魔性の女

 夜半の刻。謎の美女が鍾繇しょうようの寝室にそろそろ姿を現す時間である。側室たちや使用人はすでに就寝し、夜の静寂に包まれた洛陽の政庁は物音一つ聞こえ――。



「うおっほぉぉぉぉぉぉん」



 ……かわやで下痢と闘っている費長房ひちょうぼうの悶え声以外は物音一つ聞こえなかった。


「犬の遠吠えかと思ったら、アホ方士か。あいつ、食事や水も摂らずに厠に籠りっきりで大丈夫なんだろうか」


「いまは費長房の心配をしている場合ではない。仲達よ、ちゃんと身を隠せ。尻がはみ出ているぞ」


「す、すみません……」


 曹丕と司馬懿は、風よけ用の屏風(形状は現在の衝立ついたて)の陰に屈み込み、息を潜めていた。寝室に美女が侵入して来るのを待っているのである。


 月は雲に遮られ、窓からは一筋の光も漏れてこない。燭台のだけが、室内を弱々しく照らしている。


 鍾繇は、寝台に座して女を待っているが、さっきから挙動が落ち着かない。想い人がただの人間だとまだ信じているので、曹丕が無実の彼女を化け物扱いしてあやめるのではあるまいか……と気が気ではないのである。


子桓しかん(曹丕のあざな)様。ぜ……絶対に殺さないでくださいよ。約束ですからね。あんな美しい人が化け物のはずなんて、あり得ないんですから」


 鍾繇は、屏風のほうに視線をやり、もう何度目か分からない念押しをした。


「はいはい。分かったから、そろそろ黙れ。大きな声で騒ぐと、女が警戒して部屋に入って来ないぞ」


 曹丕は面倒臭そうに答えると、そばにいる司馬懿にのみ聞こえる小さな声で「……まっ、俺の推理が正しければ、殺すことなどそもそも不可能だろうがな。すでに死んでいる人間の命を奪うことなどできんさ」と呟いた。


 謎の美女の正体は幽鬼ゆうき――この推理は、鍾繇にはいまのところ秘密にしている。美女の正体を突き止めることを鍾繇がようやく承諾したというのに、「お前の新しい恋人、死人かもよ」などと言ってしまえば、この駄々っ子爺さんはショックのあまり何をするか分からない。最悪、衝動的に自殺する可能性もあるので、曹丕はぎりぎりまで隠しておくつもりだった。


「十中八九、公子様の推理は正しいでしょう。先ほどの説明を聞いて、なるほどと俺も腑に落ちました」


 司馬懿は、曹丕の耳元にそう囁き、彼の考えに賛同する。



 曹丕は、夜食を司馬懿と食べながら、推理の根拠を二つ挙げていた。


 まず、一つ目の根拠となったのが――「夜にしか訪ねて来られない」と彼女が言っていた、という鍾繇の証言である。

 狐ややまねこなど美女に化ける動物の精魅もののけに、「行動可能なのは夜だけ」という時間の制限は無い。こういった制限があてはまるのは幽鬼である。彼らは、陰の気が深まる夜になると化けて出て、生者を驚かす。小燕しょうえんのように日没後すぐに冥界からやって来る元気な亡者もいるが、たいていの幽鬼は闇が完全に支配する真夜中に出没するのが普通だ。


 根拠の二つ目は――美女は突然現れたり目の前で消えたりする、という側室たちの証言である。

 その証言を聞いた曹丕は最初、馬超が放った女の忍びの可能性を疑った。軽功に長けた者なら、それぐらいの芸当はできるからだ。

 しかし、たかが間者ごときに、鍾繇ほど女性経験が豊富な好色家を恋い焦がれさせ、部屋中に恋の詩を書き殴るという狂気の行動に走らせる魔性の力があるとは考え難かった。もしもできるとしたら、歴史に名を残すほどの傾国けいこく……董卓と呂布の仲を引き裂いた貂蝉ちょうせんレベルの美女である。だが、この世に貂蝉という女はすでにいない。

 では、女スパイでないとすれば、神出鬼没な彼女は何者か。ヒントは小燕である。あの幽鬼メイドも、夜には冥界と司馬懿の元を自由に行き来でき、まさに出没自在だ。幽鬼ならば、突然現れたり消えたりすることなど朝飯前のはずだ――。


 この二つの根拠から、「夜限定で神出鬼没に現れる美女は、幽鬼である」と曹丕は推理したのであった。



「まあ、真実をこの目で確かめるまでは、鍾繇や側室たちの主観的な発言から判断した俺の勝手な妄想に過ぎぬのだがな。ただ、勝手な妄想ついでにあと二つ付け加えるのならば……。

 女は少なくとも、夜の洛陽を徘徊はいかいしながら呂布を探している幽鬼たちとは違う。女がもしも董卓軍に虐殺された人間ならば、美男子だった呂布とはぜんぜん似ていない色ボケ爺さんを狙うはずがない。

 そして、最後の一つ。女は生前、かなり高貴な身分だったはずだ」


「鍾繇殿が、気品に溢れて妃か公主のようだ、と言っていましたからな。されど、そんな誇り高き身分の女ならば、我らに捕らわれることを嫌い、冥界に逃げてしまうのでは? どうやって彼女を確保します?」


「前に教えた『幽鬼を売った宋定伯そうていはくの話』にもあるように、幽鬼は人間のつばが苦手だ。そこらへんにいるちょっとした幽鬼なら、唾で弱らせて逃亡できぬようにする手もある。……だが、霊力の強い幽鬼は、唾ぐらい平気な場合が割とあるからな。ここは一つ、別の方法を試してみるとしよう」


 曹丕はそう言うと、腰に帯びていた剣を鞘から半分ほど抜き、ニヤリと笑った。司馬懿は「あっ。これは魔除けの剣――泰山環たいざんかん」と驚く。


「たしかこれ、邪悪な存在が接近すると光って知らせてくれるんでしたよね」


「他にも色々と使い道がある。普通の剣では斬れない霊的存在に傷をつけることができる、とかな」


「ええっ。もしかして、その剣で女を斬るつもりですか? 鍾繇殿との約束は絶対に破らないって言っていたのに……。それ、後で絶対に揉めるやつですやん。鍾繇殿が発狂しても知りませんよ」


「チクッと刺すだけだ。それに、この霊剣は怪異から身を守ることはできるが、滅する能力は無い。ちょっと力がこもりすぎてグサッ! とやってしまっても心配はいらん。まっ、せいぜい泣くほど痛い程度だろうさ」


 悪戯っぽい笑みを浮かべ、曹丕はそう語る。


 たしかに、鍾繇とは「女を殺さない」という約束をしているだけだ。曹丕は「怪我をさせない」とは一言も言っていない。約束違反にはならないはずである。……たぶん。


(でも、やっぱ性格悪いよなぁ、この人。小燕はこいつのどこらへんを見て、「優しい人」だなんて思ったのだろうか。顔か? 女はみんな顔で男を判断するのか?)


 顔面の格差社会を嘆き、司馬懿は深々とため息をついた。


 室内にゾクリとするような冷気が流れ込んで来たのは、ちょうどそんな時である。


 もしかして――と二人が屏風の陰から窺うと、部屋の入口に華奢な女がたたずんでいた。


(ついに現れたか。ヤバイ幽鬼じゃなかったらいいが)


 ごくりと唾を呑み込み、司馬懿は身構える。


 燭台の灯から離れた場所にいるため、女の容貌はハッキリと見えない。だが、彼女が「鍾繇よ……」と囁くように寝台の老人に呼びかけると、司馬懿は全身の神経がしびれるような感覚に襲われた。


 その美しい声は、あまりにも艶めかしく、男の劣情を的確に刺激してくるのである。顔が見えなくても、声だけで彼女が男を狂わす魔性を秘めた女であることが分かった。


「鍾繇。どういうつもりじゃ?」


 女は、哀切に満ちた声音で鍾繇に問いかける。


「どういうつもり……とは何のことかな?」


 いまから彼女を罠にはめねばならない罪悪感から、受け答えする鍾繇の声は弱々しい。震える手で差し招き、「さ、さあ、そんな所に突っ立っていないで、こっちへ来てくれ。今夜も楽しいひと時を過ごそう」と誘った。


 しかし、女は闇の中で動こうとせず、鍾繇をじっと凝視みつめている。


「ど……どうした? なぜ来ない?」


「鍾繇、私は哀しいぞ。この部屋からは、ただならぬ殺気を感じる。あんなにも愛し合った仲だというのに、そなたは私に危害を加えるつもりなのじゃな?」








※作中で「だが、この世に貂蝉という女はすでにいない」とありますが、拙作の短編小説『斬貂蝉』(https://kakuyomu.jp/works/16816700426786879875)とほぼ同じ出来事がこの物語世界でも起きているという脳内設定です。関羽と貂蝉にまつわる怪異譚に興味がある方は、ぜひ『斬貂蝉』をご覧ください(*^^*)

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