曹丕の作戦

 洛陽政庁から少し離れた、とある路地裏。


 すでに陽は没し、あたりは闇に覆われている。いかにも幽鬼ゆうきが化けて出そうなジメジメとしたこの場所で、司馬懿は本物の幽鬼――小燕しょうえんを冥界から呼び出していた。


「ええっとぉ~……。夜の城邑まち徘徊はいかいしている幽鬼さんたちに『呂布がいま洛陽にいますよぉ~』と言い触らして来い、ですか? ちょっと意味が分かりませんが、嘘の噂を流せということですね! そういうことなら、私にお任せください!」


 小燕は、フンスと鼻息を立て、自分の胸を小さな拳で叩いた。


 彼女は生前、噂好きの少女だった。だから、あること無いことを拡散するのは大得意なのである。


「うむ……。曹丕いわく、『この洛陽には、かつて董卓軍に虐殺され、その恨みつらみのため現世をいまだにさ迷っている幽鬼が大勢いる』そうだ。しかも、かなりの数が悪鬼化しているらしい。曹丕の奴は、その幽鬼どもを使って、馬超の動きを封じると言っているが……。そんな嘘の噂を広めることで幽鬼たちがどう役に立つのやら。俺にはよく分からん」


「曹丕様が仰っているのなら、きっと間違いありません! 旦那様と曹丕様のお役に立てるように、全力で頑張ります!」


「小燕……。お前は幽鬼になってもお人好しなのだなぁ。あの我がまま公子にいいようにこき使われているというのに、嫌な顔一つしないなんて。ちょっとくらい、あの男への不平不満を言ってもいいのだぞ。ここには本人もいないのだし」


 ニコニコ笑顔の小燕に、司馬懿は少々呆れ気味にそう言う。


 だが、小燕は天真爛漫な笑みを崩さず、「いえ! 私、旦那様と同じくらい曹丕様のことが好きなので! ぜんぜん嫌じゃありません! いっぱい使ってもらえて嬉しいです!」と元気いっぱいに答えた。


「あの性悪な俺様男子のことが、主人の俺と同じくらい好きだと? ちょっと納得がいかないのだが……」


「曹丕様はいい人ですよ。首を失って困っていた私を助けてくれたし、奴隷市で売られそうになっていた大勢の人を救出してくれました。あの御方は、苦しんでいる人には必ず手を差し伸べてくれます。私たちみたいな弱き民も見捨てたりしません。今回も、鍾繇しょうよう様というお偉いさんに何かあったら、その御方の善政で生かされている民たちに災いが降りかかるとお考えになり、行動されているのでしょう。根はとっても優しい人なのです」


「曹丕が……優しい人……?」


「はい! あのような御方が皇帝になってくれたら、この国の人々はみんな幸せになれると思います!」


「そ……曹丕が皇帝だと⁉ こら! 滅多なことを言ってはならぬ! この国は漢王室がべているのだ! 劉姓ではない曹丕が皇帝など……!」


 小燕の無邪気すぎる言葉に、司馬懿は心臓が止まりそうになるほど動揺した。


 あの若者が即位するということは、漢王朝が曹家によって滅ぼされるということだ。小燕は無自覚に王朝交代を声高に叫んだのである。こんな会話、絶対に他人に聞かれていい内容ではない。たとえここが路地裏で、話の相手が幽鬼でも、非常に危険だ。


「す……すみません……。私、世間知らずだから……」


 主人に叱られて落ち込んだ小燕は、うつむいて涙目になった。


(うっ。泣かせてしまった。子供相手に怒りすぎたな)


 少し冷静になった司馬懿は、「……いや。こっちも大声を出して悪かった」と謝った。


「だが、さっきのような会話を誰かに聞かれたら、場合によっては俺が殺される。現世のしがらみが無い冥界では、好き勝手言っていても構わんが、俺の前ではそういうヤバイ発言をするのはやめてくれ。いまのご時世、ほとんど曹家の天下みたいなものだが、漢王室を大事に思っている者は、俺も含めてまだたくさんいるのだからな」


「ほええ……。私、そんなにも危険な発言をしちゃっていたんですか? とんでもない失敗です。虞姫ぐき姉さんが言っていました。『女の子は舌を出してテヘペロ~って謝ったら、大抵のことは許されるの。でも、大きな失敗をした時は、テヘペロしても許されないことがあるから気を付けてね♡』って……。今回はテヘペロでは済まされないヤツのようです。本当に申し訳ありません!」


「テヘペ……何じゃそれ。いや、そんなことより、いまさっき虞姫姉さんと言ったか? もしかして、お前……あの有名な項羽こううの愛妃、虞姫と冥界で仲良くしているのか? どんな美人なのか気になるから、ちょっと詳しく――」


「失敗しちゃった分、頑張って働きます! 旦那様、それでは!」


「あっ、おい! 虞姫のことを教え……行ってしまったか」


 小燕は、フッと消えてしまった。さすがは幽鬼、自由自在に姿を消したり現れたりできるらしい。


 司馬懿は一人になると、やれやれ……とため息をついた。


「曹丕が皇帝に……か。子供は恐ろしいことを言うなぁ。あんな奴に皇帝になんかなられてたまるかよ」


 そうぼやいた司馬懿だったが、この夜に幽鬼少女が無邪気に口にした発言は、やがて予言となる。そして、その予言を実現させるべく暗躍するのは、他ならぬ自分なのである。


 そんな未来が訪れることを、若き司馬懿はまだ知らない。




            *   *   *




 司馬懿が洛陽の政庁に戻ると、曹丕は書庫室にいた。


 彼は、つくえに木簡の巻物を広げ、熱心に眺めている。チラリと見たところ、皇室関係者の陵墓に関する記録のようだった。


龐徳ほうとく殿はいずこにいるのですか?」


 屋敷内のどこにも龐徳の姿が見当たらないことが気になった司馬懿は、曹丕にそう問うた。


「ああ、奴なら帰した。『報告のため、孟起もうき(馬超のあざな)様の所にいったん戻りたい』と言うから」


「えっ……。それはちょっとまずいでしょう! 馬超に説き伏せられて、襲撃側に回る恐れがありますぞ!」


 驚いた司馬懿がそうまくしたてても、巻物と睨めっこ中の曹丕は黙っている。


「公子様! 無視は感じ悪いですぞ!」と詰め寄ると、曹丕は顔を上げぬまま、


「しつこい。わめくな。『龐徳は義将ゆえ鍾繇を裏切らぬ』と何度も申しておるではないか。……次に同じことを口にしたら、俺が知っている限り最も恐ろしい心霊旅館に宿泊させるから覚悟しろ」


 と、不機嫌そうな声音で言った。この若者は、同じ忠告をくどくどとされるのが大嫌いなのである。


「そ、それはマジ勘弁してください。……されど、龐徳殿が絶対に裏切らぬという確信があるとしても、帰したのはやはりまずい判断だったのではありませぬか? 『方士の不思議な術で、ぎょうから大急ぎで飛んで来た』と龐徳殿から聞かされたら、馬超は『曹丕に我が企みを見抜かれたか』と勘付くはずです。奴を精神的に追い詰めてしまえば、どうせ後には退けぬのなら今夜決起してやろう……と暴発する危険性が高まります」


 よほど無謀な性格でなければ、曹丕が連れて来た奇想天外な方士に警戒し、少なくとも今夜の挙兵は差し控えるはずである。そして、今夜の内に曹丕が怪異を解決して、鍾繇を正気に戻せば、馬超は鍾繇襲撃を断念せざるを得なくなるであろう。


 しかし、問題なのは、馬超が「よほど無謀な性格」である確率が非常に高いということだ。


「馬超は呂布に似ているとおっしゃっていましたが……。もしも、呂布が同じ立場に立たされた場合、彼は挙兵を思い止まるだけの理性を持っていましたか?」


「……フム。たぶん、それぐらいの理性はあっただろうな。まがりなりにも群雄の一人として俺のクソ親父と天下を争っていたのだし。だが――馬超が呂布さえも凌駕りょうがする暴逆の将であった場合、話は別だ。そして、その可能性は非常に高い。野心が理性を上回って、万難を排してでも俺と鍾繇をほふろうとするやも知れぬ。ついでに、お前も巻き添えで八つ裂きにされる」


「いや、それはメチャクチャ困るのですが。そこまで分かっていて、どうして龐徳殿をホイホイ帰しちゃったんですか……」


 自分も危ういというのに他人事みたいに言う曹丕に呆れ、司馬懿は眉をひそめた。


 ようやく巻物から顔を上げた曹丕は、ニヤリと悪戯っぽく笑い、「安心しろ。馬超ごときに殺されてたまるか」と言った。


「馬超が虎狼ころうの本性を現せば、鍾繇を助けたい龐徳は必ず諌止かんしする。かなりの時間、馬超の決起を遅らせてくれるはずだ。龐徳の諫言を退けた馬超が、たとえ軍勢を率いて屋敷から打って出ても、今度は洛陽中の幽鬼たちが奴の足を止める。夜が明けるまでに馬超がここにたどり着くことはあるまい。たどり着いたとしても、きっとろくに戦えぬ体になっているさ」


「そんな簡単に上手くいくのか少々不安ですが……。我らは謎の美女の正体を突き止めることに集中すればいい、ということですか?」


「うむ。まあ、それも半分くらいはすでに見当がついてしまっているのだがなぁ」


「え⁉ 本当ですか⁉」


 司馬懿が驚くと、曹丕は巻物を保管されていた棚に戻し、「俺は真相を見届けるまでは断言しない主義だ。だが、鍾繇や側室たちの証言、類似する過去の怪異事件、書庫室で見つけた洛陽の様々な記録を参考に思考を重ね、ある一つの可能性にたどり着いた。今宵はその推理が正しいか否かをこの目で確かめねばならぬ」と冷静な口調で述べた。


「公子様が結論を下した美女の正体とは何なのですか。教えてください」


「あくまで推理で、結論ではない。一つの可能性だ。何度も言うが、怪異の探求において決めつけはよくない。……しかし、まあ、お前は助手だから教えておいてやるか。美女が現れる夜半の刻までまだ時間があるゆえ、鍾繇の側室たちに何か作らせて、腹ごしらえでもしながら語ろう。さあ、行くぞ」


 曹丕は、司馬懿の背中を叩くと、二人で書庫室を後にするのであった。

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