懼武亭の怪

 時を戻そう。


 建安けんあん十二年(二〇七)晩夏。

 司馬懿が、曹丕の怪異譚収集の手伝いをするようになってから、ほぼ一か月。


 この日、二人は汝南じょなん郡北部の懼武亭くぶていという宿に宿泊していた。


 例によってお忍びである。曹丕は今回、劉伯夷りゅうはくいと名乗っている。この地を管轄している督郵とくゆう(監察官)の名を借りたのだ。


「あ、あわわ……。ここって『出る』っていう噂がある超有名な宿屋じゃないですか。どうしてお二人はこんなところにいらっしゃったのですか?」


 刻限はすでに真夜中。

 いつものように夜食のスープを主人に届けに来た小燕しょうえんが、がくがく震えながらそう言った。


 生前、噂話が大好きだったこの幽鬼ゆうきメイドは、


 ――汝南郡の公設旅館に泊まると、謎の怪物に殺されてしまう。宿で発見される死体は、なぜかことごとく頭髪をむしり取られている。中には、精気を吸い取られ、やつれ果てた無残な死体もあるらしい。


 という噂を耳にしたことがあるのだ。


 幽鬼のくせに心霊スポットが恐いのか、彼女はその噂を涙目で語った。


 すると、司馬懿が「えっ。そんなヤバイところだったのか、ここ」と言って顔を歪める。どうやら、何も知らず曹丕に連れられて来たようだ。


「公子……こほん、劉督郵。心霊旅館系の怪異を取材する時は、心の準備が半月ほど必要だからあらかじめ言っておいてくださいってお願いしたじゃないですか。いや、ほんとマジで勘弁してください。いつ悪霊に襲われるかとおびえながら眠るのなんて、繊細な心の持ち主の俺にはとても耐えられません。食事ものどを通らない」


 そう抗議しつつ司馬懿は羹をすすり、空っぽになった椀を小燕に返した。今夜もいい食べっぷりである。


「食欲あるじゃん」


「これは食事ではありません! 夜のおやつ!」


「夜中の宿屋でぎゃあぎゃあ騒ぐな、阿呆。俺が『有名な宿屋に泊まりに行くぞ』と言えば、そこが怪奇現象で有名な宿屋であることぐらい普通に分かるだろう。察しろよ。いったい何のためにお忍びでこの宿屋に来たと思っていたのだ」


「お、美味しい料理が出る宿屋かと……」


 司馬懿がごにょごにょ言うと、小燕が「旦那様……。さすがにそれはありませんよ……」と少し遠慮ぎみにツッコミを入れた。この軍師、食うことしか考えていない疑惑がある。


 間の抜けた返答がツボにはまったのか、曹丕は「ハッハッハッ!」と腹を抱えて笑う。そして、涙を流しながら、


「小燕。懼武亭にまつわるもう一つの有名な怪異譚をお前の主人に教えてやってくれ。俺はいま、笑い過ぎて腹が痛い。まともに喋れん」


 と言った。


「は、はい。ええとぉ~……。たしか、その昔、鄭奇ていきというお役人が……」




            *   *   *




 ワンス・アポン・ア・タイム――ある時、鄭奇という役人がこの地を通りかかった。


 宿屋まであと少しというところで、道ばたに立ち尽くす一人の美女と行き合った。


「申し訳ありませんが、私を貴方の車に乗せてもらえませんか」


(何となく怪しい女だが……。ううむ、美しい)


 最初は躊躇ちゅうちょしたものの、鄭奇は美女を車に乗せてやることにした。


 どうやら、彼はスケベ心を抱いたらしい。宿に着くと、「今宵こよいは二階の部屋で共に寝ましょう」と女を誘った。女は妖しげな笑みを浮かべ、鄭奇の誘いに応じた。


「おい。二階の部屋を使わせてもらうぞ」


 宿の入り口でそう告げると、宿の者は「ちょっとそれは……」と困ったような顔をした。わけをたずねたところ、この懼武亭の二階ではたびたび怪異が起きるらしい。


「フン! そんな迷信、わしは信じぬわい!」


 鄭奇は鼻で笑い、美女を伴って二階の部屋で一夜を過ごした。


 翌朝。何かしらの急ぎの用事があった鄭奇は、まだ眠っている女を残して、暗い時間帯に宿を発った。


 騒動は、それからしばらくして起きた。宿の者が掃除のために二階にのぼったところ、鄭奇の連れだった女が部屋で死んでいたのである。


 すぐに役人たちが駆けつけ、あれこれ捜査した結果、驚くべきことが判明した。


 その女は、近所に住む呉家の嫁で、最近亡くなっていたのだ。遺族が夜中に彼女の亡骸なきがらを棺におさめようとしたところ、急に灯りが消え、新しく灯りを用意した時には遺体が消えて無くなっていたのだという。その呉家の嫁の死体が、どういうわけか一里先の宿屋で見つかったのである。


 なぜ彼女の遺体は消えたのか。そして、なぜ蘇って行きずりの男と共寝をし、再び死んだのか……。人々は大いに不思議がった。


 さらに、同じ頃、鄭奇の身にも異変があった。彼は宿を出て数里も行かぬうちに激しい腹痛に襲われ、あっ気なく死んでしまったのである。


 ――やはり、懼武亭の二階に泊まると凶事が起きる。


 人々は恐れおののき、懼武亭の怪異譚は全国的に有名になったのであった。




            *   *   *




「えっ⁉ ちょっと待って? 俺たちいま、二階の部屋に泊まっているんですけど⁉」


 小燕が語り終えると、司馬懿が素っ頓狂な声でそうわめいた。


 そういえば、この宿にチェックインした時、宿の者が「本当に二階でいいのですか……? どうなっても知りませんよ」と妙なことを言っていた。懼武亭二階の怪異がただの噂ではないという証拠だ。


 心霊旅館が本気で苦手な司馬懿は、「なぜそんな危険な部屋で一晩を過ごそうとするのですか! おちおち眠れないですよ!」と曹丕に食ってかかった。


「なぜって、決まっているだろ。この目で、懼武亭の怪異の正体を見極めるためだ」


「し、正体って……。その呉家の嫁が化けて出て、宿泊者を襲っているのではないのですか? きっと、その鄭奇という男も、呉家の嫁に祟り殺されたんですよ。スケベ心が災いして、死女と交わってしまったから、命を縮めたのです」


「たしかに、呉家の嫁の二度の死は謎めいている。この怪異譚を知る者の中には、女の祟りを疑う奴が圧倒的に多い。だが、さっき小燕が語った内容をよく思い出してみろ。鄭奇は、宿の者に『二階に泊まると、怪異が起きる』と忠告されていたのだ。つまり――」


「あっ、そうか。宿の者の口ぶりからして、かなり昔から懼武亭は化け物に取りかれていたはず。呉家の嫁はつい先日死んだばかりなのだから、彼女が怪異の元凶とは考えにくい……ということですか。女の二度の死があまりにも謎めいているため、うっかり彼女を犯人にしてしまうところでした」


 納得した司馬懿がそう言うと、曹丕は満足げにうなずき、「それに、もう一つ。怪異の正体を見極めるうえで、気になっていることがある」と人差し指を立てた。


「小燕が最初に話した噂を思い出せ。化け物に命を奪われた犠牲者たちは、宿の二階で遺体が発見されている。ほぼ例外なく頭の毛をむしり取られ、一部は精気を奪われ、無残な状態で命尽きていた。俺が調べたところ、この数十年で数百人の犠牲が出ているらしい」


「うええ、そんなに……。髪の毛をむしられるとか嫌だなぁ~」


「宿に泊まった者が夜のうちに化け物に殺されるという話自体は、何のひねりもない単純明快な怪異譚だ。しかし……鄭奇と呉家の嫁の事例だけが、なぜか変則的なのだよ。これは、いったいどういうことなのか」


「変則的……ですか。言われてみれば、そうかも知れません。鄭奇はいちおう無事に宿を出て、数里行ったところで変死しました。彼だけがで死んでいる。それに、呉家の嫁が二階の部屋で死んでいたのは、一見するとこの怪異譚の規則性に従っているように感じられますが、そもそも彼女は一度死んでいる身です。しかも、『髪の毛をむしり取られて死んでいた』とも伝わっていないから、彼女は化け物に頭髪を奪われていなかった可能性があります」


「ああ。この二人の変則的な死に方が、単純明快なはずの怪異譚を複雑にしてしまっている」


「むむむ……。俺もだんだん気になってきました。なぜ、二人の死だけが他の犠牲者たちと違うのでしょう」


「そこが問題なのだ。どうにも作為的なものを感じられてならない」


「作為? いったい誰の?」


 司馬懿が怪訝そうに首を傾げ、そう問う。


 曹丕はニヤリと不敵な笑みを浮かべ、馬鹿め、と言った。


「それを見極めるためにここへ来た、とさっきから言っているじゃないか。人の頭髪をむしり取る怪異なんて面白い。そいつが幽鬼か精魅もののけかは知らんが、とっ捕まえて根掘り葉掘り取材してやるぞ」

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