依軲山の獣
「犬っころごとき、さっさと退治すればよいではないか」
定伯が軽い口調でそう言うと、司馬懿は「簡単に言うな」と声を荒げた。
「あの犬、恐ろしく強いのだぞ。鋼のように硬い鱗で全身が覆われた犬など、見たことも聞いたこともない。臆病者の
「神獣だって? ハハッ! あんなじゃれつきたがりが
「ちょっとどころではない! あの爪と鱗でじゃれつかれたら最悪死ぬ! ……む? いまさっき食品と言ったか? ま……まさか、君が求めているという珍味の食材というのは――」
「察しがいいな。そう、あの犬っころのことさ。知り合いの方士に頼んで、依軲山まで行って捕獲してもらったのだ。しかし、我が屋敷へ輸送中に、その方士がうっかり獜にじゃれつかれてしまってな。方士は全治三か月の大怪我、獜は逃亡した。それで、俺が代わりに、
けろっとした表情で、定伯はとんでもないことを告げる。
つまり、里の人々を巻き込んだ今回の化け物騒ぎは、全部こいつのせいということではないか。
なにヘラヘラ笑っているんだこの野郎、と司馬懿は怒鳴ってやりたかったが、すっかり毒気に当てられ、口の端をひくひくと動かしたまま言葉を失っている。
「おいおい。そんな恐い顔で見るなよ。わざとこの里に獣を放ったわけじゃないんだから」
「し……しかしだな。俺たちが死にそうな目に遭っている時に、君はこの部屋で昼寝していたではないか。酷すぎるぞ」
ようやくそう抗議すると、定伯は「昼寝ではない。夢で幽鬼と会えるか実験していたのだ。それに、俺の子分には、里の者が殺されそうになったら助けるようにと命じておいた。だから、誰も死ななかっただろう?」と言い、意地悪そうな微笑を浮かべながら小首を傾げた。その拍子に、月影に濡れた長い黒髪が静かに揺れる。いちいち妖艶で、いちいち憎たらしい男である。
「君の子分……? あっ、俺を助けてくれたあの謎の軽騎兵たちか」
司馬懿がそう言った直後、異変が起きた。
馬のいななき声が夜の静寂を破ったのである。
何事だ、と司馬懿が身構える暇も無く、黒い布を顔に覆った男が、騎乗したまま窓の外からぬっと姿を見せた。肝を冷やした司馬懿は「う、うおっ⁉」と声を上げ、後ろの壁に頭をゴツンとぶつける。
定伯は特に慌てる様子も無く、「どうした、
この恰幅のいい体型、見覚えがある。獜に殺されかけていた司馬懿を助けたあの軽騎兵だ。
真と呼ばれたその男は「ご報告いたします」と畏まった口調で定伯に言った。
「獣が突然、ねぐらにしていた竹林を出ました。この屋敷へまっしぐらに向かっています。恐らく、里の者たちの指揮を
「ええっ⁉ お、俺の命を⁉」
「ほほーう。敵方の大将を討ち取るため夜襲を仕掛けて来るとはな。獣のくせになかなか頭脳的だ。『山海経』の記述には、そんなに賢い獣だとは書いていなかったが……。ウムウム、面白い。やはり、鬼物奇怪の事を
「それがしの部下たちが矢を射かけて足止めを試みていますが、なにせあの頑丈な鱗です。ここに現れるのは時間の問題かと」
「だということだ、仲達。よかったな、竹林までわざわざ歩いて行く手間が省けて」
定伯は腰かけていた窓枠から降り、司馬懿の肩をポンと叩く。
全然よくない、と司馬懿は叫んでいた。
「あんな怪獣に命を狙われるなんて冗談じゃない。第一、あのワンコは俺がどこにいるのかなぜ分かったのだ」
「臭いだろうな。犬っぽい何かだから鼻が利くのだろう。……などと言っている内に来たな」
そう言いつつ、定伯は天井を睨む。
つられて司馬懿も見上げた。次の瞬間――頭上でガタゴトと物音がし、獣の唸り声が聞こえてきた。
「げっ。屋根の上か!」
叩きつけるような
屋根は
司馬懿は
獜は、落下と同時に爪を振り下ろし、司馬懿の顔面を襲った。
しかし、それよりも早く定伯が司馬懿の首根っこをつかみ、彼を窓から庭に放り投げた。
「グルルガァァァーーー‼」
司馬懿に死の恐怖を味わわされたせいか、獣からは昼間の人懐っこい雰囲気は消え失せている。
「はしらーーーッ‼ かべーーーッ‼」
「面白い叫び声を上げている場合か、
定伯が呆れた声でツッコミを入れる。彼は、獜の猛烈な攻撃を鮮やかにかわし、小燕の遺体を抱きかかえながら窓の外へと飛んでいた。
「俺と妻の愛の巣がメチャクチャにされているのだぞ⁉ 叫ぶわッ!」
「泣くなよ。嫁には逃げられたのだから愛の巣がどうなっても別にいいだろう。あの犬っころは俺が退治してやる。お前は小燕の遺体を守っていろ」
定伯はそう言い、司馬懿に小燕を抱かせる。
その華奢な少女の亡骸を両手で受け止めた直後、司馬懿は「お、おい! 後ろ!」と叫んだ。屋内で荒れ狂っていた獜が、大穴の開いた壁から庭に飛び出して来て、定伯の背中に鋭い爪の一閃をお見舞いしようとしたのだ。
「せっかちな犬っころめ。いますぐ遊んでやるから、少しの間大人しくしておれ」
定伯の微笑に凶悪の色が浮かぶ。振り向きざま、襲い来る爪をすれすれでかわし、鱗が無い獣の顔面へと強烈な拳を叩き込んだ。
獜は軽々と吹っ飛び、屋敷の壁を一つ二つ三つと突き破って台所の土間に倒れた。
その直後、衝撃に耐え切れなかった建物がとうとう崩れ始め、司馬懿邸は凄まじい音とともに半壊した。
「うわぁぁぁ家がぁぁぁ‼ 君まで壊すんじゃないよ! 何してくれている!」
「いちいちやかましい。あの程度の攻撃ではまだ死んでいないはずだから油断するな。……真よ。獣の左首の鱗に小さな傷があった。お前が矢を当てたのか」
「はい。お恥ずかしながら、我が弓の腕では奴の鱗を破壊することはできませんでした」
「いや、見事だ。あれの死肉を数十年前に偶然入手して病人に食わせたことがある
そう褒めると、定伯は「さあ、例の物を」と真に言った。
真は下馬し、
戟は、古代中国で最もポピュラーだった武器の一つで、刃がト字型になっている。先端の刃「
ただ、もちろん、岩をも砕く物凄い武器というわけではない。
(定伯の奴め。本当にあの双戟で化け物に勝つもりか?)
司馬懿は、やけに余裕たっぷりな態度の定伯を不安げに
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