駄々っ子五十七歳
「
と、語った。微妙に
司馬懿が眉をひそめ、「夜にしか来られない、というのがまず怪しいでしょう。それに、鍾繇殿も『この世の者とは思えぬ』と言ってしまっているではありませんか」とツッコミを入れても、彼はニヤニヤと薄気味悪く笑っているだけである。
「いましがたまで、お前は明らかに異常な行動を取っていた。何千文字もの恋の詩を天井や壁に書き殴るなど、狂気の沙汰だ。こんな異様な振る舞いをお前にさせた女が、普通の人間とは俺には到底思えぬのだがな」
曹丕は、
「仲達、お前も食え」
「あっ、どうも」
司馬懿も食い意地が張っている。いまはフルーツなんか食っている場合じゃないと分かっていても、すすめられたら自分の食欲が拒否できない。二人仲良く安柘榴を食べた。
そんな主従を横目で見る
「いやはや……お恥ずかしい。年甲斐も無く、胸焦がれるほどの……恋をしてしまっているのですよ。彼女を想うこと以外、何もしたくなくてね。近頃は政務にも……支障が出る始末でして。限られた時間にしか逢えぬ切なさのあまり、とうとう我を失い……。気がついたら、知っている限りの恋の古歌を……無我夢中で書き殴っていました」
「不可解なことを言う。お前は以前、
「ああ~……。そんなこともありましたなぁ~。あの時は……曹公(曹操)が大急ぎで薬を飲ませてくださらなかったら……死んでいるところでしたよ。ハハハ……。仰せの通り……儂は欲しいと思ったものは、是が非でも手に入れたい。そういう性分の男です。蔡邕殿の書も……譲ってくれなかった男がいずれ死ねば、墓を
「五十代後半の爺さんがポッとか言うのキモイからやめろ。そもそも顔色が悪すぎて赤面できていないぞ」
「ええ。顔が真っ青です。どう考えても、その女に精気を吸われていますな」
曹丕と司馬懿が、息ピッタリにダブルツッコミする。
龐徳も大きく
「女がいかなる化け物であれ、鍾繇殿をここまで衰弱させた張本人を捨て置くことはできませぬ。今宵、拙者がその女を斬り捨ててやりましょう」
と、息巻きながら、
すると、鍾繇は突如両眼をクワッと大きく開き、「き……斬り捨てるじゃと⁉」と叫んだ。
「龐徳殿、なんちゅうことをぬかすのじゃ! あの女子は精気を奪って人を殺すようなヤバイ存在ではなぁぁぁい! もしも彼女を傷つけたら、貴殿でも許さんぞッ!」
語気
龐徳は、怒声と大量の
甥っ子を討ち取ってしまった時には、一切怒鳴られなかったというのに、妖怪女を退治すると宣言して、こんなにも
「儂が弱っているのは、毎夜七、八回は彼女とまぐわうからじゃ! 性交渉のやりすぎで体調が悪いだけなのだ! 彼女は断じて悪くなぁぁぁい!」
「ご、五十七歳で毎晩そんなに……。さすがは鍾繇殿、常人の想像を絶する活力をお持ちです。されど、顔色が悪いのはやはりその女が原因――」
「あの女子を殺すのなら、儂も死ぬッ! いますぐ死ぬッ! ここで死ぬッ! 毒飲んで死ぬッ! 毒が無かったら
ゴロンと仰向けに倒れた鍾繇は、両手両足をばたつかせ、おいおい泣き出した。
さすがの龐徳も、鼻水たらして駄々をこねる五十七歳の図には当惑せざるを得ない。
「何ということだ……。
「これは怪異のせいではない。いつものことだ。いい加減、こいつが我がままオヤジだということに気づけ」
鍾繇の醜態は見慣れているので、曹丕はいたって冷静である。龐徳にそう言うと、側室たちに命じて鍾繇の両手をおさえつけさせた。前みたいに吐血するまで胸を叩かれたら厄介だからだ。
「うわーん! 放せ放せぇ~! 儂はいまから死ぬんじゃぁ~! おーい、誰か大量の山椒を――ふんぎゃっ⁉ し……
「お前が死ぬ死ぬと
ぶっきらぼうな口調で人を指図することが多いこの男にしては珍しく、曹丕は噛んで含めるように老臣を懇々と諭し始めた。鍾繇の
主君の息子に真剣な顔で説教されたら、さしもの駄々っ子老人も、神妙に耳を傾けざるを得ないようだ。「そ、それは……」と口籠り、目を泳がせた。
「それだけではない。
「い……いえ……。曹公の期待と民たちの信頼は、裏切るべきではありませぬ。この鍾
曹丕の問いかけに、鍾繇はそう応えた。彼の瞳に、正気の光が宿り始めている。
この老人は、プライベートはアレだが、政治家としての能力は歴史書に名を残すレベルである。当然、「己が世を正し、民を救うのだ」という大志を人一倍に持っている。その政治家としての矜持を曹丕に的確に突かれたため、いくぶん自分を取り戻すことができたのである。
だが――女狂いという悪癖は、業が深いものだ。なおも女に対する未練があるようで、その表情には
「されど……子桓様。儂の気持ちも分かってくだされ。自分を慕ってくれている女を殺すのは、あまりにも忍びないのです。儂には、あんなにも気品溢れる女性が化け物だとは思えませぬ。まるで妃か
「慌てるな。俺は一言も女を殺すなどと言ってはおらん。怪異取材のため、その女の正体が知りたいだけだ。害の無いただの人間と分かれば、それで良し。俺はお前の老いらくの恋には興味が無いゆえ、さっさと
「万が一……。いや、けっしてそんなことはないと思いますが、もしも彼女が怪異の
「もちろん、その女を捕えて、根掘り葉掘り取材する。そして、俺が危険と判断すれば即座に始末する。だが、さほど危険ではないと分かったら、二度とお前に近づかぬように厳命だけして
「危険ではなかったら処断せぬと? まことですか? そう確約してくださるのなら、儂も協力しますが……」
「ああ。約束しよう」
曹丕は優しく微笑み、鍾繇の肩に手を置いた。
その光景を見ていた司馬懿は、(化け
「公子様、ちょっとちょっと。あんな約束して、前みたいに俺に精魅を殺させる気じゃないでしょうね。俺、嫌ですよ? 鍾繇殿に恨まれるような役回りをやらされるのは……」
司馬懿は曹丕の袖を引き、鍾繇や龐徳たちからうんと離れたところまで行って、ひそひそ声でそう言った。曹丕は「余計な心配をいちいちするな、阿呆」と呆れた声で叱る。
「俺が約束を破れば、気性の烈しいあの爺さんは発狂のあまり憤死しかねない。今回は、よほど危ないヤツではない限り、退治はせん。鍾繇に災いをもたらさぬように退けるだけだ」
「そ、そうですか。なら、いいのですが……」
「それよりも、そろそろ日が暮れて
「は、はあ……。うちの小燕がすっかり便利屋扱いされているのが何だかモヤモヤしますが、今度はあの子を何に使うつもりですか」
「馬超対策だ」
「へ?」
「お前、馬超のことをすっかり忘れているだろ。奴はいつ鍾繇を襲撃するか分からん。我らが妖怪女に対処している時に馬超兄弟が襲って来てみろ。厄介この上ない。そこで小燕にひと働きしてもらい、あの男の動きを封じようと思うのだ」
幽鬼メイドVS.涼州の猛将……FIGHT‼
司馬懿は、小燕が
「い……いやいやいや‼ 荷が重い‼ 荷が重すぎますから‼」
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