかゆくもない。しゃがみ込んで馬超の耳に朱唇しゅしんを近づけると、口の端を上げて妖しく笑った。凍えるような冷たさととろけるような甘美さが同居した独特な声音で、「俺は何もしていないさ」と敗者に囁きかける。


「お前は、自分を祟ろうとした悪鬼たちの魂を体内に受け入れ、逆に支配した。生者でありながら、己自身が悪鬼の親玉となった。驚くべきことをやってのけたと褒めてやりたいところだが……それが大きな間違いだったのだ。

 悪鬼は、陰の気が高まる夜に姿を現し、人を襲う。だが、陽の気が満ち始める朝になれば、その霊力は急激に弱まる。夜明けとともに衰弱して動けなくなるのは、当然の結果だ」


「ぐぬぬぅ……。『夜が明けるまで逃げ切っても俺の勝ち』と貴様が言っていたのは、そういうことだったのか……。ち、畜生。あの悪鬼たちをけしかけたのも、どうせ貴様なのだろう。お……俺はずっと貴様の手のひらの上で踊らされ……ごほっ! がはっ!」


 馬超は、言葉の途中で、激しく咳き込んだ。苦悶の表情を浮かべているのは、呼吸が苦しいからだけではなく、かつてない敗北感に打ちのめされているからだろう。


 馬超の心情を敏感に察した曹丕は、面白いからもっと悔しがらせてやろうと思ったようである。彼のこけた頬のあたりに艶めかしい吐息を吹きかけ、「いやいや。俺にも予想外なことはあったぜ」と皮肉たっぷりに言った。


「まさか生身の人間が、悪鬼の怨毒えんどくを克服し、己の力に変えてしまうとは考えてもいなかった。ただ……予想外ではあったが、俺にとってというだけのことさ。俺を誰だと思っている? 怪異の知識を無尽蔵に持つ曹子桓しかん様だぞ。お前の敗因は、この俺を女幽鬼騒ぎに乗じてめようとした、その浅はかさだ。敵の得意分野を知っていながら、めてかかった己の軽忽けいこつを呪うがいい」


「お……おのれ……」


 馬超の瞳に殺意の炎が宿ったが、ミイラのごとく痩せ細ったいまの体では、自力で立ち上がることもかなわない。


「また夜になれば、陰の気が高まって、お前の肉体は巨大な怪物に戻るだろう。しかし、朝が来るたびにそんなふうに痩せこけ、足腰はへなへなになってしまう。昼間は一人で食事もできず、かわやにも行けぬ。それが、いまのお前だ。強いのは夜限定で、太陽がある内は要介護者……。これでは天下無双などほど遠いなぁ。アハハハハ」


(くそっ。やはり、悪鬼の怨毒を己の力に変えたのは大きな失敗であったわ)


 曹丕の言う通り、昼間は誰かの介護が無いと生きていけそうにもない。自分は天下無双どころか、まともな戦士ですらなくなってしまったのだ。


 しかし、後悔などしても、いまさら遅い。取りいた悪鬼どもを体から追い出す方法など分からないのだ。自分は一生、この厄介な体質のまま生きていかねばならない……。そう思うと、暗澹あんたんたる気分に陥り、馬超は死にたくなってきた。いっそのこと、ここで曹丕に殺されたほうが――。


「曹丕様! 拙者を殺してくだされ!」


 唐突にそう叫び、地に膝をついたのは、龐徳だった。


「急に何を言いだすのだ、龐徳」


 曹丕は、振り向いてそうたずねつつも、別に驚いている気配は無い。この忠義の男が何を言おうとしているのか、少し考えたら予想できることだからである。


孟起もうき(馬超のあざな)様が犯した罪は許されるものではありません。されど、孟起様は我が主君の大事な長子……。孟起様の罪は、代わりにこの龐徳が一命をもって償いまする。それゆえ、孟起様を元の体に戻し、命をお救いくださいませ。どうか何卒なにとぞ、何卒ご慈悲を……!」


 大地に何度も額を打ちつけ、大粒の涙を流しながら懇願する。


 愚直な龐徳殿らしいな……と司馬懿は半ば感心し、半ば哀れに感じていた。

 この忠臣が御曹司おんぞうしを想う半分すら、馬超は龐徳のことを大事にはしていなかったではないか。龐徳はいずれ馬超に捨てられる。そして、馬超は忠実な男を切り捨てたことを大いに悔やむ日がいつか必ず来る。そう思えてならなかった。


(いや……ここで馬超を殺してしまえば、そんなことにはならぬか。『馬超を救う』と馬休殿に口約束していたが、これほど危険な男を冷厳な性格の曹丕が処断せぬはずがない)


 司馬懿は、馬休をチラリと横目で見た。


 彼は青白い顔になり、恐怖と警戒の眼差しを曹丕に向けている。


 ――兄は、曹丕様の罠にかかって、このようなおぞましい姿に成り果てた。最初から、反逆を企てた兄を地獄に叩き落とすつもりだったのだ……。


 その目を見れば、さっきの曹丕と馬超の会話から、おおよその真実を察してしまったらしいことは一目瞭然である。鈍感な龐徳は全く気づいていないようだが、馬休はいま、曹丕の底知れぬ恐ろしさに戦慄しているに違いない。そして、(兄はきっと助けてもらえない、ここで殺される)と諦めているはずだ。


「……鍾繇殿。この場合、馬超を死なせるのが君子として正しい選択なのでしょうか。もしも誤った選択ならば、公子様をお止めすべきかと思うのですが」


 司馬懿は、小声で鍾繇にそう問うた。


 馬超は、謀反を企てた罪人で、あまりにも凶暴だ。生かしておくには危険すぎる。

 また、この男の反逆行為を不問に付すということは、遠征中の曹操に今回の一件を報告しないということだ。後々、隠していたことが曹操に露見したら、曹丕の立場が危うくなるのは必定ひつじょうである。そこまでして助けてやる義理など、曹丕には全く無い。


 しかし……龐徳や馬休の心情を思うと、哀れなほど衰弱しきった馬超に非情な処断を下すべきなのか否か。


 その手で人命をまだ一度も奪ったことがない司馬懿は、危機に瀕している一個の命を前にして、どうすれば君子の道として最善なのか判断しかねていた。


「司馬懿殿、少し落ち着け。子桓様はまだ何も仰せではない。どうして馬超が処断されると決めつけ、そんなに焦っておるのじゃ」


「いや、殺すに決まっているではありませんか。公子様は、民には情けをかけることもありますが、基本的に敵には厳しい人です。この前も、化けやまねこを『殺さない』と約束しておきながら焼き殺したんですから。自分を殺そうとした人間の命を助けるはずがありませぬ」


「詳しい事情は知らぬが……その化け狸とやらは、きっと改心の余地が無いと判断したゆえ、民たちの安全のために殺したのであろう。じゃが、馬超はまだ若い。歳月を経れば、心を入れ替えることは可能じゃ」


「ならば、なおのこと公子様をお止めせねば」


「落ち着けと言っておるじゃろうが。……ああ、なるほど。おぬしは、子桓様が弱った人間をむごたらしく殺すところを見たくないのだな。好きになったか、あの御方を」


「い、いや、別にそういのではなく……」


「安心せい。子桓様は、幽鬼などの怪異譚を多く収集されておるからこそ、死にゆく者の無念をよく熟知されている。毎回えげつないことを平気でやってのけるが、いたずらに人命は奪わぬ。残酷だが、優しい。そういう御仁なのじゃ」


「残酷だが、優しい……」


 二人がひそひそ声で話していると、しばらく黙り込んでいた曹丕が、唐突に口を開いた。


「――龐徳よ。あと、馬休も聞け。馬超の代わりに罪を償うというのなら、洛陽に駐屯している涼州兵を総動員してやってもらいたいことがある」


「涼州兵を総動員? 戦にござりまするか。どこの城を討ちましょう」


「慌てるな、龐徳。戦をしろと言っているのではない。……お前も知っていると思うが、洛陽のいたるところに、人骨が散乱しているだろ。あれは、董卓軍の呂布によって虐殺された人々――馬超にいま取り憑いている悪鬼たちの骨だ。その骨を一つも残さず拾って丁重に弔い、城邑まちを綺麗にしろ。洛陽の復興が遅々として進まないのは、恐らく彼らの怨念がこの城邑を祟っているからだ」


「骨を集めて弔えば、その祟りというのは無くなるのですか?」


「悪鬼になるのは、多くの場合がこの世に恨みを残して死に、誰にも亡骸を弔ってもらえず、冥府に行けぬさ迷える魂たちだ。心を込めて冥福を祈れば、乱世の犠牲となった者たちの魂も慰められ、冥府に旅立てよう。そして、悪鬼たちの魂が浄化されれば、馬超も元の人間に戻れるはずだ」


「お……おお! なるほど! さすがは曹丕様です! 哀れな人々の魂を救済でき、孟起様も助けられる名案ですな!」


 龐徳は手放しで大喜びしたが、馬休はひどく動揺して「ちょ……ちょっとお待ちくだされ!」と言った。


「洛陽に散乱している人骨といえば……とんでもない数ではありませぬか⁉」


「ああ。お前も、幾千幾万の悪鬼たちが馬超に襲いかかる光景を見ただろ。あいつらの骨、ぜーんぶを拾い集めて弔うのだ。涼州からもっと人を連れて来てもいいし、弔いの方法はお前たちに任せるが、かかった費用は全て馬騰ばとうもちということでよろしく」


「あ、あの……。人件費とか塚の建造とか……その他もろもろ、とんでもない出費になりそうなのですが……」


「別に嫌ならいいのだぞ? ただ、そこに転がっているバカ馬超は涼州に連れて帰ってくれよ? 朝と昼は手厚い介護をしてやらないといけないし、夜になったら巨大怪物になって大暴れするし、おっそろしく扱いに困るだろうが、こいつの暴挙を止められなかったお前たちの自業自得だから仕方あるまい。ちゃんと面倒を見てやれ」


「うっ。そ、それは……」


 曹丕はにたにたと笑いながら、究極の選択を突きつけてくる。助けの手は差し伸べるが、自分と鍾繇、司馬懿の命を脅かした迷惑料として、少しばかりいじめてやろうと考えているらしい。


 この男がいい奴なのか悪い奴なのか、余計に分からなくなってきたぞ……と司馬懿は呆れ返ってしまった。ただ、心のどこかで、曹丕が問答無用に馬超を斬殺しなかったことにホッとしてもいる。


「銭の出費ぐらい、いいではありませぬか。それで兄君が元の人間に戻れるのですぞ。やりましょう、人骨拾い」


 龐徳はそう言い、愕然がくぜんとしている馬休を励ます。


 馬休は深々とため息をつき、「これだから銭の勘定ができぬ奴は……」と呟いた。


「第一、一か月や二か月でできる仕事ではないのだぞ」


「一年かかろうが、数年かかろうが、構いませぬ。孟起様をこのままにしておくのは可哀想です」


「はぁ~……。やむを得まい。とりえあえず、人骨拾いを始める前に、兄上を涼州に送り届けたほうが良さそうだな。洛陽でまた騒ぎを起こされたら困るし……」


 これはもう腹をくくるしかないと馬休も覚悟したようだ。小さくうなずき、「承知しました。仰せの通り、洛陽にある人骨を全て拾い集めます」と曹丕に約束するのであった。


「我が意を得たり。これにて一件落着、だな」


 そう言って冷艶れいえんな笑みを浮かべ、曹丕は馬超を見下す。


 朝日が高く昇って陽の気が完全に満ち、馬超には余計なことを喋る元気すらない。しかし、その両眼はしっかりと曹丕を見据え、



 ――いつか必ず殺す。



 と、語っているのだった。

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