依軲山の獣

「犬っころごとき、さっさと退治すればよいではないか」


 定伯が軽い口調でそう言うと、司馬懿は「簡単に言うな」と声を荒げた。


「あの犬、恐ろしく強いのだぞ。鋼のように硬い鱗で全身が覆われた犬など、見たことも聞いたこともない。臆病者のがくも言っていたが、あれはたぶん神獣だ」


「神獣だって? ハハッ! あんなじゃれつきたがりが麒麟きりんりゅうと同類なものか。あの犬は、中山ちゅうざん依軲山いこざんに棲むとされている獣――名はりん。『山海経せんがいきょう』(古代中国の地理書)にいわく、虎の爪を持ち、体が鱗に覆われ、人に飛びかかってじゃれつくのが大好きな犬っぽい何かだ。その肉を食すると、『ある病』に効能があるという。まあ、つまり、入手するのがちょっと危険な健康食品だ」


「ちょっとどころではない! あの爪と鱗でじゃれつかれたら最悪死ぬ! ……む? いまさっき食品と言ったか? ま……まさか、君が求めているという珍味の食材というのは――」


「察しがいいな。そう、あの犬っころのことさ。知り合いの方士に頼んで、依軲山まで行って捕獲してもらったのだ。しかし、我が屋敷へ輸送中に、その方士がうっかり獜にじゃれつかれてしまってな。方士は全治三か月の大怪我、獜は逃亡した。それで、俺が代わりに、孝敬里こうけいりへ逃げ込んだ犬っころを捕えに来たのだ」


 けろっとした表情で、定伯はとんでもないことを告げる。

 つまり、里の人々を巻き込んだ今回の化け物騒ぎは、全部こいつのせいということではないか。


 なにヘラヘラ笑っているんだこの野郎、と司馬懿は怒鳴ってやりたかったが、すっかり毒気に当てられ、口の端をひくひくと動かしたまま言葉を失っている。


「おいおい。そんな恐い顔で見るなよ。わざとこの里に獣を放ったわけじゃないんだから」


「し……しかしだな。俺たちが死にそうな目に遭っている時に、君はこの部屋で昼寝していたではないか。酷すぎるぞ」


 ようやくそう抗議すると、定伯は「昼寝ではない。夢で幽鬼と会えるか実験していたのだ。それに、俺の子分には、里の者が殺されそうになったら助けるようにと命じておいた。だから、誰も死ななかっただろう?」と言い、意地悪そうな微笑を浮かべながら小首を傾げた。その拍子に、月影に濡れた長い黒髪が静かに揺れる。いちいち妖艶で、いちいち憎たらしい男である。


「君の子分……? あっ、俺を助けてくれたあの謎の軽騎兵たちか」


 司馬懿がそう言った直後、異変が起きた。


 馬のいななき声が夜の静寂を破ったのである。


 何事だ、と司馬懿が身構える暇も無く、黒い布を顔に覆った男が、騎乗したまま窓の外からぬっと姿を見せた。肝を冷やした司馬懿は「う、うおっ⁉」と声を上げ、後ろの壁に頭をゴツンとぶつける。


 定伯は特に慌てる様子も無く、「どうした、しん」と冷静な声で言い、覆面の男を流し目で見た。彼が、定伯が言っていた子分らしい。


 この恰幅のいい体型、見覚えがある。獜に殺されかけていた司馬懿を助けたあの軽騎兵だ。


 真と呼ばれたその男は「ご報告いたします」と畏まった口調で定伯に言った。


「獣が突然、ねぐらにしていた竹林を出ました。この屋敷へまっしぐらに向かっています。恐らく、里の者たちの指揮をっていた司馬懿を狙っているのかと」


「ええっ⁉ お、俺の命を⁉」


「ほほーう。敵方の大将を討ち取るため夜襲を仕掛けて来るとはな。獣のくせになかなか頭脳的だ。『山海経』の記述には、そんなに賢い獣だとは書いていなかったが……。ウムウム、面白い。やはり、鬼物奇怪の事をるには、自ら足を運んで調査するのが一番だ」


「それがしの部下たちが矢を射かけて足止めを試みていますが、なにせあの頑丈な鱗です。ここに現れるのは時間の問題かと」


「だということだ、仲達。よかったな、竹林までわざわざ歩いて行く手間が省けて」


 定伯は腰かけていた窓枠から降り、司馬懿の肩をポンと叩く。


 全然よくない、と司馬懿は叫んでいた。


「あんな怪獣に命を狙われるなんて冗談じゃない。第一、あのワンコは俺がどこにいるのかなぜ分かったのだ」


「臭いだろうな。犬っぽい何かだから鼻が利くのだろう。……などと言っている内に来たな」


 そう言いつつ、定伯は天井を睨む。


 つられて司馬懿も見上げた。次の瞬間――頭上でガタゴトと物音がし、獣の唸り声が聞こえてきた。


「げっ。屋根の上か!」


 叩きつけるようなはげしい音が数度。


 屋根はまたたく間に破壊され、犬型UMAの獜が穴の開いた天井から降って来た。


 司馬懿は驚愕きょうがくし、「やねーーーッ‼」と素っ頓狂な声を上げる。


 獜は、落下と同時に爪を振り下ろし、司馬懿の顔面を襲った。


 しかし、それよりも早く定伯が司馬懿の首根っこをつかみ、彼を窓から庭に放り投げた。



「グルルガァァァーーー‼」



 司馬懿に死の恐怖を味わわされたせいか、獣からは昼間の人懐っこい雰囲気は消え失せている。獰猛どうもうな目を光らせて吠え狂い、狭い室内で暴れ回った。鱗で覆われた体でタックルして柱をへし折り、強靭な前脚で版築はんちくの壁(古代中国の建築において一般的な土壁)を叩き壊していく。司馬懿の屋敷はわずか数十秒で崩壊寸前となった。


「はしらーーーッ‼ かべーーーッ‼」


「面白い叫び声を上げている場合か、阿呆あほう


 定伯が呆れた声でツッコミを入れる。彼は、獜の猛烈な攻撃を鮮やかにかわし、小燕の遺体を抱きかかえながら窓の外へと飛んでいた。


「俺と妻の愛の巣がメチャクチャにされているのだぞ⁉ 叫ぶわッ!」


「泣くなよ。嫁には逃げられたのだから愛の巣がどうなっても別にいいだろう。あの犬っころは俺が退治してやる。お前は小燕の遺体を守っていろ」


 定伯はそう言い、司馬懿に小燕を抱かせる。


 その華奢な少女の亡骸を両手で受け止めた直後、司馬懿は「お、おい! 後ろ!」と叫んだ。屋内で荒れ狂っていた獜が、大穴の開いた壁から庭に飛び出して来て、定伯の背中に鋭い爪の一閃をお見舞いしようとしたのだ。


「せっかちな犬っころめ。いますぐ遊んでやるから、少しの間大人しくしておれ」


 定伯の微笑に凶悪の色が浮かぶ。振り向きざま、襲い来る爪をすれすれでかわし、鱗が無い獣の顔面へと強烈な拳を叩き込んだ。


 獜は軽々と吹っ飛び、屋敷の壁を一つ二つ三つと突き破って台所の土間に倒れた。


 その直後、衝撃に耐え切れなかった建物がとうとう崩れ始め、司馬懿邸は凄まじい音とともに半壊した。


「うわぁぁぁ家がぁぁぁ‼ 君まで壊すんじゃないよ! 何してくれている!」


「いちいちやかましい。あの程度の攻撃ではまだ死んでいないはずだから油断するな。……真よ。獣の左首の鱗に小さな傷があった。お前が矢を当てたのか」


「はい。お恥ずかしながら、我が弓の腕では奴の鱗を破壊することはできませんでした」


「いや、見事だ。あれの死肉を数十年前に偶然入手して病人に食わせたことがある爺さんが言っていた。『生きている状態であいつを傷つけるのは恐らく至難の業だ』とな。それほど硬いのだよ、あの鱗は。お前が放った渾身こんしんの一矢のおかげで、案外楽に殺せそうだ」


 そう褒めると、定伯は「さあ、例の物を」と真に言った。


 真は下馬し、二対についの武器をうやうやしく差し出す。その武器とは、柄を短めにした短戟たんげきだった。


 戟は、古代中国で最もポピュラーだった武器の一つで、刃がト字型になっている。先端の刃「」で刺突したり、横に突き出た刃「えん(または)」で敵を引っ掛けたり、様々な戦闘場面でオールマイティに活躍できる。


 ただ、もちろん、岩をも砕く物凄い武器というわけではない。関羽かんう青龍偃月刀せいりゅうえんげつとうとか、張飛ちょうひ蛇矛だぼうとか、三国志業界ナンバーワンの猛将が持っているようなスーパーウェポンでないと、あの怪物の鱗を破壊するのは困難だろう。


(定伯の奴め。本当にあの双戟で化け物に勝つもりか?)


 司馬懿は、やけに余裕たっぷりな態度の定伯を不安げに凝視みつめるのであった。

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