謎の侵入者

「うわぁぁぁ‼ 小燕許してくれぇぇぇ‼」


 絶叫とともに司馬懿は目を覚ました。気絶している間、首の無い小燕に追いかけられてひたすら逃げる夢を見ていたのである。


「はぁ……はぁ……。ゆ、夢か……」


 首筋に滴る汗をぬぐい、大きく息を吐いた。心臓が早鐘はやがねを打ち、今にも破裂してしまいそうである。


 雨はいつの間にか止んでいた。窓から差し込む夏の陽光の眩しさが、衰弱した神経に障る。もう昼時分だろうか。


 部屋に異変が無いか見回してみたが、窓辺に置いた手燭のが燃え尽きていること以外は、何の変化も見当たらない。「彼女」も姿を消している。ただ、あれが夢ではなかった証拠に、「彼女」が司馬懿に放り投げた椀がすぐそばに転がっていた。


 司馬懿は青ざめた顔を歪め、「き…………あれは鬼だ」と呟いた。


「この世に恨みを残した鬼は人を祟るという、子供の頃に聞いた怪談はまことであったようだ……。『怪力乱神かいりょくらんしんを語らず』と論語にはあるが、実際にこの目で幽鬼を見てしまったのだから疑いようがない」


 鬼――日本ではつのを生やした妖怪というイメージで語られることが多い。だが、中国における鬼は、死人しびとの魂を言う。人間は死ねば、すべからく鬼となるのである。


 だが、生者と死者は別の道をゆくもの。ふつう生者には幽鬼あの世の人が見えない。里の老人からそう聞いたことがある。それが姿を現したということは、この世によほどの心残りが小燕にあるということだ。その心残りというのは……。



 ――旦那様ぁ~。首をポーンとねちゃうなんて酷いじゃないですかぁ~。復讐しなきゃ死にきれませぇ~ん。うらめしやぁ~。



 ということに違いない。


 あんな死に方をしたのだから化けて出ても仕方ないよな、とは司馬懿も思う。

 でも、手を下したのは春華なのだ。自分が元凶であることは認めるが、さすがに祟り殺されたくはない。


「今夜も化けて出るのだろうか。昨夜は熱湯をぶっかけられただけで終わったが、次は何をされるか分かったものではない。御祓おはらいをしてくれる方士の知り合いなんていないし……。ど、どうしよう」


 司馬懿は頭を抱え、懊悩おうのうした。こんな時に春華ちゃん何でいないんだよぉ……と思わず愚痴が出る。




「ああーッ! 司馬の坊ちゃま、目ぇ覚めたんかい! よかった、よかった!」


 唐突に三人のおっさんがわめきながら部屋に駆け込んで来た。


 ビクッと驚いた司馬懿は、「な、何奴なにやつッ!」と叫んで立ち上がろうとしたが、


「重病人が無理に動いたらいけねぇーよ!」


 と、おっさんたちに押しとどめられた。彼らは、大柄な司馬懿を三人がかりで持ち上げ、寝台に座らせる。


 よく顔を見ると、おっさんたちは孝敬里こうけいりの民だった。小燕が生前によく噂していた、



 飼っている豚に逃げられたでんさん

 浮気がばれて嫁に殺されかけたがくさん

 母親のおっぱいを吸っているちょうさん



 である。


 彼ら里人は、小燕と同じく司馬懿を風痺ふうひの病だと思い込んでいるので、「坊ちゃま。体調は大丈夫かい?」と心配そうにたずねてきた。


「その坊ちゃま呼ばわりはいい加減にやめてくれ。俺はもう二十九だぞ」


「あなたは地元の名士、司馬防しばぼう様のご子息なんだ。わしらにとって坊ちゃまは、いつまで経っても坊ちゃまですよ。……そんなことより、坊ちゃま。とんだ災難に遭われましたな。昨夜、犬の怪物が里のあちこちで物を盗んだり、畑を荒らしたりと悪さをして回ったが、まさか小燕ちゃんが殺されちまうなんて。可哀想になぁ」


 温厚な田さんがグスッと鼻をすすりながらそう言った。


 司馬懿には言葉の意味が分からない。「……どういうことだ?」と眉をひそめてたずねた。


「どうもこうも無いですよ。坊ちゃまも夜に犬の怪物と遭遇して、ビビって気絶しちゃったんでしょ? 隠さなくていいですよ、おいらも気絶したから。小燕ちゃんはね、台所で首が無い状態で倒れていましたよ。あれは犬の怪物に殺されたにちがいねぇ。台所が血まみれになっていて、本当にもう酷い有り様ですよ。ああ、恐い恐い」


 臆病者の楽さんがそう語り、ブルルっと身を震わせた。

 すると、趙さんが「犬が少女の首をくわえて走り去るところを見た、という目撃談がある。それがきっと小燕ちゃんですぜ」と言った。なぜか彼らは小燕が凶暴な犬に殺されたと誤解しているようだ。


 夜中に野良犬が裏庭に入り込んだ気配があったのは確かである。そのワンコはたぶん小燕の墓を掘り起こし、首だけを持ち去ったのだろう。奇怪きっかいなのは、小燕の胴体がなぜ台所にあるのかということだ。犬がわざわざ裏庭から台所に運んだわけでもあるまい。


 ……とりあえず、妻の犯行だとは気づかれていないようなので、彼らの話に合わせてみよう。司馬懿はそう考えた。


「ああ……思い出した。恐ろしい獣が部屋の窓から顔をのぞかせて、驚いた俺は気絶したのだった。その後に小燕は殺されたのだろう。俺は歩けないから台所に連れて行ってくれ」


 そう頼むと、気のいいおっさん三人は「あいよ」と言って、司馬懿を台所までかついでいってくれた。




            *   *   *




 小燕の首無し死体は、楽さんが言っていた通り、かまどのすぐ横に転がっていた。


 だが、奇妙なことに、地中に埋められていたはずなのに、衣服や手足に泥がついていない。


(このおっさんたちが泥をはらってくれた……わけではなさそうだな)


 そういぶかしみつつ、他に異変は無いか台所を見回す。すると、異変はすぐに見つかった。裏庭に通じる戸が破壊されているのだ。何者かが屋内に侵入するために壊したのだろう。


「……昨夜は戸締りを忘れたと思っていたが、台所の戸はしっかり閉まっていたようだな。そのせいで侵入者に破壊されてしまったが」


 土間に散乱している戸板の破片を凝視みつめながら、司馬懿は苦笑した。


「おっそろしい犬ですよ。戸に大穴を開けるなんて」


 楽さんが恐怖で顔を引きつらせ、そう呟く。


 司馬懿は、それは無いな、と思った。


 その犬の怪物とやらが鋭い爪で戸を破ったのなら、破壊された戸板に爪跡らしきものが残っているはずである。だが、注意深く観察しても、その痕跡が一切無い。

 その代りに付着しているのは、くつの底の形をした泥。これはきっと裏庭の土だ。庭の泥土でいどを踏みしめた何者か――もちろん獣は沓を履かないので人間――が蹴破ったのである。


 では、どこの誰が戸を破壊し、小燕の胴体を台所まで運んだのか?


 まさか、死体キョンシーが自ら動き出して戸を破壊した? その後に司馬懿を襲い、また台所に戻って……いや、それはあり得ない。司馬懿が「彼女」に襲われて気絶する前に、戸が粉砕されるド派手な音などしなかった。「彼女」の気配は最初、台所からした。裏庭から家に侵入したのではなく、台所で唐突に「出現」したのだ。


 第一、生前に小柄で非力だった少女が、首無しの死体キョンシーの状態で、戸を蹴破るなどという芸当ができるとは思えない。昨夜見た「彼女」は、動くしかばねなどではなく、紛れもない幽鬼だ。


(やはり、武芸に秀でた何者かが戸を蹴破ったと考えるのが妥当だな)


 昔、父司馬防の食客に内功ないこう――内なるパワーを操る気功チャクラ――に優れた武人がいた。その男は、庭に頑丈な板を並べ、片っ端から蹴りで粉砕する修行をよくしていた。この鮮やかな戸の蹴破りようは、司馬家にいた食客の蹴り技を彷彿ほうふつとさせる。


(侵入者の正体について分かるのは、いまのところここまでだ。だが、そいつがどういう目的でこんなことをしたのかは、外を見たらおおよその見当がつく)


 裏庭を睨みながら、司馬懿は心の中でそう呟いた。


 庭には、夜中に野良犬によって荒らされたらしい牽牛けんぎゅう(朝顔)の花が散乱している。

 そして、不思議なことに、小燕の墓の形跡が綺麗さっぱり消えていた。犬が昨夜掘り起こしたであろう墓穴が見当たらないのである。墓をあばいた後、犬がご丁寧に土をかけて埋め直してくれたはずがない。


 もしも、子供を埋められそうなサイズの穴が裏庭にあり、その横に小燕の屍が転がっていたとしたら、田さんたちもさすがに人間の仕業だと思っただろう。そして、誰が彼女を殺し、死体を隠蔽いんぺいしようとしたかと考えるに違いない。最初に嫌疑がかかるのは、もちろん彼女の主人の……。


「おや? そういえば、奥方様の姿が見えませんね」


 司馬懿がシリアスな顔で考え事をしていると、田さんがそんなことを言い出した。不意打ちで家出女房の話題を出され、司馬懿はドキリとする。


「あっ! まさか犬の化け物に連れさらわれたんじゃ……!」


「つ、妻は里帰り中だから心配無い! それよりも、子供を殺すような物騒極まりない犬がいるとは由々しき問題だ。このことを俺の父に相談したのか?」


 司馬懿は目を激しく泳がせ、話題を無理やり春華から遠ざけた。


 すると、趙さんが「ご隠居様はすでに怪物犬の討伐隊を作って、現在、その犬と戦っていらっしゃいます」と驚くべきことを口にした。


「と、討伐隊⁉ 俺が眠りこけている間に、そんな大事にまで発展していたのか⁉ というか、大人数でないと退治できぬぐらいヤバイやつなのか!」


「ええ、ヤバイです。だから、坊ちゃまのお知恵を貸してもらいたくて、ここにやって来たのです。ぜひ俺たちと討伐隊に加わってください。俺たちゃ、司馬ご一族の命令なら何でも聞きます。犬の化け物なんざ、みんなで力を合わせて退治しちまいましょうぜ!」


 趙さんが腕まくりをして、そう豪語した。

 趙さんは戦場に行った経験もあって、筋肉隆々の偉丈夫である。こんな頼もしそうな男が夜は母ちゃんのおっぱいを吸っているのだから、世の中は分からない。


(幽鬼になった小燕のことも何とかしたいが、害獣の駆除におもむいたという父上も心配だ。俺も応援に行くしかあるまい。……しかし、犬ごときがそんなに危険なのだろうか?)




            *   *   *




「それ行けーッ!」


「わっしょい! わっしょい! わっしょしょしょーい!」


 竹で編んだ病人用の輿こしに司馬懿が乗り、景気よく号令をかけると、田さん、楽さん、趙さんは仮病の坊ちゃまを担ぎ上げ、屋敷を飛び出して行った。


 そんな賑やかな光景を司馬懿邸の屋根の上から見下ろしている男が一人――。


「フフッ。まるで祭りのようだな」


 端正な顔立ちのその若者は、形の悪い瓜をかじりながら、クスリと笑う。微笑むと、凄絶せいぜつなまでに妖しい色気が彼の美貌に浮かび上がった。


「どうせ血相を変えて逃げ帰って来るだろう。それまでの暇潰しに、あの首無しの下女を調べるかな。……司馬仲達は『幽鬼を見た』などと飛び起きるなり口走っていたが、あの娘のことだろうか。まあ、下女本人に直接聞けば分かるな」


 そう呟くと、若者は屋根からひょいと飛び降り、音も無く庭に着地した。


 そして、戸が壊れた台所から司馬懿の家に上がり込むのであった……。

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