曹丕と司馬懿、華歆かきん、真が中庭に駆けつけると、曹洪邸から救出した女たちがわんわんと泣いていた。


「ぴえーん! なんで私があんな恐い目に遭わなきゃいけないのよぉ~! 戦乱で家が没落したばっかりに、人生踏んだり蹴ったりだわぁ~!」


「私なんて、誘拐された時にあのチンピラたちにお尻触られたんだからぁ~!」


「あんたたち良民の娘はまだいいじゃない! 私は父ちゃんが罪人になったせいで、子供の頃からずっと奴隷だったのよ! 私は何も悪いことしていないのに! びえぇぇぇん!」


 あの鬼畜将軍に囚われている間、よほど恐ろしい思いをしたのだろう。彼女たちは大声で泣き叫び、己の不幸な身の上を呪っていた。


 そんな女たちの背後では――青い目の獣が四本脚で立っていた。

 ウウウ……ウウウ……ウウウ……と低い唸り声を上げている。耳にしているだけで心が暗黒の海に沈んでいきそうなほど重々しく憂鬱な声だ。


「顔は牛に似ていますが……。あのしわしわの体は、長江の流域に生息している象という巨大な生き物を彷彿ほうふつとさせますな」


 異形の獣を目の当たりにした華歆が、佩剣はいけんに手をかけながらそう呟く。


 曹丕はあごで怪物を指し示し、「あれこそが武帝ぶてい(前漢の第七代皇帝)を驚かせた精魅もののけかんだ」と言った。


「囚われ人や労役に従事させられている者など、自由を奪われた人間たちの憂いの気が凝り固まることによって発生する化け物だ」


「憂いの精魅……。そんな化け物がいるのですか。されど、いまの彼女らは囚われの身ではありませぬ。助け出された後なのに、なぜ憂いの精魅が現れたのです」


 司馬懿がそう疑問を口にすると、曹丕は興味深げに青い目の獣を凝視みつめながら、「これはあくまでも推測だが、彼女たちの嘆きが大きすぎて憂いの気の放出が止まらなかったのやも知れぬ。……俺も少々油断していたな」と答えた。


 しかし、自分の失敗を反省する言葉を述べつつも、曹丕の目は爛々と輝いている。「予想外なことが起きた=未知のオカルトネタに出会えた」ということなので、彼にとっては結果オーライなのだろう。


「でも、あいつ、大きさはせいぜい牛ぐらいですよ。象のように巨大だったら厄介だったでしょうが、そんなに強くないんじゃ……」


「患は何千、何万という人間の憂いの気が集まると、巨大な怪物になる。三十数人程度の憂いでは、あれぐらいの大きさなのだろう。武帝が遭遇した患はもっとどでかかったという話だ。俺が過去に遭遇したヤツも、あいつの数倍は大きかった」


「じゃあ、公子様の坐鉄室ざてつしつで簡単に殺せますね。サクッとよろしくどうぞ」


 司馬懿がそう言うと、曹丕は「あの精魅は剣や槍では殺せぬ」と即答した。


「え? なぜですか。弱々しく力無げなあの目つきを見てください。さっきからウウウと唸っているだけで、暴れ出すどころかピクリとも動く気配がありませんよ。物凄く気弱で、とろそうな生き物っぽいのに……」


「あれは生き物ではない。人々の憂いが作り出した『呪い』だ」


「の、呪い⁉」


「自由を奪われた者たちの怨念、とでも言うべきか。とにかく、呪いの集合体を物理的に斬り殺すことなど不可能だ。奴には最初から命など無いのだからな」


「で、では、どうやってあの精魅を――」


「酒だ。たるいっぱいの酒をたくさん注げば、消滅させられる。……真よ、酒を急ぎ手配せよ」


 曹丕がそう指示すると、真は「御意ぎょい!」と言い、部下たちに酒樽をありったけ持って来るように命じた。


「ちょっと待ってくだいよ、公子様。剣や槍で倒せないのに、なにゆえ酒で退治できるのですか。意味不明なので説明してください」


「さっきからごちゃごちゃとうるさい奴だなぁ~。昔、東方朔とうほうさくがその方法であの化け物を消し去ったことがあるのだ」


「え? 『史記』の滑稽列伝に出てくる、あの東方朔ですか?」


 思いがけない人物の名が出て来て、司馬懿は目をしばたたかせた。


 東方朔とは、前漢の武帝の侍従じじゅうをつとめ、ユーモラスな性格を武帝に愛されたとされる男である。仙人のごとき一面も持っていて、東晋時代に著された志怪しかい小説集『捜神記そうじんき』には彼が憂いの精魅「かん」を退治した逸話が載っている。


「武帝が東方の地を巡幸しようとした際のことだ。函谷関かんこくかんの手前で、あの患という精魅が道を塞いでいた。四本脚が大地にめり込むほど巨大で重く、兵士たちが何をしてもビクとも動かない。それを見た東方朔は、『ここはきっと秦帝国の時代に監獄があったか、罪人たちが労役をさせられていた場所なのでしょう。それゆえ、憂いの気が凝り固まり、かくのごとき化け物が出現したのです。人の憂いを忘れさせるのには、酒が一番。ありったけの美酒をぶっかけてやれば、自然と消滅することでしょう』と武帝に進言し、数十こく(一斛=十斗。一斗は前漢の時代、一・九四リットル。後漢は一・九八一リットル)の酒を患に注いだ。すると、化け物はまたたく間に消え去ったということだ」


「むむむ。さすがは面白いことで定評のある東方朔。精魅の退け方まで面白い」


「他にも東方朔には面白い伝説が……おっと、いかん。俺たちが無駄話をしている間に、女どもに異変が起きたようだぞ。見ろ、仲達」


「え?」


 司馬懿が女たちに眼差しを向けると、たしかに数分前の彼女らとは雰囲気が違っていた。ついさっきまではぴえんぴえん可愛らしく泣いていたのが、いまではまるで獣の慟哭どうこくのように激しく泣きわめいているのだ。


 女たちは亡霊のごとき青白い顔で、


「生きていても幸せになれないのなら、もう死ぬしかないじゃないッ‼」


「そうよ‼ 死ねばいいんだわ‼ そうしたら楽になるもの‼」


「死んでやる死んでやる死んでやる死んでやる死んでやる死んでやるッ‼」


 と、喉が張り裂けんばかりの勢いで怨嗟の声を上げている。しかも、彼女たちの大半が、自殺をほのめかす言葉を吐いていた。このまま放っておいたら、集団自殺を始めかねない雰囲気である。正気を保っている一部の娘たちは、仲間の突然の異変に驚き、「みんな、どうしたの……⁉」と戸惑っている。


「こ、これはいったい……。まさか、あの化け物の仕業か? 憂いの精魅の毒気を吸ったことで、彼女たちの精神に異常が生じている……? 公子様、あいつにはそんな能力があるのですか」


「分からん。東方朔は、武帝の行列に災厄が降りかかる前に、患を消し去った。それゆえ、患が人にいかなる害をもたらす精魅なのかは伝承に残っていなかった。俺も数年前にあの化け物を何体か退治した際は、酒をあらかじめ用意していて、迅速にぶっかけたからな……」


 そう言うと、「あの時にもうちょっとこいつを研究しておけばよかったなぁ……」と曹丕は小さく呟いた。


(よもや……。この男、「患の呪いがどんなものか調べ尽くしたいから、退治するのはちょと待とう」とか言いだすんじゃないだろうな。そんなことをしたら、毒気にやられた女たちが自害してしまうぞ)


 オカルトマニアの曹丕ならやりかねない。そう考えた司馬懿は不安になり、「この事態、いかがなさるおつもりですか」と恐るおそるたずねた。


「もしもあれが、人間を絶望させて自殺に追い込む化け物だったら、彼女たちが危険です」


「そんなこと、言われなくても分かっている。お前が何とかしろ」


「へ? 俺が?」


「真の部下が酒樽を持って来るまで、まだ時間がかかりそうだ。泣いている女たちを何とかなぐさめて、自殺を思い止まらせろ」


「は、はい~⁉」


 急に無茶ぶりをされて、司馬懿は動転した。「女たちは怪異の調査・研究のために見殺しにする」と曹丕が言いださなくてホッとはしているが、その命令はちょっとハードルが高すぎる。


 十歳年下の幼な妻を怒らせてしまい、逃げられたばかりなのだ。あんな大人数の女どもをなだめることなんてできるだろうか……。そう思い、尻込みしてしまっていた。


「おやおや? そんなでかい図体をしていて、泣いている女たちに優しく声をかけてやる勇気も無いのか? ハハッ! 情けない男め。そりゃ嫁にも逃げられるわ」


「ぐ……ぐぬぬぅ~。や、やってやりますよ! 司馬仲達の弁舌をめないでください!」


 曹丕に挑発されてムキになった司馬懿は、緊張しつつも女たちの前に出る。


 コホンと咳払いし、「あ……あーあー……。ええとぉ~……」と若干声を裏返しながら、集団自殺一歩手前の美女たちに声をかけた。


「き……君たち! 元気を出せ! 嘆くな! 鬼畜な将軍に売り飛ばされそうになって悔しい気持ちはよく分かる! だが、君たちだけが不幸なのではない! このご時世、捕まったり殺されたり、嫌なことだらけなのだ! 乱世だもの!」


 ぜんぜん慰めになっていない。しかも、最後の台詞せりふが微妙に相田みつをのパクリっぽい。ダメダメだった。


 もちろん、司馬懿のこの無神経な発言に女たちは激昂した。


「何が『乱世だもの』よ! ばっかじゃないの⁉」


「こんな間抜けた男に『元気を出せ』と言われても、余計に生きる気力が萎えるわ!」


「嫌だもう! どんどん死にたくなってきちゃった!」


 口々に罵倒した後、女たちはとうとう互いの首を絞め合い、集団自殺を開始した。


 司馬懿は「ぎ、逆効果だった……!」と狼狽うろたえ、華歆は「こら! よさぬか、お前たち!」と止めに入る。


「やれやれ。詩の一つでも詠んで慰めてやれば済むことなのに、お前は女の扱い方が下手だなぁ」


「そ、そんなことを言うのなら、公子様が詠んでくださいよ! 俺は、詩は苦手なんです!」


「フン。いいだろう」


 ニヤニヤ笑いながらそう言うと、曹丕は「女どもよ。我が詩でそなたたちの傷付いた心を癒してやるゆえ、よく聞くがよい」と語りかけた。そして、スーッと息を深く吸い、朗々たる美声で詩を詠み始めたのである。




 世にみていつに何ぞ同じからざるや


 上留田じょうりゅうでん


 富人ふじんいねあわくら


 上留田


 貧子ひんしかすぬかとを食う


 上留田


 貧賎ひんせんた何ぞいたましきや


 上留田


 禄命ろくめいかりて蒼天に


 上留田


 今なんじ嘆息たんそくして


 まさに誰をか怨まんと欲するや


 上留田




 上留田とは土地の名前だが、詩のリズムを取っているだけなので、特に気にしなくてもいい。大意は、




 同じ世を生きているというのに、人間の格差社会のひどいこと


 金持ちは稲と大粒のあわを食べる


 貧乏人は糟と糠を食べる


 貧しき身のなんと痛ましいことか


 だが、天命はあの蒼天が決めること


 お前たちよ、ため息をついて、誰か人を怨んではいけないのだよ




 要するに、「貧富の差は理不尽で、貧しいお前たちは可哀想だ。だが、悪いのは、お前たちにそんな運命を与えた天の神様。自分の不幸を嘆いても仕方がないし、怨み言を口にするのはやめておきなさい」ということだ。


(詩才に長けた曹操の息子だけのことはあって、詩は上手いとは思うが……。言っている中身は俺の「乱世だもの」と大して差が無いじゃないか)


 司馬懿はそう思い、これではまた女たちの罵倒が飛ぶだろうなと予測した。


 しかし、意外なことに、彼女らは自殺行為をピタッと止め、顔を紅潮させながら「ステキな詩……」と口々に呟いたのである。


「誰をか怨まんと欲するや……か。本当よね。不幸な身の上を呪っているより、前向きになって強く生きていかなきゃダメよね」


嗚呼ああ……。イケメンの公子様に慰めの詩を詠んでもらえるなんて、すごく幸せ……。生きる希望湧いてきたかも」


「やだ、私……ちょっと濡れてきちゃった……」


 さっきとは反応が一八〇度違う。司馬懿は「結局は顔かよ! 顔面の格差社会……ッ!」と叫び、地面に膝をついて悔しがった。




「子桓様! 部下たちが酒樽を持って来ました!」


「よし。患が消滅するまでひたすらぶっかけろ」


「御意ッ! ……おい、司馬懿! そんなところでうずくまるな! 邪魔だからどけ!」


 真は、落ち込みモードに入っていた司馬懿の尻を思い切り蹴って吹っ飛ばすと、部下の兵たちに命じ、ありったけの酒を患にかけさせた。


 すると、見る見るうちに憂いの精魅の姿が透明になっていき、酒樽を五つも消費しないうちに完全消滅した。


「ざっと済んだな。まあ、牛ぐらいの大きさなら、こんなものだろう」


「子桓様、ありがとうございます。おかげで哀れな娘たちを救うことができました」


 華歆は曹丕に礼を述べると、自分が解放した元官婢たちのところに歩み寄り、彼女らにひざまずいて深々と頭を下げた。


「私の浅慮で恐い思いをさせてしまい、申し訳なかった。そなたたちの生きる道筋を決めたうえで解放すべきであったのだ……。もうこのような過ちは二度と犯さぬ。今度は最後まで責任を持ち、そなたたち全員の良き嫁ぎ先を探そう」


「華歆様は何も悪くありません。そのような過分のお言葉、私たちにはもったいないです……」


 元官婢だった女の一人が、瞳を潤ませながらそう言う。他の女たちも華歆の情け深さに心打たれ、すすり泣きしていた。


 一方、良民の娘たちは、その様子を羨ましそうに見つめている。彼女たちも身寄りが無く、落ち着く家が欲しいのだろう。その視線に気づいた華歆は、良民の娘たちに微笑みかけ、


「安心しなさい。君たちのことも見捨てたりはしない。我が資産をいまの半分にしてでも、皆に普通の暮らしができるように手を尽くそう」


 と、約束するのであった。とことん面倒見の良い男である。己が背負った責任からは絶対に逃げ出さない――それが華歆の信条なのだ。


「しかし、華歆殿。『余計な財産を持たない』という主義のあなたが、三十数人の女たちの結婚を世話しても大丈夫なのですか。最悪、半分どころか全ての財産を使い果たし、一家が飢え死にするのでは……」


 華歆の家が超貧乏なことを知っているためか、あまり物を言わない真が、心配そうにたずねた。


 すると、曹丕が「俺にいい考えがある」と言い出した。


「俺は明朝にぎょうを発ち、曹洪が官渡城に捕えている民たちを救出するつもりだ。ついでに、官渡の市で、この女たちの結婚資金を稼ごう」

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