曹家の屋敷(事故物件)

「子桓様。間もなくぎょうに到着します」


 真が、風を切って駛走しそうする馬車の横に馬を寄せ、曹丕にそう告げた。


 うたた寝から覚醒した曹丕は、ふわぁ……と欠伸あくびをする。


「う~む。夢の中でクソ親父と口論をしていたような気がする。何かの暗示だろうか」


「これこれ。あまりクソクソ言っておると、本人の前でうっかりクソ親父と呼んでしまうぞ」


 隣でごろ寝をしている華佗かだがそう注意すると、曹丕はフフッと笑った。


「自分だって『あの頭痛持ちの阿瞞あまん(曹操の幼名)ほど厄介な患者はいない』といつも悪口を言っているくせに」


わしはよいのだ。本人にも直接言ってやっているし、阿瞞がクソガキの頃からの付き合いなのだからな」


「ハッハッハッ! 乱世の奸雄曹操も、同郷の名医にかかったらクソガキ扱いか! 愉快、愉快!」


 曹操に聞かれたら絶対ヤバイ会話をしている二人の傍らでは、司馬懿が大口を開けて熟睡している。仕官することを渋々承知した彼は、故郷の孝敬里こうけいりに別れを告げ、曹丕に従って鄴へと向かった。しかし、その道中、


「や、やっぱり曹操になど仕えたくない! ていうか、家出した嫁をまだ連れ戻せていないのに、孝敬里から離れられるものか!」


 と、駄々をこねて暴れ出した。


 それは無駄な足掻きというもので、華佗に「瞬時爆睡」の経穴ツボを針で突かれると、バタリと倒れていびきをかき始めた。以後、ずっと眠ったままである。


「仲達、もうすぐ鄴だぞ。そろそろ起きろ」


 曹丕は、短戟の「」の刃で司馬懿の尻に軽くカンチョーをした。ビックリした司馬懿は「あなるッ⁉」と叫びながら飛び起き、両手で尻をおさえる。


「お……おまおまおま……お前なぁ~! 人をおちょくるのもいい加減にしろよ⁉ 他人の肛門こうもんに異物をぶっ刺したらダメって父親の曹操に教えてもらわなかったのかッ!」


 とんでもない起こされ方をされて激怒した司馬懿は、敬語を使うのも忘れ、曹丕に食ってかかった。すると、司馬懿の首筋に白刃が突きつけられた。真が馬上から剣を抜いたのである。


「ひ……ひえ……」


「いい加減にするのは貴様のほうだ。無礼な物言いをすると許さぬぞ。主君を呼び捨てにする馬鹿がいるか。曹操様のことは主公との、曹丕様は公子こうしとお呼びしろ」


 殺気に満ちた声で、真はそう叱りつけた。


 彼ら曹軍の兵は孝敬里を出ると、正体を隠すための覆面を取っていた。真も福々しい丸顔をさらしている。顔の造形だけを見たらどこぞの商家のボンボンみたいな印象だが、司馬懿を睨むその眼光まなざしは猛虎のごとく鋭い。炎々たる武人の気迫に満ちていた。


「ご……ごめんなさい……」


「あと、目が覚めたのなら、とっとと馬車から降りろ。曹家の主治医である華佗殿はともかく、無位無官の貴様が乗っていい乗り物ではない」


「うわっ! いきなり首根っこをつかんだら危な――どわぁぁぁ~‼」


 真に強引に引っ張られ、司馬懿は馬車から転げ落ちた。


「おい、真。仲達の奴、頭を打って気絶したみたいだぞ。立ち上がる気配が無い」


「まったく軟弱な男め……」


「奴の体と馬車を縄で結んでやれ。驚いて覚醒し、引きずり殺されぬよう必死で走り出すはずだ」


御意ぎょい!」




            *   *   *




 一時間後。城門が閉まる日没ぎりぎりに、曹丕一行は鄴に帰還した。


 曹操が漢の帝から授かっている官職は司空しくう(朝廷の最高位である三公の一つ)といい、鄴には彼の政庁兼屋敷の司空府があった。この立派な建物は、元々は袁紹の屋敷で、三年前に曹軍が鄴を占拠した際に曹操のものになったのである。


 曹丕は、華佗を彼の家に送った後、司空府の少し手前で馬車を止めさせ、


「勝手に外出したことを母上にとがめられたら面倒だ。裏口からこっそり入ろう」


 そう言って車から降りた。司馬懿は馬車の後ろで「ぜぇ……ぜぇ……ぜぇ……」と虫の息で呼吸している。曹丕は怪訝けげんそうに首を傾げ、「どうかしたのか。汗でびしょびしょだぞ」と問うた。


「馬車に引きずられないようにずっと走っていたからですよ! 殺す気ですか!」


「ちょっとしたお茶目じゃないか。そんなに怒るなよ」


「あれがお茶目とか、貴方やっぱり頭おかし――ひいぃぃぃ!」


 真にまた剣を突きつけられ、司馬懿はチビりそうになる。


「ハッハッハッ。真よ、いちいち刃物で脅すのはやめてやれ」


「ですが、この野人やじん、あまりにも無礼です」


「田舎から出て来たばかりなのだから、少しは大目に見てやれ。……ああ、そうだ。帰還してすぐに悪いのだが、ちょっと調べて欲しいことがあるのだ。頼めるか」


「ハハッ。何なりとお申し付けください」


「うむ。さっき見た夢が少し気にかかるのだ。曹洪のクソジジイがまた例の人狩りをやっていないかをだな……」


 曹丕が何事かを耳打ちすると、真は「御意!」と応じ、部下たちを引き連れてどこかに行ってしまった。司馬懿は、恰幅のいい真の後ろ姿を見送りつつ、(あいつ、人使いの荒い曹丕になんであんな嬉しそうに仕えているんだ?)と不思議に思うのであった。


「さあ、仲達。俺の仕事部屋に案内してやるから行こう」


 曹丕は機嫌良くそう言い、司馬懿の手を取って裏門から司空府に入る。


 裏門の警備にあたっている兵士たちは、どうやら曹丕に買収されているらしい。曹丕が「俺が戻って来たことは、明朝になってから母上に報告しろ」と小声でささやくと、兵士たちは「ハッ」と短く答えた。


「……公子様。父君の出征中は貴方と曹洪殿が鄴を守っているのですよね。いまさらですが、勝手に屋敷を抜け出してよかったのですか」


 司空府の回廊を二人で歩きながら、司馬懿はそうたずねた。曹丕はにやにや笑って振り返り、「いいわけがない。だから、こっそり帰って来たのだ」と悪びれる様子も無く答えた。


「特に、今回みたいに怪物と戦ったり、幽鬼ゆうきと関わったりしたら、母上は毎度毎度激怒する」


「毎度毎度って……。そんなにも怪異に首を突っ込んでいるのですか、貴方は。そりゃぁ、息子が危ないことをしたら、どこの親だって怒るでしょうよ」


「違う。母上が怒る理由は、クソ親……父上が大の迷信嫌いだからだ。幽鬼や精魅もののけなどの怪異はもとより、民衆が信仰している土地神も快く思っていない。母上は、自分が産んだ子供たちが夫の意に添わぬ行動を取ることを絶対に許さぬ御方ゆえ、偽名を使ってまでして鬼物奇怪きぶつきっかいの事件が起きる場所に赴く俺をいつも怒るのだ」


「ああ、そういうことか。宋定伯そうていはくと名乗って身分を隠し、お供の真たちにも覆面をさせていたのは、母君にばれないためだったのですな。たしかに、曹家の公子が方々で幽鬼や怪物とたわむれていたら、噂はすぐに鄴へ伝わるでしょうね……」


 司馬懿が納得してそう呟いていると、ほっそりとした女らしき人影とすれ違った。回廊は仄暗くて顔はよく見えないが、身分の高い女人だったらいけない。そう思った司馬懿は軽く会釈をした。


「まあ、あの偽名も使い過ぎて、そろそろ通用しなくなってきたがな。すぐにばれる。お忍びから帰るたび、『父上の意向に逆らうお前は親不孝者だ』といつも母上に叱られているよ。ハッハッハッ」


「ハッハッハッじゃないですよ。そんなにも親に嫌われているのに喜んでいる場合なのですか。俺にとっては他人事だから別にどうでもいいですが、そのうち廃嫡はいちゃくされますよ」


 司馬懿は呆れた声で言った。だが、曹丕はフンと鼻で笑うだけである。


「廃嫡などされるものか。なぜなら、父上は誰が曹家の後継者かまだハッキリと決めていないのだからな。まあ、俺は異母弟の曹沖そうちゅうが継いでくれたらいいと思っているよ。あいつはいい奴だからな。兄弟の中で一番知恵があり、人徳がある。俺は政治になど関わりたくない」


(本心でそんなことを言っているのか? この男は……)


 曹操の長男と次男は早世し、現在、三男の曹丕が最も世継ぎの座に近いはずである。それなのに、このオカルトマニアの公子は、父親の跡を継ぐつもりは無いとぬかしている。平気で嘘をつく男なので、どこまでが偽りでどこからが本心なのかがはかりがたい……。


「お言葉ですが、公子様。君子たる者、おのが手でまつりごとを為し、天下を安寧に導くのが本懐ではありませぬか。せっかく国家の最高権力の座を狙える地位にあるというのに、自らそれを捨てて、貴方はその生涯で何を為そうとお考えなのです」


「……へぇ~。ずっと引き籠っていた無職男が、『君子たる者、己が手で政を為し』とか言っちゃうわけ? めちゃくちゃ説得力無くて笑ってしまうんだが」


「う、うっさいわ! 真面目に聞いているのだから、答えてくだされ! 貴方は俺を強引に出廬しゅつろさせ、政治の道に引きずり込もうとしているのです。それなのに、貴方自身は政治から背を向けるなんて、卑怯です。貴方が政治の道以外で何を為そうとしているのか教えてくれなければ納得できませぬ。今からでも孝敬里に帰ります」


 一本気な性格の司馬懿は、虚言を弄されることを嫌う。鷹のように鋭い目を光らせ、曹丕を問いただそうとした。


 二人がしばし沈黙して対峙していると、暗がりの向こうから頭を布で隠した女官がフラフラの足取りで歩いて来た。危ないので、司馬懿は彼女に道を譲ってやった。


「さあ! 公子様! お答えくだされ!」


「はぁ~……。お前はせっかちな男だなぁ。いまから仕事部屋で『俺が為そうとしていること』をゆっくりと説明してやろうと思っていたのに」


「え? そ、そうだったのですか。それはすみません……」


「別にいいさ。だが、一つだけ忠告しておくことがある」


 曹丕はニヤッと口の端を歪め、司馬懿に恐るべきことを囁いた。


「お前、さっき女二人に会釈をしたり、道を譲ったりしただろ」


「……それが何か?」


「暗くて気づかなかっただろうが、あの女たち――二人とも坊主頭で、顔には入れ墨が施されていた。よろめき歩いていた女のほうは、えぐり取られたらしく目玉が無かった。あれは、我が父曹操が鄴を占領する前からこの屋敷に棲んでいる幽鬼たちだ」


「ええッ⁉」


 たったいますれ違った人間が亡者だったと聞かされ、司馬懿は驚きのあまり素っ頓狂な声を上げた。


「日が没すると、このあたりでよくすれ違う。なるべく無視しておけ。あの女たちは、きっと袁紹のお手付きになった女官だ。袁紹の妻はおっそろしく嫉妬深い婆さんでな。袁紹が死ぬと、夫が寵愛していた妾五人を皆殺しにし、死体をはずかしめたのだ。いまのところ悪さはしないようだが、きちんと弔われぬまま歳月が経つと、そのうち悪鬼化する可能性がある」


「そんな殺され方をしたんじゃ、俺だったら即日悪鬼化する自信がありますけどね……」


正房せいぼう(表座敷)の奥に俺が使用禁止にしたかわやがあるが、あそこには絶対に近づくなよ。そこで殺された妾の一人が襲って来るから」


「やっぱり悪鬼化してるじゃん! 袁紹の夫人、何やらかしてくれてるの⁉」


 とんでもない事故物件だ。そんなヤバイ幽鬼がいる司空府ここを今日から職場にするのか……と司馬懿はめちゃくちゃ憂鬱になるのであった。

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