暗闇での攻防

 がさこそ、と何かがうごめく音。


 司馬懿は視界の端で、室内に侵入してきた黒いかたまりをとらえた。


 身の丈は、四、五尺(約九三~一一七センチ)といったところか。想像していたよりもずっと小さい。


 その子供サイズの影は、猫か猿のようなすばしっこさで壁を駆け上がり、天井に貼り付いた。


 静寂漂う暗闇の中、グルル……と獣じみた唸り声が響く。天井の化け物は、炯々けいけいと光る目で司馬懿を睨んでいる。


(俺を先にろうっていう魂胆か。できれば、曹丕のほうを狙って欲しかった……)


 心の中でそうぼやきつつ、黒い塊が飛びかかって来る瞬間を待つ。


 ぽたり、と水滴が司馬懿の寝床に落ちる音がした。


 化け物のよだれか、と察した次の刹那せつな



「ぐがぁぁぁ‼」



 猛獣のごとき咆哮ほうこうとともに、黒い塊が司馬懿の両足めがけてさっと降って来た。曹丕の作戦が当たり、化け物はさくに覆われた足を頭だと勘違いしたようだ。


「か……かかったな!」


 化け物が幘に喰らいついたのとほぼ同時に、司馬懿は上半身を起こした。そして、手にしていた革帯を渾身の力でふるった――と思ったのだが、



 つるん!



 緊張で手が汗まみれだったため、うっかり革帯を手放してしまった。


 放り投げるかたちになった剣の帯は、化け物の頭をかすめ、柱にぶつかって落ちる。


「や、やばたにえん!」


「ニャニャ⁉ 何が起きたニャ⁉」


 二つの間抜けな悲鳴が、暗い室内に響き渡る。


 司馬懿と化け物、お互いに頭が一瞬真っ白になり、硬直してしまっていた。


「何をやっている! さっさと取り押さえろ!」


 曹丕の叱責の声でハッと我に返った司馬懿は、子供サイズの化け物に覆い被さり、着物のたもとで押さえつけようとした。


 しかし、化け物のほうが、一足早く正気を取り戻していたようだ。捕まる直前、幘をくわえたままバッと後ろに飛び退いた。幘を引き剥がされ、司馬懿の素足があらわになる。


「なぬ~⁉ 頭じゃなくて足だったニャンか! 道理で臭いと思ったニャン!」


 人間の臭い足に喰らいついてしまったことがよほどショックだったらしく、化け物の動きは再び止まった。この隙を突かぬ手は無い。曹丕は、素早い動作で幘を取り払い、足を縛っていた手拭いもほどくと、


「逃がさんぞ! 化け物!」


 鋭くそう言い放ち、化け物の小さな脚を革帯でピシッと叩いた。


「にゃっふん⁉」


 化け物は、珍妙な悲鳴を上げ、すっ転ぶ。


 間髪を入れず、曹丕はニャンニャン言っている獣に飛びかかった。司馬懿も足の手拭いをほどくと、急いで自分の剣の帯を拾い、化け物に覆い被さる。


「にゃにゃーん⁉ 何をするんだニャーン! やめてくれニャーン!」


 化け物が泣こうがわめこうが、問答無用。曹丕と司馬懿は革帯で化け物を縛り上げた。


「ざっと済んだな」


「早速、こいつの正体を見てやりましょう」


 司馬懿が灯りをともし、化け物に近づけた。


 二人は、火影ほかげに照らされたその姿を凝視する。


 長年に渡って懼武亭くぶていを騒がせていた化け物の正体。それは――。


「や、やまねこ⁉」


 であった。




            *   *   *




 古代中国では、山猫や野生の猫をと呼ぶ。家猫は狸奴りどと言う。


 某ネコ型ロボットは、よくタヌキと間違われて怒るが、三国志ワールドではそもそも狸=ネコ科なのである(ちなみに、タヌキは何と呼ぶかというと貉である)。とてもややこしいが、この小説では狸と書いてヤマネコと無理に呼ぶこととする。


「怪異の正体が、まさか狸だったとは……」


「動物は年を食うと、精魅もののけになることがある。人を助ける善良な動物もいるが、中にはこうやって災いをなす奴もいるのだ」


 曹丕は、縛られて動けない狸をあごで指しつつ、そう語る。


 たしかに、見た目からして、ただの狸ではないようだ。毛がほとんどげ落ち、体は燃えるように赤く、いかにも妖怪じみた外見である。幼い子供のような愛らしい声音を発しているが、実際は相当な年月を生き、多くの人間を殺してきたに違いない。


「お……おいらをどうする気だニャン」


「さあて。お前の態度次第だな」


「た、態度? ……ハッ! おいらを人間の美女に化けさせて乱暴するつもりニャンね⁉ 春宮画しゅんぐうが(中国の春画しゅんが)みたいに!」


 何やら早合点したらしい化け狸は、愕然がくぜんとした表情で叫ぶと、呪文をブツブツ唱えだした。


 数秒後、狸は猫耳と尻尾をつけた全裸の美女に変化へんげしていた。


「ブーーーッ⁉ なにゆえ裸⁉」


 突然のエロ展開に司馬懿は動転し、鼻血を大量に噴き出した。妻帯者のくせに心はチェリーボーイなこの男には、ちょっと刺激が強すぎたようである。


 曹丕は、呆れ顔で司馬懿の肩を乱暴に叩き、「落ち着け、馬鹿。人間の女に化ける前に、こいつの股間がチラッと見えたが、おすだったぞ」といさめた。しかし、むっつり軍師は、顔を真っ赤にして狼狽ろうばいしている。


「お……お前たち人間の牡は、こういうのが好きニャンだろ? 袁術えんじゅつがまだガキだった頃、気まぐれであいつの屋敷に忍び込んだら、『獣耳美女交接図』っていう春宮画を見つけたニャン。命を助けてくれるのなら、その春宮画に描いてあったみたいなことをしてやるニャンよ? だから助けておくれニャン、曹家の公子様」


 狸はなぜか曹丕のことを知っているらしい。猫耳をピョコピョコ動かしながら、嬌態きょうたいを尽くして命乞いした。


 ここ汝南じょなん郡は名門袁氏の本籍地なので、この地の近辺を縄張りにしている精魅もののけが袁術を見知っていたとしても不思議ではない。しかし、曹丕の顔を見て、「曹操の息子だ」とすぐに分かったのは何故か? 千里眼の力でも持っているのだろうか?


(実に興味深い。これは徹底的に質問攻めしてやらねばなるまい)


 曹丕のオカルトマニアとしての好奇心が、燃え上がった。


 しかし、研究対象の狸は、曹丕を獣耳美女と交接してよろこぶHENTAIさんだと誤解しているようで、さらに誘惑を続けてきた。


「お貴族様は袁術みたいな変態ばかりだニャン。お前もきっと変態ニャン。お前が好きな変態行為をおいらにしてもいいから、殺さないでおくれニャン」


「うるさい。劉備にさくっと負けて、最期の言葉が『蜂蜜水が飲みたいプー~』だった、よわよわ袁術と俺を一緒にするな」


「そ、そんなことを言わず、許して欲しいニャン」


「許して欲しいのなら俺に聞かれたことを全て答え――」


「助けてくれたら毎晩お前を気持ちよくしてやるニャーン! お前の父ちゃんや弟たちの相手もしてやっていいニャンよ⁉ 曹家の未来にご奉仕するニャン! ……ぐえええぇぇぇ~⁉」


 曹丕は凄まじく不機嫌な顔で猫耳美女にアイアンクロー顔面鷲掴みを決めた。


「俺はな……自分の言葉を途中でさえぎられるのが大っ嫌いなんだ」


「あいたたた! すみませんニャン! すみませんニャン! 何でも答えますから許してニャ~ン!」

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