幽鬼の無念

 死者は、生者の夢に現れ、己の無念を訴える。定伯はそう言った。


 大のおとな二人が大真面目で語り合うような内容ではない。

 そもそも、儒学は「怪力乱神かいりょくらんしんを語らず」がモットー。オカルトの存在なんて認めない。司馬懿も、昨日までなら定伯の怪しげな話になど耳を貸さず、鼻で笑ったことだろう。しかし、可愛がっていた下女の亡霊に襲われたいまとなっては、


「……本当に死んだ小燕と夢の中で会ったのだな? あいつの無念が俺とは、どういう意味だ?」


 と、真剣な表情で聞くしかなかった。彼女の無念とやらを詳しく知れば、死者の魂を慰めることができるのではと思ったのだ。


「俺はずいぶんと突拍子もないことを言ったはずだが、お前は信じるんだな」


「信じるか否かはこれから決めるが、一笑に付したりはせぬ。君がさっき言った通り、俺は昨夜、幽鬼となった小燕に殺されかけたのだ。それを無かったことにして君の言葉に耳を塞ぐのは、理知的とは言えないだろう」


「フフッ。気に入ったぞ。頭でっかちな儒学者たちは、たとえ己の目で幽鬼を見たとしても、『あれはただの見間違い。幽鬼など存在せぬ』とわめくばかり。この世で信じられるのは自分の目で確かめたことだけだというのに、何とも愚かな奴らだ。そいつらに比べたら、お前は見どころがある」


 若造のくせにずいぶんと上から目線な言い方をする男である。


 しかし、ここで定伯に「気に入られてしまった」ことが、司馬懿のこれからの人生の不幸の始発駅となるわけだが、今はそんなことなど知るよしもない。司馬懿は黙って定伯の言葉に耳を傾けることにした。


「まず、亡者が夢枕に立ったという事例を二つほど示そう。お前は漢王室で幽鬼騒ぎがあったことを知っているか」


「何? 宮廷でそんな騒動があったのか?」


 司馬懿が驚いて身を乗り出すと、定伯は彼の大仰な反応が面白いのか、ニヤリと微笑んで宮中を騒がせた怪異について語りだした。






 ワンス・アポン・ア・タイム――と言っても、今上帝劉協りゅうきょうの父、霊帝れいてい御世みよ


 霊帝劉宏りゅうこうは、少年時代は皇族のはしくれでありながら極貧生活を送る地方貴族だったが、先代の桓帝かんていが世継ぎの男子がいないまま崩御ほうぎょしたおかげで皇帝になれた。


 だが、彼は即位するとスーパー暗君となり、宦官かんがんたち佞臣ねいしんを寵愛。政治は乱れに乱れ、黄巾こうきんの乱を引き起こしてしまった。


 霊帝の愚かさは、それだけではない。佞臣の讒言ざんげんを鵜呑みにして、桓帝の弟である渤海王ぼっかいおう劉悝りゅうかいとその妃を謀殺、一族を皆殺しにした。さらに、渤海王妃と同族であった宋皇后、すなわち自分の正妻にまで罪を着せ、死に追いやってしまったのである。


 あの世の桓帝も、これには激怒したらしい。ある日、霊帝の夢枕に立ち、彼を痛罵つうばした。


「宋皇后に何の罪があった⁉ ちんの弟に何の罪があった⁉ 馬鹿なの? 死ぬの? お前に殺された二人は天に訴え、天帝も激おこだ! お前の罪深さは、もはや救いようがない!」


 あまりにもリアルで恐ろしい夢だったため、霊帝は恐怖した。それから間も無く、霊帝は死んだという……。






「つまり、桓帝は、自分の跡を継いだ霊帝が想像の斜め上をいくダメダメ皇帝だったことが無念で、霊帝の夢に現れたのだ」


「……もうちょっと言葉を選べんのか君は。皇帝だぞ。今の帝の父上だぞ」


 司馬懿は思いきり眉をひそめたが、定伯はその抗議を無視して、「次に話すのはついこの間の出来事だ」と新たな怪異について語り始めた。


「お前、文穎ぶんえいという男を知っているか」


「面識は無いが、なかなかの人物だと噂で聞いたことがある。南陽の人で、たしかいまは甘陵府の副官のはずだ」


「その文穎が赴任先の甘陵府に向かう旅の途中、ある川辺で部下たちと野営をした。すると、夜半の時刻(午前零時頃)、文穎の夢に男の幽鬼が現れた。

 幽鬼は、『私はこの近くに埋葬されている者です。実は水が墓まで流れて来て、棺が水に半分浸かって困っているのです。どうか助けてください』と訴えた。幽鬼の着物を見ると、たしかにびしょびしょに濡れていた。気の毒だなと思った瞬間に目が覚め、文穎はそのことを部下に話したが、ただの夢ですよと言われて再び眠った。

 ところが、その幽鬼がまた夢に現れ、しつこく助けてくれと言ったのだ。私の墓は枯れたやなぎの木の下にあるから早く何とかしてくれ、とな。どうにも気になった文穎は、天幕の近くの川沿いを部下たちに調べさせてみた」


「それで、どうなったのだ」


「もちろん、枯れた楊の木の下から棺が本当に出てきた。幽鬼が訴えていた通り、川の近くに埋められていたせいで棺は半分ほど水に濡れ、腐っていた。文穎は新しい棺を用意してやり、別の場所に埋葬してやったとのことだ」


「何とも摩訶不思議な……。しかし、なぜ幽鬼はそんなしょっちゅう人の夢に現れる?」


「簡単に言えば、夢というのはこの世と別世界を繋ぐ場所だからだ。彼ら幽鬼にとって、生者の世界に化けて出るよりも、夢に現れるほうがお手軽なのだろう。俺たちが時々見る不思議な夢は、天界や冥界の何者か……神々や亡き人が我々に何かを知らせようとしている暗示の可能性がある。だから、夢占いなども実は馬鹿にはできんのさ」


「む、むむぅ……」


 ちょっとオカルト・トーク全開すぎて、司馬懿はだんだん頭痛がしてきた。


 本当に夢とはそんな特別なものなのだろうか。そう疑いつつも、ちょっと信じてしまいそうな自分がある。


 鬼物奇怪きぶつきっかいの事に詳しい定伯は、彼が持つあらゆる情報を総合的に判断して、この世ならざる者と夢でコミュニケーションが取れると確信しているようだ。

 しかも、実際に、小燕本人から聞き出したとしか思えないことを定伯はしゃべっていた。どうにも胡散うさん臭い奴ではあるが、この男の言葉には不思議な説得力がある……。定伯はもしかしたら本当に「夢における幽鬼との対話」を実践したのかも知れない。


「……それで、小燕の遺体に添い寝をすれば、彼女の幽鬼が夢枕に立つと思い、君はそこで寝ていたのか」


「うむ。興味本位で実験してみた。そして、期待した通り、お前の下女と夢で会えたのだ」


 興味本位。実験。つまり、本当に幽鬼が人の夢に「うらめしや~」と出てくるかを確かめてみたかったということだろう。そのために死体の横で寝るとは、恐るべき好奇心である。やっぱり、こいつ、マジでヤバイ。


「しかしだな。夢で幽鬼と会えたのはいいが、俺もうっかりしていた。仲達よ、お前が昨夜遭遇した幽鬼に首は無かっただろう」


「えっ。なぜそんなことまで知って――」


「それは当たり前のことだからだ。は、死んだ時の姿をとどめ、死後の世界を過ごす。首をくくって死んだ奴は溢鬼いきという亡霊になり、己の命を縮めた縄を手に持って化けて出る。だから、首をねられて死んだ者は、首無しの鬼となるのだ」


「そんな……。首が無い体では、冥界での生活も不自由極まりないではないか」


「無論、夢に現れた小燕も首が無かった。首が無ければ口も無し。会話などできん。はてさて困った。お前が文字を彼女に教えていなかったら、何一つ意思疎通ができぬところであったぞ」


 司馬懿は長い隠棲引きニート生活の間、物凄く暇だった。昔の友人たちもとっくの昔に就職してしまっているので、訪ねてくれる人もほとんどいない。暇を持て余した結果、小燕を時々つかまえて簡単な文字の読み書きや算術を教えていたのである。

 勉強が嫌いな小燕は内心迷惑がっていたが、そのおかげで口が利けなくても筆談ができるようになった。勉強の成果が死後に発揮されるとは、何とも皮肉なものである。


「お互いの手のひらに文字を書き、言葉を交わした。小燕は自分が誰に殺されたのか、殺される直前に何が起きたのか、さっぱり分からぬという。首を刎ねられた時の衝撃で忘れてしまったのだろう」


(つまり、重病人のはずの俺が元気に庭を走っていたことや、春華にバッサリやられたことも覚えていないということか。ならば、俺のせいで殺されたという認識は無いはず。では、なぜ夜中に俺を襲ったのだ? しかも、俺に対して何らかの無念の情を抱いているという。自分が死んだ原因すら知らない下女の無念とはいったい……)


 司馬懿がそんなふうに困惑していると、定伯は表情から彼の思考を読み取ったのか、「仲達よ。お前は一つ大きな勘違いをしている。昨夜、小燕はお前を祟るために化けて出たのではない」と言った。


「え? それはどういう……」


「小燕の無念とは、お前の世話ができなくなったことだ。彼女は俺に『旦那様にスープ、旦那様に羹』とそればかりをうるさく訴えてきた。自分がなぜ死んだのか分からないのに、風痺ふうひの病を患う主人の健康を案じ、いつもお前に食べさせていた夜食を用意できぬことを悲しんでいたのだ。『何も見えないから、昨夜はお湯しか作れなかった。何も見えないから、あちこちぶつかって痛かった。何も見えないから、旦那様の体調が分からず心配だった』とな。……昨日何があったのかは知らぬが、得難き忠僕を死なせてしまったお前は大馬鹿者だ」


 定伯の刃物のように鋭く冷たい言葉が、司馬懿の胸をえぐった。手に持っていた杖をゴトリと落とし、「そ、そんな……」と呟く。


 下女の命を理不尽に奪ってしまったという後ろめたさから、てっきり俺は小燕に呪われているのだと思い込んでいた。熱々のお湯をかけられたのも、復讐のつもりだったのだろうと。

 しかし、よく考えてみれば、彼女は「復讐」という言葉が最も似合わぬ優しい子だった。野垂れ死にしかけていたところを助けられた恩に報いるため、小燕は司馬懿に懸命に尽くしてくれた。朝夕の一日二食では栄養がつかないと考え、里の者たちと仲良くしてあちこちから食料をもらい、王侯貴族でもない主人のために夜食の羹を作ってくれた。昨夜現れた彼女は、いつものように司馬懿の世話を焼きにきてくれただけだったのだ。


「死後も……俺のことを想ってくれていたのか……。嗚呼ああ……なんて心の清い娘だったのだ。首を無くして、あの子はどうやって死後の世界を暮らしていくのだろう。可哀想に……」


 涙があふれ、視界が歪む。寝台に手を伸ばし、凍えるように冷たい小燕の足を撫でた。


 定伯は、しばしの間、うなだれる司馬懿を厳しい眼光まなざし凝視みつめていた。しかし、やがてフーッと吐息をつき、「図体のでかい男が子供みたいに泣くな。みっともない」と言った。


「人間はな。失ってから大事な物が何であったかを気づく。愚かな生き物なのだよ、俺たちは。……だが、死んでしまった人間に生者であるお前が何もしてやれぬわけではない。幽鬼となった小燕の首を取り戻してやることは可能だ」


「な、何⁉ そんなことができるのか⁉ いったいどうすればよいのだ!」


 司馬懿が驚いてそう喚くと、定伯はフフンと笑い、「とても簡単なことさ」と言い放った。そして、首の無い小燕の遺体をスッと指差す。


「あのむくろに、失った首を繋げてやればいい。そうすれば、幽鬼も首を取り戻す」


「遺体に首を繋げるだと? ただそれだけでよいのか?」


「文穎に夢の中で助けを求めた幽鬼は、遺体が濡れたせいで弱っていた。これは、幽鬼が本人の屍の状態に大きな影響を受けるという証拠だ。だから、小燕の首と胴体を繋げてやれば、彼女の幽鬼としての体にも首が復活するに違いない」


「な、なるほど! では、早速、小燕の首を持って来て――あっ、駄目だ」


 司馬懿は、とても大事なことを思い出し、がっくりと肩を落とした。


「小燕の首はここには無い。あの犬の怪物に奪われたままだった……」

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