雨夜の客

「本当に出て行っちゃった……」


 その日の深夜。雨はまだ止んでいない。

 独りになってしまった司馬懿は、本が散乱する部屋の隅っこで、膝を抱えながら落ち込んでいた。



 夫に出て行けと言われた春華は、腐った魚を見るような目で司馬懿を十秒ほど凝視みつめた後、無言のまま夫婦の部屋に行って素早く着替え、荷造りを始めた。さっきの発言を後悔しだした司馬懿が恐るおそる話しかけても、返事をしない。


 荷造りが終わり、血で汚れた服をかまどの火の中に放り込むと、彼女は裏庭に出た。そして、土砂降りの雨の中、小燕の首と胴体を埋める穴を掘った。感情が失せた瞳で黙々と死体の処理をする十九歳の幼な妻の姿には、鬼気迫るものがあった。


「な、なあ、春華」


「…………」


「さっきは俺が言い過ぎた。謝る。濡れた体を拭いて、もう一度服を着がえたら、今後のことを部屋で話し合おう」


「…………」


「まさか、本気で出て行くつもりではないよな?」


「…………」


「春華ちゃん。ちょっとぐらい返事してくれてもいいんじゃない?」


 結局、春華はさよならの一言も無く、夕刻近くに家を出て行った。司馬懿と血まみれの台所を放置して。



 春華の実家がある平皋県へいこうけんは、温県おんけん孝敬里のすぐ近くだが、暗くなれば夜盗や獣が出る。道だって雨でぬかるんでいて危ない。

 武芸が達者なあいつなら夜盗ぐらい平気だとは思うがやっぱり心配だ、と司馬懿は家出女房の身を案じるのだった。


「このことを父上に報告……したら鞭でしばき倒されそうだな。父上に知られる前に、春華を連れ戻さねば」


 司馬懿の家の近所には、老父司馬防しばぼうの隠居所がある。五十九歳となった現在、多少丸くはなっているものの、平時でも威儀を崩さぬ厳しい人だ。司馬懿ら八人の息子たちは、大人になったいまでも、父が恐くて仕方がない。嫁に逃げられましたなどと言えば、「この甲斐性無しが!」と叱罵しつばされるに決まっている。


「仮病中の俺が平皋県まで出向くことはできぬ。明朝、小燕に代わりに行ってもらって俺の言葉を……嗚呼ああ。あいつは死んだのだった」


 とても重要なことを思い出した司馬懿は長嘆息し、手のひらで顔を覆った。


 そもそもの夫婦喧嘩の原因は、夫の秘密を守るために春華が小燕を殺したことだった。「さすがに可哀想だろう」と責めたが、司馬懿が迂闊うかつな行動を取りさえしなければ、こんなことにはならなかったのだ。小燕が死んだのも、嫁が家出したのも、全部自分のせいなのである。


憂国ゆうこくの士を気取って曹操への仕官を拒み続けてきたが、司馬仲達はただの愚か者だ。たかが本のために、一個の尊い命を奪ってしまったのだからな。春華に軽率者となじられても文句は言えぬわ。……くそッ!」


 自己嫌悪に囚われた司馬懿は、近くに落ちていた『論語』を乱暴につかみ、窓の外に放り投げようとした。


 しかし、手元が狂い、本は窓辺にあった籠に当たった。

 籠に盛られていた瓜が一つゴトリと落ち、司馬懿のそばに転がってきた。


 小さくて形の悪い瓜だ。味もたいして美味くない。だが、この瓜は、小燕が主人を喜ばせるために、里の者からもらって来てくれたものなのである。


 不格好な瓜をじっと眺めているうちに、妻に逃げられた悲哀よりも、お喋りな少女の死をいたむ気持ちのほうが司馬懿の胸の中で少しずつ膨らんできた。


 ――たくさん栄養を摂ったら、旦那様の病気も治ります。美味しい物をいっぱい食べてください。


 あの娘はいつもそう言い、司馬懿に栄養物を食べさせようと一生懸命だった。灯りをともして書物を読んでいると、「体を冷やしてはいけません」と温かいスープを毎夜持って来てくれた。


 小燕は、二年前に司馬懿の家の前で行き倒れていた。本人の話によると、旱魃かんばつによる飢餓地獄で全滅した村の唯一の生き残りだという。悪い人間に捕まって奴隷市で売られそうになったところを何とか逃げ出し、孝敬里にたどり着いたのだ。


「気の毒な娘だ。この子を下女として雇ってやろう」


「とんでもない。屋敷によそ者を置くのは危険です。私が何のために一人で家事をやっていると思っているのですか」


 司馬懿の提案に、春華は難色を示した。曹操に仮病疑惑で監視されているのに何と軽率な、と呆れたのだ。しかし、司馬懿は、


「安心しろ。俺の仮病の演技は完璧だ。一緒に暮らしていたって、こんな子供にばれるはずがない」


 などと調子のいいことを言い、小燕にたらふく飯を食わせてやったのである。


 やって来た当初は骨と皮だけだった彼女の肢体は、数か月後には少女らしいふくよかさを取り戻した。ただし、成長期に飢餓地獄を経験したせいか、ほとんど背が伸びず、十四歳になっても外見は十一、二歳だった。


 小燕本人は、自分の見た目が子供のままでもあまり気にしていなかったようである。命の恩人である旦那様に恩返しがしたい、と健気にそれだけを考えていた。


 ――人は食べないと元気が出ません。最悪、死んでしまいます。毎日もりもり食べることができたら、人は健康で幸せになれるのです。


 それが彼女の信条だった。だから、重病人の司馬懿にもりもりと栄養を摂ってもらおうと、里人たちと仲良くして、果物や野菜を彼らからしょっちゅう譲ってもらっていた。


 小燕は、そこまで必死に尽くした主人が馬鹿をやらかしたせいで、死んだのである。笑えぬ冗談のような話だ。


 たしかに、彼女は呆れるほどお喋りが大好きだった。司馬懿が夜食の羹を食している間、小燕は里の女たちから仕入れた噂話をぺちゃくちゃと楽しそうに主人に語ったものだ。

 でんさんの家の豚が隣の家まで逃げたとか、がくさんが嫁に浮気がばれて首を絞められたとか、孝敬里のありとあらゆる出来事を小燕は把握していた。おかげで司馬懿は、二軒隣りのちょうさんが三十七歳になっても母親のおっぱいを妻に隠れて吸っているという知りたくもない情報まで聞かされていた。夫の秘密を喋るのではないか、と春華が危惧したのも無理はない。


 ……しかし、あの娘は主人を陥れるような子ではないと司馬懿は確信していた。「事情があって仮病を使っていたのだ」ときちんと説明すれば、秘密を必ず守ってくれただろう。


「小燕……お前は死ぬべき人間ではなかった。愚かな主人を許してくれ」


 司馬懿は眼前の瓜を手に取ると、それを胸に押し当て、亡き少女の名を何度も呟いた。


 ……裏庭に野良犬が迷い込んでいるらしい。はげしい雨音に混じり、獣が唸る声がかすかに聞こえる。


 初めは犬の存在など気にせず、司馬懿は悲しみの沼に浸かり続けていた。だが、あることにハタと思い当たり、かたわらに置いてあった剣をつかんだ。


(野良犬の奴、小燕の遺体を掘り起こしているのではないだろうな)


 静かに激怒していた春華は、かなり雑に穴を掘り、小燕を埋めた。たぶん、可哀想な下女の墓穴は、犬でも掘り返せるぐらいの深さだ。


 わけも分からぬまま殺された挙句、遺体を犬に弄ばれたら、お人好しの小燕でもさすがに化けて出るかも知れない。剣で脅して犬を追い払わねば。そう思い、司馬懿は腰を浮かせた。



 ガタッ



 突然、奇妙な物音が。音がしたのは、たぶん家の中だ。


 まさか曲者くせものか? 司馬懿は中腰の姿勢で屋敷内の気配をうかがった。


 どの部屋も灯りをともしておらず、真っ暗である。目を閉じ、じっと耳を澄ましてみたが、雨音と庭にいるらしい獣の唸り声しか聞こえない。


「……何だ、気のせいか」


 安堵して立ちあがり、手燭てしょくに火をともした。すると、また、



 ゴトン



 さっきよりも大きく、はっきりと音がした。家の中に、何者かが忍び込んでいることは間違いない。しかも、奇妙な音は台所のほうからした。


ぎょうから来た刺客……ではないな。ただの盗人ぬすっとだ。曹操が放った手練れの刺客なら、物音一つ立てず家に侵入するはずだ。しかし、困ったな。血まみれの台所を見られてしまった。こそ泥といえども生かしてはおけぬ)


 あの後、血で汚れた顔を洗い、衣服を替えたが、嫁に逃げられたショックで台所を清める元気までは無かったのだ。


 司馬懿は、窓のそばに手燭をそっと置くと、腰を低くして寝台の陰に隠れ、汗ばんだ手で剣の柄を握った。灯火に誘われた賊が「おい。金目の物を寄越せ」と怒鳴ってこの部屋に入って来た瞬間、飛びかかって斬る腹積もりだった。


 バタン、ガタン、ゴトン。物音はだんだんと近づきつつある。しかし、何やら様子がおかしい。いくら真っ暗闇とはいえ、物にぶつかりすぎだ。パリーンと食器が割れる音までした。どれだけドジな泥棒なのだ。目隠しでもして歩いているのか。


(待てよ。今夜は色々あって戸締りの確認をしていない。戸が開きっ放しで、裏庭の犬が台所に入って来たのではないか?)


 その可能性になぜすぐ気づかなかったのか。侵入者が犬だから馬鹿みたいにあちこちぶつかっているのだ。


 やれやれ、人騒がせなワンコめ。まあ、これで人を殺さずに済んだな。そう思い、司馬懿はフーッとため息をついた。ひと際大きな音がすぐ近くでしたのは、その直後のことだった。



 ドターン!



 曲者(犬?)がこの部屋に足を踏み入れたようだ。散乱している書物につまずき、派手に転倒した。


 司馬懿は「こら! 野良犬め!」と怒鳴り、寝台の陰から躍り出た。


 次の瞬間――なぜか顔面に熱湯を浴びていた。



「あぁぁぁつぅぅぅーーー‼」



 熱い! 熱い! 熱い!


 手で顔を覆いながら何度も悲鳴を上げ、床に転がっていた椀を踏んづける。ドスンと盛大に尻もちをついた。この椀に、熱湯が入っていたのだ。


 意味が分からない。なぜ熱湯入りの椀が飛んで来たのだ。野良犬がここまで運んで来たのか? そんなわけがない。では、侵入者の正体はいったい――。



「しょ……小燕……?」



 顔を覆っていた手をどけた司馬懿は、我が目を疑った。


 灯火の仄かな明かりが、床に突っ伏している小柄な体をおぼろに照らしている。子供だった。身にまとっているのは、小燕が死ぬ間際に着ていた、麻の着物である。


「彼女」は、よたよたと立ち上がった。何かを探しているのか、おろおろと右往左往している。身動きするたびに、部屋の調度品にぶつかった。


 次々と物に当たるのは無理もない。何も見えないのだ。なぜなら、「彼女」には首が無いのだから――。



「ゆ……幽鬼ゆうきッ‼」



 やっぱり化けて出たか。司馬懿はおののいた。


 首の無い少女は、両手を前に差し出し、よたよたとこちらに歩いて来る。司馬懿は「ひっ……」とおびえたが、腰が抜けて動けない。


「彼女」はまた何かにつまずいた。よろめき倒れ、司馬懿に抱きつくかたちで寄りかかってくる。ゾッとするように冷たい幽鬼の体温が肌を凍えさせ……司馬懿は、白目を剥いて気絶してしまうのだった。

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