二章 憂いのモノノケ

曹丕age14

 ここでちょっと回想タイム。


 司馬懿しばい曹丕そうひと最悪な出会いを果たした建安けんあん十二年(二〇七)からさかのぼること七年。曹丕がまだ十四歳の少年だった頃の話――。



 曹操そうそうは、袁紹えんしょう軍の兵糧庫があった鳥巣うそうを急襲し、官渡かんとの決戦に勝利。袁紹は敗走した。慌てて逃げた袁軍は、多くの武器や宝物、書簡などを陣に捨てていき、曹軍はそれらを全て押収した。


 問題となったのは、その戦利品の書簡の中に、曹軍側の人間が袁紹に送った手紙が相当数あったことだ。つまり、曹操が負けた時のことを考えて、敵方と通じていた者たちがいたのである。


主公との。この書簡を徹底的に調べ、裏切り者を捕えましょう」


 側近がそう言うと、曹操は山のように積まれた密書を一瞥いちべつもせず、「全て焼き払え」と命じた。


「袁紹が強大であった時は、この曹操でさえ己を保つことが難しかった。ましてや、他の者が袁紹を恐れて当然だ」


 有り得ないほど寛大な処置である。裏切りを一切不問に付すというのだ。その場にいた諸将は感嘆の声を上げた。彼らの中には、自分が送った密書を読まれずに済んで安堵のため息を密かに漏らす者もいたことだろう。


「この話はここまでだ。以後、この件を口にすることは許さぬ。曹軍は一枚岩、皆は余のかけがえのない戦友じゃ。よいな」


 曹操は、白粉を塗った白面に笑みを作ると、部下たちの肩を陽気に叩き、各陣の巡察のために幕舎を後にした。その巡察に、息子の曹丕としんら数人の武将が付き従う。


「父上。書簡の件はそれでいいとして、降伏した袁軍の捕虜兵たちはどうなされるおつもりですか」


 曹丕は、勝利の宴に興じている曹軍の兵たちを横目に見ながら、父にそう問うた。その目は険しく、声もいささかぶっきらぼうである。


「何か心配事でもあるのか」


 曹操は振り返り、小男で風采の上がらぬ自分とは似ても似つかぬ美貌の我が子を凝視みつめた。先ほど部下たちに見せていた陽気な表情は消え失せ、白粉を塗りたくった顔は不快そうに歪んでいる。曹丕と対話している時の彼は、いつもこのように不機嫌なのである。


「心配も何も、捕虜兵が多すぎます。八万人は超えている。我が軍の数倍の人数が、官渡城を始めとする近辺の城に分けて送られ、監獄で父上の沙汰を待っているのです。命が助かるのか、助からないのか……不安に思いながら長く放置されたままでは、捕虜兵たちはそのうち暴れ出します。万が一にも牢が破られたら、我が軍は大混乱に陥るでしょう。密書を焼き捨てて人気取りをしている暇があったら、早急に彼らの処遇を決めるべきです」


「人気取りとは心外な。余は徳治とくちを以て天下を正そうとしているだけだ」


(この親父は、またそうやって他人をあざむこうとする)


 曹丕は心中、鼻で笑った。


 曹操は、父の仇である陶謙とうけんを討つために徐州じょしゅうへ侵攻した際、その土地の民衆数十万人を虐殺した。曹軍の騎兵が通ったところは徹底的に殺し尽くされ、鶏も犬も鳴かず、累々たるしかばねが川の流れをき止めるほどだった。


 そんな無道を平気でやってのけてしまう男が、徳治――すなわち、道徳によって人民を治めるという孔子こうしの理想の政治を実現させようと志しているとは思えない。


 曹丕が考えるに、曹操が密書を焼いたのは、内通者の中に名士と呼ばれる知識人たちが大勢いると予測されたからだ。


 徳による政治を重んじる名士たちは、徐州大虐殺という曹操の反儒教的な行いをいまだに批判している。彼ら名士を手懐けることができなければ、曹家の旗のもとに国を統一することはままならず、曹操の悪行が彼らの筆で史書に克明に記されかねない。

 だから、曹操はあの書簡の山を一切目に通さず焼いたのだ。その寛大な処置こそが、名士たちが尊ぶ「徳」である。自らの裏切り行為を許された彼らは当然感謝し、曹操に対する認識を多少改めるはずだ。そして、「曹孟徳は非道の人である」とそしることを控えるようになるだろう。乱世の奸雄曹操にそこまでの計算が無かったとは、到底思えない。生まれてこのかたずっとこの男を見てきた息子だからこそ、そう直感するのだ。


「……徳治ですか。いいですね、いかにも偽善者らしい響きで。それで、父上の徳とやらで捕虜八万人の命も助けるのですな」


 曹丕が皮肉りながらそう問うと、曹操は「それは少し難しいな」と冷徹な声で言った。


「八万もの兵が一斉に降伏したのは、不自然な気がする。袁紹の計略で、偽りの投降をした者たちがいるやも知れぬ。よくよく取り調べして、怪しい兵士は死罪に処すべきだ」


「なるほど、読めましたぞ。そういう名目で形だけ取り調べをした後、結局は投降兵を皆殺しにする腹積もりなのでしょう」


「…………」


「ハハッ! どうやら図星のようだ。偽りの徳を示した後で、残忍な本性を現す……父上らしい狡賢ずるがしこいやり方ですな。捕虜兵八万人が殺されたと知れば、名士たちは恐れおののくはず。『我らも袁紹についていたら、あの捕虜たちと同じ運命を辿っていたのか』とね。しかも、今回は、彼らは父上の寛大な処置で命を助けられた負い目があるため、敵兵の大量虐殺を表立って批判はできない。父上の敵に回ることの恐ろしさを痛感し、曹軍から逃げ出す勇気も無くなる。……父上が徐州で民を虐殺している間に離反し、呂布りょふを領内に招き入れた陳宮ちんきゅうのごとき裏切り者も現れないでしょう。全て父上の思い通りというわけだ」


「……お前。少しは口を慎んだらどうなのだ。父である余に嫌われることが恐くないのか」


 白粉を施した顔を激しく歪ませ、曹操は曹丕を睨む。


 だが、凄みのある声でそう脅されても、曹丕は顔色一つ変えなかった。フフッと嘲笑し、「ええ。もうとっくの昔に嫌われていますので」と答える始末である。


「丕よ、いい加減にしろ。こう(曹操の長男、曹昂)が戦死した時にお前に怒りをぶつけてしまったことをまだ根に持っているのか。すぐに謝っただろ」


「別に根に持ってなどいませんよ。人命を弄ぶことの恐さを知らぬ父上にイライラしているだけですので」


「何だと⁉」


「と、主公との子桓しかん(曹丕のあざな)様。もうそこらへんで……」


 これはいけない。一触即発だ。そう焦った真が父子の間に割って入る。


 曹操はチッと舌打ちし、手に持っていた鞭で足元の地面を叩いた。そして、「お前は巡察について来なくてもよい」と捨て台詞を残し、荒々しい足取りで去って行った。真以外の武将たちは、慌てて主君について行く。


「……子桓様。何故なにゆえ、あんなにもお父上に突っかかったのですか」


 二人きりになった後、真が曹丕にたずねた。


 曹丕はフンと鼻を鳴らし、不愉快そうな声音で答えた。


「父上は、自由を奪われた者の無念というものを分かっていない。八万人もの捕虜兵が明日の命すら分からぬまま監獄に囚われ、その憂いの念が凝り集まったらどうなるか……。最悪の場合、武帝ぶていを驚愕せしめたあの精魅もののけをこの世に作り出してしまうぞ」

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