三章 魔性の愛撫

蜀滅亡AD263

 三国志には、死後に神となった武将がいる。関聖帝君かんせいていくん、すなわち関羽かんうである。


 中国の歴代皇帝は、彼の忠義と武勇に惚れこみ、関羽推しが多かった。関羽の出身地である山西省の塩商人たちも、地元の英雄を敬い、各地に祠堂しどうを建てた。そのため幅広い身分の人々に厚く信仰され、二十一世紀の現在でも色んな国の中華街でまつられている。日本の横浜や神戸にも関帝廟かんていびょうがある。この小説を書いている筆者も、机に小さな関羽像を置いている。関羽最高。


 ……しかし、実は関羽以外にも、神になった三国志武将がいた。その名を鍾会しょうかいという。


 この鍾会、魏の名臣鍾繇しょうようの子で、蜀平定戦に大きな役割を果たした人物である。母親の英才教育の賜物で幼い頃から才気煥発さいきかんぱつだったが、やたらと野心が強く、仲間の武将を諫言で陥れるのが趣味という悪癖があった。ざっくり言うと、優秀ではあるが非常に胡散臭い奴だった。


 そんな鍾会が死後にどんな神様になったかといえば――神は神でも、疫病えきびょうを司る瘟神おんしんの一人である。


捜神記そうじんき』にはこう記されている。


 天帝は趙公明ちょうこうめい鍾士季しょうしき(鍾会)などの将軍を遣わして下界の人間の生命を奪わせた……と。


 生前胡散臭かった武将は、死後も怪しげな神になってしまったわけである。




            *   *   *




 西暦二六三年の冬。

 胡散臭いことに定評のある鍾会は、蜀の都の成都めざして進軍していた。


 すでに、間道を伝って先行していた鄧艾とうがい将軍が、成都を無血開城させている。劉備りゅうびが建国し、諸葛亮しょかつりょうが命を賭して守ってきた蜀漢はここに滅びた。司馬懿しばいの死から十二年目に魏と蜀の長い戦いが終わったのである。


(しかし、面白くないなぁ。司馬氏が権勢を振るう魏王朝がこのまま天下を統一してしまうのは、どうにも面白くない)


 そんなことを考えつつ、馬上で鍾会は晋公しんこう司馬昭しばしょうに宛てた書状をしたためている。


 ――鄧艾将軍は独断行動が多く、反逆の兆しがあります。彼が戦況を記した報告書を一緒に送りますので、ぜひご覧ください。めちゃくちゃ調子に乗っていて、おごり高ぶった内容ですから。


 という告発文だった。


 鍾会は、天下に名高い書家、鍾繇の息子なので、他人の筆跡を真似て手紙を偽造することが得意である。鄧艾の筆跡を模した偽の報告文を自ら作り、告発文と一緒に司馬昭へ送り届ける気だった。


 蜀の皇帝劉禅りゅうぜんを降伏させるという大功を上げた鄧艾を失脚させ、自分が蜀の地を好き勝手に統治したい。さらに、あわよくば自分が君主として君臨する独立国家を蜀に建てて、第二の劉備になってやろう……。後に疫病神となるこの胡散臭い男は、そんな企みを胸に秘めていたのだ。


「鍾会将軍。地元の民の話によると、どうやらこのあたりのようです」


 配下の武将が周囲の景色を見回しながらそう言うと、鍾会は筆を動かしつつ「何がだね」と問う。


 しかし、察しが早いこの男は、配下が何を言っているのかすぐに分かったようだ。

 ああ、なるほど……と呟き、顔を上げた。


「このあたりに、龐徳ほうとく将軍の遺体が埋葬されているのだな」


 そう言うと軽やかに馬から下り、「きっとあれだ」と東の丘を指差す。その指し示す先には、小さな墳墓がある。近づいて墓碑を見ると、


 白馬将軍 龐徳


 と、墓の主の名が刻まれていた。荒々しく雄大な筆跡からして、龐徳の元主君、馬超ばちょうが書いたのだろう。


 龐徳、あざな令明れいめい

 元は涼州りょうしゅうの雄馬騰ばとうの配下で、後に馬騰の子の馬超に従った。馬超が蜀の劉備に帰順した際、魏の曹操の軍門に下った。


 魏の国では、関羽と戦って壮絶な死を遂げた龐徳に「壮侯そうこう」という諡号しごうを贈っている。一方、蜀の人々は、白馬に乗って関羽軍を苦しめた彼を白馬将軍という異名で呼んで畏敬いけいしていた。だから、墓碑にも白馬将軍と刻んだのであろう。


「元は馬超の配下であったとはいえ、こうして敵国で墓を作ってもらえるとは、龐徳将軍が名将であった証だ。武将たるもの、かくのごとき名声を世に残したいものよ」


 翌年には魏に反逆して殺され、賊徒の汚名を残す運命にある鍾会は、墓碑を撫でつつ微笑む。笑うと、左の目尻にある泣き黒子ぼくろがやけに色っぽくえる男である。


 鍾会の生母、張昌蒲ちょうしょうほにも、息子と同じ場所に黒子ほくろがあった。

 彼女は、この世の人とは思えぬほど妖艶な女人にょにんで、父の鍾繇は若い側室の張昌蒲にぞっこんだった。溺愛するあまり、他の側室を家から追い出そうとしてひと悶着を起こし、魏文帝ぎぶんてい曹丕そうひに仲裁されている。そんな妖しき母の遺伝が受け継がれているためか、鍾会の艶めいた微笑にも底知れぬ妖気のようなものがそなわっていた。


「まこと、ささやかながらも立派な墓だ。……とはいえ、しょせんは偽の墓。遺体は掘り起こして、龐徳将軍の遺族が祀っている本物の墓に改葬しよう。者共ものども、墳墓をぶっ壊せ」


 鍾会がそう命じると、配下の兵たちは、馬超が龐徳のために作った墓をあっという間に破壊し、地下に眠っていたひつぎを掘り起こした。


「ややっ。鍾会将軍、ご覧ください。龐徳将軍はまだ生きています」


 配下の武将が、棺のふたを開けた途端、驚呼きょうこした。兵士たちも「こ、これは奇怪な……」とおびえ、後ずさりする。


 何を寝ぼけたことを言っているのだ、と思いつつ、鍾会は棺をのぞき込んだ。


「ふむ……なるほど。たしかに、まるで生きているかのごとき顔色じゃ。体も全く腐っていない。だが、息はしておらぬゆえ、間違いなく死んでいるな」


「いまにもまぶたが開きそうな……。埋葬されて四十四年の歳月が流れているというのに、こんな摩訶不思議なことがあるのでしょうか……」


 祟られると恐いと思ったのか、配下の武将も棺から離れようとする。


 しかし、鍾会がその手をつかみ、「ビビっていないで、さっさと運べ。お前が、ぎょうにある龐徳将軍の墓まで送り届けるのだ」と微笑みながら命令した。


「さ……されど……」


「文帝が著した『列異伝れついでん』には、幽鬼の女と情を交わして子供を作った、という怪異譚がある。世の中には死者と夫婦めおとになっている男がいるのだ。それに比べたら、四十四年前に死んだ人間の体が腐っていないことぐらい、たいした問題ではなかろう」


「そ、そんな馬鹿な。大問題ですよ。将軍はよく冷静でいられますね。恐くないのですか?」


 配下の武将が眉をひそめ、上司を凝視みつめる。


 鍾会はニタニタと胡散臭そうに笑い、「まあ、私は慣れているからな」と言った。


「『列異伝』執筆のために鬼物奇怪きぶつきっかいの説話を収集されていた文帝の身辺では、いつも恐るべき怪異が起きたそうだ。我が父は文帝と親しかったゆえ、自然とそういった怪異譚を耳にする機会が多かった。実際に怪異と遭遇し、文帝に助けられたこともあったらしい。だから、私も幼い頃より、父から色々な怪異譚を聞かされているのよ。……おっ、そういえば」


 ふと何かを思い出したらしい鍾会は、かがみ込んで龐徳の豊かな髭を撫で、永遠とわの眠りについている勇将にやや馴れ馴れしいぐらいの親しさで声をかけた。


「龐徳将軍。私が生まれるずっと以前、貴殿も我が父を救ってくださったことがあるとか。父は、その一件についてはあまり詳しく教えてくれませんでしたが……。ただ、『文帝と龐徳殿、あとついでに司馬懿殿がいなければ、そなたは恐らくこの世に生まれてはこなかっただろう』と聞かされています。事情はよく知りませんが、いちおう礼を言っておきましょう」


 そうささやくと、鍾会は腰を上げて、部下たちに「さあ、遺体を運ぶのだ」と再度命じた。


 その直後。小さな丘一帯に、一陣の風が吹き起こった。



 ――礼には及ばぬが……。拙者が尊敬する鍾繇殿の子息が、悪名を残して死ぬのは忍びない。胸に秘めた反逆の心をどうか打ち消してくれ。



 風声ふうせいに混ざって、野太い男の声が聞こえたような気がした。ほんの一瞬ではあったが、何かを嘆くような、気遣わしげな声音が、鍾会の耳にだけ届いた。


 内心ギクリとした鍾会は、顔を硬直させながら振り向き、眠れる龐徳を凝視する。


「将軍……いかがなさいましたか?」


 配下の武将が心配してたずねると、鍾会はすぐに取りつくろって「いや、何でもない」と微笑んだ。


「ちょっと空耳が聞こえただけさ」


 王隠おういんの『蜀記しょくき』に曰く――蜀を平定した鍾会は、敵地にあった龐徳の遺体を鄴に送り届け、改めて埋葬させた。その死から長い歳月を経ていたにも関わらず、龐徳は首も体も生きているかのようであったという。


 ……龐徳の遺体が鄴に到着したちょうど同じ頃、鍾会は蜀の将軍姜維きょういと共謀して決起。死への道を突き進むこととなった。

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