純潔の華歆

 ワンス・アポン・ア・タイム――華歆かきんがまだ名も無き青年だったある日のこと。


 旅の途中で、宿に泊まる銭も無かったのだろう。彼は、人の家の門前で野宿をしていた。


 夜更けである。屋敷内は騒がしく、どうやらこの家の奥方がお産をしているらしい。


 星空の下、華歆は門前に横たわって目をつぶり、命の誕生を前にした喧噪けんそうに何心無く耳を澄ませていた。


「……公がここにいらっしゃるぞ」


「はてさて、どうしたものか」


 密やかな話し声がふと聞こえ、華歆は片目を薄っすらと開ける。


 役人らしき風体の男が二人、暗闇の中で立っていた。こちらに遠慮がちな眼差しを向け、門をくぐるべきか躊躇ためらっている気配である。


(何だ? 私が邪魔なのか? 大きな門なのだから、私一人ぐらい寝そべっていても、普通に通れるだろう)


 華歆がそんなふうに怪訝けげんに思っていると、役人たちもようやく意を決したようだ。


「やめるわけにもいくまい。命が始まるからには終わりも決めねばならん」


「ああ。分かっている」


 などと不思議なことを言い合うと、二人はみすぼらしい服装の華歆にうやうやしく礼をし、邸内に入っていった。


(いったい何だったのだ、あの者たちは)


 華歆が首を傾げている内に、けたたましい産声が夜の静寂を引き裂いた。どうやら子供が生まれたらしい。


 役人たちは、間も無く屋敷から出て来た。また二人の話し声が聞こえる。


「あの赤子が鬼籍きせきるのは……」


「三歳で決まりだ」


 その穏やかならぬ会話に驚いた華歆は、ガバリと身を起こし、役人たちに声をかけようとした。だが――二人はすでに夜の闇の中に姿を消していた。


 それから三年後。過日の奇妙な出来事が忘れられずにいた華歆は、三年前に立ち寄った土地に赴き、あの夜に生まれた子供について調べてみた。すると、その子供がすでに死んでいたことが分かったのである。


「何ということだ。あの役人たちの言葉通り、あの家の子供は三歳で死んでいた。彼らは私のことを『公』と呼んでいたが……それは私が人々から『公』と尊称される地位につくということか」


 かくして、華歆は己の運命を知ったのである。遥か後年、彼は魏王朝で三公の一つである太尉たいいにのぼりつめるのであった――。


 これが、『列異伝』に記されている華歆の怪異譚である。




            *   *   *




「華歆、待たせたな。女たちを連れ戻して来てやったぞ」


 曹丕の仕事部屋に入ると、五十代前半とおぼしき男が独り坐していた。この人物が華歆だろう。風貌は威厳に満ち、秋霜しゅうそうのごとく犯し難い雰囲気がある。彼は静かに顔を上げ、「子桓しかん様、助かりました。感謝いたします」と寂声さびごえで礼を言った。


(ひと目見ただけでただ者ではないと分かる立派な風格だ。……だが、高名な名士のはずなのに、どうしてあんな粗末な衣服を着ているのだろう)


 心の中でそう呟いた司馬懿は、ついつい華歆に無遠慮な視線を向けてしまった。


 華歆が身にまとっているのは、麻製の古着である。夏は暑いので、官吏だって庶民と同じように麻布の服を着ることもあるが、それにしてもずいぶんと古く安っぽい。曹洪のギンギラ衣装を見た直後なので、余計に落差が激しかった。


「君。私のよれよれの着物がそんなに物珍しいかね」


「あっ、いや……すみません。無礼をお許しください」


「ははは。別にいいのだよ。私は昔からずっと貧乏なのだ。人間は家に余計な財産があったら、悪しき欲望を抱いてしまって、清き行いができぬようになる。それゆえ、俸禄や下賜品かしひんをもらっても、家族が日々食っていける分だけを残して、後は本当に金に困っている親戚知人にふるまっているのだ。『うちの家は蓄えが無いから、雨漏りがしても修繕費が工面できなくて困ります』と女房にはいつも愚痴を言われているがね」


 じろじろと凝視みつめたことを怒られるかと思ったら、華歆は柔らかな物腰で微笑みながらそう言った。峻厳しゅんげんな顔つきに似合わず、意外と優しい男のようである。


 彼の清貧を好む人柄に、司馬懿は(自分も見習いたいものだ……)と感心していた。この数日、胸やけがするほどキャラの濃い人間たちと遭遇してきたため、尊敬に値する有徳の人と出会えたことが嬉しかったのだ。


「司馬懿、あざなは仲達と申します。以後、お見知りおきくだれ」


「華歆、字は子魚だ。よろしく。……ああ、なるほど。君が、子桓様が仰っていた怪異譚収集の助手殿か」


「ぐっ……。べ、別に好きこのんで助手になったわけではありませぬ。華歆様も、公子様の怪しき書物の執筆に協力なさっているとか。どうしてそんなしょうもな……こほん、とてもお忙しいでしょうに何故なにゆえそんなことを?」


「実は、私も若い頃に怪異と遭遇したことがあるのだよ。それに、子桓様が作ろうとされている志怪小説は、いつか世の人々に必要とされる時が来ると私は考えているのでね」


「え? 小説が……特に何の役にも立たぬ物語がですか?」


 常識人だと思っていた華歆が奇妙なことを言ったため、司馬懿は怪訝そうな顔で首を傾げた。もしかして、良識ぶった外面をしているだけで、この人も内面はヤバイ奴なのだろうか。


「お言葉ですが、志怪小説が天下国家の役に立つとはとても……いてててッ⁉」


「……司馬懿。華歆殿と大事な相談があると子桓様が仰っていたのを忘れたのか。子桓様を差し置いてごちゃごちゃしゃべるな、馬鹿者」


 真が、司馬懿の足をぎゅぅ~と踏み、イライラした口調でそう叱責した。


 痛みのあまり、司馬懿は「いひぃ~! 足どけてぇ~!」と情けない声を上げてしまう。


「真よ。仲達をそういじめてやるな。……華歆。ざっとでいいから、司馬懿にお前の事情を話してやってくれ」


 曹丕がそう言うと、真は不服そうな顔をしながらも、司馬懿を踏んでいた足をどけた。


 この曹丕の側近、なぜか司馬懿への当たりが強すぎる。

 俺、何か嫌われるようなことをしただろうか……と司馬懿は疑問に思うのであった。




            *   *   *




 曹丕、司馬懿、華歆、真はいったん部屋を出た。

 救出した曹洪の「元商品」の中に華歆が捜していた女たちがいるか確認するためである。女たちはいま、昼間に司馬懿が曹三姉妹と出会った中庭に控えさせられている。


 曹洪に囚われていた女たちは、二つのグループがある。

 一つ目のグループが、戦乱のせいで家族を失い、家なき子になってしまった良民の娘たち。二つ目のグループが、一族の者が犯罪者になったことで国家所有の女奴隷――官婢かんぴの身分に堕ちた娘たちだ。華歆が曹丕に救出を依頼したのは、二つ目のグループである元奴隷の女たちだった。


 回廊を歩きながら華歆が司馬懿に語った話によると、余計な財産を持たない主義の彼の家には、ずっと奴隷がいなかった。しかし、華歆の妻は文句ぶーぶーで、「なぜ我が家には奴婢がいないのですか」と夫をしばしば責めた。その噂を聞いた曹操は、烏桓うがん征伐に出陣する前、


 ――華歆の屋敷に、高価な織物と美しい官婢十数人を下賜してやってください。


 と、皇帝劉協に奏上していた。


 参司空軍事の華歆も曹操の遠征についていく。彼が留守中ならば、「余計な財産はいりません」と断られることもないだろうとの曹操の配慮だった。人材コレクターのこの男は、自分が認めた優秀な人材には細やかな気遣いをする一面があるのである。


 ところが、曹軍が北辺の地を目指す道中――。

 烏桓族に誘拐されていた漢民族の女性たちと遭遇し、彼女らを保護するという事件が起きた。どうやら、官軍が烏桓討伐の兵を挙げたという噂を聞き、命懸けで逃げて来たらしい。さらに、進めば進むほど、略奪された女たちが助けを求めて来た。


「我が軍はこれから険しい山道を越え、烏桓族との決戦に挑みます。彼女らに過酷な強行軍についていく体力は無いでしょうし、せっかく逃げて来たのに戦に巻き込まれて死んだら哀れです。私にぎょうまで彼女らを送り届ける任務をお与えください」


 華歆がそう申し出たため、曹操はそれを許可した。連日の強行軍で疲労がたまったせいか、曹操は持病の頭痛が酷くなり、華歆の屋敷に彼が嫌がる「余計な財産」が届けられていることをすっかり忘れていたのである。


 その結果――任務を果たし、鄴の屋敷にいったん帰還した華歆は、自分の妻が女奴隷たちをこき使っている光景を目撃して驚いた。しかも、贅沢ぜいたくな高級織物まで朝廷から賜っているではないか。


 これが曹操の親切であることは何となく察せられた。しかし、「純潔で道徳心を備えている」と陳寿ちんじゅに評価されることになる華歆は、


(私は異郷の地に拉致らちされた女たちの平穏な暮らしと自由を取り戻してやるために戦線を離脱し、鄴に帰還した。それなのに、我が屋敷では妻が哀れな咎人とがにんの娘たちを酷使している。これは人として矛盾している)


 と、考えた。そして、すぐに女奴隷たちを集めさせ、下賜品の織物を彼女らに下げ渡した。


「お前たちは今日から自由だ。その織物を市場で銭に換え、これからは自由な人生を謳歌おうかしなさい」


 そう告げ、女たちを屋敷から解放したのだった。


 ところが、彼女らが華歆邸を出て数分後――。


「ヒャッハー‼ 女どもはいただきだぁーい‼」


「何か高級そうな織物を持っているから、こいつもいただきぃ~‼」


 という蛮声が屋敷の近くで響き、女たちの悲鳴が聞こえてきたのである。


 驚いた華歆は家から飛び出したが、彼女たちの姿はもうどこにもなかった。


「『ヒャッハー‼』という独特な雄叫び……曹洪将軍の食客たちに違いない。将軍は密かに奴隷市を開いているという話を子桓様から以前聞いたことがある。このままでは、あの娘たちは再び奴隷身分に堕ちてしまうぞ。どうすべきか……。ここはひとつ、子桓様に相談してみるか」


 ……といった経緯いきさつで、華歆は曹丕に助けを求めるべく司空府にやって来たのだった。




「俺も似たような感じであいつらに拉致されました……。奴らのせいでおちおち外も歩けませんよ」


 女幽鬼出没ポイントの回廊をビクビクしながら歩きつつ、司馬懿がそう愚痴を漏らす。華歆はため息交じりに「……いや、私も浅慮だったのだ」と言った。


「罪人の家族である官婢は、屋敷を取り上げられ、ほとんどが天涯孤独の身。帰る家が存在しない。手に職が無ければ、いずれは奴隷身分に逆戻りするしかない。高価な織物を一反ずつ渡されて『お前たちは自由だ。どこにでも行け』と告げられても、途方に暮れるしか無かったはず。あきらかに私の対応がまずかった。帰宅したらたくさんの女奴隷がいて、いささか動転してしまったせいだ。五十一歳にもなって恥ずかしいかぎりじゃ……」


「これは異なことを言う。小覇王孫策に厚遇され、帝のお召しで我が父に仕えることになった時には孫権に思い止まるように必死に説得されたほどの賢人が、なぜ女ごときに動転したのだ」


 人をからかうのが好きな曹丕が、意地悪な笑みを浮かべてそうたずねると、華歆は少し顔を赤らめて答えた。


「……男は、何歳になってもピチピチの美女に心ときめいてしまうものなのです。それが十数人もいたら……」


「なるほど。それは仕方がないな。アッハッハッハッ」


 曹丕は華歆の背中をバシバシ叩き、愉快そうに笑った。


 こいつ、マジで性格悪い……と司馬懿は眉をひそめたが、からかわれた華歆本人は恥ずかしがってはいるものの不愉快に思っている様子は無い。

 彼は怪異に遭遇したことがあり、曹丕の志怪小説の執筆に肯定的な態度を取っている。オカルトの趣味を通じて芽生えた絆のようなものが二人にはあるのかも知れない。


(……まあ、俺だったら、こんな奴との絆なんて芽生えさせたくなどないがな)


 司馬懿がそんなことを考えていると、兵士が血相を変えて駆けて来て、「一大事です!」と曹丕に言った。この男は、救出した女たちを庭で見張らせていた、真の部下の一人だ。


「いかがいたした」


「突然、庭に黒いもやが生じて……。だんだんと形になり、牛のような化け物に変化へんげしつつあります」


「牛のような化け物……かんが生まれてしまったか。これはいかん。急ごう」


 曹丕は真剣な顔つきでそう呟き、中庭へと駆けだした。

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