怪異の真相

 それから数分後。


「おい、仲達。鼻血は止まったか」


「は、はい。とんだ醜態をさらしてしまい、申し訳ありません……」


「まったくだ。鼻血で天井を汚す男なんて初めて見たぞ」


「う、うぐぅ……」


「さて、やまねこよ。そろそろ話を聞かせてもらおうか」


 筆と木簡を準備すると、曹丕は窓枠に腰掛け、威圧的な口調で命令した。


 狸は、元の獣の姿に戻っている。裸の猫耳美女のままでいたら、司馬懿が出血多量で死にかねないので、変身を解かせたのだ。


「狸よ。お前はなぜ人を襲い、髪の毛を奪っていたのだ」


 曹丕はそう問いかけながら、一枚の木片に何かを素早く書き込む。そして、書き終えると、二階の窓からポイッと捨てた。


(下に誰かいるのか。……きっと真だな)


 恐らく、何らかの指示を、外に控えている真に与えたのだろう。司馬懿はすぐにそう察した。


 狸はというと、命を助けてもらうことに一生懸命で、曹丕の細かな挙動などいちいち気にしていない。「ほ、本当に、聞かれたことに洗いざらい答えたら殺さないニャンね?」と数度目の念押しをした。


 曹丕は冷艶れいえんな笑みを浮かべ、「ああ。お前を殺さない。約束する」と請け合う。その冷ややかさと甘美さが同居した独特な声音からは、狸に対する慈悲など微塵も感じられない。


 これは絶対に約束を破るパターンだ……と司馬懿は心の中で呟いたが、人間を大量に殺している疑惑がある精魅もののけを助ける理由もあるまいと思い、黙っておくことにした。


「だ、だったら、答えるニャン。おいらが神になるためだニャン」


「神になる、だと?」


 突拍子もない返答に、曹丕はギラリと目を光らせて狸を睨む。そして、わずかに首を傾けながら「どういうことだ」とさらに問うた。


 狸は、曹丕の凄まじい眼光――好奇心で目を輝かせているだけなのだが――にビビりつつ「お……おいらたち狸族の言い伝えによれば……」と答える。


「狸は、命を奪った人間の頭髪を千人分集めたら、神になれるんだニャン。だから、こうやってコツコツと人を襲い、髪の毛を集めていたニャン」


「その集めた毛はどこにある」


「この宿の屋根裏に隠しているニャンよ。あともうちょっとで神になれるニャン」


 屋根裏……つまり、曹丕と司馬懿の頭上に、殺された人間たちの毛髪が数百人分あるということだ。


 司馬懿は想像力が豊かな男である。人々の怨念が込められた毛髪の山が黒蛇に変化し、屋根から大量に落ちて来る妄想をしてしまい、ゾゾゾと身を震わせた。


「さほど強くもないお前が、寝込みを襲ったとはいえ、よく何百人も殺せたな。腕の立つ武人も中にはいただろう」


「にょほほほ。返り討ちにあいそうになった時は、さっきみたいに獣耳美女に化けて『この体を自由にしていいから命だけは助けてぇ~』と色仕掛けしたニャン。愚かな人間どもは美女になったおいらの柔肌に飛びついたニャン」


「フン……読めたぞ。犠牲者の中に、精気を奪われて死んでいた者が一部いたが、そういうことだったのか。まぐわうことで相手の精気を吸い取り、弱ってきたところで不意を突いて殺したのだな」


「そういうことニャン! 人間は間抜けだから、学識の高い狸族のおいらにまんまとだまされるんだニャン! にゃははは!」


 狸は愉快そうに大笑いした。つまり、曹丕と司馬懿も同じように誘惑し、精気を吸って殺すつもりだったということだ。自分の企みをうっかり白状してしまっていることにまるで気づいていない。


 狡猾こうかつではあるが、大いに迂闊うかつ。「人間は自分たちに化かされる愚かな生き物だ」と完全にめきっているのだろう。曹丕に対して、この慢心は完全なる命取りである。


「……で、その学識高い狸殿にさらに質問させてもらおう。昔、この宿に鄭奇ていきという男が泊まったことは覚えているか?」


 冷笑を浮かべつつ、曹丕は化け物への聞き取りを続けていく。木簡にはメモがすでにびっしりと記されている。


 狸は、これまでの自分の手柄話をしゃべるのがだんだん楽しくなってきたようだ。「ああ。あのエロ役人ニャンね。覚えているニャンよ。あいつもおいらが殺してやったニャン」と得意気に言った。


「犠牲となった宿泊者の中で、鄭奇だけが、懼武亭くぶていの外で死んだ。また、近くの里に住んでいた呉家の嫁は、一度死んだ後、なぜか蘇って鄭奇とこの部屋で共寝をした。そして、翌朝に死体で見つかった。何故なにゆえ、鄭奇のみが宿の外で死に、呉家の嫁は二度死んだのだ」


「そこに目をつけるとはなかなか鋭いニャンねぇ~。鄭奇が懼武亭に来たのはもう何十年も前の話ニャンだけど……。それよりずっと以前から、おいらはここで人を襲って毛髪を集めていたニャン。でも、だんだんと地元の役人どもが『懼武亭の近くでは狸を多く見かける。あの宿の怪異は、ひょっとして精魅もののけ化した奴らの仕業ではないだろうか』と疑い始めたんだニャン。実際に仲間の狸が何匹か狩られちゃって、すっごく迷惑したニャン。だから、人間どもの目を狸族からそらすため、おいらは一計を案じたニャンよ」


 狸が語るところによれば――人間の噂なんて、ちょっと細工をすれば操れる。自分たち動物が怪異の正体と噂されているのなら、人間の美女が絡む複雑怪奇な事件を新たに起こしてやればいい。そうしたら、怪異譚の主役は美しい女幽鬼になって、自分たちのことなど人間は忘れるだろう……。そう考えたのだという。


 ちょうどその頃、地元で評判の美女だった呉家の嫁が病死した。その噂を耳にした狸は、遺族たちの隙を狙って彼女の遺体を持ち去り、懼武亭の屋根裏に隠しておいた。そして、自分が呉家の嫁に化けて、たまたまこの地を通りかかった鄭奇を誘惑したのである。


 鄭奇は、狸が人間に化けているとは知らず、懼武亭の二階で女と一夜を過ごした。狸は男からたっぷりと精気を吸い、鄭奇の生命力が衰弱したところで、効き目の遅い毒薬を酒に混ぜて飲ませた。


 翌日の朝。宿を出た鄭奇は、途中で毒が回り出して、突然死した。

 一方、同じ頃、狸は屋根裏に隠しておいた呉家の嫁の遺体を二階の部屋に移し、自身は姿を消した。それから間もなく、宿の者が呉家の嫁の亡骸なきがらを発見して、大騒ぎになったのである。かくして、


 ――一度死んだはずの女が、行きずりの男と宿で一夜を過ごし、男が女に祟り殺された。


 というセンセーショナルな怪異譚が生まれた。


 化け狸の噂などよりも、美人幽鬼の噂のほうが人間(特に男)たちの興味を引くものだ。「懼武亭の怪異は、若くして死んだ美女の幽鬼が正体」という説がメジャーとなり、狸の祟り説はあっという間にすたれてしまった。


 また、鄭奇が懼武亭の外で死ぬという例外ができたことで、「近所の狸どもが宿に忍び込んで客を殺している」という役人たちの疑惑も消えた。無論、狸狩りは、それ以降、行われなくなった。


「全ては計画通りだったニャン。噂の美人幽鬼見たさにわざわざ泊まりに来る阿呆がたくさん増えて、頭髪集めがはかどったニャン」


「フム……。ついでに聞くが、呉家の嫁からも髪を奪ったのか?」


「それはやめておいたニャン。あの死女の頭がツルツルだったら、せっかく演出した美人幽鬼の物語が台無しになるニャン。にゃははは」


 こいつ、殴りてぇ……。

 司馬懿は、狸の驕慢きょうまんな態度に苛立ちを感じた。

 この精魅は、人の命を何だと思っているのか。きっと、自分が神の領域に近づくための道具程度にしか見ていないのだろう。


 本当に一発かましてやろうかと思い、拳を強く握ると、曹丕が鋭い目で「まだだ」と制した。彼には、この狸に聞きたいことが、もう一つだけあるのだ。


「最後の質問だ。……お前、俺が曹孟徳もうとくの息子だとなぜ知っていた」


「狸族を舐めてもらったら困るニャン。おいらたち狸の特技は人間に化けることだけじゃないニャン。素晴らしい知性があるニャン。修行を積んだら、儒学者顔負けの学識を持つことも不可能ではないニャン。おいらの先輩には、董仲舒とうちゅうじょ(前漢の高名な儒学者。儒教を国教にした)と経書を論じ合った狸もいるニャン。かく言うおいらも、たまに人間の学者に化けて各地を放浪し、この国の知識人と論戦をやっているニャン。自然とお前たち権力者の噂も耳に入るし、曹操とはある貴族の屋敷で言葉を交わしたことがあるニャン。まだ幼児だったお前も、曹操に連れられてその屋敷にいたニャンよ」


「なるほど。つまり、俺とお前は初対面ではなかったというわけか」


「そういうことニャン!」


「……まあまあ面白い話だったが、千里眼の力があるわけではなかったか。ちょっとがっかりだ」


 曹丕はそう言うと、木簡をふところにしまった。


 彼の瞳に宿っていた好奇心の火はすでに消え失せ、冷たい刃物のような眼光まなざしが狸を射ていた。聞き取りはあらかた終わったので、この化け物に対する関心が無くなったのだ。


「そろそろお別れの時間だ」


「おっ。やっと解放してくれるニャンね。さっさとこの革帯をほどいてくれニャン」


「仲達。こいつを窓から放り投げろ」


 曹丕は窓から離れ、振り下ろした一閃の刃のごとき冷厳な声で、命令する。


 司馬懿が窓下そうかの庭を見下ろすと、こちらを見上げている目と眼が合った。彼の足元では、焚き火が火勢盛んに燃えている。火加減良好、狸をあそこに投じたらこんがり焼き上がりそうだ。さきほど曹丕が窓から投げた木片には、「化け物を焼き殺す準備をしておけ」とでも書かれていたのだろう。


「公子様。あれ……」


「俺は殺さない、と約束してしまったからな。だから、お前がやれ」


「騙し討ちしたみたいで、少し後味が悪いのですが……」


 ブン殴ってやりたいと憤ってはいたが、自分が直接手を下して命を奪うのは躊躇ためらいがある。あと、実は狸奴ねこ好きなので、仲間の狸を殺すのはちょっと……。そんなやや情けない葛藤が、司馬懿の胸中で渦巻いた。


「何だ、お前。もしかして、にゃんこ好きなのか」


「や、いや、あの~……」


「お前がにゃんこ好きで殺したくないと言うのなら、別に俺は構わんぞ。ただし、この狡猾な狸は、自分が神になるまで人を殺し続けるだろうがな。神になったらなったで、絶対にろくなことをしないはずだが……。まっ、お前の好きにするといいさ」


「や、やりますよ。やりますってば」


 司馬懿は渋々ながらも命令に従った。「手に負えない神獣となって、地元の民たちに恐るべき災厄をもたらす前に、この精魅を始末すべきだ」と曹丕は遠回しに言っている――そう察したからである。


 約一か月付き合って分かってきたことだが、この俺様イケメン貴公子は、民にはわりと優しい。民衆が悪人や精魅に苦しめられていたら、見捨てずに助けようとする。


 本人は「善だの悪だのという他人の評価など下らない」と言うが、司馬懿にしてみれば重要なことだった。民を思いやる心が曹丕にはあると知っているからこそ、彼のわがままや無茶な命令にも付き合えるのである。


 それに、「にゃんこを殺すのは気が引ける」というのは個人的な理由だ。命令を拒否すべきではないだろう。この地の民のためにも。


「……というわけだ、狸。すまんな」


 覚悟を決めた司馬懿は、振り返り、殺意をにじませた表情で狸に歩み寄った。


「え⁉ え⁉ いったい何をする気だニャン⁉ まさか、約束を破っておいらを……ギャーーー! よ、寄るなぁーーー!」


 司馬懿のおっかない顔を見て、命の危機を感じた狸が、ニャンニャン騒ぎ出した。だが、革帯できつく縛られているため、身動きが取れない。


「悪く思うなよ。人の命をもてあそびすぎたお前がいけないのだ」


 司馬懿はそう言いながら狸を肩に担ぎ上げ、窓辺に立つ。


 四、五尺もある化け狸の重さは相当なものだったが、司馬一族の人間は体格優れた者が多く、司馬懿も大柄の部類に入る。子供サイズの精魅を軽々と持ち上げるだけの膂力りょりょくぐらいはあった。


「下ろしてくれニャン! お願いだニャン! おいらを焼いても美味しくないニャン!」


 眼下で燃える炎を司馬懿の肩の上から見た狸は、自分の運命を悟ったらしい。必死になって懇願した。そして、再び全裸の猫耳美女に変身し、「助けてくれたら、本当にどんな奉仕でもするから頼むニャーン‼」とわめいてジタバタ大暴れ。柔らかな胸の膨らみを司馬懿の頬に押しつけてきた。


「わ、わ、わ! そ……そんなものを顔に当ててはならん! こら、やめろ! 俺には春華しゅんかという妻が――」


 狸を放り投げようとしていた司馬懿は、顔面を包むたわわな感触に狼狽ろうばいし、体のバランスを崩してしまった。その直後、


「あっ⁉」


「にゃ⁉」


 司馬懿は、猫耳美女を肩に担いだまま、紅蓮の炎が待ち受ける庭へと落下したのであった。


「マジでか……」


 これにはさすがの曹丕も、呆気にとられるしかなかったようである。

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