鍾繇の側室たち

「はい。到着ぅ~」


「ぬおっ⁉ 急に目の前の景色が変わったぞ⁉」


 司馬懿は驚き、周囲を見回した。


 最前さいぜんまで司空府のだだっ広い中庭にいたのに、四人はいま、やたらと狭い部屋の中にいる。しかも臭い。どこだ、ここは。


「そりゃ変わりますよぉ~。ワタクシたちはぎょう城から洛陽の政庁に瞬間移動したのですからねぇ~」


「ほ、本当に縮地しゅくちの術をやってのけたのか。なんと摩訶不思議な」


「……司馬懿殿のその首も、十分に摩訶不思議だと思いますぞ」


 さっきから首を一八〇度回転させて前後を回視かいししている司馬懿に、龐徳が困惑ぎみにツッコミを入れた。ひょっとしたらこの男も精魅もののけの仲間なのではないか……と疑いの目で見ているようだ。


「仲達、龐徳。ここはかわやだ。出るぞ」


 曹丕は、すでに何度か縮地の術を経験しているので、あまり感動していない。二人にそう言い、さっさと厠の外に出た。


「あっ、なるほど。道理で臭いと――おいいぃぃぃ‼ 費長房ひちょうぼう‼ どうして急に下半身を露出させる⁉」


「やあ、すみません。どういうわけかワタクシ、縮地の術を使うと下痢になっちゃう体質なんですよねぇ~。一人運ぶごとに丸一日、今回はワタクシ含めて四人運んだので四日。その期間はずーっと下痢に苦しんで……あっ、やべ。もう話してる余裕無い」


「おわーッ! 我らが外に出るまで我慢しろーッ!」


 司馬懿が狼狽ろうばいしている間に、龐徳は俊敏な動きで厠から脱出していた。司馬懿もヒーッと叫びながら外へ出る。全員が避難した直後、厠の中から豪快な排泄音はいせつおんが聞こえてきた。


「……縮地の術は便利だが、瞬間移動の直後に費長房が大便を始める。下痢がおさまるまでほとんど使い物にならず、無論その間は縮地の術で元の拠点に帰れない。仮に兵士を百人移動させたら、あいつは百日ほど厠に籠ることになる。それゆえ、自然と使い道が限られてくる術なのだ」


「な、なるほど……。それに、縮地の術は、天上の音楽に合わせて難易度の高い踊りをやる必要がありますからな。踊りに失敗した真は、鄴に取り残されてしまったみたいですし。大勢の兵士たちにあの踊りを一斉にやらせるのは、ほぼ不可能に近い。曹公(曹操)が費長房の縮地の術を戦に用いぬ理由がよく分かりました」


 曹丕の言葉に、司馬懿はしみじみと納得した。


 十万の軍勢を縮地の術で大移動! なんてことをしようとしても、ムーンウォークもどきを万全に踊れる兵士が何人いるやら分からない。奇跡的に全兵士を瞬間移動させることに成功したところで、費長房は十万日も厠に籠る計算になる。当然、下痢が治るまでに費長房は天命尽きて死ぬし、曹軍の兵たちは敵地のど真ん中に取り残されてしまう。縮地の術は、数人程度の移動に使うのが関の山だ。


「費長房のことはしばらく忘れよう。それよりも、鍾繇しょうようが気がかりだ」


「ええ。そうですね。早速、鍾繇殿のところへ行きましょう」


 龐徳が首を大きく縦に振った。


 ドタン! と大きな物音がしたのは、その直後のことである。


 振り返ると、年若い美女が尻もちをついていて、「あ、あわわ……。賊が……賊が邸内に……」と戦慄わななき声を上げていた。どうやら、見知らぬ男三人を賊だと勘違いして驚き、腰を抜かしてしまったようだ。


「ひ、ひいぃぃ……」


「落ち着け。俺の顔を見忘れたか」


「……え? 貴方様は――」


「さあ、手を貸してやる。ゆっくりと立つがよい」


 曹丕は、基本的に横柄な男だが、不思議と他人に親切な一面もある。美女に穏やかな口調で声をかけ、おびえる彼女の手を取って起こしてやった。


「どこも怪我はしておらぬか」


「は、はい……。あの……もしかして、曹丕様ですか?」


「ああ、そうだ。お前は鍾繇の側室だったな。お前の主人が危ないと聞き、助けに来たのだ」


「ま、まあ! それは天の助けですわ! ありがとうございます! どうか、元常げんじょう(鍾繇のあざな)様をあの怪しげな女狐めぎつねからお救いくださいませ!」


 年若い美女――鍾繇の側室は、目を輝かせ、曹丕に礼を言った。ちょっと頬が赤らんでいるのは、絶世の美男である曹丕に手を握られているからだろう。


「み……みなさぁ~ん! 怪異にお詳しい曹丕様が来てくださいましたよぉ~! これで妖怪女のあいつをずたずたにぶっ殺せますぅ~!」


 側室がとびきりの笑顔で物騒なことを叫ぶと、屋敷のあちこちから「何ですってぇ~⁉」という声が聞こえ、けたたましい足音とともに、たくさんの美女たちが悪鬼の形相で駆けて来た。


「な、何なのですか、彼女たちは!」と司馬懿は驚き、再び首をグルングルン回転させる。龐徳は(うわっ……またか)と気色悪そうに凝視みつめているが、曹丕は司馬懿の面白いオーバーアクションが好きなのでニヤニヤ笑っている。


「みんな、鍾繇の側室さ。……む? あの爺さんめ、どうやら女を一人増やしたみたいだなぁ」



 側室Aは仲間を呼んだ!


 側室Bが現れた!


 側室Cが現れた!


 側室Dが現れた!


 側室Eが現れた!


 側室Fが現れた!



「側室ちょっと多すぎなのでは⁉」


 司馬懿はツッコまざるを得なかった。




            *   *   *




 鍾繇はたくさんの側室に囲まれ、うはうはハーレム生活を送っていた――などという記述は史書には無い。


 ただ、前にも書いたが、彼は後々、若い側室の張昌蒲ちょうしょうほ鍾会しょうかいの生母)を溺愛し、嫉妬した他の側室を家から追い出すというスキャンダルを起こしている。


「離縁した側室と仲直りしなさい」と皇帝になっていた曹丕が勅命ちょくめいさとしたところ、鍾繇は逆切れして、服毒自殺を図った。しかし、毒物が手に入らなかったため、山椒さんしょうをたらふく食って死のうとした。


 ――鍾繇様が、山椒で自殺未遂を起こし、口が利けなくなりました。


 その報告を聞いた曹丕は大いに呆れ、勅命を取り下げたという。


 鍾繇は、曹操が激賞するほど優れた政治家だが、私生活はそんな感じだったらしい。たぶん、かなりの女好きで、お盛んだった。


 曹丕が皇帝だった時期、鍾繇は七十代である。七十を超えて女狂いエピソードを残しているのだから、物語の現時点――五十七歳の彼はギンギンだったはずだ。鍾会など史書に名を残す子女たちはまだ生を受ける前で、これからどんどん子作りしていく。この男に側室がいっぱいいたとしても、あまり不思議ではない。




 ……というわけで、鍾繇の側室A、B、C、D、E、Fは、曹丕と司馬懿、龐徳を主人の寝室へと案内した。


「あの……。失礼だが、全員でぞろぞろと行く必要は無いのでは? 案内は一人だけで足りるでしょう」


 回廊を歩きながら、司馬懿が常識的発言をすると、側室Aが「だって、心配なのですもの」と唇を尖らせて答えた。


「鍾繇殿のお体が心配だという気持ちは分かるが……」


「いえ、そうじゃなくって。他の側室に抜け駆けされるのが心配なのです」


「そうそう。元常様はここ三か月ほど、夜中に通って来るあの女狐に夢中で、私たちはほったらかしにされているのですよ。だから、欲求不満で……」


「一人だけ元常様のお部屋に行かせたら、その側室が元常様を襲って、おっぱじめちゃうかも知れないじゃないですかぁ~?」


「だから、抜け駆けする人が出ないように、みんなで行くのですよ」


「側室たちの和が乱れたら、誰かが刃物を持ち出して死人が出るかもですし。女同士、やっぱり仲良くやりたいじゃないですか」


 側室B、C、D、E、Fが、笑顔で不穏な発言を順番にする。


 この女たち、表向きは和気あいあいとしているように見えるが、一つ違えば鮮血のヤンデレ劇場が始まりそうな気配がある。


(嫉妬に狂った側室が後ろから鍾繇殿をグサーッ! 女同士でブスーッ! ……想像しただけでゾッとするな)


 司馬懿は心中そう呟き、小さく身を震わせた。


 一方、鍾繇に対して尊敬リスペクトフィルターがかかっている龐徳はというと、


「むむぅ……。さすがは鍾繇殿。あの御方の人徳は、かように多くの女人にょにんを魅了しているのですな。拙者も見習わねば」


 と、あくまで好意的に解釈している。


 人徳とか絶対に関係ないぞ。ただ好色なだけだぞ。司馬懿はそうツッコミを入れたかったが、我慢して黙っておいた。純朴な田舎武者の夢を壊してしまうのは可哀想だと思ったのだ。


「龐徳から聞いた話では、『鍾繇は精魅に取りかれておかしくなった』という噂が洛陽で流れているそうだが……。この屋敷に毎夜現れる美女とやらに、普通の人間とは異なる雰囲気はあるのか」


「はい、曹丕様。あの女、絶対にたちの悪い狐かやまねこが人間に化けていると思います。だって、最初に姿を見せた時、見張りの兵士たちに気づかれることなく元常様の寝室に忽然こつぜんと現れたのですもの。私が夜伽よとぎをしている最中だったのに、元常様ったらその女をすっかり気に入っちゃって……。私を部屋から追い出し、朝が来るまでずーっとその女とイチャイチャしていたんです。悔しいったらありゃしない!」


 側室Aがプンスカ怒りながらそう言い、頬を膨らませる。


 すると、側室Bも「私も何度か、寝室にいるあの女の姿を盗み見ましたが、『傾国』という言葉がピッタリ似合う妖艶な顔立ちでした。左の目尻に泣き黒子ぼくろがあって……。不思議なのは、夜明けが来たらかすみのように姿が消えてしまうことです。この目で、あの女がフッと消える瞬間を見ました」と言った。


 側室たちの訴えを聞いた曹丕は、あごを撫でながら「フム……」と呟く。


「屋敷に忍び込んだり、唐突に姿を消したりすることぐらい、軽功けいこう(身体を身軽にする武術)に長けた者なら容易たやすくできよう。それだけでは、この事件が怪異現象であるという証拠にはならぬ。鍾繇を女色で腑抜ふぬけにし、洛陽を陥れようとする何者かが放った女の間者という可能性もある」


 今日の曹丕は、いつも以上に慎重である。

 鍾繇が謎の美女に惑乱させられたこと自体が馬超のクーデター計画の一部なのかも知れない――という疑念が頭の片隅にあるからだろう。司馬懿は敏感にそう察した。


「たしかに、その可能性は考慮しておくべきでしょうな。されど、一つ気になることがあります。鍾繇殿ほどの智者が、突然現れた不審な女を何の疑問も持たずに抱いたということです。もしかしたら、その女には、男を一瞬で魅了する魔力みたいなものがあるのでは?」


「ふぅむ。なかなか良いところに目をつけたな、仲達。しかし……美女大好きな鍾繇だからなぁ~。『出会って三秒で合体!』なんてこと、あいつなら普通に有り得そうだ」


「えっ……。そ、そこまで女狂いなのですか。曹軍って、変な人多すぎません?」


「とにかく、鍾繇本人に直接聞こう。いくら女色に溺れているといっても、事情をまともに聴収できぬほど頭がおかしくなっているのならば、怪異に取り憑かれている可能性を考えねばならぬ」

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