怨毒

 馬超率いる騎兵集団が、夜風を切って疾走していく。


 目指すは、曹丕と鍾繇しょうようがいる洛陽政庁である。大路を行くと目立つため、裏路地を進んでいた。


 日没前にはげしい驟雨しゅううが通り過ぎたせいで、道はぬかるんでいる。軍馬が地面を蹴るたび、泥水の跳ねる音がした。たまに、何かが踏み砕かれるような嫌な音もする。


 黒雲が夜天を覆い、あたりは非常に暗い。涼州兵は、自分たちの馬が何を粉砕しているのか肉眼では確認できなかったが、おおよその察しはついていた。人骨である。


 前にも書いたが、この洛陽には、董卓軍によって虐殺された人々の骨があちこちに転がっていてる。その数があまりにも多く、しかも、どうやらその亡者たちが悪鬼化して洛陽の復興工事を妨げているらしく、鍾繇は処理に大いに苦慮していた。


(二人は大丈夫だろうか。残って介抱してやりたかったが……。兄上に逆らえば、私まで半殺しにされかねなかったからな。鉄、龐徳ほうとく。臆病な私をどうか許してくれ)


 馬休は、暗闇にぼんやりと浮かぶ馬超の横顔をチラチラ見ながら、心の中でそう呟いていた。


(そもそも、私と鉄は、父上に無断で挙兵するなんて嫌だったのだ。こんなクソ恐ろしい兄でなければ、従ってなどいなかった。この人はいずれ、我ら一族に大きな災いをもたらすのではなかろうか)


 彼のこの不安は、残念ながら最悪なかたちで的中することになる。


『三国志演義』では、馬騰ばとうとその一族は曹操におびき寄せられ、騙し討ちにあったことになっている。物語内の馬超は、一族郎党の仇を討つため曹軍に戦いを挑んだ悲劇のプリンスだ。

 しかし、史実の馬超は違う。曹操の招きに応じてぎょうに移住していた父と弟たちの身の安全を配慮せず、涼州で挙兵したのである。その結果、反逆者の身内となった父の馬騰、弟の馬休と馬鉄、その他大勢の馬一族が、刑死の運命をたどることとなる。


 後に漢中かんちゅう張魯ちょうろは、曹操との戦で敗走した馬超を受け入れ、自分の娘を嫁がせようとした。しかし、ある人が「およしなさい」と張魯を強くいさめたという。


 ――あんな身内すら愛さない人間が、他人を愛するはずがありませんぞ。


 そこまで言われるほど、馬超には人間性が欠けていたのだ。


 彼が人としての心を取り戻すのは、大徳の人、劉備との邂逅かいこうを待たねばならない。




「む? 者共ものども、止まれッ」


 騎兵集団の先頭を走っていた馬超が、唐突に鋭い声を上げた。


「兄上、何事です」と馬休が問うと、彼は槍の穂先で前方の闇を指し示した。


「邪悪な気配がする。曹丕め、どうやら俺の動きを読んで伏兵を置いていたようだ」


(邪悪って……。あんたほど邪悪な存在が他にあるのかよ)


 心中そう毒づいた馬休であったが、暗闇の中から人影がぬっと浮かび上がると、驚愕した。


 馬超たちの行く手をさえぎる鎧姿のその人物は――なんと首が無かったのである。


「く……首が……首が無いのに立って歩いている……」


 馬休は恐怖のあまり、ガクガクと震え、馬上で失禁していた。


 首無し人間は、右手に環頭大刀かんとうたち柄頭つかがしらが環状になっている刀)を握り、左手に血まみれの男の首を抱えている。


 その首は、初老ながら、威厳のある武将ふうの風貌だった。どうやら、首無しの化け物は、自分の頭部を持ち歩いているらしい。


「ホウ……。小燕しょうえんとかいう小娘の話はまことであったようじゃ。そのどす黒い邪気は……紛れもない。我が養子、呂布じゃな。洛陽に帰って来ていたのか。フッフッフッ……ようやく貴様に復讐できるわい」


 首が急に喋り出し、紅く輝く双眸そうぼうで馬超を睨んだ。


 馬休や兵士たちは、「く、首がしゃべった!」と口々に叫んでおびえたが、馬超はさすがに肝が据わっている。「何だ、てめえは。俺は幽鬼ゆうきになど用は無い。邪魔だからどけ」と、首を抱えた亡霊を叱りつけた。


「この愚か者め。自分が手にかけた義父の顔を見忘れたのか。董卓などに鞍替えしおって……」


「俺は貴様など知らん。第一、我が姓名は馬超だ。呂布はとっくの昔に死んでいるぞ」


「ハッハッハッ……。わしに復讐されるのが恐ろしくて、そのような虚言を申しておるのだろう。そうじゃ、そうじゃ。お前はもともと臆病な若造だったことをいま思い出したわい。儂が乱世を生き残れるように厳しく鍛え、最強の武将に育ててやったというのに……。この親不孝者めが! 儂の顔をよく見ぬか! 我は執金吾しっきんご(宮中と都の警備を担当した武官)の丁原ていげんなり!」


 亡霊は、左腕を高く掲げ、悪鬼の形相をした己の首を見せつけた。


 丁原のまなじりは異様に逆釣り、あごが裂けるほど大きく開かれた口からは黒いもやのようなものが噴き出ている。


 その靄を吸った涼州兵たちは、急に力がえ始め、次々と馬から転げ落ちた。


「あ、兄上! 兵たちが……!」


「どうやら、死者の凄まじい怨毒えんどくにあてられたようだ。……チッ。人違いで祟られてたまるか。休よ、別の路地に逃げるぞ」


 馬超はそう指示したが、それはかなわなかった。どこからともなく湧いて出てきた大勢の幽鬼たちに、知らぬ間に包囲されていたからである。


 頭の半分が欠けて脳みそがき出しになっている

 心臓に剣が突き刺さっている鬼。

 手足の一部が欠損している鬼。

 どの幽鬼たちも、非常におぞましい姿をしている。


 彼らが口から吐き出す黒い靄は、あっという間に馬超たちを包み込み、涼州騎兵の意識を朦朧もうろうとさせていった。とうとう、どうにか耐えて馬にしがみついているのは、馬超と馬休だけになってしまった。


「呂布だ、呂布がいる。董卓の犬め。漢王室の敵め。取り殺してやる」


「よくも俺を殺してくれたな。よくも財産を奪ってくれたな」


「妻を返せ。娘を返せ。返せ返せ返せ返せ返せ返せ」


 暴君董卓の暗殺を企て、逆に殺された漢王室の忠臣。

 董卓軍に屋敷を略奪された挙句、命までも奪われた商人。

 愛する妻と娘を凌辱され、悲憤のあまり絶命した町人……。


 彼らこそ、いま洛陽市中で噂になっている、董卓軍に虐殺された人々の悪鬼である。


 曹丕は、鍾繇の手紙でこの怪異事件を知り、相談に乗っている最中だった。


 夜の洛陽を徘徊はいかいする幽鬼ども。これを馬超退治に使わぬ手は無い。そう思った彼は、小燕に命じて、


 ――洛陽に呂布が帰って来たぞ。


 という噂を幽鬼たちの間に広めさせたのである。


 董卓の養子の呂布は、洛陽における様々な虐殺行為に加担していた。悪鬼と化した彼らが最も恨み、必ずや復讐せんと夜な夜な探している標的ターゲットだ。

 洛陽の復興工事で事故が多発しているのは、呂布がぜんぜん見つからないため、悪鬼どもが荒れ狂っているのだろう。だから、呂布と同じ虎狼ころうの面影を持つ馬超が邪悪な殺気をみなぎらして夜道をうろうろしていれば、呂布と誤認した幽鬼たちが一斉に襲いかかるに違いない――曹丕はそう考えたのだった。


「むむむ……。こんなふざけた罠を仕掛けられるのは、曹丕か奴の元にいるという方士ぐらいだ。あのクソガキ、よくもやってくれたな」


「何がむむむじゃ! よそ事をほざくな! 寝首をかれた恨み、いまここで晴らさせてもらうぞ!」


 丁原の亡霊が、環頭大刀を振りかざし、迫り来る。


 他の悪鬼たちも、呂布の名を連呼しながら、馬超に殺到した。


 幽鬼相手に物理攻撃が効くとは思えない。だが、死人しびとにここまでめられたら、腹が立つ。馬超は、ひたいに血管が浮き出るほど怒りを爆発させ、「調子に乗るなよ、亡者どもがッ」と吠えた。


 ブゥゥゥンと槍を片手で大きく旋回させ、烈風を巻き起こす。この一揮ひとふりだけで、生きた敵兵ならば二、三十人はほふれる。果たして幽鬼たちは――。


「お、おおっ! 兄上、やりましたな!」


 馬休が歓喜の声を上げた。馬超の必殺の刃を喰らった幽鬼たちが、跡形も無く消え去ったのである。再び槍をふるうと、さらに多くの亡者がフッ……と姿を消した。


(何だ、ただのこけおどしであったか。曹丕の奴、驚かせやがって)


 ホッとした馬超は勢いづき、遮二無二しゃにむに槍を繰り出す。次から次へと襲って来る幽鬼を一気に始末し、血路を開いていった。


 飛びかかってきた丁原も、難なく胴体のど真ん中を突き刺して消滅させた。胴体と一緒には消えなかった丁原の首がふわりと浮遊し、馬超の首筋に噛みつこうとしてきたのには驚いたが、これもとっさの判断で素早く拳を叩きつけ、滅した。


「ハハ……ハハハ……アハハハハ! 斬っても血が噴き出ぬのが少し不満だが、これはこれで面白い! こんな雑魚ざこども、さっさと一掃してやるわ!」


 馬超は、亡者たちをなぶるという新しい遊戯を覚え、楽しそうに下卑げびた笑い声を上げた。


 だが、この男の余裕もここまでだった。馬超のものとは別の笑声しょうせい――さっき倒したはずの丁原の声が、夜の闇に響き渡ったのである。



 ――カッカッカッ。甘いぞ、呂布。我らの復讐はまだまだこれから。始まったばかりじゃ。



 その不気味なしゃがれ声を耳にした馬超はギョッとした。


 馬休も、困惑の表情を浮かべ、兄を凝視みつめる。丁原の高笑いは、馬超の口から発せられていたのである。



 ――董卓の犬め。漢王室の犬め。祟り殺してやるぞ。祟り殺してやるぞ。


 ――よくも俺を殺してくれたな。よくも財産を奪ってくれたな。


 ――妻を返せ。娘を返せ。返せ返せ返せ返せ返せ返せぇぇぇ‼



 幽鬼たちの怨嗟えんさの声が続々と、馬超の口から吐き出される。己の意思に反して、唇が勝手に動く。喋るまいと抵抗すると、心の臓を鷲掴わしづかみにされたような激しい痛みが胸に走り、ごふっ、ごほっと吐血した。


「兄上! まさか、幽鬼どもに取りかれてしまったのではありませぬか⁉」


 危うく落馬しかけた馬超の体を、馬休が慌てて馬を寄せ、片手で支える。


「ど……どうやら……そのようだな……」


「軽率に亡者たちと戦うからですよ! いまはとにかく逃げましょう! 屋敷に退却し、急いで除霊せねば!」


「馬鹿を言え。屋敷に逃げてどうする。除霊のやり方など、俺たちに分かるものか」


「ならば、どうすれば……」


「――曹丕だ。元凶のあいつをぶち殺す前に、取り憑いた悪鬼の除霊方法を吐かせる。吐かせる前にうっかり殺してしまったら、あいつの元にいる方士を捕える。縮地しゅくちの術を使えるのだ。除霊ぐらいできるだろう」


「されど、行く手にはまだうじゃうじゃと幽鬼どもがいますぞ」


「フン……。どうせ祟られてしまったのだ。虎の尾を踏んでしまったのなら、頭まで踏んでやるさ。この馬超に恐れるものなどあるものか」


 そう言い放った馬超の顔を見て、馬休はゾッとした。兄の双眸が紅く輝いていたのである。悪鬼丁原と同じ瞳の色ではないか……。


「どけっ! どけ、どけっ! 乱世を生き残れずに死んだ弱者ごときが、錦馬超きんばちょうの行く手を遮るな!」


 馬超は猛然と槍を揮い、洛陽の政庁めがけて突進する。幽鬼を消滅させるたびに彼らの呪いを吸い取り、血反吐を吐いたが、殺意の衝動に燃える彼は怯まない。鍾繇と曹丕を殺すことしか頭には無かった。



 ――ぬはははは。暴れろ、暴れろ、呂布。抵抗すればするほど、我らの怨毒が貴様の体内に満ち、その命を縮めるであろう!

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