大説と小説

 曹丕は、ある一室に司馬懿を招じると、燭台にを入れた


「ここが俺の仕事部屋だ。遠慮せず、好きなところに座れ」


「好きなところに座れと言われましても……」


 司馬懿は眉をひそめ、戸惑った声で呟く。


 曹丕の仕事部屋は、紙の書物や木簡、竹簡であふれ、足の踏み場すら無かった。

 室内のあちこちに、書類群が積み重ねられている。文机やしょう(ベッド兼ソファーの家具)にも書籍がどっさりと置いてあった。本の山が窓を封鎖しているため、月明かりが入って来ず、室内はとても暗い。灯火の明かりだけが頼りで、司馬懿は何度かうっかり木簡や竹簡を蹴ってしまった。床に散乱しているものは、高々と積まれていた山の一部が曹丕の留守中に崩れたのだろう。


春華しゅんかにさんざん掃除しなさいと言われていた俺の部屋よりもひどい……」


「本というのは不思議なのだ。二十巻、三十巻と積んでおくと、なぜかある日突然崩れる」


「公子様は……あれですか。整理整頓ができない人なのですか」


「ああ。ちなみに掃除ができない人でもある」


「それは見たら分かります」


 曹丕は書物を適当にどけて、牀にどっかと座った。自分の隣をポンポンと叩き、ここに座れ、と司馬懿に目で合図する。


(仲良しこよしの友達でもないのに肩を並べて座れるかよ)


 胡床こしょう(西域伝来のイス)を見つけた司馬懿は、曹丕の誘いを無視して、そこに腰掛けた。


 足元に落ちている書物を数巻拾うと、『論語』『詩経』などの四書五経、『史記』『漢書』といった歴史書だった。オカルトマニアの道楽息子かと思いきや、一通りの学識はあるらしい。ちょっとだけ見直した気分になって、曹丕がメモ書きに使ったと思われる木簡もいくつか手に取ってみた。そこに書いてあったのは――。


「ぬぬぬっ⁉ どこそこの宿屋で幽鬼が出たとか、男が動物の精魅もののけに化かされたとか……鬼物奇怪きぶつきっかいの事が詳細に記されている。何ですか、これは。よくもこんなに膨大な数の怪異譚を調べましたね」


 驚きとも呆れともつかぬ表情で、司馬懿は言った。


 どうやら、室内に溢れかえっている木簡や竹簡の大半は、怪異に関する曹丕のメモ書きのようである。床に転がっているそれら怪異メモを一つ一つ手に取りながら、司馬懿は「こんなにも鬼物奇怪の事に執着するなんて尋常ではない……」と呟く。


 唖然あぜんとしてしまうのも無理はない。

 悠久なる歴史を誇るこの国には、儒教の経典や歴史書は数多あまたあるが、オカルト専門の本などは一冊も存在しないのである。こういったたぐいの妖しき説話は、各地域の民たちが口伝で語り継いでいるだけで、宮廷の書庫室に行っても調べられるようなものではない。恐らく曹丕は、地方出身の官僚や旅人から故郷の奇怪な噂話を取材するだけでなく、怪異の噂がある土地に自ら赴いて調査しているのだろう。そこまでしないと、ここまで詳しくは書き記せない。


 どうりで宋定伯などという偽名が必要になるはずだ。曹操の息子が頻繁にあちこちの城邑まちや村に出かけ、怪異譚を収集していたら、よからぬ噂が立ってしまう。母親どころか、迷信嫌いの曹操が激怒するだろう。想像を遥かに超える曹丕のオカルトへの執念に、司馬懿は慄然りつぜんとした。


「ちょっとした火遊びで怪異に首を突っ込んでいるだけだと思ったら……。これは完全に趣味の領域を超えている。公子様の為したいこととは、もしや――」


「お察しの通りだ。俺は、いずれ鬼物奇怪の説話をまとめ、本にしたい。そのために、お忍びで各地を訪れ、怪異譚を集めているのだ」


 曹丕は軽い口調で驚くべき宣言をすると、ゴロリと横になり、手を二回叩いた。


 その合図を待っていたかのように、年若い侍女が室内に入って来た。彼女は、数個の桃が盛られた器を曹丕のそばに置くと、赤らんだ顔を袖で隠しながらそそくさと退出していった。美貌の若君に懸想けそうしているのだろう。


「俺は怪異の次に、甘い果物が好きなのだ」そんな軽口を吐きつつ、曹丕は桃を皮ごとがぶりと喰らう。「仲達。お前も一個食うか」


「いや、結構。そんなことより、貴方が母君に親不孝者と言われるのは当然です。曹家の公子が、妖しき民間伝承をかき集めて本を書こうとするなど……」


「そんなにおかしいかな」


「おかしいですよ。亡き鄭玄じょうげん(後漢の儒学者)先生のごとく儒教の書物に注釈を施すことに我が人生を費やしたいと言うのならば、とても立派だ。また、司馬遷しばせんを見習って、この国の雄大なる歴史を書にするのも、素晴らしい仕事だと思う。しかし、貴方が書きたいと言っているそれは、そういった君子の道や天下国家を論じた大説ではない。何の意味も無い小説だ」


 司馬懿は、軽蔑した眼差しを向け、曹丕のやろうとしていることを否定した。


 大説

 小説


 司馬懿が口にしたこの言葉――前者は、彼が言った通り、「君子とは何か」「国を治めるとは何か」を説いた書物のことだ。儒教の経典である四書五経などがそれにあたる。後者は、民間に流布する噂や伝説、空想。つまり、世の中の何の役にも立たぬくだらない話のことである。


 中国の知識人たちは、伝統的に大なる説を尊び、小なる説をさげすんできた。


 例えば、である。

 唐の時代に、張鷟ちょうさくなる人物が『遊仙窟ゆうせんくつ』というエロティックな恋愛小説を著した。知識層の人々は、色恋を扱った俗っぽい「くだらない話」に興味を持たなかったためか、この小説は中国では早い時期に失われ、存在していたことすら忘れられていた。


 ――我が国の忘れ去られた小説で、日本にこんなものが伝わっていたぞ。


 と、近代になって『遊仙窟』を中国人たちに紹介したのが、魯迅ろじんである。実は、遥か昔、唐を訪れていた遣唐使が「この恋愛小説マジでエモい……!」と大喜びして日本に持ち帰り、以後、日本の多くの文学者に大きな影響を与えていたのである。紫式部もその一人で、彼女は『源氏物語』という日本文学の大輪の花を咲かせた。


 つまり、『遊仙窟』は外国である日本の貴族の間では尊ばれ、中国の知識層では軽んじられたのだ。理由は小なる説――くだらないからだ。


 司馬懿が「鬼物奇怪の事を記した書物など小説だ」と批判したのも、この国の知識人たちの一般的価値観に基づいた発言だった。オカルティックな物語を集めた本など社会の何の役に立つのだ、というわけである。


「そう。俺が書きたいのは小説だ。怪をしるすゆえ、さしずめ志怪しかい小説といったところか。この志怪小説の完成を以て、我が畢生ひっせいの事業とするつもりだ。それの何が悪い?」


 曹丕は二個目の桃をかじりながら、司馬懿に問いかける。


 相変わらず軽薄そうな笑みを浮かべているが、その眼差しは冷たく沈んでいる。


 ――やはり、お前も他のつまらぬ人間と同じか。


 と、目が語っているようで、なんで勝手に失望されなきゃならんのだと司馬懿はイラッとなった。


「別に他人の人生なので俺がどうこう言う資格は無いですが……。なぜ、よりにもよって小説なのです。しかも、鬼物奇怪の事を記すだなんて。世の名士たちが最も無価値だと思っている題材の一つじゃないですか。曹公の長子がまつりごとの道を捨てて終生の仕事にすることではないでしょう」


「やれやれ……。仲達よ。お前、さっきからくだらぬとか無価値だとか言っているが、首の無い幽鬼にビビって気絶したり、怪物犬に殺されかけたりしたのは、どこの誰だ?」


「ぐ、ぐぬぬぅ……」


 それを指摘されると、司馬懿も唸るしかない。たしかに、知識人たちが「くだらない」と断じている怪異によって、司馬懿は何度も死にそうな目に遭ったのだ。


とらわれるなよ、司馬仲達。先人が決めつけた価値観など、己を縛る足枷あしかせにしかならん。俺はな、儒学者どもが馬鹿にする小説――くだらない話が、無価値だとは思わんのだよ」


 三個目の桃に手を伸ばすと、曹丕は立ち上がり、みずみずしい果実を頬張りながら司馬懿の肩に手を置いた。


「お前は、俺が孝敬里こうけいりで突拍子もない幽鬼と夢の話をしても、『一笑に付したりはせぬ』と言って真剣に聞いてくれた。お前には、自分が知らない世界を探求したいという知的好奇心と冒険心がある。鬼物奇怪の事を調査・研究するうえで必要な素質を備えているのだ。儒教色に染まった価値観など打ち捨てて、に来い」


「こっち側って……」


 ささやくような曹丕の言葉に、嫌な予感がした司馬懿は恐るおそる美貌の公子を見上げた。


 曹丕は、薄笑いを浮かべ、妖しげな眼光まなざしで司馬懿を凝視みつめている。嫌な予感は確信へと変わった。


 この俺様イケメン貴公子、新入社員司馬懿をオカルトマニアの仲間にしようとしている! 「こっち側」に引きずり込まれてしまったら、絶対に怪異譚の収集を手伝わされてしまう……!


「し、小燕しょうえんのことで助けてもらったことは感謝しています。しかし、俺は曹操様にお仕えするためにぎょうに来たのです。役職をもらったら忙しくなるでしょうし、公子様の怪異譚集めの手伝いをしている暇なんて……」


「暇だよ。お前はしばらくの間、めちゃくちゃ暇だ」


「……へ?」


「家来を何の役職につけるのかは、クソ親……父上が決める。だが、あの人は遠いとおい北辺の地にいるのだ。したがって、父上が遠征から戻って来るまでは、お前は何の職にもつけない。つまり、無職のままだ」


「いやいやいや! 遠い場所にいても『司馬懿を何々の職につけよ』とか命令書ぐらい出せるでしょうが! 手紙を曹公に送ってくださいよ! 『司馬懿が仕官の誘いに応じて鄴に来ました』って!」


 慌てた司馬懿は立ち上がり、つばを飛ばしながらわめいた。


 だが、曹丕から返って来た答えは「俺は、あの人に手紙を書くと、蕁麻疹じんましんができる体質なのだ。ちょっと無理だな」というものだった。


「嘘つけやコラ! 大嫌いな父ちゃんに手紙を書きたくないだけだろうがッ!」


「まあ、とにかくだ。無職のお前には屋敷も与えてやれんし、当分はこの司空府に住み込みで俺の助手をしてもらうことになるから。怪異譚収集と小説執筆の助手をな」


「な、な、な…………」


「じゃあ、そういうことで明日からよろしく。お前の寝室も侍女に用意させるから心配するな」


 ポンポンと司馬懿の肩を軽く叩くと、曹丕は呆然としている司馬懿を放置して部屋から去って行った。


「や……やっぱり、あいつ嫌いだ……。これじゃ、『無職を卒業したから戻って来てください』って春華に手紙を書けないじゃないか……」


 部屋に独りになった司馬懿は、がっくりと膝をつき、怨嗟えんさの言葉を呟くのであった……。

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