官渡へ

 翌日。鶏鳴の刻(午前四時頃)。


 ぎょう城の門兵たちを前々から買収している曹丕は、彼らに城門を密かに開けさせ、官渡かんとへと馬を走らせた。


 供は司馬懿、華歆かきん、真。真の部下たちも二十人ほど付き従っている。


「公子様。何故なにゆえ、城門が開く定刻よりも早くに出立したのですか。まだ空も暗いのに……」


「曹洪のクソジジイは、俺が奴隷の商いを邪魔しにかかることを察しているはずだ。奴も朝早くに鄴城を発ち、民たちを捕えている官渡城で何らかの異変が起きていないかその目で確かめようとするに違いない。しかし、俺が先に鄴城を留守にしてしまえば、我が父曹操から家族を守るように託されている曹洪は城から出たくても出られなくなる。俺と曹洪の二人が鄴を不在にすれば、城の守備は手薄になるからな」


「なるほど! さすがは公子様! 相変わらず性格が悪……抜け目が無いですな! 偉い!」


 鬼畜将軍を出し抜くことができ、気分爽快の司馬懿は曹丕を褒めそやした。


「それに、いつかんが官渡で発生するか分からぬ状況だ。なるべく急いだほうがよい。現地の民たちの命がかかっているからな」


「……官渡城ではそんなにも憂いの気がたまっているのですか」


「七年前、クソ親父の曹操は、投降した袁紹軍の兵八万人を官渡周辺の各城に収容した。投降兵たちは監獄の中で命が助かることを祈り続けたが、クソ親父は形だけの取り調べをした後、投降兵の全てを生き埋めにしてしまったのだ」


「なんとむごい……。それゆえ、官渡周辺には囚われていた袁軍の兵たちの憂いの気が満ちているというわけですか」


「俺は、官渡の戦から数年ほど、兵たちが囚われていた城を一つ一つ見て回り、患が出現したらただちに浄化してきた。……しかし、曹洪が管理している官渡城だけは、まだ一度も患が現れていない。あの城の監獄には相当な数の兵が囚われていたはずなのだが」


「現在は奴隷商いの『商品』となる民たちが大勢捕まっています。もしも、いま、膨大に蓄積された憂いの気が凝り集まって、患が発生したら――」


「大昔に武帝が遭遇したものよりもさらに巨大な精魅もののけになる恐れがある。牛ぐらいの大きさでも、三十数人の女たちが患の邪気を吸って集団自殺しかけたのだ。あの化け物に人を自死に追いやる魔力が本当にあるとしたら、巨大な患はどれだけの人間を冥界に送り込もうとするやら」


「い、いかん! これは放ってはおけぬ!」


「だから、こうやって全速力で馬を走らせているのだ。ほら、仲達。もっと馬の尻に鞭を打て。遅れたら置いて行くぞ」


「わ、わ、わ! ちょっと待ってください、公子様! 俺、長い間引き籠っていたから乗馬は苦手で……どわぁ~‼ 早速、落馬したぁ~‼」




            *   *   *




 曹丕と司馬懿が出立した二時間後。平旦の刻(午前六時頃)。


 鄴城の門が開き、曹洪は二十数人の食客たちを率いて官渡へ向かった。


「曹洪将軍~。こんな朝早くに出かける必要があったんすっか~? 俺、まだ目が完全に開いていないっすよぉ~。ああ~眠い」


 鼻ピアスのチンピラBがブツブツと文句を垂れる。昨日曹丕にぶっ飛ばされたため、体のあちこちには包帯が巻かれていた。


 曹洪は自慢の駿馬しゅんめを走らせつつ、「たわけ! 子桓のクソガキが城を出るよりも先に出立せねばならんのだ!」と怒鳴る。


「子桓の奴は、わしの商売を邪魔するために弟分の真を官渡へ遣わすだろう。もしかしたら、自ら乗り込んでくる恐れもある。しかし、儂が先に鄴城を留守にしてしまえば、父親から家族を守るようにと命じられている子桓は城から出たくても出られなくなる。儂と子桓の二人が鄴を不在にすれば、城の守備は手薄になるからな。……儂は一騎打ちで子桓には勝てぬが、真にだったら何とか勝てる! それゆえ、子桓本人がしゃしゃり出て来ぬように機先を制したのだ!」


「さっすがは曹洪様! 相変わらず性格が鬼畜ぅ~! 偉い!」


 眼帯のチンピラAが朝食代わりにせみをぼりぼり食べながら、主人を褒めそやす。


 だが、このチンピラ集団は知らなかった。曹丕が一足早く官渡に向かっていることを……。




            *   *   *




 さらに三時間後の食事の刻(午前九時頃)。


 司空府。曹丕の生母、べん夫人の部屋。


「あの……お義母様。子桓様が……」


 部屋に入って来た甄水仙しんすいせんがおずおずとそう言うと、卞夫人は手で制して、「その顔を見たら、最後まで聞かなくても分かります。丕(曹丕)がまた城を抜け出したのでしょう」と苛立ちを隠せぬ声音で言い当てた。


「まったく……。昔は素直で良い子だったのに、どこで育て方を間違えたのかしら。これでは孟徳様に顔向けができないわ。……まだ遠くには行っていないはずよね。子廉しれん(曹洪のあざな)殿に頼んで、連れ戻してもらいましょう。今度という今度は絶対に許さな――」


「いませんよ、母上」


「へ?」


 傍らでお人形遊びをしていた曹節そうせつが、聞き捨てならぬことを口にした。卞夫人は「いないって誰が……?」と愛娘に問う。


「子廉おじさんです。たぶん、平旦の刻だったと思います。いつもの日課で、私が楼閣にのぼって城邑まちの朝の景色をぼんやり眺めていると、曹洪おじさんが例のがらの悪い食客さんたちを引き連れて城門の方角へと走って行くのが見えたんです。皆さん、今日も元気に『ヒャッハー‼』って叫んでいました」


「ちょっと待って……? つまり、この城にはいま、孟徳様に留守を任された二人がそろいもそろっていないということ?」


 くらりと目眩がした卞夫人はよろめき、水仙が慌てて義母の体を支える。


「だ、大丈夫ですか、お義母様」


「ふ……ふふふ……。留守居役が丕と子廉殿という時点で、ものすっごく嫌な予感がしていたのよ。あの馬鹿二人はまともに城の守りもできないんだからッ‼」


 卞夫人がヒステリックにそう叫ぶと、曹節は「子廉おじさんは馬鹿だと思いますが、子桓兄上は馬鹿ではありませんよ」と兄を弁護した。


「兄上は、子廉おじさんとは違って、弱い立場の民たちをいじめたりしません。意地悪そうに見えて、意外と優しいところもあります。気まぐれに見せかけて、困っている誰かを助けることもあります。きっと、今回も兄上なりの正義を為しに行かれたのでしょう。お願いですから、もっと兄上のことを信じてあげてください」


「節……あなたっていう子は……」


「あと、父上や母上に対して親不孝な言動が多いのも、馬鹿だからではありません。純粋にお二人のことが嫌いだからだと思います。嫌われているかぎり兄上の暴走は止まらないはずなので、もうあきらめたほうがいいですよ?」


「…………」


 聡明な我が娘を褒めようと思った矢先にこれである。曹節が一言多い少女に育ってしまったのは、問題児ばかりの曹家の人間の誰に似たせいのなのだろうか……。卞夫人は深々とため息をつくのであった。

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