無窮の命

 憂いの精魅もののけ騒ぎから数日経ったある夜。

 ぎょう城司空府、曹丕の仕事部屋。


 幽鬼メイドの小燕が、司馬懿にスープを届けるため、今宵もまた冥界からやって来ていた。


 ようやく化けて出るのに慣れてきたようで、今回は司馬懿の頭上ではなく、ちゃんと地面に……と思ったら、股の下から出現した。


「うわッ⁉ 何ちゅうところから化けて出るのだ!」


「はわわ! 申し訳ありません、旦那様!」


 少女の頭が自分の股間からにょきっと現れたため、驚いた司馬懿は後ろにひっくり返る。手に持っていた木簡が散らばってしまった。曹丕の命令で、かんに関する怪奇メモを整理していた最中だったのだが、これでは一からやり直しだ。


「ハッハッハッ。小燕はいつも面白いところから現れるな。一度、仲達の口の中から出て来てくれ。こいつがどんな愉快な反応をするか見てみたい」


 しょうに寝転びながら桃を食べていた曹丕が、大笑いしてそう言う。


 司馬懿は思いきり眉をひそめ、「やめてください。心臓に悪すぎて、さすがに気絶してしまいます」と抗議した。


「いいじゃないか。ここのところ不思議な事件が起きなくて、少々退屈しているのだ」


「ついこの間、山みたいに巨大な精魅を退治したところでしょうがッ! ……本当にもう。実はいい奴なんじゃないかと見直しかけていたところなのに、そうやってまたたちの悪い冗談を言うんだから」


 司馬懿は曹丕の「ここのところ暇」発言にツッコミを入れると、小燕から受け取った羹をズズズとすする。今夜も冥界の食材で作った羹は美味である。


「あの……曹丕様。奴隷市に売られかけていた人たちを助けてくださって、ありがとうございました!」


 小燕がペコリと頭を下げ、曹丕に礼を言った。


 華歆かきんが世話をしている女たちの嫁ぎ先は順調に決まっており、彼が戦地に戻る予定の来月までには、全員がどこかの家庭に居場所を得られるはずである。


 また、曹洪も今回の精魅騒ぎでいちおう懲りたらしく、「違法な奴隷商売は二度としてはならぬ」と食客たちに命じていた。彼と配下のチンピラ集団の悪事がこれで収まるとは思えないが、少なくとも良民が誘拐され、曹洪暗黒マーケットで売り飛ばされることはもう無いだろう。


 官渡城に囚われていた良民たちも、すでに解放され、それぞれの故郷に帰っている。戻る場所が無い者たちについては、曹洪が働き先や嫁ぎ先を探すと曹丕に約束している。解放した彼らに「曹洪様に囚われ、奴隷市で売られそうになった」と悪評を広められたら困るので、鬼畜将軍もこの約束だけはたぶん破らないであろう。相当な額の口止め料も渡しているはずだ。


 曹洪の奴隷商売をやめさせ、人々を救えたのは、全て曹丕のおかげだ。そう思うからこそ、小燕は心から感謝の言葉を述べたのであった。


 しかし、曹丕は飄々ひょうひょうとした態度で「別に助けた覚えはないな」と否定した。


「怪異譚収集のついで。曹洪の商いを邪魔するついで。ただそれだけのことさ」


「それでも、ありがとうございました。私も昔、官渡の市で売られそうになったことがあって……。何だか自分まで救われた気持ちになったんです。世の中の偉い人たちは、私たちのような貧しい民のことなんて考えていない。飢えて死にそうになったり、奴隷として売り飛ばされたりしていても、関心が無いから救ってくれない……。そんなふうに思っていました。でも、曹丕様は違いました。私の大好きな旦那様が、曹丕様のようなお優しい方にお仕えすることができて、本当に良かったです」


「…………」


 食べかけの桃を胸の上に置くと、曹丕は目をつぶり、しっしっと手を振った。もういいから冥界に帰れ、ということらしい。


 小燕はもう一度丁寧に頭を下げた後、スッ……と姿を消した。


「……俺はともかく、小燕みたいな純粋な子供から『いい人』と言われるのも嫌なんですね。本当に変わった人だ」


 司馬懿は、空になった椀を床に置くと、曹丕の横顔を凝視みつめながらそう言った。嫌味ではなく、素直な感想である。


 曹丕は閉じていたまぶたをゆっくりと開け、「人に褒められて何になる」と呟く。そして、天井を睨み、いつになく真剣な顔つきでこう語りだした。


「善人や悪人などという他人の評価など、コロコロと変わるものではないか。そんなことにいちいち心を揺り動かされるのは好かぬのだ。俺は、志怪しかい小説を書き上げ、『鬼物奇怪きぶつきっかいの事をじょした文学者』として世に名を残す。俺が欲しい評価は、ただそれだけだ」


「また小説、ですか。貴方に権力欲が無いのは知っていますが……。そこまで小説に人生を賭けてしまって大丈夫なのですか。後悔しませんか」


 司馬懿は、余計な差し出口であると自覚しながらも、そう問いかける。


 曹丕はフンと鼻で笑い、「お前、まだ小説に対する偏見を拭い去れていないのか」と馬鹿にしたように言い放った。


 いいえ、と司馬懿はかぶりを振る。


「華歆殿に言われて、俺も『小説というものも無価値とは言い切れない』と考えるようになりました。されど、世の名士たちの意見は違う。怪異を題材とした文学作品など作っても、果たして後の世に残るかどうか……。華歆殿は、『志怪小説は、乱世を生きた人々の想いを後世に伝えてくれるはずだ』と期待しているようですが、貴方の死後に儒学者たちがその書物を焼いてしまったらどうしようもない。小説とはそういう扱いを受けるものです。公子様が著した書の全てが散逸してしまう可能性のほうが大きいと俺は思うのですが」


「……俺は、人が記す文章の力を信じている」


 胸に置いていた桃を再び手に持ってかじり、曹丕は静かにそう言った。


 言葉の意味が分からず、司馬懿は「文章の力、ですか」と呟いて怪訝な顔をする。


 曹丕は「そうだ。文章の力だ」と鸚鵡おうむ返しして、珍しく多弁に、己の存念をさらに語った。


「人の想いを……文章を書き連ねて生み出す文学は、国家を統治する大業に匹敵する。永遠とわに朽ちることの無き大いなる事業と言っていい。それに引き換え、人の命はいつか燃え尽き、この世で得た栄華や富などは生きている間だけの楽しみに過ぎぬ。人間の寿命や栄耀栄華は、文章が持つ無窮むきゅうの命に比べたら、とても及ばぬ」


「無窮――極まりの無い命ですか。文章にそこまでの力があると公子様は信じていらっしゃるのですな。自分が記す志怪小説は、必ずや後世に残ると……」


「当たり前だ。俺が書く小説は面白い。最初から『己の文学など人に見向きもされない』と思って筆をる作家がこの世にいるのか? 物語を書くからには、自分の文章に自信を持つべきだ」


(ふぅむ……。たしかに、志を遂げるためには己の力を信じることは大切だ。しかし、文章を書くことが経国けいこくの大業に匹敵するとまで豪語するとは……)


 詩も文章も、この時代の権力者や名士にとっては、自身の志を衆人に示す手段に過ぎない。そういったものに傾倒しすぎるのは小人の道だとさえ考えられている。そんな中で、曹丕は「文章を書くことこそが我が志である」と言ってのけたのだ。司馬懿は、その言葉に、世を支配する古い価値観に真っ向から立ち向かおうとする彼の気概を感じ取った。


 司馬懿もまだ若く、冒険心がある。曹丕のこの無謀な挑戦に、(面白そうだ)と不覚にもワクワクしてしまった。つまるところ、曹丕が誘う「こっち側オカルト」に片足を突っ込んでみてみたらどうなるのだろう、という好奇心が湧いてきたのだ。もしかしたら、自分が見たことのない景色を曹丕が見せてくれるかも知れない――。


「そういうことなら……協力してあげてもいいですよ」


「ん? 何か言ったか?」


「曹公(曹操)が戦より帰還して、俺が何らかの役職に就くまでの間、貴方の助手になってあげてもいいと言ったのです。その……怪異譚収集の……」


「いや、お前はもう俺の助手なんだが」


「い、いままでは貴方に無理矢理こき使われていただけですから! 俺はぜんぜん納得していませんでした!」


 むきぃ~! と猿みたいに顔を真っ赤にして地団駄を踏み、司馬懿は抗議した。


 曹丕はプッと笑い、「お前、本当に面白いな」とからかう。


「これからは率先して助手の仕事をしてくれるというのならば、ちゃんと役に立ってもらわねばなるまい。お前、小燕の一件以外に、何か不思議な事件に遭遇したことはあるか。小説の面白いネタをくれ」


「実はそのことですが……。笑わないと約束してくださるのなら、お見せしたいものがあります。あと、小説にこれからお見せするものを書く場合は、恥ずかしいので俺の名前は伏せてください」


「何だかよく分からんが、いいぞ」


 軽い口調で曹丕がそう答える。


 司馬懿は「では……」と呟きながら背を向けた。


 何事かと思い、その背中を凝視みつめていると――司馬懿がグルン! と首を百八十度回転させ、曹丕に顔を向けたのである。


 背を向けている身体は微動すらしていない。首だけが、こっちを向いている。これにはさすがの曹丕も驚愕し、


「お……おおッ‼」


 と喜悦の声を上げていた。好物の桃を手からこぼし、牀から勢いよく起き上がって仲達に駆け寄った。


「こいつは奇怪な! ち、仲達よ、お前の体はどうなっているのだ! おお……おお……!」


「は、恥ずかしいから、じろじろ見ないでください。あっ、ちょっと、ペタペタ首を触らな――」


「首を半回転できるのならば、がんばったらまるっと一回転できるのでは⁉ 仲達、ちょっと試してみろ!」


「いやいやいや。それはさすがに死……ギャーッ! それダメ! それダメ! 無理に首をじらせな……あいだだだだ‼ 死ぬ! 死んじゃうから! お願いだからやめてぇぇぇーーーッ‼」


 その日。司空府では、夜明け近くまで司馬懿の絶叫が響き渡るのであった……。






 魏文帝曹丕が記したとされる志怪小説『列異伝』。


 三巻からなるその書物は、その内容の多くが散逸さんいつし、彼が書いた物語の大半はこの世から消えてしまった……かのように思われる。『列異伝』のテキストとして現代に伝わっているのは、わずか五十エピソードだけである。


 しかし――その後の東晋時代に干宝かんぽうが著した志怪小説『捜神記そうじんき』を見ると、曹丕の『列異伝』とほぼ同じ内容の逸話が十九も存在する。干宝は、まだ散逸していなかった『列異伝』を参考資料の一つに使っていたのである。恐らく、『捜神記』二十巻には、消えたはずの『列異伝』の物語がまだ含まれているはずである。


 また、曹丕以降、中国には干宝を代表とした「怪をしるす作家」が次々と現れていく。彼らオカルト作家たちも、『列異伝』の影響を少なからず受けたに違いない。


 曹丕が記した物語は、その書物の大半は散逸しても別の形で命を保ち、後の世の人々が新たな物語を紡ぐ原動力となった。


 文章は無窮の命を持つ――彼の言葉は間違ってはいなかったのである。







            ~第三章へつづく~

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