司馬懿age29

 ごろり、と少女の首が司馬懿の足元に転がった。


 妻の張春華ちょうしゅんかが、裂帛れっぱくの気合とともに剣を一閃いっせんさせ、下女の首をねたのだ。

 ぽかんとした顔のまま下女の首は宙を舞い、台所の壁やかまどには大量の血が飛び散った。もちろん、いきなり殺人者となった十九歳の幼な妻と、呆然としている司馬懿の体にも。


「な……なぜ急に殺した⁉」


 しばしの沈黙の後。鮮血に染まった顔を激しく歪ませ、司馬懿は絶叫していた。



 ――時は後漢ごかん末期。

 乱世の奸雄かんゆう曹操が、後漢ごかん王朝のラストエンペラー劉協りゅうきょうを擁立し、宿敵袁紹えんしょう官渡かんとの戦いで撃破して七年後の建安けんあん十二年(二〇七)夏。

 曹操による中華統一は目前と思われていたものの、まだまだ世の中は乱れており、各地で戦乱が相次いでいた。


 そんな中で、乱世など我関せずと隠棲引きニート生活を送っていた男が二人いる。

 一人は荊州けいしゅう諸葛亮しょかつりょうあざな孔明こうめい

 もう一人は、やがて孔明の最大の好敵手ライバルとなる司馬懿、字は仲達ちゅうたつ――嫁が下女を唐突に殺害してビビっているこの男である。


 人材コレクター曹操のスカウトを病と称して断り続けること六年。二十九歳のこの年まで戦場に出たこともなく、ずっと故郷の孝敬里こうけいりに引き籠っていた。だから、他殺体なるものを間近で目撃するのは、実はこれが初めてなのである。しかも、殺したのは自分の妻だ。どうしてこうなった、とおののいてしまうのも無理はない。



「申し訳ありません、台所を汚してしまいました。人の首を刎ねると、こんなにもたくさん血が噴き出るものなのですね。夕食の時間までに綺麗にできるかしら」


「たしかに掃除が大変そうだ! しかし、そんな話をしているのではない!」


「とりあえず死体は、身を清めてから裏庭にこっそり埋めておきます」


 春華が無視して犯行の後始末を始めようとしたため、司馬懿は「人の話を聞かぬかッ」とヒステリックにわめいた。だが、彼女は動じない。十歳年上の夫を軽蔑した目で凝視みつめ、


「仲達様は軽率なのです。仮病を使っているくせに、元気いっぱいに庭を走りだすなんて……。小燕しょうえんを殺したのはあなたのためなのですから、私を責めないでください」


 と、冷ややかに言うのだった。その言葉で、司馬懿も下女の小燕が殺された理由にハッと気づき、ぐぬぬぅ……とうなった。


(たしかに、曹操が留守だと思って、油断していた俺が悪いのだが……)




            *   *   *




 孝敬里は、曹操の拠点のぎょうからわりと近い。歩いて数日程度なので、駿馬さえあればすぐに往復ができる。

 曹軍にスカウトされた司馬懿が「風痺ふうひ(関節リウマチ)の病で起き上がれません。出仕はいたしかねます」と断ると、疑い深い曹操は、


「まことに病か、こっそり見て来い。嘘だったら殺せ」


 家来にそう命令した。それ以来、怪しい人影が司馬懿の家を時折うろちょろするようになったのである。


(出仕を断っただけで刺客を送り込むとか、曹操やばすぎだろ。絶対に頭おかしい)


 曹操に仕えるのがますます嫌になった司馬懿は、仮病の演技を徹底した。刺客に監視されていることを念頭に置き、家の中のどこにいても杖を手放さぬようにしたのである。あかざの茎で作った杖は、風痺除けになるという俗信がある。私は見ての通り闘病中ですよ、と刺客にアピールしたのだ。


 国の最高権力者に監視される心休まぬ日々。老父母に迷惑(刺客に家を襲撃カチコミされるとか)をかけぬように実家を出て夫婦の新居に移り、固い決意で隠棲引きニート生活を貫き続けた司馬懿の心にも、さすがに疲れがでてきた。


 そんな時に、「曹操が、袁紹の遺児たちをかくまった烏桓うがん族を討つために北辺の地(現在の内モンゴルのあたり)へ出陣した」という嬉しいニュースを耳にしたのだ。


「これは当分、帰って来ぬぞ。監視もちょっとは緩むに違いない」


 ヒャッホウと司馬懿ははしゃいだ。


 しかし、春華は夫よりも用心深く、冷静である。刺客に急襲されても司馬懿を守れるように、寝所や台所など各部屋に剣を置いている。彼女は、呑気な亭主に眉をひそめ、「油断して羽目を外さないほうがいいですよ」と忠告した。


下女うちの小燕や里の者たちも、仲達様を重病人だと思っているのです。家の外を元気に歩く姿を目撃されたら、噂はすぐに広まります。鄴には、曹操の息子の曹丕や、従弟いとこ曹洪そうこうがいるのですし、大人しくしているべきです」


「う、う~む……。一理ある。だが、庭で本の虫干しぐらいはしていいだろう」


 紙の書物はいい。竹簡や木簡みたいに重くないし、かさばらない。当時、蔡倫さいりんが改良した製紙法のおかげで、紙の書物を所有する知識人が増えつつあった。司馬懿も、老父から紙の書物をたくさん譲り受けていた。

 しかし、とても高価なので、虫に食われたら一大事である。司馬懿は、小燕に介助されて庭に出ると、彼女に指図して本を虫干しさせた。


 小燕は、十四歳にしては体が小さいが、とても働き者である。せっせと本を並べ、「これでいいですか! 旦那様!」と笑顔で言った。


「それでよい。ふぅ……疲れたから部屋で休むとするか」


 いかにも体調が悪そうな声音で言い、また小燕に介助されて自室に戻った。事件が起きたのは、それから三十分後のことである。


 司馬懿は、寝台で横になりながらうりをかじり、窓から見える庭の景色をボーっと眺めていた。本はいつごろ家に取り込んだほうがいいかなぁ、などと考えつつ。


 ところが、ここで天が嫌がらせをした。にわかに迅雨じんうが降り出したのである。司馬懿はゲゲッと叫んだ。


「い、急いで本を取り込まねば! ……春華! 小燕! 俺の書物を家にしまってくれ!」


 その喚き声は凄まじい雨音にさえぎられたようだ。家のどこかにいる妻と下女が庭に飛び出す気配は無い。このままでは本たちは全滅である。


「瓜食ってる場合じゃねぇ‼」


 叫ぶや否や、司馬懿は杖も持たずに立ち上がり、窓を飛び越えた。


 うわぁぁぁと吠えて全力疾走。最初に手に取った『論語ろんご』をアメリカ大リーグからスカウトが来そうな剛速球で自室の窓へと放り投げた。


「せいッ! せいッ! せせせぇーいッ!」


 この男、剣術の才は平凡だが、運動神経は文官タイプの人間にしては優れている。矢継ぎ早に書物を室内に投げ込んで行き、わずか十秒ほどで雨から本を救うというミッションをコンプリートした。


 問題は、その後だった。雨に濡れながら司馬懿がフーッと安堵のため息をついていると、少女の無邪気な声が庭内に響いたのである。


「旦那様…………お元気になられたのですね!」


 虫干し中の本が雨にさらされていることにふと気づき、台所から慌てて駆けて来た小燕だった。ものすごく喜んでいる。たぶん何らかの奇跡が起きて、一人で歩くこともままならなかった主人の病気が治ったのだ、と思っているようだ。


「しょ……小燕……。どこからどこまで見ていた?」


「『瓜食ってる場合じゃねぇ‼』から『せいッ! せいッ! せせせぇーいッ!』までです! ああ~良かったぁ~! 旦那様がこんなにも元気になってくださって!」


 まずい。全部見られた。重病人のはずの司馬懿が、軽々と窓を飛び越え、本を部屋に投げ入れていた――などという噂が鄴に伝われば、絶対に大変なことになる。これは小燕によくよく言い聞かせ、里の者にベラベラ喋らぬように命じねば。


「今夜はお祝いにごちそうを作りましょう! 奥方様にこのことを報告してきます!」


「あっ! 待て、小燕!」


 小燕は「奥方様ぁ~!」と叫び、台所に駆け戻って行った。司馬懿も後を追い、家に入る。


 その約三分後、小燕は春華によって殺害された。




            *   *   *




 つい先ほど起きた悲劇を振り返ると、「俺が悪かったことは認めよう……」と苦々しい表情で司馬懿は言った。


「だが、何も殺すことはなかっただろう。いくら召使いでも可哀想じゃないか」


「お喋り好きな小燕に秘密を知られたからには、始末するしかなかったのです。あの子が里の者たちにピーチクパーチク喋れば、十日以内には鄴に伝わります。やがて遠い戦地にいる曹操の耳にも届き、『司馬懿の家を里ごと焼き払え』という命が下されるでしょう」


「さすがにそこまでは……いや、やるな。曹操ならきっとやる」


 優秀な人材はとにかく部下にしたい。嫌がったら、首に縄をつけてでも連れて来て、仕えさせる。それでも拒否するなら殺す。それが人材コレクター曹操だ。


 彼のスカウト被害に遭った者の中に、阮瑀げんうという文人がいる。竹林の七賢の一人、阮籍げんせきの父である。阮瑀は、曹操の執拗な誘いから逃れるため、山中に隠れた。すると、曹操はその山をまるっと焼き、阮瑀を確保した。


 やることがいちいちエキセントリックなのである。司馬懿が仮病を使っていたと知れば、孝敬里を焼き払うことぐらいは普通にするだろう。近所に住む老父母も殺される。さらに、すでに曹操の幕下にある兄弟たちにも累が及びかねない……。


 口封じのために下女を殺した春華の判断は、たしかに理に適っていた。

 だが、それでも、司馬懿は妻を褒める気にはなれなかった。


「お前のしたことは、処世術としては正しい。……しかし、人として間違っている。強き者におびえて弱き者を虐げるのは小人の道だ。曹操が恐くて一人の童女の命を奪ったとあっては、この俺の尊厳に傷がつく」


「無職のくせに尊厳とか気にするのですか」


「ばっ……馬鹿にするなッ! 俺はな、働かずに一生遊んで暮らしたいとか、そういう自堕落な考えで曹操の誘いを断っているのではないぞ! 俺は漢王朝の民だ! 漢の帝をないがしろにして国政をほしいままにする曹操の横暴が許せぬゆえ、故郷に引き籠っておるのだ!」


「でも、無職は無職ですよね? 私が嫁に来る前からあなたは無職で、そしていまも無職。妻帯しても無職を貫こうとするなんて、嫁泣かせもいいところです。いつまで無職でいるつもりですか? さっさと曹操に仕えて無職を卒業していたら、私だって小燕を殺さずに済んだのに……」


「無職無職言うなッ!」


 この嫁、絶対に俺を見下している。司馬懿の堪忍袋の緒は、とうとう切れた。


「出てけ、出てけ! そんなに無職の夫が嫌なら、この家から出て行けッ!」

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