涼州からの来訪者

「危うく焼け死ぬところだった……」


「お前、いつも死にかけてるな。趣味?」


「んなわけあるかいッ‼ 誰のせいで毎度死にかけていると思っているんですか‼」


 翌日の食事の刻(午前九時頃)。曹丕と司馬懿、真はぎょうに帰還するため馬を走らせていた。


 昨夜、司馬懿は化けやまねこと一緒に炎の中に飛び込みそうになったが、庭にいた真がぎりぎりのタイミングで蹴りを放って司馬懿の体を吹っ飛ばし、狸だけが焼死した。狸は死ぬ間際まで愛らしい猫耳美女の姿のままだったため、断末魔の声を上げながら猛火に焼かれていく様はとても悲惨で、罪悪感は半端はんぱ無かった。


 しかし、司馬懿の狸に対する憐憫れんびんの情も、すぐに雲散霧消することとなる。夜明け後、懼武亭くぶていの屋根裏を調べると、狸の証言通り、そこには気持ち悪いほどの数の毛髪が散乱していたのである。あの化け物は、本当に人の頭髪を集めて神になろうとしていたらしい。無数の黒髪に覆われた屋根裏のおぞましい光景を目撃した司馬懿は、


精魅もののけの中には、人命を犠牲にして神格を得ようとするものがいるのか。こっわぁ……)


 と、心中おののくのであった。


 だが、曹丕はそんな恐ろしい奴らを研究対象とし、用が済んだらサクッと殺すわけである。「たちの悪い精魅は、情けなどかけず迅速に始末するに限る」という酷烈こくれつさが無ければ、怪異譚収集などできないのかも知れない。


(俺もこの人の助手をやるのなら、これからはもっと気を引き締めていかねばマジで死ぬかもな……)


 と、司馬懿は真剣に思い始めるのであった。


子桓しかん(曹丕のあざな)様。懼武亭の怪異の正体がまさか狸だったとは驚きでしたね」


 真がそう言うと、曹丕は「いや。『精気を吸われて死んでいる者がいる』という情報を得ていた時点で、動物の関与を疑うべきだった。狐や狸は、美女に化けて男の精気をむさぼり喰らう事例があるのだからな」と珍しく反省の言葉を述べた。


「……ただ、幽鬼も生者と交わり、精気を吸うことがある。犯人が亡者である可能性も捨て切れなかったのだ。結局のところ、ふたを開けてみなければ、どんな答えが飛び出すか最後まで分からぬということよ。そこが怪異の面白さであり、油断のできぬところでもある」


(幽鬼と性行為……? いったいどんな感じなんだろう)


 司馬懿はちょっと想像しかけたが、すぐに止めた。男女の営みについて考えると、別居中の嫁のことを思い出し、気持ちが沈んでしまうのだ。


 エッチな妄想を頭から追い出し、「されど、公子様」と気になっていたことを曹丕にたずねてみた。


「人をたくさん殺して毛髪を集めたところで、狸ごときが本当に神になどなれたのでしょうか」


「人間も死後に神としてまつられることがある。狸だってなれるだろうさ。しょせんは同じ獣なのだからな」


「人も獣の仲間って、ちょっと言い過ぎなんじゃ……」


「いずれにせよ、生前に立派だった者は武神や財神になるだろうし、性格に問題があった奴は疫病神やくびょうがみとかはた迷惑な神になるであろうな。人を侮っていたあの高慢な狸も、どうせろくな神にはならなかっただろうよ。殺しておいて正解だ。神になってしまえば、さすがにこの俺でも殺しかねる」


「まるで知り合いに神がいるような口ぶりですね」


 司馬懿が冗談交じりにそう言うと、曹丕は「ああ、いる」と真顔で即答した。


 予想外すぎる言葉が帰って来て、「はぁ~⁉」と司馬懿は素っ頓狂な声を上げる。


「知り合いというほど親しくはないがな。俺の親父と昔色々あった神が一人いる」


「そ、曹公と神が顔見知り⁉ いったいどんな神なのですか?」


「その神は袁紹えんしょうとも関わりがあるのだが……まあ、詳しく話すのはまた今度にしよう」


「い、いやいやいや! メチャクチャ気になるから教えてくださいよ!」


「無駄話はここまでだ。帰りを急ぐぞ。鄴を長い間留守にしていると、また母上に叱られる」


 司馬懿との会話を打ち切った曹丕は、馬の尻に鞭打ち、風を切って疾走しだした。真もその後に続く。乗馬が苦手な司馬懿は慌てて、


「えっ、ちょ……ちょっと待ってくだいよーッ! 急いだらまた落馬しちゃうじゃないですかぁ~!」


 と、半泣きで叫ぶのであった。




            *   *   *




 数日後。曹丕たちは鄴城の司空府しくうふ(曹操の政庁兼屋敷)に帰還した。


 いつもの通り、裏口からこっそり入ろうとすると、


「子桓兄上。お帰りなさいませ」


 曹家三姉妹の次女、曹節そうせつが、門前で曹丕、司馬懿、真を出迎えた。


 まさか妹が待ち構えているとは予想していなかったので、曹丕は「げっ」と思わず声を漏らす。曹節はジト目になり、


「妹の顔を見て、『げっ』はないではありませんか」


 と、文句を言った。


 曹丕は取りつくろうようにハハハと笑い、「すまん、すまん」と謝る。


「ちょっと驚いただけだ。俺が今日この時刻に帰るとよく分かったな」


「怪異譚収集のため、汝南郡の有名な心霊旅館に宿泊されていたのですよね。取材と往復の時間を考えたら、いつ頃お戻りになるかくらい計算できます」


 兄上の行動などお見通しですよ、と言わんばかりに曹節は生真面目な顔でそう語る。相変わらず聡明な童女である。


「しかし、仲達が何度も落馬したせいで、俺が考えていたよりも帰るのに時間がかかってしまったのだがなぁ」


「ドジな司馬懿殿が道中に落馬する回数は恐らく七回。それもちゃんと計算に入れました。その衣服についた汚れから見て、田んぼに二回、川に三回落ち、あと山中の崖で転げ落ちて二回ほど死にかけたようですね」


 シャーロック・ホームズかよとツッコミたくなる推理力である。バッチリ正解だった。失礼なことを言われているにも関わらず、司馬懿は感心してしまっていた。この頭脳の明晰めいせきさは兄の曹丕といい勝負かも知れない。


「なるほどな。さすがは俺の自慢の妹だ。偉い、賢い、可愛い。……というわけで、俺が帰って来たことは母上には内密にしておいてくれ。お小遣いあげるから」


「懐柔しようとしなくても、母上に言いつけたりなどしませんよ。私は、兄上に急ぎの用件だとおっしゃるお客様がお見えなので、こうやってお帰りを待っていたのです」


「俺に客? 何者だ?」


涼州りょうしゅう馬騰ばとう殿のご家来、龐徳ほうとく殿です」


「龐徳……。その武名は何度か聞いたことがあるな。辺境の武将が俺に何の用だろう。いまどこにいる?」


「中庭で、けんちゃんとちゃんの遊び相手になってくれています」


 あの娘たちの「遊び」って……。

 忌まわしい記憶を思い出した司馬懿はゾッとした。


 曹憲、曹節、曹華の三姉妹は、十代前後の少女とは思えぬほど武芸達者である。たぶん、雑兵十数人が相手なら無双できる程度の武力はあるだろう。そんな彼女たちがよく興じている「遊び」というのが、戦ごっこガチの殺し合い。司馬懿も、初対面時に彼女たちの戦ごっこに付き合って、殺されかけた経験がある。


(龐徳という武将がどれほどの猛者もさなのかは知らんが、曹操の娘相手に本気では戦えまい。手加減しようとして、あの凶暴娘たちにうっかり半殺しにされていないとよいが……)


 遠方から来た客人の身を案じ、司馬懿は「公子様、早く会いに行きましょう」と曹丕を急かした。


「よかろう。何か面白い事件を持ち込んで来た可能性もあるからな」


 化け狸を退治したばかりなのに、曹丕は新たな怪異を欲しているらしい。瞳を妖しく光らせてそう呟くと、司馬懿、真、曹節を伴って中庭に向かった。




            *   *   *




「ところで、節。俺の留守中にふみは届いていなかったか?」


「いいえ。どなたからも兄上宛ての手紙は来ませんでしたよ」


「ふぅ~ん……そうか。返事が遅いな。あの爺さん、病にでもかかっているのではないだろうな」


 中庭を歩きながら、曹丕は思案げにブツブツ言っている。


「あの爺さん」とは誰のことだろうと司馬懿が考えていると、二人の童女の可愛らしい声が聞こえてきた。


「とりゃー!」


「せいやー!」


 中庭に響く愛らしい声の主――曹憲と曹華は、輝く白刃を振り回し、豊かな髭を生やした偉丈夫をぶち殺そうとしていた。


 偉丈夫は、なぜか上半身が裸である。


「ちょっとちょっと! 真剣はさすがにマズイでしょ! 公子様、止めないと!」


 仰天した司馬懿は、つばを飛ばしながらそう叫ぶ。


 豊かな髭の男は、抵抗する気配もなく、ただ突っ立っているだけだ。あのままでは、彼は曹操の娘たちにめった斬りにされてしまうだろう。


「……ふむ。あの男ならば大丈夫だ。鋼の鎧をまとっているからな」


「いやいやいや! 彼、はだか! なぜだか知らないけど、上半身裸! スパッと斬られちゃいますから!」


「仲達、落ち着いてよく見ろ。奴は攻撃を受けても、ビクともしていないぞ」


「ほへ?」


 なるほど。たしかに、さっきから曹憲と曹華は疾風怒濤の勢いで斬撃を放っているが、偉丈夫はそよ風に吹かれているかのごとく平然としている。信じ難いことだが、彼のマッチョな胸板は白刃をことごとく弾き返していた。


「は……鋼の鎧って、あの極厚の胸板のことですか? 人間って、ムキムキになったら、剣を筋肉で防ぐことができるものなのですか?」


外功がいこう(筋肉や骨など身体を頑丈に鍛える武術)もさることながら、奴の内功ないこう(内なるパワーを操る気功チャクラ)は凄まじい。肉体を鋼に変えてしまっている。馬騰軍随一の猛将とは聞いていたが、これは噂以上だな」


「また内功っすか……。ビックリ超人芸を何でもかんでも内功で説明しちゃうの釈然としないなぁ……」


 このままいくと、「内功を鍛えたら、地球に堕ちて来る巨大隕石をはね返せる!」とか言われそうで恐い。


 司馬懿は呆れ返るばかりだったが、曹憲と曹華は目を輝かせて喜んでいる。


「すごいわ! どれだけ力いっぱい斬っても、傷一つつかないなんて!」


「わーい! わーい! こいつ、壊れない玩具おもちゃだぁ~!」


 ツンデレで滅多に他人を褒めない曹憲が素直に感動し、脳みそゆるゆる姫の曹華がいつものようにIQが低そうな発言をした。


 豊かな髭の偉丈夫――龐徳は、子供と遊ぶのが好きらしい。曹家の姫たちを微笑ましそうに見つめ、


「アッハッハッハッ。曹公のご令嬢たちは、無邪気で大変可愛らしいですな」


 そう言いながら凶暴な娘たちの頭を撫でている。曹華が「急所を突いたられるかも!」と剣の切っ先で股間をぶっ刺しても、顔色一つ変えず嬉しそうにしている。男根だんこんも内功で鋼鉄化されているのだろう。フルメタル・チ〇ポである。


「ダメだよ、華ちゃん。女の子がそんなところを突いちゃ。史書に『曹操の末娘は、男の急所を剣でつつくのが趣味だった』って書かれても知らないよ?」


 見かねた曹節がそう言って止めたが、アホ娘の曹華は「次は助走をつけてぶっ刺す!」と息巻いている。


 仕方ないなぁ……と曹節は呟き、妹の後頸部こうけいぶにトンッと手刀を入れた。曹華は「ぐえっ……」と踏み潰された蛙みたいなうめき声とともに気絶する。


「龐徳殿。大変失礼しました。兄が帰還しましたので、どうぞごゆっくり。……さっ、憲ちゃん。お部屋に行きましょう」


「えっ、でも、まだこの髭もじゃと遊びた――」


「憲 ち ゃ ん ?」


「は、はい……」


 曹節は、気絶中の曹華の首根っこをつかんで引きずり、姉の曹憲と一緒に中庭を去って行った。


 長女の曹憲は生意気な口を利くし、三女の曹華はお馬鹿で何をしでかすか分からない問題児だが、怒らせると一番危険なのは生真面目な曹節かも知れない……。司馬懿は、彼女の将来が末恐ろしく感じ、思わず身震いしていた。


「フフッ。うちの妹たちは相変わらず仲がいい」


「あれって仲がいいと言っていいんでしょうかねぇ……」


 曹丕は、司馬懿のツッコミを無視して、「さて、お前が龐徳か」と客人に声をかけた。


 龐徳は、諸肌もろはだ脱ぎしていた衣服を着直すと、両手を胸の間に組んで丁寧に挨拶した。


「裸で失礼しました。主君からたまわった衣服をズタボロにされたら困るので、上半身裸でいたのです。……拙者は馬騰の臣、龐徳。字は令明れいめいと申しまする。どうかお見知りおきを」


「うむ。俺が曹丕だ。で、俺に何用で涼州くんだりからやって来たのかな」


「それが……。ぜひとも公子様に助けていただきたい御方がいまして。その御方は、どうやら命が危ういようなのです」


「俺に助けて欲しい? いったい誰を救えと言うのだ。お前の主君である馬騰将軍の身に何かあったのか?」


「いえ。何かあったのは、当方ではなく、曹軍の高官の方です」


「曹軍の高官、とな。それは誰のことだ」


 龐徳の発言に不穏なものを感じた曹丕は、眉をピクリと動かし、涼州からの客人を凝視みつめた。


 龐徳のほうも、顔に憂色ゆうしょくを浮かべていて、命の危機に瀕しているというその男の名を口にした。


司隷校尉しれいこうい鍾繇しょうよう殿です」


 鍾繇。字は元常げんじょう


 疫病神鍾会しょうかいの父となる人物。そして、曹操をして「その功績は、漢建国第一の功臣、蕭何しょうかに匹敵する」と言わしめた魏の名臣。


 彼こそが、今回の怪異事件の主人公である。

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