怪異を待つ夜

 曹丕と司馬懿は、灯りを消すと、寝床についた。


 もちろん、眠ったふりをしているだけである。正体不明の「化け物」の襲来を待ち、迎え撃つのだ。


 小燕はすでに冥界に帰っている。幽鬼の彼女が部屋にいると、「化け物」が異変を感じて現れないかも知れない。そう考えた曹丕が、さっさと帰れと命じたのである。


「……いちおう言っておくが、うっかり本当に寝るなよ。殺されても知らんからな」


 暗闇の中、曹丕は司馬懿に小声で釘を刺した。迂闊うかつなこの男ならやらかしかねないと思ったのだろう。


「寝るなと言われても、こんな状態で眠れるはずがないですよ……」


 司馬懿は、うんざりとした表情で、そう文句を言った。


 二人はいま、珍妙なかっこうで寝ている。手拭てぬぐいで縛った両足に、さく(頭巾)をかぶせているのだ。また、革製の剣帯けんたいをほどき、傍らに置いていた。


 髪をまとめるための幘が足を覆っている感覚が、どうにも気色悪い。寝心地は最悪だった。こんなふざけた姿で眠れるはずがない。


(化け物は、髪の毛をむしるために、まず頭部を襲うはず。だから、足に幘を被せ、頭と勘違いした化け物が足元から襲撃して来たところを剣帯で縛り上げる……という作戦なのは分かる。でも、本当に上手くいくのだろうか。失敗して、翌朝に丸坊主になった二人の亡骸が発見されるのだけは勘弁願いたい……)


 依軲山いこざんの獣、りん

 憂いの精魅もののけかん


 これまでに相対してきた化け物たちは、いずれも恐るべき怪異だった。司馬懿は毎度死にかけている。今回もろくでもない目に遭うのではと思い、心はすっかりブルーだった。


(実家に帰ってしまった春華しゅんかに「戻って来てくれ」と手紙を何通も送っているのに、一度も返事が来ないし……。このまま夫婦関係は自然消滅してしまうのだろうか。ああ……。こうやって暗闇でじっとしていると、嫌なことばかり考えてしまって余計に憂鬱になる)


 しばし沈黙が続いたが、司馬懿は生来寂しがり屋である。闇の中で黙り込んでいることにだんだん苦痛を感じてきた。十五分ほどで耐え切れなくなり、「あの……」と曹丕に声をかけた。


「しっ。声をもっと抑えてしゃべれ。起きていることがばれてしまう」


「あっ、すみません。……前から思っていたのですが、志怪しかい小説を書くためとはいえ、何故なにゆえこのように危ない場所に自ら赴かれるのですか。貴方は国の最高権力者の息子なのですから、家来たちを方々に派遣して、怪異譚を収集させたらどうなのです。そのほうが、手っ取り早いでしょう」


「大事な取材を他人にやらせろだと? ハン、お前は何も分かっていないな」


 くだらぬことを聞くな、とばかりに曹丕は鼻で笑う。


 ムッとなった司馬懿は、「何が分かっていないとい言うのですか」と問うた。


「前にも言ったはずだ。この世で信じられるのは自分の目で確かめたことだけだ、と。他人の言葉を信じ、伝聞を鵜呑みにすれば、手痛いしっぺ返しを食らうものだ。それは、怪異譚の収集だけでなく、人生の万事において当てはまる。俺は、我が目で見て、我が耳で聞き、我が心が納得したもの以外は、真実と認めん。どれだけ面白い噂話でも、実地調査をして何の根拠も無い迷信だった場合は、俺の志怪小説には取り上げぬ。たとえばそうだな……。お前は火浣布かかんふを知っているか」


「たしか、火中に投じても燃えず、汚れても火で洗えば綺麗になるという伝説の布ですよね。有名な話なので、子供の頃に聞いたことがあります」


「俺はその火浣布を得るために、方々を探し回ったことがある。夢で不思議な人物に授けられたと主張する者が何人かいて、そいつらにも直接会ったが、結局は全て偽物だった。……言い伝えによれば、火浣布が手に入る土地では火山が常に噴火していて、動植物は火炎の中で生息しているという。よくよく考えたら、命を育まぬ火の中で生物が生きていられるはずがないのだ。そんな土地などは存在しない。伝説は嘘っぱちだったというわけさ」


「ふぅむ……。たしかに己の目で実際に確認せねば、根拠の無い噂を真実として書物に残してしまうことになりますな。本を書くという仕事も、なかなか難しい……」




 これは遥か後年のことだが――魏文帝曹丕の死後、西域からの使者が魏の国にある珍宝を献上した。曹丕が存在を否定していた火浣布である。


 驚いた老司馬懿は、すぐに宮廷の書庫に向かい、『列異伝』を手に取った。


 この中国初のオカルト小説は、不思議なことに、作者である曹丕の死後も新しい怪異譚が次々と書き足されている。恐らく、幽鬼となった曹丕が加筆しているのである。


 老司馬懿が確認してみると、やはりこの時も、『列異伝』に新たなページが加わっていた。「夢で火浣布を授かった男の話」というエピソードが追加されていたのだ。曹丕は、火浣布を真実と認め、早速書き足したのだった。


 書物を閉じた老司馬懿は「死後も自作の本の誤りを直すとは、物書きの執念は恐るべきものがあるわい」と嘆息交じりに呟き、懼武亭くぶていで二人語らった遠い夜に思いを馳せたのである。




 ……ただし、これは未来の話。いまの若い二人には関係が無い。物語の時を戻そう。


「何はともあれ、だ」と曹丕は少し間を置いて言う。


「怪異という研究対象はただでさえ摩訶不思議、複雑怪奇。真実の探求を他人任せにしたら最も危険な分野と言っていい。今回の懼武亭の怪も、こうやって足を運ばねば、化け物の正体が幽鬼か精魅もののけなのか判断がつかぬ。良い本を書きたいのなら、ひたすら実地調査あるのみだ。どれだけ調査を重ねても誤った判断をしてしまうことはあるのだから、手を抜くことなどできぬというわけよ」


(普段は飄々ひょうひょうとした態度のくせに、志怪小説のことになると大真面目に語るんだなぁ……)


 司馬懿はちょっと感心していた。一本気な性格のこの男は、曹丕のこういう一面は嫌いではないのである。


 暇だからもう少し語り合おうか。そう思い、司馬懿は「そういえば……。今回、しんは連れて来なかったのですか」と言いかけた。しかし、途中で、


「しっ!」


 と、曹丕が無駄話をさえぎった。


 何事かと思い、司馬懿は隣に横たわる曹丕に眼差しを向けた。


 灯りは消したはずなのに、曹丕の美貌の横で何かが輝いている。彼の三尺(約六九センチ)の剣が半分ほど鞘から抜かれていて、刃がかすかな光を放っていたのだ。


「ギョギョギョ⁉ け、剣がピカッとる‼」


「馬鹿、静かにしろ。これは魔除けの剣、泰山環たいざんかん。邪悪な存在が近づくと、光って知らせてくれるのだ」


 曹丕はそう説明しつつ、光る刃を鞘におさめる。部屋が明るくなると、こちらが仕掛けた罠に化け物が気づく恐れがあるからだ。


「こいつが光ったからには、必ず来るぞ。得体が知れぬ敵ゆえ油断するな」


「こ、こにゃくそぉ……。嫁に逃げられたままで死ねるかよぉ~……」


 静かにしろと言われたので、司馬懿は小声でそう呟き、汗まみれの手で革帯を握った。


 懼武亭の化け物が襲いかかって来たのは、その直後のことである。

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