男の子が飴を渡そうとしてくるんだが

けいひら

第一話 移住

「Heaven's Garden」

直訳して、天国の園。

うん、悪くない。


 今日は、2021年8月4日。生暖かい風が頬を撫で、髪をなびかせる。そこそこの都会という事もあり、あちこちを行き交う数多の車の排気ガスが、俺の汗をさらにふきださせる。だが、それは車やギラギラ輝く太陽のせいだけではない。今日は念願の引っ越しの日。


思えば、今日まで長かった。何年間もボロボロのアパートで細々と過ごし、出来る限り出費を抑えて、何とか金を貯め続けた。時には昼飯を抜いた時だって、風呂に入るのさえ我慢した時だってあった。そんな極貧生活を送ってこられたのは、マンションへの憧れがあったからだ。


俺は、生まれたときから今日までアパート暮らしで、ずっとマンション生活に憧れてきた。一軒家じゃダメだ。マンションじゃないといけない。少年時代、何度も友達の一軒家に遊びに行ったりしたが、特段心が躍ることはなかった。ただ、マンションは違った。エントランス、エレベーター、オートロック。マンションには、色んなわくわくがいっぱいだった。まるでホテルに宿泊するような感覚が、マンションを訪れるたびに感じられた。


そして、今まさに俺の目の前にあるのは、俺がこれから随分長い事世話になるであろうマンション、Heaven's Gardenだ。富裕層からしたらなんてことないかもしれないが、俺にとって7階建ての建物なんて、もはや高級ホテルみたいなものだ。俺が今日からこの建物の一住人になるのだと改めて思いなおすと、今にも笑みがこぼれてしまいそうだ。


引っ越しをしたからといって、仕事が変わるわけではない。毎日同じことの繰り返しで、通勤してから退勤するまで数時間、ひたすらパソコンの画面とにらめっこ。やりがいなんて微塵もないし、給料だって雀の涙。それらは、元はと言えば、真面目に生きてこなかった自分のせいなのだが、生きていくなんてそんなもんさ。だからこそ、マンション暮らしがこんなにも楽しみに思える。


丁度今から数週間前、このマンションを見つけた。ネットで物件を探し回っていたところ、ようやく俺の求める条件に合致した物件が見つかった。マンションのセキュリティはカードキーなのに家賃はそこまで高くなかったから、見つけてから引っ越そうと決めるまで一日とかからなかった。色んなマンションの情報を見てきたからこそ、そのイレギュラーさは目に余った。ネットの知識だからあっているかは定かではないが、ふつうカードキーを採用しているマンションは、家賃が高い傾向にあるらしい。だから、俺はかなりツイている。


カードキーをエントランスのドアにかざし、本格的にマンション内へと進む。ドアが閉まる際に、「ピピッ、ウィーーーン」とドアが閉まる音が聞こえた。これだこれ、これを望んでいたんだ。

エントランスを抜けて少し進むと、真ん中の広場を囲うようにマンションの部屋が整列していた。広場にはベンチやら木やらがあり、まるでそこら辺の公園のようだった。ネット上で画像はすでに見ていたが、実際に見てみると迫力が違う。例えるなら、ローマのコロッセオ。荘厳な雰囲気を醸し出していたが、一方で全部屋から監視されているような圧迫感を感じる。ただ、それは俺が初めてここに来たからであり、きっと数日もしたら、あの広場で毎朝コーヒーを嗜めるくらいには馴染んでいることだろう。

今日は平日ということもあってか、広場に人は見えなかった。俺は有休を一日取って引っ越しをしたから平日の午後5時にこんなところでトボトボ歩けているわけだが、今頃大抵の大人は仕事に勤しんでいることだろう。仕事で疲れた一日の終わりにこの広場でゆっくり本を読んだり、趣味を楽しんだり、そういった過ごし方も楽しそうだ。


広場へは向かわず、エントランスを抜けてすぐ左のエレベーターの前まで行くと、上行きのボタンを押した。外からも分かっていたが、エレベーターは初めから一階に止まっていた。ボタンを押してすぐにエレベーターのドアは開き、俺を歓迎した。中へ入り、五階のボタンを押すと、「扉が閉まります」という女性のアナウンスと同時に、ドアがゆっくりと閉まった。正直、アナウンスなんてあるとは思いもしなかったから心臓が飛び出るほど驚いたが、ただただマンションのシステムに感動してしまった。こんなちゃんとしたアナウンスは、駅か高島屋くらいでしか聞いたことないかもしれない。


「五階です。ドアが開きます」

エレベーターが五階へ到着すると、再び機械的なアナウンスがエレベーター内に響き、ゆっくりとドアが開いた。俺の部屋は504号室、エレベーターを出て右手の通路を突き当りまで進み、そこから左に延びる通路を少し進んだところの右手にある。マンションの管理人に事前に教えられた通りの道を通り、部屋の前まで差し掛かった。鍵を開け、部屋に入ると、部屋のにおいが無いことに違和感を覚えた。ふつう家に入ったら家のにおいがするものだが、前の住人がきれいに掃除をしてくれていたのか、人独特のにおいや、何か気になるようなにおいは一切しない。

無いのはにおいだけではなかった。まだ引っ越したばかりという事もあり、家の中には家具という家具はほとんどない。今まではボロボロの家具を使い続けていたから、この引っ越しを機に一新しようという魂胆だ。一応冷蔵庫だけは持ってきたが、これも変えよう。明日は仕事があるが、あさっては休日だから、その日に家電量販店にでも出かけて買えばいいだろう。この部屋を彩るのが楽しみだ。



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