駄々っ子五十七歳

 錯乱状態パッパラパーから我に返った鍾繇しょうようだが、まだどこか様子がおかしい。側室たちに乱れた髪と衣服を整えてもらっている間、彼は夢遊病者のような眼差しを曹丕たちに向け、


わしの……新しい女のことですか? ハハハ……。彼女は怪異とは……関係ありませんよ。この世の者とは思えぬほど美しいだけの……ただの人間です。夜にしかここに来られない……と言うのでね。いつも夜半の刻(午前零時頃)にこの部屋で逢瀬を重ねている……のですよ」


 と、語った。微妙に呂律ろれつが怪しい。


 司馬懿が眉をひそめ、「夜にしか来られない、というのがまず怪しいでしょう。それに、鍾繇殿も『この世の者とは思えぬ』と言ってしまっているではありませんか」とツッコミを入れても、彼はニヤニヤと薄気味悪く笑っているだけである。


「いましがたまで、お前は明らかに異常な行動を取っていた。何千文字もの恋の詩を天井や壁に書き殴るなど、狂気の沙汰だ。こんな異様な振る舞いをお前にさせた女が、普通の人間とは俺には到底思えぬのだがな」


 曹丕は、淡然たんぜんとした口調でそう指摘しつつ、つくえに置かれていた安柘榴ざくろの赤い実を手に取った。胡床こしょう(西域伝来のイス)に腰掛け、木簡の文字を削るための小刀で安柘榴に切り込みを入れる。その作業が終わると、器用な手つきで皮をき始めた。どこで何をしていても、そこにフルーツがあったら食さずにはいられないらしい。


「仲達、お前も食え」


「あっ、どうも」


 司馬懿も食い意地が張っている。いまはフルーツなんか食っている場合じゃないと分かっていても、すすめられたら自分の食欲が拒否できない。二人仲良く安柘榴を食べた。


 そんな主従を横目で見る龐徳ほうとくは、(こんな時に何やってんだ、この人たち……)と言いたげな呆れ顔をしている。


「いやはや……お恥ずかしい。年甲斐も無く、胸焦がれるほどの……恋をしてしまっているのですよ。彼女を想うこと以外、何もしたくなくてね。近頃は政務にも……支障が出る始末でして。限られた時間にしか逢えぬ切なさのあまり、とうとう我を失い……。気がついたら、知っている限りの恋の古歌を……無我夢中で書き殴っていました」


「不可解なことを言う。お前は以前、蔡邕さいよう(後漢末期の儒学者。書家としても有名)の書を知人から譲渡してもらえず、悔しさのあまり胸を叩いて吐血したことがあるではないか。そんなはげしい気性のお前ならば、好きな女を手元に置いておけぬ不便は我慢ならぬだろうに。何故なにゆえ、『夜にしか逢えぬ』という女の言葉に大人しく従っている。お前の権力をもってすれば、屋敷に無理矢理留め置くことなど造作もないだろう」


「ああ~……。そんなこともありましたなぁ~。あの時は……曹公(曹操)が大急ぎで薬を飲ませてくださらなかったら……死んでいるところでしたよ。ハハハ……。仰せの通り……儂は欲しいと思ったものは、是が非でも手に入れたい。そういう性分の男です。蔡邕殿の書も……譲ってくれなかった男がいずれ死ねば、墓をあばいてでも入手する所存。されど……あの女子おなごにはそういう強引なことはできぬのです。彼女の言葉には全く逆らえない。惚れた弱み……というやつですな。儂、ガチ恋をしちゃったかも。……ポッ」


「五十代後半の爺さんがポッとか言うのキモイからやめろ。そもそも顔色が悪すぎて赤面できていないぞ」


「ええ。顔が真っ青です。どう考えても、その女に精気を吸われていますな」


 曹丕と司馬懿が、息ピッタリにダブルツッコミする。


 龐徳も大きくうなずき、


「女がいかなる化け物であれ、鍾繇殿をここまで衰弱させた張本人を捨て置くことはできませぬ。今宵、拙者がその女を斬り捨ててやりましょう」


 と、息巻きながら、佩剣はいけんの柄をガチャンと叩いた。


 すると、鍾繇は突如両眼をクワッと大きく開き、「き……斬り捨てるじゃと⁉」と叫んだ。


「龐徳殿、なんちゅうことをぬかすのじゃ! あの女子は精気を奪って人を殺すようなヤバイ存在ではなぁぁぁい! もしも彼女を傷つけたら、貴殿でも許さんぞッ!」


 語気はげしく、龐徳を罵る。さっきまで舌をもつれさせながら喋っていた人間と同一人物とは思えない激昂ぶりだった。


 龐徳は、怒声と大量のつばを浴びせられてひるみ、「し、しかし……」と言いよどむ。


 甥っ子を討ち取ってしまった時には、一切怒鳴られなかったというのに、妖怪女を退治すると宣言して、こんなにも痛罵つうばされるのはなぜなのだ……と、彼の頭は混乱していた。この武人は、眼前の老人を神聖視しすぎているため、「度の過ぎた女好き」という弱点が鍾繇にあることをいまだに理解できていないのである。


「儂が弱っているのは、毎夜七、八回は彼女とまぐわうからじゃ! 性交渉のやりすぎで体調が悪いだけなのだ! 彼女は断じて悪くなぁぁぁい!」


「ご、五十七歳で毎晩そんなに……。さすがは鍾繇殿、常人の想像を絶する活力をお持ちです。されど、顔色が悪いのはやはりその女が原因――」


「あの女子を殺すのなら、儂も死ぬッ! いますぐ死ぬッ! ここで死ぬッ! 毒飲んで死ぬッ! 毒が無かったら山椒さんしょうをアホみたいにたくさん喰らって死ぬッ! 死んでやるったら死んでやるぅ~~~‼」


 ゴロンと仰向けに倒れた鍾繇は、両手両足をばたつかせ、おいおい泣き出した。


 さすがの龐徳も、鼻水たらして駄々をこねる五十七歳の図には当惑せざるを得ない。


「何ということだ……。精魅もののけかれたせいで、聖人君子の鍾繇殿がまるで駄々っ子のように……。曹丕様、いったいどうすればいいでしょうか」


「これは怪異のせいではない。いつものことだ。いい加減、こいつが我がままオヤジだということに気づけ」


 鍾繇の醜態は見慣れているので、曹丕はいたって冷静である。龐徳にそう言うと、側室たちに命じて鍾繇の両手をおさえつけさせた。前みたいに吐血するまで胸を叩かれたら厄介だからだ。


「うわーん! 放せ放せぇ~! 儂はいまから死ぬんじゃぁ~! おーい、誰か大量の山椒を――ふんぎゃっ⁉ し……子桓しかん(曹丕のあざな)様! 耳を引っ張らないでくだされ! 痛い痛い痛い!」


「お前が死ぬ死ぬとたわけたことを言うからだ。少しは落ち着かぬか、馬鹿。いま死ねば、洛陽を復興させるというお前の悲願はどうなる。お前の呼びかけに応じて洛陽に移住し、復興作業に従事している大勢の民たちが路頭に迷ってもよいのか」


 ぶっきらぼうな口調で人を指図することが多いこの男にしては珍しく、曹丕は噛んで含めるように老臣を懇々と諭し始めた。鍾繇のはげしい気性から考えて、放っておくと本当に自死しかねないため、大真面目に叱っているのである。


 主君の息子に真剣な顔で説教されたら、さしもの駄々っ子老人も、神妙に耳を傾けざるを得ないようだ。「そ、それは……」と口籠り、目を泳がせた。


「それだけではない。司隷校尉しれいこういの任務も途中で投げ出すことになるぞ。我が父曹操は、お前の政治手腕を見込んで、洛陽や長安の治安維持をお前に託したのだ。その期待を女への執着のために裏切るつもりなのか?」


「い……いえ……。曹公の期待と民たちの信頼は、裏切るべきではありませぬ。この鍾元常げんじょうの誇りが、そのようなことは断じて許さない」


 曹丕の問いかけに、鍾繇はそう応えた。彼の瞳に、正気の光が宿り始めている。


 この老人は、プライベートはアレだが、政治家としての能力は歴史書に名を残すレベルである。当然、「己が世を正し、民を救うのだ」という大志を人一倍に持っている。その政治家としての矜持を曹丕に的確に突かれたため、いくぶん自分を取り戻すことができたのである。


 だが――女狂いという悪癖は、業が深いものだ。なおも女に対する未練があるようで、その表情には逡巡しゅんじゅんの色がまだ残っていた。


「されど……子桓様。儂の気持ちも分かってくだされ。自分を慕ってくれている女を殺すのは、あまりにも忍びないのです。儂には、あんなにも気品溢れる女性が化け物だとは思えませぬ。まるで妃か公主こうしゅ(皇帝の娘)のように高飛車なところがありますが、儂はあの女子のことが心の底から愛おしい……。彼女を失ってしまったら、我が心にはぽっかりと大きな穴が開き、儂は死んだも同然になるでしょう」


「慌てるな。俺は一言も女を殺すなどと言ってはおらん。怪異取材のため、その女の正体が知りたいだけだ。害の無いただの人間と分かれば、それで良し。俺はお前の老いらくの恋には興味が無いゆえ、さっさとぎょうに帰るさ」


「万が一……。いや、けっしてそんなことはないと思いますが、もしも彼女が怪異のたぐいであった場合はどうなさいますか?」


「もちろん、その女を捕えて、根掘り葉掘り取材する。そして、俺が危険と判断すれば即座に始末する。だが、さほど危険ではないと分かったら、二度とお前に近づかぬように厳命だけして放逐ほうちくする。……これでどうだ?」


「危険ではなかったら処断せぬと? まことですか? そう確約してくださるのなら、儂も協力しますが……」


「ああ。約束しよう」


 曹丕は優しく微笑み、鍾繇の肩に手を置いた。


 その光景を見ていた司馬懿は、(化けやまねこにもそんな約束をしていたよな、この人)と心中呟き、また自分が妖怪女の後始末をさせられるのでは……と心配になった。


「公子様、ちょっとちょっと。あんな約束して、前みたいに俺に精魅を殺させる気じゃないでしょうね。俺、嫌ですよ? 鍾繇殿に恨まれるような役回りをやらされるのは……」


 司馬懿は曹丕の袖を引き、鍾繇や龐徳たちからうんと離れたところまで行って、ひそひそ声でそう言った。曹丕は「余計な心配をいちいちするな、阿呆」と呆れた声で叱る。


「俺が約束を破れば、気性の烈しいあの爺さんは発狂のあまり憤死しかねない。今回は、よほど危ないヤツではない限り、退治はせん。鍾繇に災いをもたらさぬように退けるだけだ」


「そ、そうですか。なら、いいのですが……」


「それよりも、そろそろ日が暮れて幽鬼ゆうきが活動できる時間帯だ。仲達よ、小燕しょうえんを呼び出せ。ちょっとあいつを使う」


「は、はあ……。うちの小燕がすっかり便利屋扱いされているのが何だかモヤモヤしますが、今度はあの子を何に使うつもりですか」


「馬超対策だ」


「へ?」


「お前、馬超のことをすっかり忘れているだろ。奴はいつ鍾繇を襲撃するか分からん。我らが妖怪女に対処している時に馬超兄弟が襲って来てみろ。厄介この上ない。そこで小燕にひと働きしてもらい、あの男の動きを封じようと思うのだ」


 幽鬼メイドVS.涼州の猛将……FIGHT‼


 司馬懿は、小燕がほうきを振り回して馬超に挑みかかる光景を想像した。


「い……いやいやいや‼ 荷が重い‼ 荷が重すぎますから‼」

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