曹家の奥義
「司馬懿殿。ここにいるのは危険だ。
「されど、
「それは分かっているが、脚に酒を浴びせても効果が無かった。
「ぬ、ぬ、ぬ……。無念なり」
司馬懿は悔しさのあまり唸り声を上げた。
自由を奪われて死んでいった人々の
「仲達! 華歆! 酒甕をこっちまで持って来い!」
怪獣の巨体が天を覆う闇夜に、聞き覚えのある男の美声が冴え渡った。
曹丕が白馬に乗り、駆けつけたのだ。
「こ、公子様!」と叫びながら振り向くと、どういうわけか曹洪と手下の食客たちも一緒だった。
「おい! 野郎ども! 華歆と司馬懿だけではあの数の荷車は運べぬ! 手伝ってやれ!」
「あいあいさ~!」
曹洪が命じると、チンピラ集団は、司馬懿と華歆の元まで駆け寄る。そして、ヒャッハーと叫びながら、荷車を押すのを手伝った。
どうやら、自分が取り仕切る市場が壊滅寸前の危機なので、一時休戦して曹丕に協力しているらしい。こんなヤクザまがいの将軍でも、この非常事態に味方になってくれるのはとても助かる。(……ただ、今回の
「公子様! 脚に酒を浴びせても、患に変化がありませんでした! もしかしたら、頭からぶっかけてやらないと効き目が無いのかも知れません!」
「ふむ、なるほどな。俺たち人間も、酒を下半身にこぼしてしまって喜ぶ者などいない」
司馬懿の報告にそう納得しつつ、曹丕は白馬からひらりと飛び降りる。平気そうな顔をしてはいるが、曹丕も多少は憂いの精魅の毒気に苦しんでいるのだろう。
「背中に翼を生やし、空から酒を降らせるわけにもいきません。どうなさるおつもりですか」
「
「そ、曹家の奥義ですと⁉ そんなものがあったのですか! その奥義とはいったい……」
司馬懿は驚き、緊張のあまり声を上擦らせた。
ならば、覇王曹操の一族が受け継ぐ奥義はもっと凄いはず――そう期待してしまうのも無理はない。
だが、曹丕はさらりとこう言ったのである。
「宴会芸だよ」
「へ? いま何と?」
「宴席で披露する芸。
「い……いやいやいや! 公子様、さすがにいまはふざけないでくださいよ。なんで曹家の奥義が宴会芸なのですか。そんなのであの化け物を退治できるわけが……」
すっかりツッコミ役が板につきつつある司馬懿が、手首のスナップを利かせ、大阪芸人みたいなツッコミポーズを取る。
曹丕は司馬懿の反応が面白くてクスクス笑っているが、一族の奥義をけなされて曹洪はイラッとしたらしい。「この無礼者がッ‼」と怒鳴り、馬上から司馬懿の顔のど真ん中を蹴った。司馬懿は「げふっ⁉」と叫びながら倒れる。
「我が一族の奥義を馬鹿にするなッ。ぶっ殺すぞッ」
「し、しかし、隠し芸なんか披露している場合では……」
「問答無用じゃぁぁぁい‼ お前はそこで黙って見ておれッ‼」
馬から飛び降り、曹洪は司馬懿の耳元で叫ぶ。耳がキーンとなった司馬懿は、目眩を起こしつつ「わ、分かりました……」と言って黙った。
ちょうどその時、真が部下たちを引き連れて、駆けつけた。
真の部下たちは、官渡城からありったけの酒甕を荷車で運んで来た。司馬懿たちが入手した分だけでは量が足りないかも知れないと曹丕が考え、曹洪に城内の酒を全部引き渡すように迫ったのだ。
また、大将である真は、四本の大きな
なぜ、こんな馬鹿でかい団扇がここに存在するのか――それはもちろん、ここが曹家の領地だからだ。宴会の隠し芸を披露するために必須のアイテムなので、曹家が領有する城ならば、どこにでも置いてあるのだ。
「子桓様。この大きさならば、あの奥義を遺憾なく放つことができますね」
「俺はあの奥義、嫌いなんだけどな。貴重な酒を無駄に使い過ぎるから。……さて、
曹丕がそう言うと、曹洪は嫌そうに顔をしかめながらも、
「フン……。いいだろう。お前とこの奥義を使うというのが何とも
そう答えつつ、真から団扇を二本受け取った。
特大団扇を両手に持った曹丕と曹洪は、患から少し離れた場所に立つ。
そして、真の部下や曹洪の食客たちは、二人の前におびただしい数の酒甕を並べていった。
この場にある酒甕を一夜で全て空にしようと思ったら、百人近い
「曹家秘伝隠し芸――
二人は同時に叫ぶや否や、重たい酒甕を片足のつま先だけで持ち上げた。
その光景を目撃した司馬懿は「ええっ⁉ どうなっているんだ⁉」と驚きの声を上げる。すると、真が「静かにしていろ」と言葉鋭く叱った。
「身体を強化する内功術を駆使しているのだ。乱世に生きる武将たる者、足のつま先だけで酒甕を持ち上げることぐらいできて当然だ」
「いや、俺、できないんですけど……」
司馬懿がそう呟いていると、さらに驚くべきことが起きた。曹丕と曹洪は、足のつま先にのせていた酒甕をまるで蹴鞠でも蹴るように、ポーンと空高く放り投げたのである。
その直後、隣にあった酒甕をまたつま先にのせ、星空へと放つ。眼前に並べてある酒甕を次々と打ち上げていき、最初の酒甕が重力に負けて降下を開始した頃には、曹丕が十口、曹洪が八口の甕を巨獣患の鼻のあたりの高さまで飛ばしていた。
次は、二人が夜空へ飛ぶ番である。
軽功術(身を軽くする気功術)でトンと大地を軽く蹴ると、酒甕を追いかけ、高くたかく飛翔した。
空中、落下してくるいくつもの甕。それを、ことごとく回転蹴りで粉砕していく。
さらに、その回転の勢いを活かし、二人は両手の特大団扇で猛烈な風をビュウビュウと巻き起こした。
破壊された甕から飛び出した大量の酒は、烈風によって一つの大きな
「おお! 患の体がだんだん透明になっていく! ……しかし、まだ足りないみたいだ!」
司馬懿がそう叫ぶと、着地した曹丕が「ならば、消えるまで繰り返すのみだ」と言う。
曹丕と曹洪は、奥義水龍酩酊を二度、三度と行い、酒が
とうとう二人は四度目の空を飛び、いままでで最も大きな水龍を患の頭に注いだ。
「禄命は
降下していく途中、曹丕は巨獣の哀しげな青い目にそう怒鳴った。
その大きな瞳からは、頭から浴びた酒がまるで涙のように滴り落ちている。獣はウウウ……と弱々しく声を上げた後、
――この酒を、故郷の人たちと飲みたかった。
ただ一言、人語を口にした。
曹丕が驚き、「お前……喋れたのか」と呟いた直後、巨獣の姿は夢幻のように跡形無く消えていったのであった。
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