幽鬼の無念
死者は、生者の夢に現れ、己の無念を訴える。定伯はそう言った。
大のおとな二人が大真面目で語り合うような内容ではない。
そもそも、儒学は「
「……本当に死んだ小燕と夢の中で会ったのだな? あいつの無念が俺とは、どういう意味だ?」
と、真剣な表情で聞くしかなかった。彼女の無念とやらを詳しく知れば、死者の魂を慰めることができるのではと思ったのだ。
「俺はずいぶんと突拍子もないことを言ったはずだが、お前は信じるんだな」
「信じるか否かはこれから決めるが、一笑に付したりはせぬ。君がさっき言った通り、俺は昨夜、幽鬼となった小燕に殺されかけたのだ。それを無かったことにして君の言葉に耳を塞ぐのは、理知的とは言えないだろう」
「フフッ。気に入ったぞ。頭でっかちな儒学者たちは、たとえ己の目で幽鬼を見たとしても、『あれはただの見間違い。幽鬼など存在せぬ』と
若造のくせにずいぶんと上から目線な言い方をする男である。
しかし、ここで定伯に「気に入られてしまった」ことが、司馬懿のこれからの人生の不幸の始発駅となるわけだが、今はそんなことなど知るよしもない。司馬懿は黙って定伯の言葉に耳を傾けることにした。
「まず、亡者が夢枕に立ったという事例を二つほど示そう。お前は漢王室で幽鬼騒ぎがあったことを知っているか」
「何? 宮廷でそんな騒動があったのか?」
司馬懿が驚いて身を乗り出すと、定伯は彼の大仰な反応が面白いのか、ニヤリと微笑んで宮中を騒がせた怪異について語りだした。
ワンス・アポン・ア・タイム――と言っても、今上帝
霊帝
だが、彼は即位するとスーパー暗君となり、
霊帝の愚かさは、それだけではない。佞臣の
あの世の桓帝も、これには激怒したらしい。ある日、霊帝の夢枕に立ち、彼を
「宋皇后に何の罪があった⁉
あまりにもリアルで恐ろしい夢だったため、霊帝は恐怖した。それから間も無く、霊帝は死んだという……。
「つまり、桓帝は、自分の跡を継いだ霊帝が想像の斜め上をいくダメダメ皇帝だったことが無念で、霊帝の夢に現れたのだ」
「……もうちょっと言葉を選べんのか君は。皇帝だぞ。今の帝の父上だぞ」
司馬懿は思いきり眉をひそめたが、定伯はその抗議を無視して、「次に話すのはついこの間の出来事だ」と新たな怪異について語り始めた。
「お前、
「面識は無いが、なかなかの人物だと噂で聞いたことがある。南陽の人で、たしかいまは甘陵府の副官のはずだ」
「その文穎が赴任先の甘陵府に向かう旅の途中、ある川辺で部下たちと野営をした。すると、夜半の時刻(午前零時頃)、文穎の夢に男の幽鬼が現れた。
幽鬼は、『私はこの近くに埋葬されている者です。実は水が墓まで流れて来て、棺が水に半分浸かって困っているのです。どうか助けてください』と訴えた。幽鬼の着物を見ると、たしかにびしょびしょに濡れていた。気の毒だなと思った瞬間に目が覚め、文穎はそのことを部下に話したが、ただの夢ですよと言われて再び眠った。
ところが、その幽鬼がまた夢に現れ、しつこく助けてくれと言ったのだ。私の墓は枯れた
「それで、どうなったのだ」
「もちろん、枯れた楊の木の下から棺が本当に出てきた。幽鬼が訴えていた通り、川の近くに埋められていたせいで棺は半分ほど水に濡れ、腐っていた。文穎は新しい棺を用意してやり、別の場所に埋葬してやったとのことだ」
「何とも摩訶不思議な……。しかし、なぜ幽鬼はそんなしょっちゅう人の夢に現れる?」
「簡単に言えば、夢というのはこの世と別世界を繋ぐ場所だからだ。彼ら幽鬼にとって、生者の世界に化けて出るよりも、夢に現れるほうがお手軽なのだろう。俺たちが時々見る不思議な夢は、天界や冥界の何者か……神々や亡き人が我々に何かを知らせようとしている暗示の可能性がある。だから、夢占いなども実は馬鹿にはできんのさ」
「む、むむぅ……」
ちょっとオカルト・トーク全開すぎて、司馬懿はだんだん頭痛がしてきた。
本当に夢とはそんな特別なものなのだろうか。そう疑いつつも、ちょっと信じてしまいそうな自分がある。
しかも、実際に、小燕本人から聞き出したとしか思えないことを定伯は
「……それで、小燕の遺体に添い寝をすれば、彼女の幽鬼が夢枕に立つと思い、君はそこで寝ていたのか」
「うむ。興味本位で実験してみた。そして、期待した通り、お前の下女と夢で会えたのだ」
興味本位。実験。つまり、本当に幽鬼が人の夢に「うらめしや~」と出てくるかを確かめてみたかったということだろう。そのために死体の横で寝るとは、恐るべき好奇心である。やっぱり、こいつ、マジでヤバイ。
「しかしだな。夢で幽鬼と会えたのはいいが、俺もうっかりしていた。仲達よ、お前が昨夜遭遇した幽鬼に首は無かっただろう」
「えっ。なぜそんなことまで知って――」
「それは当たり前のことだからだ。
「そんな……。首が無い体では、冥界での生活も不自由極まりないではないか」
「無論、夢に現れた小燕も首が無かった。首が無ければ口も無し。会話などできん。はてさて困った。お前が文字を彼女に教えていなかったら、何一つ意思疎通ができぬところであったぞ」
司馬懿は長い
勉強が嫌いな小燕は内心迷惑がっていたが、そのおかげで口が利けなくても筆談ができるようになった。勉強の成果が死後に発揮されるとは、何とも皮肉なものである。
「お互いの手のひらに文字を書き、言葉を交わした。小燕は自分が誰に殺されたのか、殺される直前に何が起きたのか、さっぱり分からぬという。首を刎ねられた時の衝撃で忘れてしまったのだろう」
(つまり、重病人のはずの俺が元気に庭を走っていたことや、春華にバッサリやられたことも覚えていないということか。ならば、俺のせいで殺されたという認識は無いはず。では、なぜ夜中に俺を襲ったのだ? しかも、俺に対して何らかの無念の情を抱いているという。自分が死んだ原因すら知らない下女の無念とはいったい……)
司馬懿がそんなふうに困惑していると、定伯は表情から彼の思考を読み取ったのか、「仲達よ。お前は一つ大きな勘違いをしている。昨夜、小燕はお前を祟るために化けて出たのではない」と言った。
「え? それはどういう……」
「小燕の無念とは、お前の世話ができなくなったことだ。彼女は俺に『旦那様に
定伯の刃物のように鋭く冷たい言葉が、司馬懿の胸をえぐった。手に持っていた杖をゴトリと落とし、「そ、そんな……」と呟く。
下女の命を理不尽に奪ってしまったという後ろめたさから、てっきり俺は小燕に呪われているのだと思い込んでいた。熱々のお湯をかけられたのも、復讐のつもりだったのだろうと。
しかし、よく考えてみれば、彼女は「復讐」という言葉が最も似合わぬ優しい子だった。野垂れ死にしかけていたところを助けられた恩に報いるため、小燕は司馬懿に懸命に尽くしてくれた。朝夕の一日二食では栄養がつかないと考え、里の者たちと仲良くしてあちこちから食料をもらい、王侯貴族でもない主人のために夜食の羹を作ってくれた。昨夜現れた彼女は、いつものように司馬懿の世話を焼きにきてくれただけだったのだ。
「死後も……俺のことを想ってくれていたのか……。
涙が
定伯は、しばしの間、うなだれる司馬懿を厳しい
「人間はな。失ってから大事な物が何であったかを気づく。愚かな生き物なのだよ、俺たちは。……だが、死んでしまった人間に生者であるお前が何もしてやれぬわけではない。幽鬼となった小燕の首を取り戻してやることは可能だ」
「な、何⁉ そんなことができるのか⁉ いったいどうすればよいのだ!」
司馬懿が驚いてそう喚くと、定伯はフフンと笑い、「とても簡単なことさ」と言い放った。そして、首の無い小燕の遺体をスッと指差す。
「あの
「遺体に首を繋げるだと? ただそれだけでよいのか?」
「文穎に夢の中で助けを求めた幽鬼は、遺体が濡れたせいで弱っていた。これは、幽鬼が本人の屍の状態に大きな影響を受けるという証拠だ。だから、小燕の首と胴体を繋げてやれば、彼女の幽鬼としての体にも首が復活するに違いない」
「な、なるほど! では、早速、小燕の首を持って来て――あっ、駄目だ」
司馬懿は、とても大事なことを思い出し、がっくりと肩を落とした。
「小燕の首はここには無い。あの犬の怪物に奪われたままだった……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます