方士費長房

縮地しゅくちの術ですって? いやいやいや……。いくら何でも、それは仙人などが出てくる物語だけの話でしょう」


 縮地。

 土地と土地の距離を縮め、一瞬で移動する仙術である。今風に言うと、瞬間移動テレポーテーションのことだ。


 この一か月で摩訶不思議な体験をさんざんしてきた司馬懿も、さすがにそんなものは信じられない……と思った。


 そもそも、縮地の法を心得た人間が実在するのなら、病的人材コレクターの曹操がとっくの昔に自軍にスカウトしているだろう。


 曹操は現在、烏桓うがん討伐の遠征に赴いているが、慣れない異郷の地での行軍に相当苦労している。もしも曹軍に瞬間移動を使える人材がいたら、軍隊を一瞬で遠い敵地に移動させて奇襲を仕掛け、今頃はぎょうに楽々と帰還できているはずだ。だから、


「そんな便利な仙術が実際にあったら、曹公はたった一か月で天下を統一できちゃいますよ。こんな時にからかわないでください」


 と、司馬懿が眉をひそめて抗議したのも無理はなかった。


 しかし、曹丕は不敵な笑みを崩さず、「それが本当にあるんだなぁ、これが」と言う。


「まったまた~。そんな見え透いた嘘ついちゃってぇ……」


「つべこべ言わずについて来い。俺の知り合いの方士に会せてやる」


「そういえば、知り合いに方士がいると前にもおっしゃっていましたね。でも、その方士ってたしか――」


「無駄話はここまでだ。さあ、行くぞ」


 曹丕は会話を打ち切り、歩調を速めた。普通に歩いているように見えるのに、常人の全力疾走と同等のスピードである。内功を活かした超早歩きだ。


「こ、公子様。ちょっと待ってください」


 置いて行かれそうになった司馬懿は、慌ててそう叫び、必死に走って追いかける。


 二人は、鄴の城邑まちの大通りを外れ、遊郭の建物が並ぶ路地裏に足を踏み入れていた。




            *   *   *




「邪魔するぞ」


 曹丕は、明月楼めいげつろうという妓楼ぎろうに上がり込んだ。


 いまは昼間で、客がほとんどおらず、来客を待つ妓女ぎじょたちの姿も一階には無い。奥の部屋に引っ込み、日没後の書き入れ時に備えて休むなり化粧を直すなりしているのだろう。


 店の者が誰も出て来なくても構わず、曹丕は奥へずんずん入って行く。四十がらみの楼主ろうしゅがようやく気づいて「あっ。お客様――」と声をかけてきたが、曹丕は無視して二階にのぼって行った。


(もしかして……ここって遊びがいる店か?)


 ずっと田舎に引き籠っていた司馬懿は、妓女で遊んだことがない。妓楼に来るのも初めてである。建物の中に入ってもしばらくはここがエッチなお店だということが分からなかった。廊下で、朝まで客の相手をしてくたびれているらしい厚化粧の女とすれ違い、ようやく気がついた。


「ち、ちょっと公子様。困るんですけど」


「何が困るんだ」


「ここ、妓楼ですよね。こんなところに来たことが嫁にばれたら……」


「いつまでも別れた嫁のことを気にするなよ」


「勝手に別れたことにすんなやッ‼ 春華しゅんかちゃんはまだ俺の嫁だからッ‼」


「いちいち騒々しい奴だなぁ。俺の知り合いの方士がここにいるんだ。黙ってついて来い」


 曹丕は、片手で司馬懿の両頬をガシッと挟み、ピーピーわめけないようにした。司馬懿は、タコみたいな口になって「ふへ……? ほ、ほうちがなんべこんにゃとこりょに?(方士がなんでこんなところに?)」とたずねる。


「ここに住み込みで働いている妓女のヒモなのさ」


(方術使いがヒモ男って……。いったいどんな奴なんだ?)


 三国志に登場する方士では、


 様々な神仙の術で曹操をきりきり舞いにさせた左慈さじ

 自分を殺害した孫策そんさくを祟り殺した于吉うきつ


 などが有名どころである。


 両人とも超オカルトパワーを発揮し、三国志の英雄たちを惑わせた恐るべき方士たちだ。


 しかし、曹丕著『列異伝れついでん』の現存するテキストには――たぶん散逸したのだろうが――左慈と于吉の名は無い。


 その代りに、ある方士の活躍が詳しく載っている。『列異伝』で紹介されているその方士というのが……。


「おい、費長房ひちょうぼう。怪我の具合はどうだ」


 甘やかな香木の匂いが漂う一室に足を踏み入れると、曹丕は窓際でごろ寝していた全裸の中年男に声をかけた。


「ほええ? し、子桓しかん様、どうしてこんなところに……」


 不意の闖入者ちんにゅうしゃに驚いた全裸男は、のっぺりとした顔を上げ、糸のように細い目を曹丕と司馬懿に向ける。ほええ、ほええと情けない声を出しつつ、近くに脱ぎ捨ててある衣服を慌てて拾おうしたが、利き手を動かそうとすると肩が痛むらしい。「あいたた……」と顔をしかめた。


「こ……香雪こうせつちゅわん。そこの服とってくれる?」


「あいあい」


 同じく全裸で寝そべっていた小柄な妓女が、眠たげな声で返事をして、耳のピアスと小ぶりな乳房を揺らしながらもぞもぞ身を起こす。二人は真っ昼間からまぐわい、その後でうたた寝をしていたらしい。


「香雪ちゅわん。ワタクシ、まだ自分でお着換えできないの」


「あいあい、分かってます。手伝ってあげますよっと」


 香雪と呼ばれた妓女は、ふわぁ~と欠伸あくびをしつつも、きびきびとした動作で男に服を着せてやった。ずいぶんと手慣れている。恐らく、彼女が負傷中(?)のこの男の世話を毎日しているのだろう。


 ちなみに、女の裸体を目撃した司馬懿は、例によって鼻血を出しかけたが、何とか引っ込めることができた。よく見れば、香雪という女はずいぶんと幼い顔と肉体だったのだ。妓女に最近なったばかりの少女だろうか。


「こんな子供みたいにあどけない娘にだらしなく甘えて……。なんて情けない男なのだ」


 司馬懿は吐き捨てるようにそう言った。自分だって十九歳の幼な妻をめとり、幽鬼少女の小燕しょうえんに毎晩世話を焼いてもらっているのに、そのことは完全に棚に上げてしまっている。


「あ~いやいや。ワタクシの彼女ちゃんは、見た目が幼いだけでちゃんと二年前に笄年けいねん(女子が初めてかんざしをつけ、成人の扱いをされる年。だいたい十五歳)に達していますから。いわゆる合法幼女というやつです。安心してください」


「合法幼女なんて言葉、聞いたことがないわい。何一つ安心できん」


「見た目が幼い女の子にお世話してもらって暮らすのはいいですよぉ~。バブみ最高ぉ~」


「ば、バブ……。こいつヤバイぞ。変態だ」


 うわぁ……と蔑むような眼差しで、司馬懿は合法ロリ好きヒモ男を見下した。


 このなよなよとした喋り方の変態野郎が、本当に方術使いなのだろうか。嘘だと言って欲しい。


「紹介しよう。この変態が、方士の費長房だ」


「マジですか……。違うと言って欲しかった……。昔話に出て来る方術使いと違い過ぎて、何だか夢を壊された気分ですよ。メチャクチャ頼りなさそうじゃないですか」


「たしかに獣ごときに不覚を取るドジな奴だが、方術の腕は確かだ。護符で鬼神を使役し、俺がさっき言っていた縮地の術も修得している。使いようによっては役に立つ男だ」


「ええ~。本当かなぁ~」


 司馬懿が疑いの目を向けると、費長房は「むむぅ~ん? 初対面の人にそこまで馬鹿にされるのは、ワタクシ心外ですねぇ」とねた。


「これでもワタクシ、天上の仙人から術を学び、あともうちょっとのところで上仙になれるところだったんですよ。最終試験に失敗して、なれなかったけど」


「最終試験をしくじっているということは、やっぱり中途半端な実力じゃないか……」


「しょーがないでしょぉ~? だって、あの仙人の爺さん、『最後にこの人糞を食えたら合格じゃ』とか言ってワタクシに糞を食べさせようとするんですからぁ~。しかも、その糞に三匹のむしがうにゃうにゃ~ってうごめいていて……。アナタ、食えますぅ~?」


「それは……さすがに無理だな。文字通り人間を捨てないと、仙人にはなれないわけか」


「そーいうこと! だからワタクシは天上の仙人にはなることを諦め、人間界での生を楽しむことに決めたんです! ワタクシ方術使いなの~ってナンパすると、けっこう女の子にモテちゃうんですよね~これが!」


(ダメだ、こいつ。色んな意味でダメな大人だ……)


 この惰気だき満々な方士と言葉を交わしていると、こちらまで真面目に生きる気力がえそうな気がする。無気力がうつったら嫌だからこいつとは絶対に友達になりたくねぇな……と司馬懿は心底思った。


「フフン。相変わらずやる気の無い方士め。そうやってへにゃへにゃしているから依軲山いこざんの犬っころにじゃれつかれて、全治三か月の怪我をするのだ。そろそろ傷も癒えた頃だろう。火急の用件があるゆえ、ちょっと働いてもらうぞ」


 曹丕はせせら笑いながらそう言うと、費長房の傍らにあった酒杯を奪って勝手に飲んだ。


「……っと。これは桂酒けいしゅか。ヒモ男のくせしてなかなか良い酒を飲んでいやがる」


 曹丕の好物は、フルーツや甘い物。金木犀きんもくせいを漬け込んだ桂酒も、すこぶる好きである。機嫌良さそうにもうひと口飲み、べにをさしたように赤い唇をペロリと舐めた。ただ舌なめずりをしているだけなのに、その仕草がいちいち艶っぽい。


「お前も飲め」


 そうすすめられ、司馬懿も杯を受け取って飲んだ。


 金木犀の強烈な甘い香りが口内に広がる。春華の唇の味を、ふと思い出した。


 初夜の時、初めて女人を抱く司馬懿は、緊張のあまり桂酒をたらふく飲んでしまい、行為中に「あなたの口から甘い酒の香りがして……こうやって接吻せっぷんしていると頭がくらくらします」と幼な妻に文句を言われたことがあったのだ。


 途端に春華が恋しくなった司馬懿は、(こんなヒモ男が若い娘とイチャイチャしているのに、なんで俺が……)と泣き出したい気持ちにとらわれた。


 この費長房という男が依軲山の化け犬――りんをうっかり逃がしてしまったせいで、司馬懿の故郷が大騒ぎになってしまったのだ。獜にやられて怪我をしているらしいが、昼間から妓女と裸で戯れている自堕落な姿を見たら、ぜんぜん可哀想には思えない。本当にこんなとぼけた野郎が瞬間移動テレポーテーションなどというミラクルを起こせるのだろうか。


「そろそろ傷も癒えただろうって……。冗談じゃありませんよぉ~子桓様ぁ。華佗かだ先生に全治三か月って診断されて、まだ一か月しか経っていないんですからぁ~」


 何か面倒なことをやらされると直感したのだろう。費長房は思いきり嫌そうな顔をして、用件を聞く前に拒絶した。


 だが、曹丕は相手に有無を言わせない強引イケメンである。ニコリと微笑み、不気味なほど優しい声音でこう脅迫した。


「俺が用件を言う前に口を挟んだら殺す、と初めて会った時に教えたはずだぞ。いまこの場で殺されたいか?」


「ちょ、ちょ、ちょ……ちょっと待ってくださいってば。あと二か月安静にしてなきゃいけない怪我人を脅して働かせようとするなんて、さすがに酷すぎません?」


「ハッハッハッ。貴様が傷病を癒す護符を所持していることぐらい知っているのだ。華爺さんの治療を受けるまでもなく、ほとんど怪我は治っているのだろう? ……女とまぐわう元気があるのに、俺のために働けぬとは言わせんぞ」


「ほ、ほええ~……。子桓様、相変わらず恐すぎぃ~。香雪ちゅわん、助けてぇ~」


 冷艶れいえんな微笑を浮かべながら恫喝どうかつしてくる曹丕に震え上がり、費長房は服を着ているところだった香雪の小さな尻の後ろに隠れた。


 しかし、香雪は、親子ほどの年齢差のある恋人を「長房ちゃん、めっ」と、幼子を叱るような口調でいさめた。


「公子様は長房ちゃんの命の恩人なんでしょぉ? 鬼神を使役する護符を鼻水で濡らして使えなくしちゃって、危うく精魅もののけに殺されかけた時、公子様に助けてもらったのが出会いだって言ってたじゃぁ~ん。香雪は、人から受けた恩を返せない殿方は嫌いだなぁ~」


「こ……香雪ちゅわん……」


「恩返しぐらい、頑張ろうよぉ~。帰って来たら、頭ナデナデしてあげるからさぁ。……長房ちゃんはすっごく強い方士様なんでしょ? ね?」


「う、う、う……。香雪ちゅわんがそこまで言うなら頑張る……」


 香雪に励まされ、費長房もようやくやる気になったようである。両手で自分の顔を二、三回叩くと、キリリとした表情と渋い声を作って曹丕にこう告げた。


「子桓様、承知いたしました。この費長房、恩人である貴方様のためならば、我が命を捨てることも惜しみませぬ。何なりとご命令くだされ」


(小娘の尻の後ろからカッコイイこと言われてもなぁ……)


 司馬懿は声に出してツッコミたかったが、これ以上ややこしくなると余計な時間を浪費してしまうため、黙っていることにした。








※費長房は後漢の時代(具体的にいつごろかは不明。曹丕とはまったく別の時期の可能性もある)に生きていた方士で、『後漢書』にも彼のエピソードが載っています。小説に登場させるにあたって脚色しまくっていますが、


糞を食えなくて仙人の最終試験をパスできなかったこと

縮地の術が使えたこと

護符で鬼神を使役したこと


などは、作者の創作ではなく、実際に費長房の逸話として伝わっているものです。

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