美貌の男
「し、死ぬかと思った……」
月立つ刻限。
司馬懿は、
犬型UMA――
討伐隊は手持ちの矢が尽き、剣で斬りつけても硬い鱗に刃を砕かれ、戦う術を失った。こうなると、もう逃げ惑うしかない。
追いかけっこの終盤、司馬懿はうっかり輿から転げ落ちてしまった。犬は猛然と飛びかかり、鋭い爪で司馬懿の喉笛を掻き切ろうとした。
司馬防が「懿よ!」と叫んだ瞬間、
「ギャン⁉」
凄まじい矢唸りがどこからともなく響き、一条の閃光が犬の左首を襲った。
驚いた一同が、矢が飛来した東の方角を見ると、黒い布で顔を覆った怪しい軽騎兵が七、八人、こちらを睨んでいた。先頭にいる恰幅のいい男が片手に弓を持っている。どうやら、彼が射たらしい。
司馬防は、男たちに声をかけようとしたが、彼らはすぐに馬首をめぐらして走り去って行った。
「ぐ、グルルル……」
銀色の鱗は、先ほどの強烈な飛矢すらも弾き返しようだ。犬は首から血を流していない。
だが、頭の付近に強い衝撃を受けたことで、獣の闘志も
「こ、恐かった……。あれはきっと神獣ですよ。もうちょっかいをかけないほうがいいんじゃないでしょうか。正体不明の軽騎兵たちが助けてくれなかったら、坊ちゃまも絶対に死んでいたし」
楽さんが声を震わせて言うと、彼の臆病風が伝播し、何人かの里人がウンウンと
だが、あんな危険な獣をこの里にいつかせてしまえば、今後も食べ物を奪われ、怪我人も続出する。小燕の首や子供たちの玩具も取り戻せていない。里の平和のためにも、必ず排除するべきである。
「
司馬防がそう励まし、討伐隊の男たちに一時解散を告げた。
この時代、王侯貴族などの特別階級以外は、一日二食が普通である。里人たちは朝飯を食ったきりで、腹ペコだった。司馬懿にいたっては、昨日の夕食と今日の朝食を食べそこねている。お腹と背中がディープキスしそうな勢いで空腹である。
気のいいおっさん三人組は、自分たちの家に帰る前に、司馬懿を家まで送り届けてくれた。仮病なのに悪いなぁとは思うが、曹操の密偵に歩いているところを見つかったらまずいので仕方がない。
おっさんたちは部屋の中まで司馬懿を運んだ後、「では、夜襲決行の時刻になったら、また迎えに来ます」と言い残し、フラフラの足取りでそれぞれの家へと散っていった。
「はぁ……疲れた。嫁に逃げられるわ、死んだ下女に祟られるわ、犬の怪物に殺されかけるわ、本当にさんざんだ。今夜も小燕は化けて出るのだろうか」
灯りをともさず、部屋の真ん中に大の字で寝て、司馬懿は独り言を呟く。理不尽な不幸が続き、すっかり気が滅入っていた。空腹のあまり吐き気がするが、食べる気は起きない。
もう疲れた。何もしたくない。このまま何も食さず、怪物犬の夜襲にも加わらず、夜中に小燕が自分を祟り殺しに来るまでぼうっと待っていようか……とまで考え始めていた。
――人は食べないと元気が出ません。最悪、死んでしまいます。毎日もりもり食べることができたら、人は健康で幸せになれるのです。
疲労のせいでウトウトと
心に活力が湧かないのは空腹のせいだ。何か食べれば少しは前向きになれるかも知れない。犬の怪物以外の不運は、全て身から出た
そう思い直し、何でもいいから口に入れておこうと室内にある食べ物を探した。たしか、籠いっぱいの瓜がここに――。
「……無い」
籠は目の前にある。中身が空っぽの籠が。小燕が里の者からもらってきてくれた、山盛りの瓜は全部消え失せていた。
「昼に家を出た時にはあったのに、いったい誰が……」
そこまで言いかけた司馬懿はハッとなり、寝台を見た。
そこには、首の無い小燕の
犬退治に出かける前、台所の土間に放置したままでは別の野生動物が入り込んで来て
問題は、その首無し少女の隣、寝台の奥だ。
いくら部屋が暗かったとはいえ、なぜ気がつかなかったのか。
見知らぬ若い男が一人、気持ちよさそうに眠っていた。
司馬懿はギョッとして「何だ、お前!」と叫びそうになったが、
(あっ。こいつが……)
と、すぐにあることに思い至った。
そして、杖を握ると、その若者を起こすために横腹をつつこうとした。
「おいおい。ずいぶんと無礼な起こし方をするじゃないか、司馬仲達」
ガシッと杖をつかまれる。若者は狸寝入りをしていたのだ。勢いよく引っ張られ、司馬懿は「うおっ」と声を上げて前のめりに倒れた。
若者は、小燕の屍をまたぎ、寝台から軽やかに降りる。そして、口の端をニヤッと歪めながら司馬懿の耳元に顔を近づけ、
「
と、囁くように言った。
ゾクッ……。司馬懿の
(い、いかん。正体不明の男の前で、四つん這いのまま倒れているのは危ない)
司馬懿は、体を起き上がらせようと、身じろぎする。すると、意外なことに、若者は優しく手を貸してくれた。しかも、部屋の隅っこにあった敷物まで持って来てくれた。さっきは司馬懿を派手に転ばせたくせに、乱暴なのか親切なのかよく分からぬ男である。
「やあ、仲達。会えて嬉しいぞ」
「不審者に会えて嬉しいと言われても、俺は嬉しくない。君は
「もう夜か。暗いな。灯りをつけよう」
我が道を行く性格なのだろう。司馬懿の問いかけを無視して、若者は燭台に
揺らめく
若者のただならぬ雰囲気に一瞬圧倒されかけた司馬懿だったが、すぐに我に返ってコホンと咳払いした。この男には色々と確かめておかねばならないことがある。
「勝手に人の家に上がり込んだ無礼を
「はて? 何のことかな?」
窓枠に腰掛けている若者は、耳にぶら下がる玉製の
司馬懿は、若者の人を小馬鹿にしたような態度に苛立ちを感じたが辛抱し、「とぼけなくてもいい」と鷹のように鋭い目を光らせて言った。
「昼間のうちから、何者かが我が家に潜んでいるのではと薄々疑っていたのだ」
「ほほう?」
「俺が眠りこけていた朝方、君はこの屋敷に現れ、裏庭に放置されていた下女……いまはそこの寝台に横たわっている少女の屍を発見した。違うか?」
「うん。墓らしき穴があって、彼女の屍が下半身だけ埋まっていたな。埋葬されたものが獣によって掘り返されたのだろうとすぐに気づいた。里を歩いていて『凶暴な獣が現れた』と騒ぐ声が方々で聞こえたからピンと来たよ」
さっきはとぼけたくせに、今度はあっさりと認めた。若者は何が楽しいのか、にたにたと笑い、司馬懿のことを観察するようにじっと
「庭の有り様を見た君は、これを里人が発見したら大騒ぎになると考えた。そこで、凶暴な獣が台所に侵入して下女を殺したのだと第一発見者に思わせることにした。まず大急ぎで墓穴に土をかけ、屍が埋められていた形跡を消す。そして、下女の体に付着していた泥を丁寧に払い落すと、戸を豪快に破壊して遺体を台所に運んだのだ」
「ふむふむ。なかなかの推理力じゃないか」
「年下の男に褒められても別に嬉しくはない。……なぜ助けてくれたのかは知らぬが、君の機転が無ければ、俺はあどけない少女を殺して庭に埋めた極悪人だと近所の者たちに疑われていたはずだ。謹んで礼を言う」
「別にいいさ。お前が犯罪人になると、俺もちょっと困るからな。しかし、ずいぶんとグースカ寝ていたものだ。戸を蹴り破った際に物凄い音がしたというのに、お前はちっとも起きなかったぞ。呑気な奴だ。アハハハ」
「うぐっ……。し、しかし、土間が血まみれになっていて驚いただろう」
「いや、逆に助かった。お前の妻が下女を殺した現場があそこなのだろうが、派手に血が飛び散っていたおかげで、獣に襲われたと思わせる形跡を作る手間が省けた」
「……俺の妻が下手人だということまで知っているのか」
「屋敷のどこにもいなかったからな。下女の死をめぐってお前と口論になり、家を出て行ったと考えるのが妥当だ。それに、見たところ、お前の所作には無駄な動きが多い。あんなにも綺麗な切り口で人の首を
恐るべき洞察力だった。この若者は、わずかな手がかりだけで、おおよその真実にたどり着いてしまっている。
(本当に何者なんだ、こいつは。ま……まさか……いまさら心配するのも遅すぎるが、曹操の密偵ではないよな? 密偵が俺をかばうような真似はしないはずだし。……でも、本当に曹操の家来だったら、俺の弱みを握られたことになる。人生終わるんだが。ど、どうしよう)
あなたは軽率なのです、という春華の冷たい声が聞こえたような気がした。ちょっとベラベラと喋りすぎたかも知れない。しかし、後悔しても遅い。こうなったら、この青年の正体とここに来た目的を本人から聞き出すしかない。
「失礼だが、君の名は? 何のために孝敬里へ?」
「俺か? う~ん、そうだな。
その口ぶりからして、本名ではないらしい。それに孝敬里にそんな凄い食材はない。
なぜ実名を堂々と名乗らぬのだ。この里に来た理由をたずねられて、なぜはぐらかす。いちいち怪しい雰囲気を漂わせる奴め。司馬懿は心の中で舌打ちをした。
「……ところで、君は私のことを知っているようだが、どこかで会ったか」
「会わずともよく知っているさ。司馬仲達といえば、『司馬防の優秀な八人の息子たちの中でも、最も才知に長けている男』と
「よ、余計なお世話だッ! それよりも、さっきも聞こうとしたが、よく死体の横で昼寝などできたな。屍に添い寝するなど、性的倒錯者のすることだぞ。いったい何をやっていたのだ」
はるか後年の話だが、司馬懿の息子たちの中で、愛妾を死姦する性癖を持った
しかし、定伯はクスクスと笑い、「顔を真っ赤にして怒るなよ。面白い奴だな、お前」と上機嫌である。
「
「夢の中で死者と会話しただと? そんなこと……」
できるわけがないだろう、と司馬懿は言いかけたが、あることに気づき、口をつぐんだ。
司馬懿は、小燕の名前を口にしていない……かどうかは覚えていないが、彼女の年齢や不幸な経歴を定伯に語っていない。昨夜、小燕が幽鬼となって現れたこともだ。それなのに、なぜ定伯は知っている? まさか、本当に夢の中で小燕から聞き出して……。
「俺は少しばかり
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