月夜の戯れ

「若君! 申し訳ありませぬ! 獣を逃がしてしまいました!」


 りんの足止めに失敗したしんの部下の軽騎兵たちが、ようやく応援に駆け付けた。


 定伯は振り向きもせず「よいよい。あれはお前たちには無理だ」と軽い口調で答える。


「あの犬っころは俺一人でやる。お前たちは、獣が逃走を図ったら矢を射かけて脅せ。この家の敷地から絶対に出してはならぬ。騒ぎを聞きつけた里人が駆けつけた場合は、彼らが獣に襲われぬよう十分に注意を払え」


御意ぎょい。あの獣は突風を巻き起こす妖術を奥の手として使います。お気を付けください」


 真がそう忠告すると、定伯は「それも『山海経せんがいきょう』には無かった情報だな。今夜は収穫が多くて喜ばしい」と喜色を浮かべて言った。怪物と戦っているというのに、余裕の笑みを崩しもしない。それだけ腕に覚えがあるということなのか。


「さっきの大きな音は何だ!」


「まさか獣のほうから夜襲を仕掛けて来たのか⁉」


 そうこうしている内に、司馬防率いる害獣討伐隊が、口々にそうわめきながらぞろぞろとやって来た。


 真は馬に飛び乗り、


「我らは宋定伯様をかしらに仰ぐ侠客きょうかくだ! 里に侵入した獣は我々が始末してやるから近づくなッ!」


 と、孝敬里こうけいりの人々に怒鳴った。


 それと同時に、真の部下たちは馬を走らせ、司馬懿邸をぐるりと包囲、馬上から弓矢を構えた。獜が逃走を図ったり、里人に襲いかかったりすれば、一斉に射かけるつもりである。


(侠客……だと?)


 司馬懿は眉間に皺を寄せる。


 侠客とは、任侠にんきょうに生きる武装集団のことだ。

 だが、これほどまでに整然かつ迅速に動ける奴らが野良の部隊のはずがない。相当な訓練を受けている。こいつらはきっと官軍の精鋭兵だ。ならば、彼ら官兵をあごで使っている定伯は……。



「グオオォォォ‼」



 突如の咆哮ほうこう

 獣の怒りに満ちた声が、夜の空気をビリビリと震わせた。


 思考を中断された司馬懿が「ぬおっ⁉」と驚きの声を上げた直後、瓦礫がれきの中から獜が這い出て来て、恐るべき跳躍力で天高く飛翔した。


 皓然こうぜんたる月の光を浴びた銀の鱗が、荘厳な輝きを放つ。

 一筋の流星と化した獜は、虎爪こそうきらめかせ、空中から定伯に襲いかかった。


 しかし、定伯は、獣の奇襲に動じない。悠然と微笑をたたえたまま、



悪来あくらい典韋てんい直伝――坐鉄室ざてつしつ



 と、ポツリと一言。夜天突き破る勢いで双戟そうげきを頭上に掲げ、「」の刃を×字に重ね合わせた。


 次の刹那せつな戛然かつぜんたる音を響かせて刃と爪が激突。獜は「グルガッ⁉」と驚きの声とともに後方に弾き飛んだ。空中で猫のようにクルリと態勢を立て直し、何とか四本脚で着地する。


「ぐ、グルル……」


「犬っころよ。貴様の肉体が鱗で守られているのに対して、いまの俺は鉄のへやすわっている。この金城鉄壁きんじょうてっぺきの守りを貴様に崩せるかな?」


 定伯は見下したようにそう挑発すると、左手の戟を真っ直ぐ突きつけ、右手の戟を頭上に横一文字に構えた。


 人語が通じたわけでもないのに、獜は「ガアッ!」と牙を剥いて吠える。この若者の面憎いほどの余裕に腹を立てているのだろう。



 しばしの睨み合いの後――獜は地を蹴って疾駆。猛然と体当たりしてきた。


 定伯はわずかに上半身をひねって巧みに避け、獣の左眼めがけて「えん」の刃を打ち込む。


 だが、昼間にも目を狙われたので、獜も用心していたのだろう。体を器用にくの字に曲げ、左目への痛撃を回避。「援」の刃は左首の鱗によって弾き返された。


「ガァァァ‼」


 獜は再び空中でクルリと態勢を整え、着地と同時に三度目の突撃を仕掛けて来た。それもまた、定伯は巧みにいなす。


「ぬるい、ぬるい。何度やっても俺の鉄の室に上がり込むことはできぬ」


 四度、五度、六度、七度……と何度攻撃を防がれても、獜は間髪入れずに飛びかかって来る。恐るべき執拗さである。


 しかし、それでも定伯の鉄壁は崩れない。双戟を捷速しょうそく凄まじく舞わせ、次々に襲い来る爪と牙を片方の戟でことごとく防御、ほぼ同時にもう片方の戟で反撃をした。


 定伯は最初に立っていた位置からほとんど移動せず、目まぐるしく走り回る獜と火花散る死闘を演じ続ける。本人の言葉通り、まるで鉄の室に坐っているかのごとき完璧な守備だった。


 ただ、獜のほうにも、鱗が無い顔面さえやられなければ安全だという強みがある。定伯は隙あらば獜の左目を狙っているようだが、獜はそのたびに身を素早く捻らせて左首の鱗で防いだ。


 その攻防が繰り返されること二十数度。

 戦士と怪物犬の壮絶なたわむれに終わりは見えない。


(定伯の坐鉄室、恐るべし。敵を誘って先に攻撃させ、猛烈な反撃をする技のようだ。だが、相手は頑丈な鱗を持つ獣だ。しかも、急所である目への攻撃を警戒されてしまっている。このままでは、どちらかが疲れるまで勝負はつかないな。……いや、待てよ?)


 司馬懿は鷹の目を光らせ、月下に煌めく獜の鱗を凝視した。


 よく見ると、左首の一部分だけ輝きを失っている。ひび割れているのだ。


 そういえば、定伯は「左首の鱗に小さな傷がある」と言っていた。あの男は最初から鱗の傷を大きくし、破壊することを狙っていたのだ。目を攻撃するふりをしていたのは、獜に真の狙いを悟られないための策略だったのだ。


 左首への執念深い連撃によって、強固な鱗も粉砕される直前である。あそこを破壊しさえすれば、獜の肉を断つことができる。


「定伯殿! あと一撃だ! 次の攻撃で鱗は割れるぞ!」


「それぐらい分かっている」


 司馬懿が叫び、定伯が面倒臭そうに返事をした瞬間、獜が突如として後方に飛び退いた。


 何事か――その場にいた一同がそう思った時、獜は前脚をぶぅぅぅんと大きく一閃させた。死闘に疲れてきた獣は、早々に決着をつけるべく、奥の手である旋風を巻き起こしたのだ。


「い、いかん! 逃げろ!」と司馬懿が言い終える前に、定伯は小さな竜巻に呑み込まれ、その体は星空の海へと舞い上がった。


 だが、定伯の余裕の笑みはいまだ健在。

 空中で、戟を握る両手を翼のように大きく広げる。そして、吹き飛ばされた勢いのまま体を旋回させ、眼下の猛獣めがけて落下していった。


「グルルガァァァ‼」


 獜も跳ぶ。定伯の喉元に喰らいつくべく、よだれを垂らしながら大口を開けた。


「間抜けめ」と定伯は冷笑しながら左手の戟を突き出し、大きく開いた獣の口にト字型の刃を突っ込む。獜は驚き、声にならぬ声で唸った。が、もう遅い。その一秒後、定伯は一撃入魂の技を放ち、右手の戟――「援」の刃を獜の左首に打ち込んでいた。


 鱗が砕け散る。それと同時に刃が肉を穿うがち、依軲山いこざんの獣の命を絶った。


 どすぅん……。魂無き肉塊が地面に落下する。


 定伯は屍の傍らに降り立ち、ビュンと刃を振るって血を払った。


「ザッと済んだぞ、仲達」


 片頬に獣の血がついた顔で、定伯はニッと笑う。この世で見たこともないほど冷艶れいえんな笑顔だった。


(こ、この若者は……ただびとではない)


 幽鬼に異様な興味を持ち、怪物を易々となぶり殺す青年。彼はいったい何者なのか。司馬懿は金縛りにあったかのように、呆然と定伯を凝視みつめるのであった……。

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