錯乱の鍾繇

 側室たちの案内で鍾繇しょうようの寝室に入った曹丕と司馬懿、龐徳ほうとくは、そこで異様な光景を目にした。


 壁や柱、床のいたる所が墨で塗り潰され、室内は四辺しへん深黒しんこくの闇に覆われていたのである。


 よく見ると、それは、寸分の隙間無く書き連ねられた文字だった。


「きゃあ! げ、元常げんじょう(鍾繇のあざな)様が!」


 女たちが、主人の異変に驚き、悲鳴を上げる。


 柱にしがみついている鍾繇は、白いものが混じった髪を振り乱し、天井に文字を書いていた。手が届く場所はあらかた済んだので、今度は頭上を文字で埋め尽くそうとしているのだろう。墨汁が蓬髪ほうはつひたい、頬にポタポタと落ちるのも気にせず、喜悦に満ちた表情で、双眸そうぼうを妖しく光らせながら無二無三に筆を振るっている。


 三国時代を代表する書家であるこの男の書風は、清らかで美しく、型にはまらぬのびやかさがある。後の世で鍾繇体しょうようたいと呼ばれ、中国史上屈指の書聖王羲之おうぎしすらも、鍾繇体に大きな影響を受けた。名士ならば、鍾繇の書は大金を出してでも欲しい逸品である。


 だが、そんな鍾繇の麗筆れいひつも、度を越した文字の羅列になってしまえば、不気味でしかない。墨色の波に呑まれたこの部屋にいると、まるで暗黒の海底に沈んでしまったかのような恐怖があった。かくのごとき異常な光景、生み出した人間の精神もまた異常に違いない。


「し……鍾繇殿! 乱心なされたか!」


「待て。無闇に怒鳴り声や物音を立てるな。いまの鍾繇は、己だけの世界に没入している。鍾繇が大きな音に驚いて我に返れば、柱から落ちて首の骨を折るぞ」


 曹丕が、鍾繇に走り寄ろうとした龐徳の肩をつかんでそう止めた。


 いまはとにかく、鍾繇がいつ落下してきてもいいようにせねば――そう考えた司馬懿は、機転を利かせ、「敷物をたくさん持って来て、柱の周りに置くのだ」と側室たちに指示した。


 側室たちは、なるべく物音を立てないようにして動き回り、部屋中にあった敷物を柱の周辺に置いた。


「あの様子では事情を聴くこともできぬな。……龐徳よ。しばらく鍾繇を見張っていてくれ。年寄りの体力だから、そんな長い時間は柱に張り付いてはいられないはずだ」


「わ、分かりました」


 龐徳と側室たちに鍾繇を任せると、曹丕は手燭てしょくをかざして、薄暗い室内を注意深く観察し始めた。


「フム……。何を書いているのかと思えば、ぜんぶ詩のようだな。仲達、これを見ろ」


 司馬懿の袖を引き、壁面に記された鍾繇の文章をあごで指し示す。




 静女せいじょ うるわ


 われ城隅じょうぐう


 あいとして見えず


 あたまきて踟躊ちちゅう




(麗しい彼女は 本当に見目が良い


 私を城邑まちすみで待っている


 だが、日が暮れてあたりが暗く、待ち合わせしている彼女の姿を見つけられない


 私は頭をかきつつ、うろうろする……)




「『詩経しきょう』の古歌だ。男女の逢引を歌っている。鍾繇の奴、どうやら恋の病にかかっているぞ。しかも、そうとう重傷だ」


「ざっと見たところ、他の場所に書かれているのも、全て恋の詩のようですな。所構わず愛の歌を書き殴るとは……あまりにも常軌を逸している」


「元から鍾繇には、気に食わないことがあると極端な行動を取るはげしい一面があった。だが、高名な書家としての矜持きょうじはあるゆえ、筆や墨を使ったこんな悪ふざけだけは一度もしたことがない。いまの鍾繇は完全にパッパラパーだ」


「ぱ……パッパラ……。さすがにそれは鍾繇殿に失礼なのでは……」


「たとえ色仕掛けに長けた間者でも、生身の女がここまで人を狂わせることはできまいよ。これは噂通り、怪異の仕業と見ていいだろう」


「それは俺も同意見です。顔色も非常に悪いようですし、恐らくやまねこか、それとも狐あたりに精気を吸われているのではないかと」


 懼武亭くぶていに棲んでいた化け狸は、美女に化けて男を油断させ、精気を貪り喰らったうえで殺害していた。鍾繇に取りいた女も、正体は変化へんげの術が使える動物に違いない――司馬懿はそう推理した。


 しかし、曹丕は司馬懿の考えに不満のようで、「急くな、仲達。答えを出すのはまだ早いぞ」と言った。


「……されど、犯人が狸か狐だったら、全ての説明がつくはずです。獣耳美女に化けて我らを誘惑した懼武亭の狸のように、悪しき獣が鍾繇殿を惑わせているのではありませんか?」


 自分の意見を否定されてムッとなった司馬懿は、食い下がってみた。


 だが、曹丕は冷ややかな眼差しを向け、「その悪しき獣とやらの目的は?」と問う。


「そ……それはもちろん、人間の命をかてにして自らが神になるためですよ。懼武亭の狸もそうだったじゃないですか」


「あの狸の証言では、狸族が神になるためには殺害した人間の頭髪千人分が必要だという。もしも狸が犯人ならば、たった一人の老人と性交渉を持つことにこだわって三か月も足繁く通う理由の説明がつかんぞ。鍾繇をサクッと殺し、頭髪を奪えばいいものを、なぜ毎夜ここにやって来る? 第一、鍾繇の髪は年齢のわりにはふさふさじゃないか。髪の毛の一本も女から奪われてはいまい」


「で、では、狐はどうです? 狐にも、美女に化けて男をたぶらかす昔話がたくさんあるでしょう」


「たしかに、阿紫あしという名の妖狐ようこの出没情報を近ごろ頻繁に聞く。だが――俺が出没地に赴いて集めた証言によれば、阿紫は気に入った男を誘拐してしまうそうだ。現にさらわれ、奇跡的に救い出された者とも会った。阿紫が犯人ならば、鍾繇はとっくの昔に連れ去られて行方不明になっている可能性が高い」


「む、むむぅ~。そんなふうに言われると、だんだん自信が無くなってきた……。公子様は、動物の精魅もののけ以外の可能性も考慮するべきだ、とお考えなのですか?」


「当たり前だ。お前はどうせ、鍾繇の側室たちの『あの女の正体はきっと、たちの悪い狐か狸だ』という無根拠な臆測に引っ張られ、怪異の正体を決めつけたのだろう。

 ……仲達よ。俺は前にも言ったはずだぞ。『我が目で見て、我が耳で聞き、我が心が納得したもの以外は真実と認めるな』と。怪異の探求は、地道な調査あるのみ。当事者である鍾繇の証言を得る前から、性急に答えを出そうとするのは危険だ」


「す、すみません……」


 司馬懿が素直に謝ると、曹丕は冷徹な輝きを放つ双眸そうぼうまぶたふたし、「まあ、いい」とささやくように言った。次に瞼を上げた時には、いつもの薄ら笑いに戻っており、悄然しょうぜんとしている司馬懿の肩をやや乱暴にバシバシ叩いた。


「しょげている暇は無いぞ、仲達。ここからが本格的な怪異調査の始まりだ。見ろ、鍾繇が落ちてくる」


「えっ?」


 司馬懿が首を一八〇度回転させて後ろを見た直後、力尽きた鍾繇が天井から落ちてきた。


 側室たちの悲鳴が上がったが、龐徳が素早く動き、小柄な鍾繇を抱きとめた。


「はれ……? わ、わしはいったい?」


 天井から落下したショックで、正気を取り戻したらしい。鍾繇は呆然とした表情で周囲を見回す。


 曹丕はニヤリと微笑み、「やあ、色男の鍾繇」と声をかけた。


「ひどいじゃないか。『長安や洛陽で見聞きした怪異は逐一報告してくれ』と頼んでいたのに、なぜ俺に新しい恋人を紹介してくれない。その女を取材すれば、とびきり面白い怪異譚が収集できるだろうに」

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