列異―Occultic Three Kingdoms―

青星明良

第一部 運命の邂逅編

一章 全ての始まり

司馬懿age62

 ワンス・アポン・ア・タイム――西暦二四〇年。古代中国、三国志の時代。


 しょく諸葛しょかつ孔明こうめい五丈原ごじょうげんで落命して六年の歳月が流れていた。・蜀・の三つ巴の戦いは、いまだ終止符が打たれずにいる。


 しかし、恐るべき孔明は鬼籍きせきった。もう魏には攻めて来ない。

 その安心感からだろう。魏の都洛陽らくようの人々は、毎夜枕を高くして、ぐっすり眠れていた。

 孔明の好敵手ライバルだった司馬懿しばいもまたしかり。彼はこの日の夜、宮廷の書庫室の窓辺に座り込み、書物を片手にうたた寝していた。


「またこんな寒い場所で居眠りを……。風邪を引きますよ、父上」


「夜中に読書をしながら寝るのはやめてください。火の不始末で宮殿を焼いたら一大事です」


 長男の司馬師しばしが老父の肩を揺すり、次男の司馬昭しばしょうが燭台の火を吹き消した。微睡まどろみから覚醒した司馬懿は「チッ。母親に似て口やかましい息子たちじゃ」と悪態をつく。


「六十二歳にもなって横着をするから、兄上や私にガミガミ言われるのです。少しは大人になってください」


「聞こえぬわッ。……それよりも、師よ。先年朝貢ちょうこうしてきたの女王に返礼の使者を派遣する一件はどうなった」


「万事、手はずは整いました。来月にも帯方たいほう郡の太守が使節を送り、女王卑弥呼ひみこ親魏倭王しんぎわおうの金印や銅鏡などの下賜品かしひんを与えます」


「それでよい。倭国は、南方の海の向こうにある島国だという。よしみを結べば、呉の孫権そんけんの動きを多少は牽制けんせいできるはずだ。……ああ、こらッ。まだ読んでいる最中なのだ。勝手に片づけようとするな」


 書物を司馬昭に取り上げられ、司馬懿は抗議の声を上げる。

 ちょうどその時、一条の月明かりが、窓から差し込んできた。その光は、司馬昭が手にしている書物をほのかに照らしていく。


「やや、これは亡き文帝ぶんていが記された『列異伝れついでん』ではありませんか。いやはや懐かしいですな」


 書名が目に入り、司馬師が老父に笑いかけた。司馬懿は顔を背け、「別に懐かしくはないが……」とごにょごにょ言う。


「いやいや、懐かしいでしょう。父上は昔、この書を作るお手伝いをしていたのですから」


「その本のために何十回も死にそうになったのだぞ。懐かしいどころか、嫌な思い出ばかりじゃ。……しかし、どうしても忘れることのできぬ不思議な体験をいくつもしてきたゆえ、時おりこうやって読み返してしまうのだ」


 司馬懿は、苦々しさと懐旧の想いがないまぜになった表情で、書物をそっと撫でる。


 この書の作者はただの人ではない。

 曹丕そうひあざな子桓しかん――魏王朝を開いた初代皇帝である。


 彼は、父である曹操そうそうの文武の才を受け継ぎ、大いに剣技を極め、大いに詩を詠み、そして大いに文筆活動に邁進まいしんした。一国を治める皇帝でありながら、三国時代を代表する文学者の一人だった。


典論てんろん』では己の文学論を語り、中国最初の百科事典『皇覧こうらん』編纂の指揮もった。そんな異色の皇帝兼詩人兼文筆家が著した書物の中でもさらに異色だったのが、



『列異伝』



 である。この書物について、『隋書ずいしょ経籍志けいせきしはこう紹介している。

 魏文帝又列異を作り、以て鬼物きぶつ奇怪きっかいの事をじょす――と。


 鬼物奇怪の事。つまりは鬼神や精魅もののけ、怪奇現象などといったオカルトのことである。魏文帝曹丕は、中国各地に伝わるオカルティックな説話を収集し、それを後世に残そうとした。いわば、オカルト作家の走りだった。


 そんな特異な説話集を書くからには、ネタ集めは欠かせない。若き日の曹丕は、狩りと偽って城を抜け出すたび、あらゆる怪異に首を突っ込んで取材をした。「魏文帝の四友」の一人だった司馬懿は、その助手をやらされ、たびたび恐ろしい目に遭っていたのである。


「文帝の助手になってしまったのは、あの御方がまだ二十一、わしが二十九の若造だった頃じゃ。……あれから三十三年経つ。文帝はまだ飽きずに鬼物奇怪の事を追い求め、『列異伝』の執筆を続けていらっしゃるようだ。ご本人が冥界の住人になってしまわれたというのに、まったく執念深き御方じゃよ」


 ずっと気難しそうな顔をしていた司馬懿が、初めてフフッと笑った。


 年老いた父の言葉に、司馬兄弟は(まさかボケたのでは?)と心配し、互いの顔を見る。司馬師が恐るおそる「父上」と言った。


「ご冗談はやめてください。幽鬼ゆうきとなった文帝が、この書庫室に忍び込み、黙々と書き物をなさっているとでもいうのですか?」


「二、三日に一度ここに来ている儂にお姿を見せてくださったことはないが、きっとそうだ。疑うのならば読んでみい。文帝崩御ほうぎょ後に起きた怪事がいくつも書き加えられておる」


「そんなまさか……。おい、昭。灯りをもう一度つけてくれ」


 司馬師と司馬昭は燭台を引き寄せると、互いのひたいを突き合わせ、三巻からなる『列異伝』をペラペラとめくり始めた。


 死んだ食客が主人に恩返しをする話

 幽鬼を売って銭儲けをした男の話

 蛇の妖怪を退治した方士の話


 どれもこれも、兄弟が幼い時に曹丕が語り聞かせてくれた説話ばかりだ。やはり、書物には特に何の変化も無い――と思いかけた時、「蔣済しょうさい」という魏の重臣の名前が目に留まり、二人は驚愕した。


 蔣済は司馬家と親しい付き合いがある。そのため、彼の身に近頃何が起きたか司馬師と司馬昭もよく知っていた。




 蔣済には、早死した息子がいる。三か月ほど前、その息子が蔣済の妻の夢に現れ、こう訴えたのだ。


 ――母上。泰山たいざんの役所での仕事がキツイのです。どうか助けてください。


 泰山とは、死んだ人の魂が集まるとされている場所である。その地下にある冥府めいふ――死者の魂を管理する役所――では多くの役人たちが働いている。蔣済の息子は、その役所であまり楽ではない仕事をやらされているのだという。


 ――近々、どこそこに住む孫阿そんあという人の魂が召され、泰山の長官に任命される予定です。彼に会って、あの世の長官になったら私を楽な仕事につけてくれるように頼んでください。


 驚いた蔣済の妻は夫に相談したが、蔣済は「ただの夢だろう」と言って最初は取り合わなかった。しかし、息子はしつこく母の夢枕に立つため、頑固な蔣済も孫阿という人物が本当にいるか半信半疑ながら調べてみた。すると、なんと実在したのである。


 蔣済は孫阿に会い、事情を話した。彼は人を疑わぬ性格だったらしく、もしも死んだら蔣済の息子を楽な仕事につける約束をしてくれた。


 孫阿が死んだのは、その日の正午のことである。

 一か月後、蔣済の息子はまた母の夢に現れて礼を言った。おかげで記録や帳簿を管理する楽な仕事に異動できました、ありがとうございます――と。




 司馬兄弟が蔣済本人からつい先日聞かされたその不思議な体験が、『列異伝』には事細かに載っていた。繊細で均整のとれた美しいこの筆跡は、まごうことなき魏文帝曹丕の文章である。誰かが悪戯で書き加えたものではない。


「いったい……どうなっているのだ、これは」


「兄上、これを見てください。ねずみの精魅がおうしゅうなんという男に『お前は何月何日に死ぬ』と予告したが、王周南が鼠をあえて無視したところ、鼠が逆に死んでしまった――という話は、つい数日前に我らが耳にした民衆の噂話ですぞ」


「他にもまだある。文帝死後の年号があちこちに出てくる。まさか、そんな……本当に?」


 司馬師が狼狽うろたえた声を上げると、司馬懿が「やれやれ……。その程度の怪異、恐れることもなかろう」と言って息子たちの背後を指差した。


「幽鬼の女に子守をしてもらって育ったお前たちが、なぜそんなに戸惑う」


 背後でトン……と小さな沓音くつおと

 食欲をそそる香気こうきが、ふわりと室内に漂う。


「この香りは……」


 ハッと気づいた兄弟は、後ろを振り向く。

 そこにちんまりと立っていたのは、外見は十代前半ぐらいに見える背の低い少女だった。その娘に、赤ん坊だった頃の司馬師と司馬昭は、子守唄を夜中によく歌ってもらっていたものである。


「旦那様。お夜食のスープをお持ちしました」


 愛らしい顔の少女は、小首を傾げながらニコリと微笑み、湯気が出ている椀を司馬懿に差し出した。


「ご苦労。幽鬼のお前がこうやって毎日夜食を運んで来てくれるようになって、ずいぶんと長い歳月が流れたものだな」


「ええ。もう三十三年になります」


「三十三年……。そうか……そうだった。あの方と俺の怪異をめぐる冒険は、お前とあの犬の怪物から始まったのだったな」


 温かな羹を飲み、司馬懿はそう呟く。


(儂の部屋に首無しの幽鬼が現れた時は本当にびっくりしたなぁ)


 そう思いながら、年老いた彼は、若き日の記憶を少しずつ手繰り寄せていくのであった……。

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