虎狼の面影

 龐徳ほうとく鍾繇しょうようの異変を知ったのは、馬超とともに洛陽を訪れた数日前のことである。事の発端は、


 ――息子たちは俺に似て武骨者ぞろいゆえ、つつがなく朝廷に仕えているか心配だ。兄のお前が弟たちの様子を見て来てくれ。


 と、馬騰ばとうが馬超に命じたことだった。龐徳は、そのお供を仰せつかった。


 馬超の弟二人、馬休ばきゅう馬鉄ばてつは、父が漢王朝に服すると、人質として帝に近侍していた。しかし、つい最近、司隷校尉しれいこういの鍾繇が、


 ――馬騰将軍の子息たちに、洛陽の復興事業を手伝ってもらいたいのです。


 曹操にそう要請したため、二人は洛陽に配属されていたのである。


 前にも書いたが、中華大陸は相次ぐ戦乱と天災のせいで、人口が激減していた。どこもかしこも、超がつくほどの人手不足である。鍾繇は、洛陽復興プロジェクトを成功させるため、関中だけでなく他の地域からも労働力を募集していた。


 涼州の荒くれ者たちも洛陽に流れて来て、日銭を稼ぐために土木作業に従事している。だが、困ったことに、血の気の多い彼らはたまに喧嘩騒ぎを起こし、洛陽の治安が乱れる原因となっていた。


 涼州のプリンスである馬休と馬鉄ならば、乱暴な涼州人どもを上手く手懐けることができるだろう。鍾繇はそう考え、二人を呼び寄せたのだ。


 そういうわけで、馬超は龐徳を従えて、弟たちの働きぶりを見るべく涼州を発った。まず先に弟たちの上司である鍾繇の屋敷を訪ねようと、長安に入ったのだが――。


「殿様は、三か月前に洛陽の復興作業の進み具合を見に行かれたきり、まだお帰りになっていません」


 と、留守を預かっている家臣が心配そうな顔でそう言ったのである。


(洛陽で何かあったのか?)


 不審に思いつつも洛陽に行くと、馬休と馬鉄から不穏な噂を聞かされた。


「我々はここしばらく、鍾繇殿と顔を合わせていません。洛陽の政庁に引き籠り、一歩も出て来ないのです。ちまたでは『司隷校尉は、精魅もののけに取りかれて精神に異常をきたし、明日の命も知れない』という風聞が流れています。怪しげな美女が毎夜、政庁の近辺で目撃されているとも聞きました。我らは噂の真偽を確かめるため、鍾繇殿に面会を求めたのですが、拒絶されてしまいまして……」


 想像していたよりもずっと深刻な状況のようである。


 鍾繇の頭がおかしくなってしまったという話が嘘か真かは不明だが、彼が役所の一室に籠りっぱなしなのは事実らしい。責任者がそんな状態なので、洛陽復興プロジェクトも最近は滞り、仕事を求めて移住してきた民衆は不安がっているという。


「こ……これは一大事ですぞ。その怪しげな美女というのが、鍾繇殿を祟っている精魅なのでしょうか。何とかして、鍾繇殿をお助けせねば。若君、いかがいたしましょう」


 平陽での戦以来、龐徳は鍾繇を尊崇している。深憂しんゆうを抱き、馬超にそう言った。


 馬超は、暫時ざんじむっつりとした表情で押し黙っていたが、やがて「俺は人間ならば何万人でも殺せるが、精魅は殺せぬ。ただ、そういうことができるであろう男を一人だけ知っている」と意外なことを口にした。


「曹操の息子、曹丕だ。何年か前、俺と親父がぎょうに赴いて、曹操に謁見した際、あの男と一度だけ会ったことがある。曹丕は、親父に『涼州に面白い怪異譚があったら教えて欲しい』と奇妙なことを聞いてきた。鬼物奇怪きぶつきっかいの事に異様な興味を持ち、呆れるほどの知識を有しているようだ。あの男ならば、精魅から鍾繇を救えるやも知れぬ。――龐徳よ。急いで鄴に走り、曹丕に助けを求めて来い」


「怪異に詳しい公子様ですか。ずいぶんと変わった御仁のようですな。分かりました、ただちに鄴に向かいます」


「頼んだぞ。俺はここに留まり、正気を失った鍾繇の代わりに洛陽を守っている」


 かくして、馬超の命を受けた龐徳は、駿馬を走らせて鄴に赴いたのである。




            *   *   *




「ふぅ~ん。馬超が俺に助けを求めろと言った……ねぇ」


 司空府の庭園の池のそばに設けられた、瀟洒しょうしゃな造りのてい東屋あずまや)。


 曹丕と司馬懿、真は、そこで龐徳と対話している。


 龐徳が事情を説明し終えると、曹丕は水面に浮かぶ水芙蓉すいふよう(蓮)に視線を向けながら、強い疑念を込めた声音で呟きを漏らした。


 辺境育ちの武辺者である龐徳は、言外に匂わされた相手の思惑を敏感に読み取るのが苦手である。何らかの不信感を曹丕が抱いていることに気づかず、「はい。どうか鍾繇殿をお助けください」と真っ直ぐな眼差しで頼み込んだ。


「……もしかしたら、もう馬超に殺されているかも知れんぞ」


「え? いま何と?」


「いや、何でもない。実はな、俺も鍾繇のことを心配していたところなのだ。一か月前にあいつに送ったふみの返事がまだ来ていない。年も年だから病にでもかかったのでは、と思ってな」


 二十一歳の曹丕と五十七歳の鍾繇は、孫とお祖父ちゃんほどの年齢差があるが、史書によると珍しい宝物を贈り合うほど仲が良かった。


 前章で登場した華歆かきんもそうだが、自身が怪異を体験すると、オカルトの世界に魅入られてしまうものらしい。人相見の予言通り水難で危うく死にかけたことがある鍾繇は、曹丕のオカルト趣味に肯定的で、怪異譚の収集を時々協力してくれていた。


 そういった経緯から、二人は手紙のやり取りを頻繁にしていたのである。最近では、


 ――洛陽の復興工事で事故が多発し、頭を抱えています。この城邑まちには、董卓軍に虐殺された人々の人骨がいまだに放置されているので、彼らが悪鬼化して祟っているのではないかという噂も流れています。人骨の数はおびただしく、すぐには処理しきれません。祟りを消すためには、いかがすべきでしょうか。


 という鍾繇の相談に乗っているところであった。


 また、政治より文学を愛する曹丕は、当世随一の書家として高名な鍾繇の神がかった筆使いが鑑賞できるのを毎回楽しみにしていた。


「鍾繇は、華歆と並ぶ俺の理解者だ。素晴らしい書もまだまだこの世に残してもらいたい。あの爺さんを死なせるわけにはいかん。頼まれなくても、すぐに助けに行こう」


「おおっ。さすがは曹家のご子息。決断がお早い。では、早速、厩舎に預けていた我が馬をひいてきます」


「いや、馬では洛陽に着くまで日数がかかってしまう。事は急を要するゆえ、もっと速い移動手段を使おう」


「えっ? 馬よりも速い移動手段?」


 それは何ですか――と龐徳は問おうとしたが、そんな暇もなく、急に曹丕は亭の外に出た。


「ちょっとあいつを呼んで来る」


「あ、あの。いったいどちらへ?」


「すぐに戻るから待っていろ。……真よ。龐徳を客間に案内して、飯でも食わせてやれ」


 雑な命令だけ部下に言い残し、曹丕は足早に去って行く。「こ、公子様。そんなに急いで、どこへ行くのですか」と言いながら、司馬懿が慌てて追いかけた。


「馬よりも速い乗り物って何なのですか。もしかして、鳥の化け物?」


「違う」とやや面倒そうに答え、曹丕はチラリと後ろを振り向く。亭に取り残された龐徳は、遠ざかっていく曹丕と司馬懿を呆然と見つめていた。


「……あの呆けた顔は、本当に馬超の企みを知らぬようだな」


「は? 馬超殿の企みとは?」


「そんなの決まっている。馬超は、洛陽で乱を起こすつもりだ」


「ええっ⁉ ば、ばばば馬超殿が⁉」


「しっ! 声が大きい!」


「す、すみません……。ですが、馬超殿は鍾繇殿の身を案じて、龐徳殿をここに遣わしたという話ではありませぬか。そもそも父親の馬騰将軍が曹公(曹操)に従っているというのに、息子の馬超殿が謀反を勝手に起こすはずが……」


「普通の神経の人間ならば、そう考えるだろうな。だが、馬超は違う。俺は一度だけあの男と会ったことがあるが、こいつは危険な人間だとひと目見ただけで分かった。奴は尋常ならざる獰悪どうあくな心を胸に秘めている。クソ親父……我が父曹操も言っていたものだ。『あの若武者の血走った目は、呂布りょふに似ている』とな」


 呂布――三国志最強の武将として知られる伝説の男。

 天下無双の武を誇り、曹操や劉備を大いに苦しめた。名馬赤兎せきとまたがって縦横無尽に戦場を駆け巡るその勇姿は、後々の世まで「人中の呂布、馬中の赤兎」とうたわれることになる。


 その勇猛さだけを見れば、英雄と呼ぶにふさわしい逸材である。しかし、父子の契りを結んだ丁原ていげん董卓とうたくを殺害、恩人である劉備の城をかすめ取るなど、息をするように人を裏切り続けた。その恩知らずな性格が災いして人望を失い、最終的には曹操によって縛り首にされた。


 誰にも飼いならすことができぬ虎狼ころう。それが呂布という武将だった。曹操曰く、馬超にはその呂布の面影が濃くあるという。


「俺も、父の見立ては正しいと考えている。龐徳は主君の息子を贔屓目ひいきめで見ているから奴の本質をぜんぜん理解していないようだが……馬超という男は恐ろしく残忍な獣だ。化け物に祟られて衰弱している老人を心配する心など、毛ほども無い。『司隷校尉の鍾繇が弱っているのならば、いまこそ曹操に反旗を翻す好機。弟たちとはかって鍾繇を殺害し、洛陽と長安を占拠してやろう』と企んでいるに違いない」


「で、では、龐徳殿は……」


「あの様子では、馬超の計画を知らされていないだろうな。見たところ龐徳はいい奴だ。鍾繇を尊敬し、心から案じている。馬超は、自分の計画に反対されたら邪魔になると思い、龐徳をここに寄越したのだろう。俺たちが馬を走らせてのこのこやって来た頃には、鍾繇は馬超によって血祭りに上げられている可能性が高い」


 それは恐ろしく危機的な状況だ……と司馬懿はまだ見ぬ鍾繇の身を心配した。鍾繇が何らかの怪異にかれて弱っているのならば、曹丕の言う通り、抗う術も無くサクッとられてしまうに違いない。


「馬騰将軍の息子がそこまで狡猾な男ならば……。今回の事件、鍾繇殿を祟っている怪異よりも、馬超のほうがよほど危険ですぞ。公子様が洛陽に駆けつけることも見越して、迎撃の準備をしているかも知れません。洛陽を乗っ取った後、公子様を殺害するところまで計画の内にあるのでは?」


 司馬懿は緊迫した声でそう言った。曹丕は「百も承知だ、そんなこと」と鼻で笑う。


「それゆえ、相手の意表をつく迅速さで洛陽に行く必要があるのだ。俺たちが馬超の想像をはるかに上回る速さで洛陽に着けば、奴の計画を狂わせることができる」


「意表をつく迅速さと言っても、どれくらいの速さで洛陽に到着するつもりなのですか。そんな凄い移動方法などあるはずが……」


 司馬懿がいぶかしげな目をすると、曹丕はニヤリと悪戯っぽく微笑み、驚くべきことを口にした。


「あるさ。縮地しゅくちの術という方法が。たった一秒で洛陽に行ける」

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