後編

 九十九神。それは、人ならざる者。境界に座し、すぐ傍らに潜むモノ。




 怒声と轟音が辺り一面に鳴り響き、鉄と血の雨が吹き荒れる。


 硝煙の匂いが立ち込め、ありとあらゆるものが、混沌を奏でる楽器と成り果てていた。


 ここは惑星インパラ。銀河を二分する、宇宙連邦と機械帝国が存亡を掛けて戦う最前線だ。


双方の兵士達が己が命と正義をチップにぶつかり合い、運の悪い者が死ぬクソッタレのギャンブル場。そんな戦場の一角に浮かぶ丘の上で、擬態を施した兵士達が通信を行っていた。


『通り魔殺人は知ってる?』


『知るかよ。もう三日もここに居るんだぞ。テレビも新聞も見ちゃいないぜ』


『高夜さん、少しは外に出てちょうだい。私より酷いわよ』


『仕方ないだろ。お前が復活してからウチはまた閑古鳥なんだから』


 一人はスナイパー。擬態を施し、身も心も場と一体化、相手の隙を縫って必殺の一撃を叩き込む、のが仕事なのだが、今はスコープではなくポインターの女兵士に目を向けてくっちゃべっていた。


『夏祭りが近いから、暫く失せモノ探しは休業する予定。また少し忙しくなるんじゃないかしら』


『それで夏美が走り回ってるのか』


『合間を縫って顔を出してるでしょ。それで、さっきの話なんだけど』


『ああ、はいはい。明るい内に気をつけて帰るよう注意しといてやるよ』


『ふむ、できれば連れて来てくれた方が安心じゃがな』


『おわっ!』


 突然、二人の後ろに場に似合わぬ将校の制服に身を包んだ女性が現れる。


 スナイパーは驚きのあまり立ち上がってしまった。


『天龍様、どうしたんですか?』


『いやいや、お主達を探しておったのじゃ。吾もクランに入れてくれんかのう』


『入れてくれってあんた――』


 戦場のど真ん中にまで来て何を言い出すのか、と呆れたスナイパーは、そこでようやく気づく。


 連邦兵と帝国兵、両方に囲まれており、全員なにやら怒り心頭と言った調子である。


『何マルチプレイ中に世間話してやがるんだ!』


『やる気がねえなら帰れ!』


『あ、いや、ちょっとま――』


『手前ら、やっちまえっ!』


 一人の号令を受け、連邦兵と帝国兵が一斉に彼ら三人に攻撃をしかける。


 あっという間に、三人は蜂の巣にされてしまった。




「だああああっ!?」


 高夜秋介は思わず頭を抱えてのけぞる。


穢れの件を解決し、磐田冬乃が彼と同じオンラインゲームに参加して来たので、クランを組んで、大規模なサバイバルコンテストに参加したのは良かったのだが、予期せぬ来訪者に全てを台無しにされてしまった。


 最近、このゲームでは運がない。


 パソコンの画面上では、ブリーフィングルームに強制撤退させられた操作キャラの男スナイパーとポインターの女兵士が立ち尽くしている。


「くそお、まさかこうもあっさり離脱させられるなんて」


 取り付けたヘッドセットから、女兵士のプレイヤーである冬乃の声が聴こえてくる。


『ごめんなさい。まさか天龍様が入ってくるなんて思わなかったから』


「って言うか、何でミナモがこのゲームプレイしてんだよ……」


『ふっふっふっ、説明してやろう』


 いつの間に入ってきたのか、将校キャラが二人の間に立っていた。


 ボイスチャットからも間違いなく、プレイヤーは、冬乃の実家である天龍神社の祭神、ミナモだった。


「ノックをしろよ、ここはメンバー募集中のクランじゃねえんだぞっ」


『よいではないか。知らぬ仲でもあるまいし』


「マナーの話だ! んで、何であんたがここに居るんだ?」


『ふむ。吾も、あの事件の後、お互いをもっと知るべきじゃと思ってのう』


『それで、私がゲームやってるって言ったら、やってみたいって』


「それで、パソコンを本殿に置いたのかよ」


『無論じゃ。何でも、最強すぺっくと言うのでな』


 専用機と言う事らしいが、秋介の記憶に間違いがなければ、本体以外も揃えて彼女と同等のを買うならば三十万は下らない。神社って儲かるんだな、と彼は思った。


「信者って書くんだもんな、そりゃそうか」


『何じゃ、無礼な事を考えておらんか』


「いや別に。それより、冬乃に言われたなら、今までどこで何やってたんだよ?」


 もっと早く、彼のクランに参加すれば良いのに、何故今になって言い出したのか。


『ふむ。さすがに吾とお主達では年季が違うからの。足手まといにならぬよう、鍛錬をしておったのじゃ』


 言葉通りに取ると聞こえはいいのだが、結果彼女が手にしたランクは将校。この中で、年季は一番長い秋介ですら少佐である。わずか数日で登り詰めたとすれば、それはもはや単なるゲーマーではない。


「廃人レベルじゃねえかよ!?」


『何を人聞きの悪い事を。こんなもの、チョチョイじゃ』


「神力使ったのか?」


『違うわよ。天龍様は、別に寝なくても問題ないんだから』


 神であるミナモに人間と同じ時間配分は期待できない。まして、彼女の話ではパソコンはもちろんゲームも初体験。普通なら切れそうな集中力も、彼女にとっては序の口と言う事か。


「プレイ前から廃人か」


『じゃから、吾をそんな世捨てのように言う出ないわ』


「神だろ」


『う、うむ。って、からかうでない。ともあれ、吾もクランに入れてもらおうかのう。お主達もただのスナイパークランではやりにくかろう』


「そりゃ、いいけど、はあ」


 参加者が増えるのはいいのだが、秋介は何とも言えない気分になった。神社の神様がネットゲームか。


『それで、通り魔とやらの話じゃが、九十九堂も重々気をつけて欲しいのじゃ』


「俺は家から出ないよ」


『お主は心配しとらん。夏美に対してじゃ』


『高夜さん、私からもお願い』


「いちいち言わなくてもわかってるよ。時間があれば送ってやるから」


『家から出ないんじゃから時間はあるじゃろうが』


「そう言うなよ。じゃあ、キリも良いから俺は切り上げる。そろそろ寝とかないと、そのままオチそうだ」


『わかったわ。じゃあ、また声かけて』


「おう」


『吾も忘れる出ないぞ』


 ミナモのアピールに秋介は無言でゲームを終了する。彼女の入り浸り具合なら、また入れば勝手に気付きそうだ。


 大あくびをしながら、体を伸ばし、部屋を後にする。外は明るい。また一晩潰してしまった。


 下に降りると葛葉が狙ったようにお茶を淹れていた。


「あ、秋介さん、おはようございます」


「おう、おはよう」


 座布団の上に座り、淹れたてのお茶をすする。苦味が口に広がり、眠気を少しだけ飛ばしてくれた。


 冬乃との話で気になっていることがあった彼は、葛葉に尋ねる。彼女も新聞は読まないし、テレビもさほど興味はないのだが、世間話くらいは聞いているだろう。


「なあ、通り魔殺人の話は知ってるか?」


「え、あ、はい。もう何人か犠牲者が出てるみたいですね。夏美さんにも気をつけるように言っておいた方がいいと思います」


「ああ、冬乃にもそう頼まれたよ。どんな通り魔か聞いてるか?」


「そこまでは、ちょっと。テレビでならやってるかも知れませんけど」


「いや、いい。別にそこまで興味があるわけじゃないし」


 そう言って彼は横になる。


 殺人と言うのは穏やかではないが、通り魔なら自分の出番はまずない。夏美には十分気をつけてもらうにしても、こっちから首を突っ込む必要はないのだ。


 ふと顔を上げると、葛葉が正座して、期待を込めた目で見つめてくる。


 心なしか、膝をアピールしている。


「……」


 彼は無視して目を閉じる。どうせ、結果は変わらない。


 吸い込まれるようにして、彼の意識はストンと落ちる。


沈黙は肯定と言うのが二人の暗黙の了解。返事はないが、好きにしろと言う事だ。


 寝息を立て始めた秋介の頭を、葛葉はそっと持ち上げ、自分の膝に乗せて、ご満悦の表情を浮かべるのだった。




 赤色灯とサイレンが早朝の多神町を駆け抜けていく。


駅前の大通り、その一角にパトカーが何台も止まり、警官が野次馬のように集まっていた。


そこへ更に一台走り込んで来る。降りてきたのは中年の刑事。ヨレヨレでヤニ色に染まったワイシャツについてるだけのネクタイはズボラとしか言いようがないが、鍛えられたしなやかな体と鋭い眼光からそれが擬態であるとわかる。さしずめ、人の中に紛れた雄ライオンだ。


「ご、ご苦労様です!」


彼の放つ獣臭に、若い警官は震えまじりに敬礼し、立ち入り禁止テープを持ち上げる。


「ご苦労さん」


一瞥する事もなく、彼は現場へ踏み入る。


鑑識が動き回る様子を見つめていると、遅れて若い刑事が現れる。細い路地に入るやいなや、充満していた血の匂いに若い刑事は顔を真っ青にし口を押さえる。


「吐くなら外に行け。現場を汚すな」


厳格且つ重厚な声でそう告げる。


「す、すみませんっ!」


許可を得た若手刑事は駆け足で現場を飛び出して行った。


だらなしないと心の中で吐き出しながら、彼はタバコをくわえる。


「あん、ダメダメ。遠江刑事、あなたも汚しちゃやあよ」


火をつけようとしたところで、鑑識官の一人がすかさずタバコを取り上げる。


他の捜査員達が遠江と呼ばれた刑事に戦々恐々とする中、彼は物怖じする様子は微塵もなかった。


甘ったるい、媚びるような口調だが、この鑑識官は男。名は敷地。その性格からなのか、遠江刑事に遠慮のない者の一人である。


「ああ、すまん。しかし、こうも臭ってはな」


「タバコは芳香剤じゃないわよん。それで、どうする? 見る、見ちゃう?」


敷地鑑識官は、前かがみで見上げる、グラビアにありそうなポーズで尋ねてくる。


彼のノリノリな様子から、この先にあるモノを考えると遠江刑事はすでに胸糞悪さで一杯だった。


いつだって、この時ばかりは刑事である事を彼は恨む。確認する責務が自分にはあるのだから。


「見ないわけにはいかんだろうが」


「はいはい、一名様ごあんな~い。おイタは無しよ~」


 促されるままに、遠江刑事は更に奥へと足を進める。


生臭さが強くなり、渋い顔をさらにしかめて、目当てのモノを見下ろした。


「こいつは、クソッ」


視線の先にあったのは若い女性の死体。瞳孔の開いた二つの目が、建物に切り取られた狭い空を見上げている。


唯一無傷なのはその頭部だけだ。


両手は欠損。体は内臓から引き裂かれて骨が覗いている。周囲に血が飛び散り、下劣な壁画を描いていた。


「腕は?」


「すぐそばで、骨で見つかったわよん。検死次第だけど、多分また、でしょうね」


「また、か」


似たような亡骸は初めてではなかった。


あまりの惨さに詳細は発表されていないが、彼女もまた巷で噂の、通り魔殺人の被害者である。


遠江刑事は怒りに握りしめた拳を塀に叩きつける。


敷地を除く捜査員達がギョッとして一斉に彼の方を見るが、殺気と苛立ちに満ちたその姿に慌てて視線をそらす。


「食人鬼め!」


その憤りに満ちた言葉は獣の唸り声のようだった。




翌日、多神署の遠江のデスクに敷地がやってくる。相変わらず脳天気な笑みを浮かべ、無造作にファイルを放る。乱雑に置かれた資料がメダルゲームのように押し出されて散らばった。


「んもう、もっときれいにしておきなさいよ」


「このヤマが片付いたらな」


「あらら、それじゃもう少し先になりそうね。検死報告書、見ないの?」


遠江はしかめっつらのままファイルを取りパラパラと中身を流し見していく。


「相変わらずだ」


今までの報告書と大差はない。わかることは、同一犯であることと、肉を喰い千切られたと言う事だけだ。


だが、敷地が人差し指を立てて横に振った。


「ノンノン。新しくわかった事があるのよ」


敷地はファイルを開け直し、中から一枚の写真と紙を取り出す。


「犯人の歯形がわかったのよ」


「何だと?」


遠江は体を乗り出した。歯形は犯人に直結する重要な証拠だ。過去の犯行では、損害が酷く、鳥がたかっていたりでわからなかったが、今回は発見が早く、見つける事が出来たと言う。


写真は被害者の首が写っており、確かに噛み傷らしきものが残っていた。


「どうして、最初に言わなかった?」


 はっきりと残されたそれは、発見当初教えられるべきものだった。薄暗い路地裏で死体にあまり触れられなかった自分はともかく、敷地から言及がなかった事が信じられなかった。


「だってそれ、おかしいでしょ? 正直、ちゃんと検死できるまでは混乱の元は言いたくなかったのよ」


 申し訳なさそうに目を伏せる敷地に、彼もそれ以上強く言えなかった。


そして、改めて写真に目をやる。敷地はこれをおかしいと言った。それは、一体何か、見極める為に。


「何だ、これは?」


「あらら、気がついちゃったの。やあね、説明しようと思ったのにぃ」


口を尖らせる敷地をよそに、彼は写真を食い入るように見つめる。科学畑ではない遠江でもその異常に気づくのは簡単だった。


写真の傷は二本の直線を描いていたのだ。人間の歯形であれば半円形になり、左右に独立した線を描く事は有り得なかった。


「これは、何なんだっ」


「はいはい落ち着いて。一応は調べてあるわ。これは顎が長く突き出した生き物のものよ。大きさから見てイヌ科みたい」


種類は調査中だと彼は付け加えた。


確かにイヌ科の顎であれば、台形のような歯形が残るが、それは遠江を納得と同時に困惑させる。


「イヌ、だと?それなら殺人犯は野犬だって言うのか」


「でも、現場にはそんな痕跡は微塵もなかったのよ」


 流血があったが、人間はおろか動物の足の血痕はなかった。そして、毛の一本すら残ってはいなかったのだ。


 それゆえに、敷地は現場で確証が持てず遠江に報告しなかったと言う事らしかった。


「いっそ、犬のお化けだったりしてね。それなら、返り血を浴びずに、ドロンできるわよ。犬だけに、ね」


 まったく上手くない上に笑えない冗談に、遠江は彼を睨みつける。


 降参降参と、敷地は両手を上げた。


「しかし、どうなってやがるんだ?」


 ただの野犬に、何の痕跡も残さずこれだけの殺し、否、食事が出来るわけがない。野生動物を追う際に、学者は食事後や糞を手がかりにする。その場合高確率で足跡が残っており、進行方向も判別できるが、今回はそれがない。


 敷地ではないが、お化けだと言い出す輩が出てもおかしくない状況だった。


 ボリボリと、もう何日も洗っていない頭を掻いた彼の脳裏に、ふとある事が浮かぶ。


「まさか――」


「どしたの?」


 いる。このファンタジーみたいな状況を起こせる奴が、この町には。


 無論、犯人ではないだろう。彼の直感がそう告げている。だが、ヒントにはなるはずだ。


 勢いよく立ち上がった遠江はファイルを抱え、首を傾げる敷地に向き直る。


「こいつを借りてくぞ」


「控えだから、ご自由に~」


 遠江は足早にデスクを後にする。部屋を出て行こうとする彼に、敷地が呼びかける。


「あ、遠江ちゃ~ん。人に会うなら、シャワーは浴びていきなさいよ~」


「うるせえ!」


 結局、彼は忠告通りシャワーを使う事にした。これから向かう先は匂いには確かにうるさい。


 熱い水を頭から浴びていた彼の顔に笑みが浮かぶ。しかし、それは自嘲以外の何ものでもなかった。


「また、こうなるのかよ……」


 決して同僚達の前では見せない気弱な呟きは、シャワーの水音と共に流されていくのだった。




 一台のスイフトが九十九堂の前に止まる。


 中から降りてきたのは、見た目はこざっぱりしているものの、獣のような印象を受ける、中年の男性。遠江刑事その人だった。


 首を回すと、ポキポキとこっていた音が響く。地元のメーカーと言う事もあって白黒パトカーではない捜査車両としても使用している車なのだが、いかんせん彼の体格にはあっていなかった。これでサイレンを鳴らして駆けつける時が彼にとって仕事では一、二を争うキツさだったりする。


「ちっ」


 さりげなく入口に貼られたタバコお断りのステッカーに彼は、くわえていたタバコを靴の裏で揉み消すと、そのまま置こうとする。


 喫煙者には辛い世の中になったものだ。


「あ~、ポイ捨てだあっ」


 通りがかりの子供が指を差してそう叫ぶ。苦い顔で遠江は車の灰皿へと放り込んだ。


 まったく肩身が狭い、と一人ごち、子供の視線から逃げるように、彼はよろず請負と書かれた暖簾をくぐる。


 掃除がきちんとなされているようで、立て構えから来る古ぼけた、埃っぽさは皆無だった。


 ただ夏場の割には冷めた空気が漂っていた。


「邪魔するぞ」


 呼びかけるが、返事がない。


「おい、九十九堂!」


 少々大きめに声をかけるが、やはり反応がない。


暖簾も出ていたし気づいていないと言う事はあるまい、と彼は少し待つ事にして店内を見回す。


申し訳程度に値札のついた荒物と、骨董品と思しき時代を感じさせる雑貨が土間には並んでいる。町家なので、店としてみれば正しい使い方だが、看板で便利屋や探偵を謳っている店には不釣合いだった。


「くそ、九十九堂、いねえのか!?」


 一向に出てくる気配のない店主に、声を荒げるが、全くもって反応がない。


 普通なら留守かと思う所だが、長く刑事として仕事をしてきた彼の感覚が、奥に確かに気配を感じていた。


 居留守か、はたまた強盗にでも押し入られているのか。


後者は、地球がひっくり返っても有り得んな、と即座に否定した彼は靴を脱いで上がりこむ。


来るのは初めてではないし、町家作りと言うのはどこも一緒だ。


気配のする居間へ、ずかずかと進み、襖を開ける。


「いい、すごくいいですよ葛葉さん! そのまま夏祭りに来てくださいよ!」


「いえ、でも、やっぱりお祭りには浴衣の方が」


「そうだよ、夏美ちゃん。大体、こんな格好じゃ、高夜さんも一緒に来るのに困ると思うよ」


「何で俺が行く事前提になってるんだよ?」


 あまりの光景に彼は目を疑った。


 九十九堂の居間は、金髪の美女がメイド服に身を包み少女二人がそれぞれ感想を言い合う、女性服の試着コーナーと化していた。


 そして、店の主はお茶を片手に、不満そうに唇を尖らせている。


 襖をそっとしめ、彼は両目を指で押さえつける。シャワーを浴びて頭をすっきりさせて来たつもりだったが、徹夜が続いていた事もあり疲れているんだと己に言い聞かせる。


 深呼吸して、改めて襖を開ける。


「み、ミニは、ミニはダメです! そんな、もう見えちゃうじゃないですか!」


「いえいえ。これくらいで丁度いいんですよ! むしろ見せる気概で着ないと!」


「み、見ていいのは秋介さんだけです!」


 顔を真っ赤にした金髪美女が、必死にミニスカートのメイド服を持って迫るボーイッシュな少女に押し迫られている。


 もう一人の、あまり特徴のない少女が必死に止めようとしているが、店主の方はあまり興味なさげだった。


 ミニスカメイド服を着せようと迫るのは変態のクソ親父共ぐらいだと思っていたが、時代は変わったな、と遠江の脳が現実逃避を始める。


「み、見ていいって、やっぱりお二人はそういう関係なんですか?」


「違う。断じて違う。それより、刑事さん。セクハラでそこの夏美を説教してくれないか」


「お兄ちゃん酷いよ。私はお兄ちゃんと葛葉さんのた……刑事?」


「え?」


「はい?」


 秋介の思わぬ一言に、他の女子三名が硬直する。同時に、遠江に六つの視線が突き刺さった。


「きゃああああああっ!?」


「あ、え、誰っ!?」


「あ、あのあの、違うんですよ! 犯罪とかそういう危険なのじゃなくてですね」


 葛葉が見られた恥ずかしさに耐えかねて悲鳴をあげ、夏美の思考が処理落ちする。


 何とか場を収めようと、熊谷理恵が遠江の視界を遮るように両手をぶんぶん振り回す。


「五分やるから落ち着け」


 そう言いつけ、彼は襖を再び閉める。ドタドタと向こうから慌しい音が聞こえ、見たモノが現実だったと彼に教える。


「何なんだ、一体」


 遠江は思わず蹲ってしまう。死体を見た時よりよほど刺激的と言うか、ドッと疲れる光景だった。




「申し訳ありません、お見苦しい所をお見せしてしまって」


 シュンと葛葉はうな垂れる。メイド服から半袖のブラウスとロングスカートに着替えていた。


 お客が来たと言う事もあり、夏美と理恵はすでに店を出ていた。先ほどまでの騒ぎが嘘のようだ。


「いや、気にすんな。それより、何だったんださっきのは?」


「天龍神社の夏祭りで、協力要請ですよ」


 秋介はボーイッシュな方が神社の関係者だと伝える。


「なるほど。だが、そう言う振興事業協力は商工会でまとめてやるんじゃないのか?」


「生憎、ウチはこんな仕事なので、そっちで協力の仕様がなくて」


「なるほど」


 確かに便利屋では出店もへったくれもないだろう。


 ただ、それがどうメイド服に繋がるのかが遠江にはわからなかった。


 設営等の手伝いならば、却って邪魔になりそうなものだ。


「もともと、神社とは古くから付き合いがありますからね。休憩所の方でお茶出しを手伝って欲しいと」


「それでメイド服、ね」


 遠江は萌えが嫌いではないが、正直苦手であった。


 その手の要素は県内でもCHA88とか言うのがいるように、客寄せには丁度いいだろうが、逆に層が偏ると問題が置きやすくもあるのだ。理解はできても、警察としては節度を守ってもらうので一苦労だ。


「でも、夏祭りにメイド服なんておかしいじゃないですか。浴衣ならまだしも」


「葛葉、そこは巫女服と言うところだ。神社的に」


「あ、えっと、秋介さんはそっちの方が好みですか」


「和装は大切だぞ」


「それは話が違うと思うがね」


 相変わらず二人とも少しズレてるな、と彼は思う。久しぶりに来てみたが、こうして見ると印象に大差はない。


 向こうも自分が刑事だとすぐに判断していたので同じ事か。


とにかく先ほどの衝撃的な光景の事情は一通り飲み込めた。


 一息つき、淹れられたお茶をすすると、秋介がテーブルに肘をつき、両手を顔の前で合わせる。


 ここからは本題。それが合図だった。


「それで、遠江刑事。久しぶりにいらっしゃって、どんな御用です?」


「最近、殺人が起きてるのは知ってるか?」


「通り魔の?」


「そう。連続通り魔殺人だ」


 本当はつい先日までまるで知らなかったが、そんな事を遠江が知る由もないし、話が通れば関係の無い事だった。


 せいぜい、話を持ってくる場所を間違えたかと不安にさせていたかどうかだろう。


 彼はポンと敷地から借りて来たファイルをテーブルに置く。


 部外秘と赤いスタンプがわざわざ押されているそれを、秋介はいぶかしげに見つめた。


「これは?」


「捜査資料だ」


「いや、そりゃそうでしょうよ」


 別に秋介は情報の売買をするような裏の仕事はしていないのだから、現役刑事が他に持ってくる機密性の高い書類など、捜査資料以外にありえない。


「ああ、すまん。通り魔の奴だ。ここだけでなら見てくれてかまわん」


 遠江がいい終わらないうちに秋介はファイルを開く。


 写真をみるなり、感嘆とも驚きとも取れる声がこぼれた。


「おわお。こりゃまた、臭って来そうだ」


 目を俄かに丸くするが、まるで嫌悪や忌避を感じさせない彼の様子に、遠江は内心溜息をつく。


 ウチの若い奴よりよほど慣れてやがる、と。


「何と言うか、品のない芸術作品ですね」


「人が死んでるんだ、もう少し言葉は選べ。それで、どう思う?」


「どうって、下品としか」


 そう言って、ぺらぺらと秋介は資料をめくっていく。遠江は怒りや憤りをまるで覚えていないその姿に薄ら寒いものを感じていた。


「ったく、何て奴だ」


「はい?」


「こっちの話だ。それより、俺が聞きたいのは死体の感想じゃない。犯人についてだ」


 資料をめくる指を途中で止め、秋介は首を傾ける。


「プロファイリングはやってないんですけどね」


「俺もそういう方面は期待しちゃいねえよ。って言うか、お前、わかってて言ってるな」


「いいえ。あくまでも、資料を見て良いと言われたので見せてもらってるだけなので」


 首を横に振ってそう答えるが、今の反応で秋介は事情を飲み込む。


 遠江と会うのはこれが初めてではない。一年ほど前に、別の事件で面識があり、その際に遠江は葛葉の正体まで知るに至っている。


 そんな彼がわざわざ持ってきた以上、この事件には人ならざるもの、九十九神が関わっている可能性があるのだ。


「こいつは――」


 再びファイルに目を落とした秋介の目があるものに奪われる。それは、遠江が九十九神の関与に思い至った、あの歯型だった。


おぞましい殺しを行いながら、一切の痕跡を残さなかったイヌ科の動物。確かに、普通の動物では考えにくいが、九十九神であればと思うのも当然だった。


 他のページとは違い、じっくりと内容を確認する秋介の様子に興味を持ったのか、葛葉もそっとファイルを覗き込み、眉を潜めた。


「まさか、私達を疑っているんですか?」


 ギロリと彼女は遠江を睨みつける。


「そんな睨むな。お前達じゃないとは思うが、生憎と他にツテもないのでな」


「アリバイでも言っておいた方がいいんですかね?」


 死亡時刻は深夜なので、彼は絶賛ネトゲ中だった。ボイスチャットなので、証明は楽勝だ。そして、葛葉が無断で外出する事はない。


 相手の自信と、己が直感から遠江は無関係なのは確信し、首を横に振った。


「いやいい。それより、お前らの見解が聞きたいだけだ」


「まあ、十中八九、あなたの予想通りでしょうね。葛葉、どう思う?」


 秋介からファイルを渡された彼女は、写真を見返す。


「他の死体を見てみないと確信は持てませんけど、多分、狼ですね」


「何?」


 いきなり、種類を限定してきた事に思わず聞き返してしまう。


 葛葉から返されたファイルを広げて置いた秋介は、死体の歯形を指しながら頷いてみせる。


「狼か、そうだな」


「ええ。死因は窒息になってますし」


「どう言う事なんだ?」


「狩の仕方ですよ。喉に喰らいついて窒息死させる。ヘラジカのような大型の獲物に対してよくやりますね」


「ふん。それなら別に狼に限定しなくてもいいんじゃないのか?」


 わざとらしく、遠江は葛葉を一瞥する。イヌ科で肉食なら、同じような修正を持っているのでは、と言いたいらしい。


 葛葉はむっとして、そっぽを向いた。


「私達は肉だけ食べたりなんてしません」


 狐は、肉食に近いがあくまで雑食。捕らえる獲物も大半が小型のげっ歯類。狩も跳躍からまずは相手を押さえ込む。そして噛み付きによりショック死させるのであり、狼とは狩りの仕方が根本が違うのだ。


「それにこの現場」


「現場?」


「死亡時間帯が深夜なんですから、普通こんな所には入りませんよ。誘ってるようなもんです」


「言われてみれば、そうだな」


 狼はパックと呼ばれる群れを形成して狩りを行う。それも獲物によって手法を変える、かなり計画的なものだ。


「相手を群れから引き離すなんてのはお手のものですからね」


「被害者をここまで誘い込んだって言うのか?」


「その可能性が非常に高いって事ですよ。イヌ科だって言うのなら」


「狼か」


 日本国内で狼などと公式発表されようものなら混乱は必至だ。野犬だと言ってくれた方が気が楽だったな、と彼は思いながらタバコを取り出す。


 葛葉はむっとして注意する。


「遠江さん、ここは禁煙です」


「冗談だろ?」


 秋介が未成年なので灰皿は自前で用意したというのに。店でなく居住区画なので見咎められるとは思っていなかった。


 彼はライターを取り出し、強引に火をつけようとするが、火花が散るだけで着火しない。


「くそっ」


「あ~、遠江刑事」


「何だよ?」


「葛葉が睨んでますから、一生かかっても火はつきませんよ」


 申し訳なさそうにそう告げる秋介の隣で、小姑のように葛葉が彼を見下げている。


 そう言う事か、と遠江も理解する。火の気を操る狐の九十九神を前に、着火などさせてもらえない。


「江戸の稲荷は火除けの稲荷、って事か」


 神も妖怪も、崇められているかどうかの違いで、基本の力は一緒だ。


 遠江は諦めてライターをしまうが、口慰みにとタバコをくわえ続ける。


「で、こいつは単独か?」


「狼はパックを作りますからね。単体って事はないでしょう」


 九十九神になっても一定の習性は守る者が多い。群れを作り、その群れの構成も恐らくは同じだろう、と見解を示すが、遠江は首を横に振った。


「そう言う事じゃない。人間が関わってるかどうか、だ」


 お前みたいな、と言おうとして彼はとどまる。秋介が直接問題を起こした事など一度もないのだ。突っかかるのは、間違っている。


「使役者の事ですか? 考えにくいですね」


「狼の九十九神は、大神と呼び変えられる程、個別に力がありますから。下手な術者が契約を結ぼうとしたら反動で確実に死んでしまいます」


「ちっ、そうなると本当に野生か。参ったな」


 顎をさすりながら、彼は溜息をつかずには居られなかった。


 仮に人間が関わっていれば、警察でそっちの身柄を押さえればいい。できれば、の話だが、まだ実現度が高いし、それで解決。大々的に発表できる。


 しかし、野生となればお手上げだ。解決しましたと発表するのも躊躇われる。


さらに、捜査中に警察と狼の九十九神が出会えば、死体の山ができるだけだ。


 彼はぐっと拳を握り締めて、頭を下げる。


「九十九堂、今度の件。捜査に協力してくれ」


「構いませんよ。まあ、これを見て、話だけってわけにも行かないでしょう」


 彼は頷いて、ファイルを返す。中身はあらかた覚えてしまった。


「頼まれなくても、動きましたよね」


「言わなくていいんだよ、そういうのは」


 警察に狼の九十九神では相手が悪いし、このままでは夏祭りにも影響がある。


 彼は参加に乗り気ではないが、かと言って知り合いのイベントが潰れていい気はしなかった。


「また借りが出来るな」


「交通違反したら、返してもらいますよ」


「それで、これからどうする?」


「他の資料を見せてください。それと、この現場も見たいですね」




 一番新しい被害者の死体が発見された路地の前には、見張りの警官が立ち、部外者の立ち入りを厳しく見張っていた。


 滅多にない連続事件に、興味はあるものの、通行人は遠巻きに見つめて歩き去っていく。やはり殺人という点で、忌避しているようだった。


 そこへ、二台の車が走って来る。一台は警察車両だと気づいた警官は、その後ろにぴったり付いてくるオンボロのマイティーボーイにぎょっとなった。


 スイフトが停車し、追い越して行くだろうと考えていた警官だったが、マー坊もピッタリと後ろに駐車する。


 中から遠江と秋介、そして葛葉が降りてくる。


 本来なら遠江の一台で来る予定だったのだが、喫煙車なのを葛葉が嫌い、二台となってしまったのだ。


「ご苦労様です。あの、そちらのお二方は?」


「ああ。今回の事件に協力してもらう、学者先生だ。現場を見たいと言うんでね」


 咄嗟に嘘の身分を伝えるが、警官はまるで信用できないと二人をねめつける。


 犯罪捜査に民間人専門家の協力を仰ぐことはよくある話だが、それにしても二人は、専門家と言うには若すぎた。葛葉はともかく秋介はまだ二十歳になっていない。「おい、何だ? 俺が信用できないのか?」


「い、いえ。すみません」


 多神署の獅子に睨まれて、警官は敬礼し、噛み付かれる前にと大急ぎで三人を中に通す。


 現場にはまだ血が生々しく残っており、路地に入るなり腐ったような臭いが鼻を突く。


 だが、秋介も葛葉も眉一つ動かさないで、遠江の後についてくる。自分の所の若手よりよほど肝が据わっていると、感心と共に残念な気持ちにもさせられる。


 狐の妖怪はともかく、若い秋介がこうした場に完全に慣れきってしまうとは。


 死体があった場所へ来るなり、葛葉と秋介は入口を振り返る。


「あら?」


「何だ、これは?」


 秋介は義眼を取って、周囲を見回す。


 葛葉は血溜まりを指でなぞると、その匂いを嗅いで舐める。


 秋介は路地の前に戻ると、周囲をぐるりと見回して、首を傾げる。葛葉はフンフンと鼻をならし、入口から死体の場所まで匂いを確かめて歩いてくると、二人でさらに裏通りまで何かを確かめながら歩いて行った。


「どう思う?」


「おかしいですね。複数居るはずなんですが」


「何かわかったか?」


 再び死体があった場所へ戻ってきた二人に、遠江は尋ねる。


 困ったような顔で、秋介は答える。


「これは、単独犯かもしれません」


「はあっ!?」


「複数の個体が居たのは間違いないんですが、その、どの痕跡も一緒なんです」


「どう言う事だ?」


 狼が複数で狩りを行えば、必ずそれだけの痕跡が残る。九十九神でもそれは変わらない。科学的な証拠が一切無くとも、秋介達には不要だ。言ってしまえば霊的な力の痕跡は消せはしない。火が消えても暫く煙が昇り匂いが残るのと同じように。


 秋介は力の残滓を、そして葛葉は単純に匂いから痕跡を探り、確かにそれは残っていたのだが、内容が問題だった。


「表の通りから被害者を追い込んできた個体は複数。力の残滓でそれがわかるんですが、どれも似てるんですよ」


「匂いは、群れでも必ず個体差が出るんですが、違いがありません。噛み付いた時に血についた被害者以外動物の匂いも一種類だけです」


「つまり、全く同じ靴跡が、数人分出たって事だな」


 靴跡と言うのは残り方により、身長や体重、そして歩き方の癖まで、その気になれば割り出せる。二人が言っているのは、まるで違いの無い靴跡がいくつも残っていた、って事だろう。刑事として遠江はそう置き換えた。


「狼だから、双子とか五つ子なんてのも居るだろうが、匂いは変えられない、か」


「だから困ってるんですよ。クローン、と言いたい所ですが、九十九神はクローン化できませんからね」


 DNAからクローン化しても神格はコピーできないのだ。何より、クローンで群れを作る事に意味が無い。


「分身ならできるんじゃないのか?」


「分身は、あくまでも別の姿を取るんですよ。力の無駄遣いになりますからね」


 分身を作るのにも神力が要る。それも、体の一部、普通は髪の毛などを使って作る。わざわざ己の完全な写し身を髪の毛数本で維持するのはそれだけ神力を消費する。それならいっそ小鳥の姿にした方が無駄がないのだ。


「ったく、何でも出来そうに見えて意外と面倒なんだな」


「出来る事とやる事は違いますよ。ライターがあるのに、わざわざタバコの火を魔法で着けても仕方ないですよ」


「テレビのリモコンだな。んで、他には何かわかってるのか?」


 葛葉が路地の上を指差す。


「逃走経路は、こっちです。匂いは裏まで続いてませんでした」




 ビルの屋上へと入った三人は、路地を見下ろせる縁へと歩み寄る。


 先ほどはまったく遠江には知覚できない範囲の話であったが、今度は彼でも把握することが出来た。


 くっきりと足跡が、それもイヌと思しき、真っ赤な足跡が残されていた。


 葛葉はさっそく匂いを嗅ぐ。


「被害者の血です。でも、妙ですね」


「今度は何だ?」


 葛葉はそのまま路地を背に四つんばいになってみせる。


「臭いから察すると、下からこの犯人は上がって来て、そのまま向こうへ、つまり南へ逃げてます」


「足跡は違う方向を向いてるって事か」


 足跡は爪が北東の方向を向いている。彼女のの言う通り、逃走の際についたものであれば明らかにおかしい付き方だった。


「北、ね。特に何があるわけでもないな」


「深夜だから、他の何かに気を取られたって言うのも考えにくいです」


「じゃあ何か、わざわざこいつは足跡を、この向きでつけたって言うのかよ」


「そうなりますね。理由は、わかりませんが」


 辺りをくまなく調べるが、それ以上わかりそうな事はなかった。


 そのまま地面を通らずに言ったのか、匂いや力の残滓もみつからず、追いかけられそうになく、その日の調査はそこまでとなった。




『と、まあそんなわけで、どうやら犯人は狼の九十九神みたいだな』


『そうなの? テレビじゃ野生動物の可能性示唆したくらいだったけど』


『仕方あるまい。あまり大々的に言った所で混乱を招くだけじゃ。まして、狼ではのう』


 夜になった所で、秋介は今日の事を冬乃達に報告していた。


 無論、電話ではなくゲームのボイスチャットだったが。


 遠江から口止めはされていたが、片方は、口外しようにも社からすら出ないので、大丈夫だろうとの判断だった。また、二人なら、何か気づくことがあるかもしれないとも考えていた。


『まだ、生き残りがおった、という事かの』


『何だって? 居たのか、この地域に狼が?』


 ミナモの思わぬ言葉に、秋介は聞き返す。途端に、盛大な溜息が返って来る。


『何じゃ、知らんのか? 吾が神社より北の、県境にある山住山は、昔狼がずっと住んで居ったんじゃ』


『なるほど。それで、生き残り、か』


 国内の狼は絶滅したと言われて久しいが、それと同じくらい生き残りの目撃証言も多い。九十九神として長く存命している者はむしろ混乱を恐れて滅多に出て来ないので、こうも逆に出て来るのは若い野生の可能性が十分にあった。


『一応ツテがあるでのう。聞いてやらんこともないが』


『ツテ?』


『あの辺りを管轄にしておる大神に知り合いがおるからの』


『じゃあ頼めるか』


『任せておけ。して、今日はどのステージへ出るのじゃ?』


 話が終わると、楽しみで仕方がないと言った調子で、ミナモは出撃を呼びかけた。


 結局、戦闘は明け方まで続けられるのだった。




 翌日、九十九堂に他の被害者の資料を持って遠江が訪れる。


 居間に通されるなり、彼はファイルを放り出す。受け取った秋介は、開かずにじっとそれを見つめる。


「見ないのか?」


「いや、見ますけどね。昨日の今日で、こうもあっさり資料を持ち出してきて、大丈夫ですか?」


「大丈夫なわけないだろうが。ばれずに持ち出せただけ御の字だ」


 とは言え、資料持ち出しに気が回らない程、警察も今回の件には手を焼いてると言う事か。


「猟友会と保健所も動いてやがるが」


「あまり歓迎はできませんね」


秋介は鼻を鳴らす。


動物が犯人となれば当然だし、少しは牽制になるだろうが、今回はそこらの野良とは違う。下手をすれば却って被害が増えかねない。


早く解決しないと面倒だな、と思いながらファイルを開ける。早速死体の写真が飛び出した。


遠江の言う通り、カラスやネズミにでもやられたのか、損壊が著しい。これで、狼が後を濁さず逃走したのではお手上げだろう。


「あーあ、こりゃ酷い」


昨日の死体がキレイに見えるレベルだった。


「お二方とも男性、年齢は違いますね」


資料だと片方は秋介よりやや年上の若者で、もう一人は中年男性。昨日見たのが若い女性で、職業もバラバラ。被害者に共通点はなさそうだった。


「秋介さん、これ」


 何かに気づいたのか、葛葉が資料の一点を指し示す。ファイル越しなので遠江には何を指しているのかわからない。


 顔を上げた秋介が、覗き込もうとしていた彼に尋ねる。


「足跡は?」


「ん、ああ。お前さんに言われた通り、どの現場も直近の建物で足跡が出た」


そう言って遠江は新たなファイルを取り出す。


足跡の写真と分析結果である。昨日秋介達が見つけたのとまったく同じもので、被害者の血を使っている点も同じであった。


「同一犯なのはこれで決まりだが、これは何を意味してるんだ?」


犯人がロボットのごとく何も残さなかった事を思えば、たまたま発見できた歯形と違い、足跡が目的を持って残されたのは疑いようがない。


だが、遠江の問いに秋介は肩をすくめて首を横に振った。


「さあ? さっぱりですね。いっそもう一人被害者が出たらわかるかも知れませんね」


「お前ッ――くそ、悪いジョークだ」


 ぞんざいで縁起でもない物言いに、遠江は食って掛かりそうになるが、すぐに頭をグシャグシャと掻いて言葉を飲み込む。


 本気で言ったのではないと気づいたからだ。同時に、彼が隠し事をしたのにも気づいていた。


 長年の経験で、嘘や隠し事、本音は見分けがつく。


 秋介は何かに勘付いているが、同時にそれに確信できていないのだ。秋介の焦れが本音の色が混じった発言を招いたのだろうが、本心ではない。すぐに諌めそうな葛葉が無反応なのも、それを理解しているからだろう。


 しかし、焦れているのは遠江も同じだ。


「何か無いのか。もっとこう、犯人に直結するようなのは」


 何を隠しているのかはわからないし、全部を今ここで吐き出させるつもりはなかったが、手をこまねいてもいられない。


 出し惜しみされてもいいので、情報や手立てが今は何より重要だった。


「今の状態では、ちょっと。ただ、誘い出す事はできるかもしれません」


 それは、遠江には寝耳に水の発言だった。


「何だと!?」


 慌てて身を乗り出した彼に、秋介は可能性ですよ、と念押してから、葛葉に告げる。


「葛葉、地図を」


 彼女はすぐに廊下の電話台から町の地図帳を持ってきた。


 最初の見開きである町の全体地図を広げ、秋介はあるポイントを、円を描くように示す。それは、町の東と北西の区域だった。


「この区域のどちらかで次の犯行が行われる恐れがあります」


「根拠は?」


「言えません。と言うよりも、まだ説明できません」


 嘘はない。まだ、とわざわざ付け加えるあたり、隠し通すつもりはないらしい。


 秋介の目を見て、遠江は理解する。半分は勘と見て良さそうだ。


「よし、まあそれはいい。それで、誘い出すって言うのはどうするつもりなんだ?」


「犯行場所に検討が付いているんですから、やり易いように、場をセッティングすればいいんですよ」





 日の暮れ、寝静まり始めた多神の町に、回転赤色灯の光が溢れていた。通り魔対策でパトロールが強化され、ただでさえ沈んだ空気に影を落としている。


その様子を、ビルの屋上から葛葉が見つめていた。


区域が違う北東のビルから、常人には昼間でも建物が見えるかどうかと言う距離だが、九十九神である彼女には五メートルも五百メートルも大差はなかった。


一通り東の警戒強化区域を確認した葛葉は目を閉じ肩の力を抜いた。


高めた視覚が通常の状態になり、相対で落ちていた嗅覚が戻ってくる。鼻を動かした葛葉が頬を膨らませる。


「秋介さん、何してるんですか?」


「休憩。コーヒーブレークだよ」


そう答えた秋介は、彼女の居るビルから少し離れたコンビニの前でコーヒーを飲んでいる。


契約を結んでいる事もあり、二人は神力のやり取りを利用して、一定の距離まで思念のみで会話を成立させることが出来た。テレパシーのようなもので、普段家から出ない葛葉はそれもあってか、今まで携帯入らずだった。


「もう、お茶ならいくらでも淹れますから。そんなモノ飲まないで下さい」


「たまには良いだろ」


一人で飲んでる事に文句を言わないのがあいつらしいと笑って、秋介は一気に飲み干し、口を動かさずに呼びかける。


「変わった事は?」


「特にありません。秋介さんの指示通り東側はパトロールが強化されてます」


彼女は周囲を見回しながら遠見の結果を告げる。


秋介は缶をゴミ箱に放り込み、パンと手を叩いて車に乗り込む。


「よし、俺たちも行くとするか」


「はい。それでは、私は西回りで行きます」


言うが早いか、葛葉はビルの西から向かいの建物へ跳躍する。


尾こそ出さないが、三角耳を出し、髪も白く変容させた人狐の姿になりながら二車線道路を軽々と飛び越えて、木の葉のように軽く商店の屋根へ着地する。周囲の状況を確認して、彼女は次の建物へと向かって行った。


テレパスが届かなくなったのを確認し、秋介も車を発進させて東へと走らせる。


「さて、かかってくれよ」


二人で逆側からこの区域を見回るのだ。


これが秋介の作戦だった。


犯行が行われる可能性が高い区域の片方を重点的に警戒させ、もう片方を手薄にする。それにより犯人の活動区域を限定させ、コトに及ぼうとした所で秋介と葛葉で対象を確保すると言うものだ。


警察をダシにするやり方に遠江は良い顔をしなかったが、結局は承諾せざるをえなかった。


「反応なし、と」


義眼を取り、主要な通りを避け、路地を確認しながらゆっくりと進む。これで、相手が動けば察知できるはずだった。仮にどちらの区域に出没しようとも、だ。


「こっちに出てくれりゃいいけどな」


自分に言い聞かせるように呟き、遠江には聞かせられないなと苦笑する。


この北東区域に出没する可能性は非常に高いが、相手は九十九神。パトロール強化が裏目に出ないとは限らず、今一つ自信を持ちきれず、彼は見回りを続けていった。


 一通り北東区域を見回った二人は、スタート地点へと戻って来る。


 じっくりと見て回ったので、すでに日が変わっており、思念で葛葉が気遣ってくる。


「秋介さん、大丈夫ですか?」


「俺はな。こっちは変わったことは無い。そっちはどうだ?」


「気配も匂いもありません。今日は、現れないのではないでしょうか?」


「いいや。最初の事件から、三件目まで、間二日を必ず空けてる。それに習えば、今日行動を起こすはずだ」


 このちょっとした周期は遠江以外の刑事も気付いており、おかげでパトロールを手早く手配できた要因の一つでもあった。


 だが、微塵も気配を感じ取れなかった事で、葛葉は今日、相手が行動を起こすのには少々懐疑的になっていた。


「ですが、全体に警戒されてる面もありますから、犯人もずらす可能性が――っ!?」


 あるんじゃないでしょうかと尋ねるよりも早く、答えが彼女の鼻に飛び込んでくる。


 血と土が入り混じる獣の臭い。野良や鳥とはわけが違う、もっと単純に、彼女自身九十九神でなければ本能で領地に入るのを拒否したくなるような存在。


 現場で嗅いだ、犯人の匂いだった。


「秋介さん!」


「わかってる!」


葛葉が嗅ぎ付けたのと時を同じくして、秋介の右目にも力の反応を捉えていた。


エンジンをかけながら大きく舌を打ち、ハンドルを叩く。


方向は東区域。悪い想定が大当たりだ。


安全確認もそこそこにアクセル全開で道路に飛び出した。葛葉もビルの屋上からタイミングを合わせて車の荷台へと飛び乗り、目立たないように完全な狐の姿になって伏せる。


その様子をルームミラーで確認し、秋介はギアを上げて加速する。この時間に他の車などほとんどない。赤信号すら無視して現場に向かって行った。


東区域に入ると、宵闇の静けさをパトカーのサイレンが切り裂いており、現場はすぐにわかった。ゆっくりと近づいて行くと、侵入禁止のテープから若い刑事が飛び出し、道端でゲーゲーと吐き始める。


「なんだありゃ?」


「刑事さんの割には頼りない感じですね」


ちゃっかり荷台のあおりから顔を覗かせた葛葉が、思念で呟いた。


検証を終えたのか、遠江がクネクネと女性的な鑑識官を引き連れて現れる。何ともやりにくそうな表情でタバコを取り出したのを確認して、秋介はパトカーの隙間を縫って現場に横付けする。早速警官が気付いて駆け寄り、窓を叩いた。


 パワーウィンドウなどついていないので、助手席に体を乗り出し、レバーをグルグル回して窓を開ける。


「君、こんな所に止めないでくれ」


「どうしてですか?」


「見ればわかるだろっ!」


 見るまでもない。パトカーと警察がたむろしているのだ。本来なら、一般人が近寄ることすらしないであろうが、彼はわざと首を傾げる。


 これがゆとりかとでも言いたげに顔を引きつらせる警官の肩を、遠江が叩く。


「変われ。俺が話してやる」


「と、遠江刑事っ」


 有無を言わさず、警官を押しのけ、窓の淵にバンッと彼は両手を叩きつけ、ミシミシと音がしそうなほどに車体を締め上げる。


 あまりの荒々しさに、警官はそそくさと退散してしまう。


 搾り出された声は、うめきに近かった。


「どうやら、悪い方に転がっちまったようだな」


「気づいてたんですか」


「可能性の問題だ」


 怒りとも諦らめともつかぬ、言うなれば苦悶の表情を浮かべて彼は秋介に告げる。


 こんな事を、ここで民間人に向けて喋るのはかなりマズイ行為だったが、現場の喧騒に加えて、江の迫力に同僚も部下も距離を取っているため、傍からは残念な頭の若者に、事件直後で気の立っている多神の獅子が噛み付いたようにしか見えていないと承知していた遠江はそのまま話を続けた。


「足跡が出た。また、だよ」


「すみません、飛ばしては来たんですが」


「いや、どっちにしろ間に合わなかったさ。明日、夕方までにはそっちへ行く。詳しい話はそこでしよう」


 そこまで言ったものの、遠江は車から離れることができなかった。窓の淵を掴む腕が、フルフルと震えている。


 それが何を意味しているのかわかっていた秋介は、ふっと目を逸らす。


「本当に、俺のせいだ」


「いいや、お前が悪いとは言わん。そもそも、頼らなきゃならん俺たち警察が無力なんだ」


「ですが、提案したのは俺ですからね」


「覚悟は?」


「できてますよ。それに、そうしないと、ここをすんなり離れられそうにないですからね」


秋介がそっと耳打ちすると、遠江は、ほんの少しだけ表情を和らげる。


「お前みたいな部下が欲しかったよ」


 そう言うなり、彼は秋介の顔面に右ストレートを叩き込んだ。


「ぶふっ」


 獅子と畏れられるだけあり、渾身の一撃は秋介の体を運転席まで押し戻すには十分過ぎた。


「ちょっ!」


「うえっ!?」


 さすがにこれには黙って見てられなかったのか、警官や同僚が慌てて止めに入ると、荷台から金色の影が躍り出て遠江の腕に襲い掛かる。


「うぐっ」


「グルルルッ」


 葛葉が遠江の腕に喰らい付き、射殺さんばかりの視線と唸り声を上げた。


 寄ってきた警官達は、目を見開いて固まってしまう。


「ええっ!?」


「き、狐!?」


「よせ」


 顔の左半分がお岩さん状態になりつつあった秋介が車から降りてきて葛葉を抱きかかえる。色々と言いたそうに彼にも視線を送るが、首を横に振られた彼女はゆっくりと口を離す。するりと秋介の腕から抜けると、開いた窓から車内に入り込み、そ知らぬ顔で助手席で丸くなった。


「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」


 わざとらしく一例し、車に戻ると、秋介はさっさとその場を後にする。


 これでいい。あくまでも邪魔な若者と粗野な刑事で別れられたのだから。


 呆気に取られていた遠江の同僚達がようやく油を点されたロボットのように動き出す。


「お、おい遠江。今のは?」


「飼い主思いのワンコだ。参考人にもなりゃしないぜ」


 どう見ても狐だろうと、その場にいた誰もが思ったが、言い出せずに、無理やり己の中で折り合いを付けていく。


 何にせよ、彼が参考人にすらならないと言うならそうなのだろう、と。


 だが、そんな中で一人だけはその空気に呑まれていない者が居た。彼は、そっと遠江の肩を叩く。


「んふふ~、遠江刑事。あなた、中々面白そうな人と知り合いなのねぇ」


 敷地だ。彼は、腕組みをした手で、楽しげに己の顎を撫で上げていた。


「聞いてたのか?」


「しっかりと耳を立てさせてもらったわよん。時間があったら、彼らの話を聞きたいわね」


「そうだな。この件が片付いたら聞かせてやる」


 紫煙をくゆらせて遠江はそう答える。九十九堂の存在をあまり公にするわけにはいかないが、敷地はその点は口が堅いし、興味を持ったらそれこそ蛭のように離れやしない。


 話の一つくらいはしてやらないと収まらないだろう。そう思いながら彼はようやくタバコに火を点した。




宣言通り日を改めた夕方、遠江はまたも九十九堂を訪れていた。


 居間に上がって、昨夜の事件のファイルを叩きつけて、ドカッと腰を下ろす。


秋介と顔を合わせるなり、彼は笑いをこぼした。


「酷い顔だ」


「おかげさまで」


まるでパンダのように、秋介の目の回りに青あざが浮かんでいた。


「腫れが引いてるのはさすがだな」


「運転が危険でしたよ」


右目が見えない上、殴られた直後のお岩さん化した視界で帰って来るのは至難の技だった。


「そうか。そりゃ悪かった。で、これは?」


遠江は目の前の湯飲みを指差す。中身は氷の溶けきったメロンソーダよりもはるかに薄い緑色の液体で、湯気を立ち上らせていた。


「お茶です、どうぞ?」


ニコニコとした仮面を張り付けて、冷たく葛葉が言い放つ。


完全なる出涸らしで、心なしか香りも酸っぱい。季節を考えると衛生面が気になって仕方がなかった。


「粗茶だってもう少しマシだぜ」


「あなたに出す粗茶なんてありません。もったいな――申し訳なくて」


「九十九堂。その狐は何に腹を立ててるんだ?」


「んー、俺からは言えませんね」


そう言われて、遠江は葛葉に目をやり、直感する。直に聞いたら、ヤられる、と。笑顔の裏に潜む殺気に彼は追求を諦めるしかなかった。


結局、合意の上で殴り、噛まれた事で清算済みの気持ちでいた遠江が、彼女の怒りの原因に思い当たる事はなかった。


「これもまた、酷いな」


 被害者の写真を見ながら秋介はそう呟く。


 今までで一番発見が早かったので、かなり綺麗な状態ではあったが、それでも普通なら見ていられない代物だった。


 これまた若い女性で、今度は学生。他の被害者との共通項は全く見つかっていなかった。


「ああ。ったく、いいように出し抜かれた。それで、九十九堂」


「はい?」


「四人目だ。さすがに、見当はついたんじゃないのか?」


 資料から顔を上げ、秋介は遠江と視線をぶつける。


 しばしの沈黙の後、彼は葛葉に目を向けると、彼女はすぐに立ち上がる。


 部屋を出る直前、鋭い視線を突き刺された遠江はぶるりと体を震わせた。


「ったく、何なんだよ」


 気を紛らわせようとタバコを口にする。逆効果かも知れないし、火もつけられないが、それでもガムと同じで口内に含んでるだけで落ち着くというものだ。


 戻ってきた葛葉は、またも蔑むような目を向けながら、テーブルに地図を置き、ペンを秋介に手渡した。


「まだ、全部とは行きませんが、相手の目的は確定したと言っていいでしょう」


 そう言って、彼は多神町の全体地図に丸を四箇所書き込んでいく。全て、事件のあった現場だった。


「何か気づきませんか?」


「さっぱりだ」


 点が四箇所。見た目のバランスは悪くないが、それ以上はわからない。


 すると、秋介はデッサンでもするようにペンに親指を揃えて長さをはかり、昨日自分達が見回っていた北東の区域の一点に、微塵の迷いも無くギザギザの丸を書き込む。


「これで、どうですか?」


「……んっ、これは?」


 五つ目の点を示された事で、遠江の脳内で一つの図形が組みあがって行く。


「正五角形か?」


 五点のバランスは、正確に測っていないが見た目にはほぼ完璧で、これを囲うように直線で結べば完成する。


「ええ、普通はそう見ますが、相手が九十九神である事を加味すればこうです」


 秋介は点と点を、町を切りつけるように斜めの線で結んでいくとある図形が浮かび上がってくる。


「星?」


「ええ、五芒星と呼ばれるものですよ」


「何故、これなんだ?」


「古今東西を問わず、魔術や陰陽道において非常に重要な印とされていますからね」


 五芒星は西洋魔術においては、四つの元素と霊の要素がそれぞれの頂点に対応した、魔法のシンボルとして重宝されている。


 また陰陽道においては、万物の構成要素である五つの元素の相克を示すものとされて、魔除けの印として知られており、一般人が中空に印を描く事でも効果が望めるのだと、秋介は告げる。


「俺でもか?」


「ええ。早い話が、五芒星には神力を高める効果があるんですよ」


神力を持たない存在はない。一年前まで九十九神はおろか幽霊とすら無縁だった遠江でもそれは変わらない。ほんの僅かな神力でも、五芒星によって増幅される事で、一般人でも魔除けの呪いの行使が可能なのだ。


「だから、何か大がかりな術をやる際にこうした印を用いる事が多々あります」


「そうなると今回の件は?」


「犯人は何らかの術を行おうとしている。そのための下準備です」


血の足跡は頂点を示す霊的な杭を打ち込んだもので足の向きは術の効果が発揮される方向を示している、と言うのが彼の見解であった。


遠江は全ての足跡の写真を、それぞれの現場に並べる。そのどれもが町の中心を向いていた。すなわち、町内全域が影響下に入るのだ。


「なんて事だ……」


「しかもこの印は天地が逆ですから、どんな術にせよ危険です」


地図上で天地とは北と南。本来なら五芒星は北を頭に描かなければいけないのだが、これは南向きに作られようとしていた。


逆に描くと言うことは効力にも影響する。通常は魔除けのように陽の作用を助長するのだが、逆になると陰の作用を手助けしてしまう。魔除けのつもりが魔寄せになるように、害のある作用しか生み出さない状態だった。


「最後の一点、か。何としてもここだけは守らなきゃならんな」


「ええ。例え相手が何を画策していようと、ここで防げば意味を成しませんからね」


 ただ、と秋介は目を伏せて思いふけり、一人誰にともなく呟く。


「相手は、一体、何者なんだ?」


 狼の九十九神なのは間違いないのだが、野生と言うには、不可解な点がいくつかあった。


 その中でも、見せしめ染みた真似をした事と、印による巨大な術の画策だ。


 どちらも、単なる野生の九十九神の思考によるものとは思えなかった。


 遠江はぐっと体をのけぞらせて天井を見上げる。考える点については、彼はお手上げだ。秋介に対しヒントすら与えられない。


 その時、ふと葛葉が障子の向こう、縁側に視線を向ける。


「どうし……んん?」


 外に注意を向け続ける彼女の様子に秋介が気づくと、パトカーのサイレンの如くドップラー効果で何か音が近付いてくる。


 徐々にそれは甲高い声となって遠江の耳にもはっきりと届けられた。


「女の声? 随分、近付いな」


「あと三秒で到着します」


「ああ?」


「冬乃みたいだが」


 秋介はその声の主に思い当たり、首を傾げる遠江に背を向ける。


 合わせて葛葉が、庭が見えるように障子を引く。時計の秒針が、彼女の宣言から数えて丁度三回目の動作音を立てた。


「いやああああああっ!?」


 ドンッと砂袋を落としたような鈍い音を立てて、影が庭へと落下する。


 打ち水もすっかり乾ききっていたため、砂埃がもうもうと舞い上がり、影の正体を覆い隠す。とはいえ、遠江以外にはとっくに相手がわかりきっていた。


 砂埃が晴れると、うつ伏せに倒れ込む巫女装束に身を包んだ冬乃の姿あった。


「おいおい、どうなってんだよ?」


 隕石としか言い様のない軌道を描いて落ちてきた、巫女服姿の冬乃に、遠江は困惑のあまり、火の無いタバコを口の端から落としそうになる。


「ふむ。まったく、この程度で悲鳴を上げおってからに」


 体を起こした冬乃は、埃を払いながら、縁側に足をかける。


 その言葉遣いや目付きは、彼の知る磐田冬乃ではなく、とても落下時に悲鳴を上げるような雰囲気ではなかった。


「何だ、アンタが降りたのか」


「おお、九十九堂。すまんな、急ぎで裏から入らせてもらうぞ」


髪をかき上げる彼女の瞳は、縦長の瞳孔に変貌している。口調や雰囲気からも、それは紛れもなく、天龍のものだった。


 契約関係と冬乃の霊媒体質を利用して、ミナモが意識を一時的に取り憑かせている。俗に言う、降りている状態だ。


「じゃあ、この嬢ちゃんが?」


「天龍神社の祭神。天龍様です」


 もはや遠江に言葉はない。彼は自分の額に手をやり、頭を振った。最低限九十九神に関する知識は与えられており、そういう存在を受け入れるのはやぶさかではないものの、すでに秋介により壊された既成の社会観がさらに破壊された気分だった。


「神様、ね。んで、さっきの芸当はなんだ?」


「神力ですよ」


「じゃあお前も出来るのか? あんな、スーパーマンの真似が」


「ええ、まあ」


 神力を使い、身体能力を一時的に高める事は可能だ。火事場のバカ力+αを自由に操作できると考えればいい。しかし、それは体に無理を強いる事になるので、一度終えると反動が著しい。疲れるだけなら儲けもので、時には捻挫等の明確な怪我として帰ってくる事の方が多いのだ。


 秋介は一度、骨折がぶり返した事を思い出して自嘲するように呟く。


「あんまりしたくはありませんがね」


「こやつの体で急ぐと言っても限度があったからの。少々無理をさせたのじゃが、まさかあんなに騒ぐとは思っておらなんだわ」


 どうやら、冬乃の意識が残る状態で無理矢理すっ飛ばして来たらしい。


 今頃、当人はミナモの意識の裏で目を回している事だろう。


「それで、天龍様。わざわざ、お急ぎで来ていただいて。どうかされたんですか?」


 葛葉が不思議そうに尋ねると、彼女は腰を落ち着けてお茶を啜る。


 ちらりと遠江を、どこか見下すように一瞥する。


「こやつは何者かえ?」


「通り魔殺人の担当刑事だよ」


「刑事? おお、なるほどしょっ引き役人か」


「神様だからって、ひでえ物言いだ」


「ふむ、では一緒に話してもよかろうのう」


 その言葉に、秋介はミナモがツテを当たってくれたのだと理解する。


 協力を要請した経緯を説明すると、遠江が懐疑的な視線を送りつつ、身を乗り出した。


「で、天龍様とやら。何かわかったのか?」


「うむ。此度の狼の正体が、のう」


「何だって!?」


 これには秋介も身を乗り出す。


 今一番、欲していた情報が、目の前に現れたのだから無理もない。


 二人の様子に、彼女は満足したと言わんばかりに何度も頷き、勿体ぶりながらも一つ一つ情報をつむぐ。


 それは、秋介の中にあった不可解な点を全て取り払い、尚且つ、動機にまで言及可能な代物であった。


 一通りの話を聞き終え、頭を抱えていたのは遠江であった。


この件の処置はもちろんだが、報告をどうするべきなのか。思考が堂々巡りを行っている様子であった。


 秋介もまた、眉根を寄せてちゃぶ台を指で何度もトントンと叩かざるをえなかった。


「まったく、面倒な話だ」


 すると、その手に己の手をそっと重ねて葛葉が微笑みかける。


「大丈夫、何とかなりますよ。いいえ、私がしてみせますから」


 根拠も何もないが、自信に満ち溢れたその言葉に、秋介もまた自然と笑みがこぼれる。


 こいつはいつもそうだ。そして、必ず実行する。


「面倒なのは違いないが、狐もそう言っておるし、吾も今回の件はこのまま協力するゆえな。何とかしてみせようぞ」


 ミナモは冬乃の体を使って胸を張って叩く。夏祭りへの影響も考慮しているのだろうが、祭神が言う以上、それは天龍神社の方針と言って問題ない。


 確かに彼女の力添えもあれば、相手に十分対抗できるだろう。


 三人のやり取りに、遠江も顔を上げて大きく息を吐いた。


「そうだな。ここでうじうじ事後の事なんざ考えても仕方がない。まずはこれ以上の被害を止める事を考えた方がいい。九十九堂、何かアイデアは?」


「当日、想定の場所を全力で守ると、言いたい所ですが」


「それはさすがに危険じゃな」


 きっぱりとミナモが告げる。秋介も、それは最終手段だと考えていた。


 一ヶ所を全力で守るのはその分、突破されるとどうしようもない上、印の特性上、他者の血で足跡を付けられたら完成してしまい、即アウトだ。


「ええ。だから、燻り出す」


「大丈夫なのか?」


 誘導には昨日失敗したばかり。遠江が不安げな面持ちで尋ねてくるが、今度はミナモから得た情報がある。秋介は自信を持って頷く。


「おかげさまで。ミナモの情報から、相手を呼び出す方法を思いつきましたよ」




 夕暮れ、人の顔がもっとも見づらくなる時間帯。その時を昔の人々は、正体を尋ねる「誰そ彼」より、黄昏と言った。


 そして同時に、人ならざるものが往来を始める時間として逢魔が時とも呼んで畏れた。


 そんな夕暮れの赤と黄に染まる多神町には、今まで以上に張り詰めた空気が漂っていた。


 通り魔事件について、地元メディアも二日の間を空ける事を大々的に謳い、明日には新たな事件が起こるのでは、とせっせと煽っているのだから無理も無い。


 ピリピリとした空気の中、多神総合センターの自然公園内にはさらに異質な空気に満ち満ちていた。


住人達から多神富士と呼ばれ親しまれる公園内に作られた人工の小さな山。その麓で、八脚案を前に玉串を振るい、独特な節回しによる朗誦が行われている。


端から見ると地鎮祭のような、ちょっとした祭事なのだが、祝詞を読み上げる秋介が普段着のため、本来あるべき厳かな雰囲気をぶち壊しにしていた。


その脇に控える冬乃が、千早まで纏ったコテコテの巫女姿で、胡散臭さを際立たせる。


「俺が生活安全課だったら、即時退去を命じてるぜ」


 遠江はそう言うと、タバコの煙をくゆらせながら辺りを見回す。


 人気は無い。彼が一時的な占用の許可を取り付けたため、センターの職員すら近付かないよう言い含めておいたのだ。


 もっとも、今の秋介達を見ると近付こうとする者は現れないだろうと、内心苦笑いを浮かべた。


 公園に居るのは彼らを除けば、クジャクやアヒルと言った飼育動物のみだ。


 木々も場所の割には多く、普段であれば気分を落ち着かせるのにもってこいの場所なのだが、今はそんな余裕はなかった。


 秋介の言う通りであれば、犯人が触発されて出てくるはずなのだ。


「とはいえ、一体何をやってるんだか」


「あ、あの」


「あん?」


「あ、う、何でもないです」


何か言おうと、冬乃がちらりと顔を向けるが、目が会うなりすぐにそらしてしまう。


人見知りだとは聞いていたが、ミナモの降りている時とのギャップもあってどうにもやりにくい。大方、静かにとの注意だろう。


遠江は肩をすくめ、再び周囲に目を向ける表情には出さないものの、彼は舌を巻いていた。


絶対に気付けないと秋介は豪語したが、まさにその通りだ。飼育動物以外の存在が、既に潜んでいるとはとても信じられん、と。


その時、一陣の風にタバコの煙が真横へ流れる。


始まりの風だな、と何故か無闇に冴えた頭で遠江は確信していた。




 逆光を利用し、物陰から秋介達の様子を見つめる者が居た。


 観察者は息を殺し、風下からじっと多神富士の前に陣取る一団を見つめて、蚊の鳴きよりも小さく鼻を慣らす。


「無駄足か」


「いいえ、お待ちしていました」


「っ!?」


 耳元での予期せぬ声に振り向くと、白い影が舞い、観察者の脇腹に衝撃が走る。


「ぬがっ!」


 吹き飛ばされた観察者は、物陰から黄昏の日向へ放り出されると、勢いあまって地面をバウンド。公園中央の池に、水切りして落下する。


「あら、やりすぎたでしょうか?」


 白の髪をなびかせ、上がる水柱に首を傾げながら、人狐姿の葛葉が姿を現す。何故かミニスカのメイド服に身を包む彼女こそ、観察者を蹴り飛ばした影の主だった。


「何て格好で潜んでやがるんだ」


遠江は思わずかぶりを振りながらも感嘆する。


紺のメイド服はともかく、髪やエプロン、フリルは真っ白。気配を消しても浮き上がる色彩で気付かれずに隠れていたのだから、秋介が豪語するのはずだ。


「葛葉、よくやった」


「はい。でも、やっぱり動き易すぎると、逆に加減が利きませんね」


 そう言って彼女は、心許なさそうにミニスカートの裾を摘むと、スパッツに包まれた太ももがチラリと覗く。


 普段のロングスカートよりも遥かに動きやすく、潜んだり忍び寄るのは楽だったが、その分普段の格好では制限されている力の加減がしにくいようだった。


「いや、それで丁度いいさ」


 秋介は玉串をその場に放り出し、池の方へを見やる。葛葉の一撃はしっかり決まっただろうが、それで終わりになるような相手でないのは重々承知している。


 彼の考えに答えるように、池がぶくぶくと泡立ち出す。


 ジュワン、と大きな音を立てて池に大穴が開き、中から観察者が飛び出してくる。


 池の畔、秋介達から距離を取るようにして、観察者は着地する。


 その姿は、赤茶けた毛並みを持つイヌ型の獣。地を踏みしめる四肢は普通の犬よりも長く、付き添うように浮かぶ炎に照らされた前足には特徴的な黒い斑文が浮かび、絶滅を謳われて久しいニホンオオカミの特徴を兼ね備えている。


「キツネが、よくも!」


 唸り声と共に、観察者たる狼から怒声が飛ぶ。池の水を一時的に蒸発させたであろう、火を従えて入ることも含めて紛れもなく、九十九神だ。


 それを確認して、彼は公園の入口に向けて叫ぶ。


「夏美、出番だ!」


「う、うん! って、重っ!」


 入口からひょっこりと顔を出したのは、冬乃と同じ巫女服に身を包んだ夏美だった。


 彼女は入口に立てられた進入制限のアーチスタンドに、きっちり編み込まれてそこそこの重量になった注連縄を、やっとの思いで取り付けて行く。


「そうはさせん!」


 その意味を理解した狼は、疾風の如く彼女目掛けて駆け出す。


 距離にして数十メートル。九十九神である事も含めて、ほぼ一瞬の距離。


 獲物の首目掛けて跳躍した彼の眼前に、再び白い影が迫る。


「させませんよ」


「ぬうっ!?」


 正面に立ち塞がった葛葉は、相手の顔面を横から鷲掴みにして地面へ叩き伏せてしまった。


「ぐうっ、まだだ!」


 狼の一声に、その影がゆらめき分裂。独立した二つの影からそれぞれ全く同じ姿の狼が飛び出して夏美目掛けて突き進む。


「わわっ!?」


 葛葉は一体を押さえつけているので動けない。


 ようやく右端を括り付けたばかりだった夏美は、頭を抱えて身を縮こまらせてしまう。


「くそっ!」


 遠江はその様子に大急ぎで駆け寄ろうと踏み出すが、その脇を、何かが、恐ろしいスピードで通り過ぎ、彼はそのまま固まってしまう。


「な、何だ?」


 飛び掛った狼の片割れが、大きく口を開けた直後、上空から白い布が覆いかぶさり、視界を塞がれてしまう。


 その混乱が体勢を崩させ、狼は入口の垣根。そのブロックに頭から突っ込んだ。


 もう一体はいまだ、目的を果たさんと彼女目掛けて跳びかかる。だが、剥かれた牙が夏美に届く事は無く、ガキッと言う金属音が響き渡る。


 狼が喰らい付いたのは、冬乃の鉄扇であった。


「何だと!?」


 夏美との間に割り込まれた狼は驚きを隠せない。一体どうしてあの距離を、それも己よりも早く詰めてきたと言うのか。


「いかんのう、主よ。吾の巫女に手を出そうとは」


 そう言って、人差し指を振ってみせる冬乃の瞳は、縦に裂けたようになっていた。


 狼は、相手の正体に気づく。


「天龍か!」


 彼女に降りたミナモが、身体強化で一気に距離を詰めて来たのだ。


「然り。夏美よ、はようせいっ」


「は、はいっ!」


 ミナモに急かされ、彼女は急いで左端の取り付けにかかる。


 ミナモは、片手で狼ごと扇子を振るう。


 遠心力で放られた狼は、脱ぎ捨てられた千早に視界を奪われていた狼に重なるように叩き付けられる。


「ちいっ!」


 さらに彼女が扇を上から下へ軽く振るうと、それを合図にした様に、上空から水弾が降り注ぐ。


 重なっていた狼は一体に合体して、水弾を次々と避けていくものの、完全に入口から距離を取らされてしまった。


「よし、できた!」


 夏美は注連縄の取り付けを完了する。


 直後、気圧が変わった時のようなキーンとした感覚がその場に居た全員を駆け抜けていく。


「くっ」


 一瞬、目眩を覚えた遠江は、強烈な違和感に襲われる。


「何だ、これは?」


「葛葉、後ろだ」


「っ!?」


 秋介の声に、彼女はその場を飛び退く。直後、拳が深々と地面に突き刺さった。


 それは、単純に毛むくじゃらとでも言うべき人の姿をした存在からの一撃であった。


 その匂いは、彼女が押さえつけていた狼と同じもの。


「まだ出せたのですか」


 ミナモが相手にして入るのと同じ、分裂した個体。その人間形態だった。


「そうか」


 声がよく通るな、と気づいた遠江は違和感の正体に木がついた。


 外部の音が全くしないのだ。センター入口から公園まではちょっとした森林になっているのだが、そのざわめきすら聞こえてこない。


 世界が、公園の内部だけ切り取られたようであった。


「結界です。注連縄でこの公園と外部を切り離したんですよ」


 彼に背を向けたまま、葛葉がそう告げる。


結界により、外界と切り離された事で、公園内には出入不能。狼の退路は塞がれた状態だった。


 じりじりと四体は後退しながら、再び一体の狼へと集合する。


 ミナモと夏美も葛葉達の方へと戻ってくる。


「役人よ、夏美を頼むぞえ」


「あ、ああ」


 この状況で何ができると言うわけでもないが、遠江は夏美を自分の後ろに立たせる。


「さて、逃げ場はありませんよ」


「どうかな?」


 狼は不敵に公園の北東方向へ目を向け、驚きに見開く。


 そこにあった丸太製のフェンスに丁度秋介が札を貼り付けている所だった。


「はい、鬼門も通行止めだぜ、っと」


 秋介が札を貼り付けたのは、鬼が出入りすると呼ばれる鬼門だった。鬼に限らず穢れや悪霊と言った、陰の性質が濃く、障る存在に取っての、言うなれば自動ドアなのだ。


 結界で区切っても抜け道として機能するのだが、たった今秋介がその抜け道を、注連縄同様に御札を持って塞いでしまったのだ。


「退路はないぜ」


 殺意を微塵も隠す事無く、狼は秋介と、葛葉達を睨みつけるが、不意に、秋介に向き直る。


「――そうか、貴様が、頭か」


「ん? ああ、そうなるな」


「なるほど。ならば、合点が行くと言うものだ。とすると、そこの九尾も貴様の管か」


「ええ、そうですよ」


「秋葉か天龍の狛にしては出来すぎだと思ったが」


秋葉とは、秋葉神社。隣町にある、稲荷信仰一派の総本社で、狼はその使いだと思っていたようだ。


 関わっていないだけで酷い言われようじゃな、とミナモは同情する。


「いくら狐が潜みを得意とするとは言え、ここまでしてやられるとはな」


「それだけアンタにとって、ここに神を呼ばれたくはなかったって事だろう。山住の旧主さん」


「ほう、知っているのか。いや、そうでなければこのようなふざけた策などろうしはせんか」


 秋介が呼んだ、山住の旧主。それこそが、目の前の狼の正体だ。


 かつて、山住山には狼を筆頭に多くの動物達が住んでいた。そして、山を取り仕切っていたのが、俗に主と呼ばれる力のある九十九神である。


山住山に限らず、各地で主は存在し、人々は山を異界として畏怖の念を抱き続けた。いわゆる、山岳信仰である。


 だが、ある時、人間と山住の主の間で大々的な争いが起こる。


 本来であれば、人の側に勝ち目はないのだが、主と関わりのない九十九神が人々に力を貸して、主は敗北する。


 その九十九神もまた狼であり、今は祭られて山住神社の祭神、山住大神となっている。


 敗北した主は山住神社にその魂を封印され、長い眠りについていたのだが、社の建て替え工事の際、封印が破壊されてしまい、今回の事件を引き起こしたのである。


 ミナモが事件の事を大神に問い合わせた事で情報が入り、秋介は犯人の正体を確定させることができたのだ。


 旧くからの主であれば、術を行うにあたり、五芒星の利用を思い付くなど造作もない事だったろう。また、見せしめじみた殺害行為も、復讐心の現われとしては十分だ。


「分は悪くなかったが、賭けなのには違いなかったぜ。こんな人工の山への分霊に、山住大神が応じるわけはないんだがな」


「そうか、やはり奴は来ぬか」


 どこか遠い目で、旧主は秋介が用意した祭事の道具を見つめる。


「来るわけなかろうが。そもそも神がおいそれと社の外に出ることすらありえぬわ」


 盛大な溜息と共にミナモはそう吐き捨てる。


 神は祭られた社の中で、その地域の霊的、自然的な安定を支えている。神力の流れを張り巡らせ、必要な時に必要な場所で術が発動できるようにしておくのだ。


穢れの溜まりを掃除したり、外敵の侵入を防ぐよう障害を発生させるのはもちろん、ミナモの場合は、必要に応じて雨を調節して、天竜川の流れを安定させる事も行っているのだ。


 そうした力の流れの中心地から神が出る事は滅多にない。管制官の居ない飛行場状態になってしまうので、仮に外界を覗く時は、今のミナモのように巫女に降りる事がほとんどである。


 そして、管轄地域の違う山住神社の大神が、いくら関わりがあるとはいえ、ここまで出て来る事はありえなかった。


「代わりに吾がこうして来ておるのじゃ。まったく、面倒事を押し付けられたものじゃ」


「もう少し建前を喋る努力をしてくれ、頼むから」


 今回の件はミナモの管轄地域だが、秋介が動いているので、彼女が動く道理はない。失敗してから動くのがお互い無駄な干渉をせずに済むのだが、言葉通り、彼女は今ここに立っていた。


「だが、今度の策に協力はしたのだろう」


「一応、それくらいはさせたよ」


 秋介は犯人を確信して、旧主を呼び出す方法を考え付いた。それが、山住大神を町内に分霊し、管轄域にするよう見せかける、と言うものだ。


 大神との関係からすれば、相手は危惧して様子を確認しに来るに違いない、と。


 そこで、より現実味をくわえるため、必要な分霊祝詞、それも古式のものを大神より直接教わったのだ。


「そして、見事に嵌ったと言うわけか」


「そう言う事だ。どうだ、百鬼夜行なんざ、諦めるって事でさ」


「ふん、そこまで察しているか」


 百鬼夜行。妖怪や鬼、早い話が九十九神の集団が街の中を駆け回る行為だ。


 直面すると死ぬとも言われており、それこそが旧主の目的でもあった。


「逆五芒が魔寄せなら、そうだろうと思ったまでだ」


魔寄せにより、普段であればミナモによって入ってこれない、荒くれの九十九神を集める事が可能である。


旧主であれば、尚の事、その力に惹かれて集る者も多い。その集団を率いて山住まで攻め入る、と秋介は踏んでいた。


一回の殺害に、二日の間を空けたのは、血を媒介とした神力の杭が完全に馴染む為の期間であった。


「目的は、復讐か」


「そうだ。貴様ら人間と、あの大神を滅ぼし、山を再び我が手に収める」


「山で直接やれば、大神に気付かれるから、下りて来たって所か」


「そこまでわかっているならばわかるだろう」


 そう言って、旧主の狼は四肢に力を込め、体を低く保つ。


 飛び掛る、肉食獣に見られる仕草だった。


「諦めるなど有り得ん」


 旧主の足元の影が再び蠢き出し、分裂。三体の、まったく同じ狼の姿が浮き上がる。


「祖霊集合。なるほど、ようやくわかりました」


 鼻を動かし、匂いを辿っていた葛葉は、現場で何故同じ個体が複数居ると感じ取れたのか、その正体にたった今合点がいった。


 代々の主の霊である祖霊と旧主の魂が集合しているのだ。それにより、記憶や経験を受け継いできたのであろう。


 そして、その魂が集合しているのだから、記憶の数だけ分裂も可能だ。


複数で同一の個体によるパックを形成しているのだから、気配の数と匂いの種類が合わないはずだ。


 科学的には作成不能だが、目の前に居るのは、完璧な九十九神のクローンと言ってもよかった。


「天龍は欠片のようだが、ここで貴様達を倒せば我を阻むモノはない」


 燃え上がるように、四体の九十九神から放たれる力の気配が膨れ上がり、秋介の右目が激しくうずく。


 この町で五芒星の印を完成させるに当たって警戒すべきは天龍。そして秋介と葛葉である。それを打破すれば、警察はおろか他の誰にも止められない。他の管轄の、例えば秋葉神社が動かねばと思い立った時には手遅れ。


だからこそ相手は予想通り、ヤル気だった。


「そうか、そりゃ残念だ。えーっと、アレ?」


 相手が戦闘態勢に入った秋介は首を傾げ、旧主を指差す。


「四、体?」


 現状、旧主の相手をできるのは、自分も含めて三名。


「やっちまったかな?」


「大丈夫ですよ、秋介さん」


 葛葉は自信たっぷりに拳を上げてみせ、ミナモもうんうんと頷く。


「そうじゃな。狐が二体で、丁度よかろう」


「油断はせぬ。いかに九尾とは言え、我ら二匹を相手にできるか!」


 咆哮と共に、狼二匹が葛葉に向けて地を蹴り、それに合わせて、一匹は池を飛び越え秋介の眼前に、もう一匹は人狼形態となってミナモに向かう。


「ふん!」


 相手の拳に呼応するようにミナモは扇子を突き出す。


 向こうは生身だと言うのに、火花が飛び散り、鉄扇が赤みを帯びる。


「くっ!」


 後退して、相手の拳を受け流す。


「熱っ! ええい、やりおったな!」


 鉄扇が予想外の熱を帯び、彼女は思わず背後に放り投げる。


 叩きつけてきた人狼の拳は神力の特性により真っ赤な炎を帯びていた。


 狼もまた、キツネと同じ火を中心に司っている。山住大神も、御利益の一は火難除けだった。


「天龍よ、そんな人間の体で我に勝てると思わぬ事だ」


 悠然と、人狼は腕を構えてにじり寄ってくる。


 掌に息を吹きかけながら、彼女もまた、不敵な笑みを浮かべる。


「結論を急ぐでないわ。吾は生憎、神としての仕事があるからの、これで十分」


「明日があると思っているのか。笑止」


 一足で懐に入り込み、人狼は腹部目掛けて拳を打ち出す。


「なんのっ!」


 大気中の水分を集め、相手と対照に水を纏わせた掌で拳を受止める。


 神力で肉体強化も施こすが、雷でも落ちたような衝撃が腕全体に響き、ズッと低い音がなり、草履ごと地面に足がめり込む。


「はっ!」


 二発目をお見舞いしようとする人狼の大振りな動きの隙を縫い、彼女は掌打を、作り出した水の固まりと共に叩き込む。圧縮して打ち出された水は巨大なハンマー同然の重さと破壊力を生み出す。


「うぬっ!」


 足がさらに地面にめり込むが、その甲斐あって人狼は腹を抑えて後ずさる。


 だが、顔をしかめたのはミナモの方だった。


「つ~! ええい、バカみたいに硬い腹をしおってからに!」


 真っ赤に腫れた手の痛みを和らげようとぶんぶん振るう。


「中々の一撃。お前の本当の肉体であれば膝くらいは折ったかもしれぬが、今は人間。これが限界か」


 わざわざ鳩尾まで狙って突いたと言うのに、相手はケロリとして、これみよがしに腹を叩いてみせる。


 そして、今度は拳だけでなく、全身に炎を纏わせて、彼女に背を向けると、池に飛び込む。


「むっ!」


 着水音と同時に、湯気が立ち上り、ジュワンッと撥ねるような音と共に池が干上がってしまう。


「さて、天龍よ。どうする?」


 池から人狼が真っ赤に燃えながら上がってくると、カラカラと喉が渇き出す。


 神力の炎で、周辺の水分を片っ端から消滅させているのだ。操る水がなくなれば、水神であるミナモは肉体強化と、通常の術しか使えない。単純な機動力に優れる相手に術を使う暇はないと思ったほうが良かった。


「昔のよしみだ。その体を置いていくならば、この後も見逃してやろう」


「生憎と、吾も今は神でな。この体の主はもちろん、頼ってくる人間を見捨てることはできんのじゃ」


 ミナモが神として祀られる以前、山住山はまだ目の前の主が収めていた。


 支流がかかっていることもあり、川の利用の取りまとめなどで、浅からぬ付き合いがあったものだった。


 だが、結局ミナモは祀られる事に合意し、向こうからすれば人間に与したと見られているのだろう。


「だろうな。それができるようならそもそも、お前は人間に祀られる事はせんだろう。暴れ竜と呼ばれたお前が、残念だ」


「わかっておるなら聞くで無いわ。逆に、吾こそ残念じゃ。知己を倒さねばならんのじゃからな」


 そう言って、彼女は、チラリと夏美に視線を送る。それに気づいた夏美は、驚いたような表情を見せるが、すぐに頷き、遠江に耳打ちをした。


「そういうセリフは、追い込んでから言うものだぞ!」


 全身の炎をさらにたぎらせて、人狼は大地を蹴った。


 肉体が砲弾のように固められ、猛烈な勢いで突っ込んでくる。


 このタックルを食らえば、肉体がバラバラに粉砕された挙句肉体は灰になる。それだけの熱量と勢いに、突如、冬乃の全身から力が抜ける。


「あっ、くうっ! ええっと、この!」


 膝から崩れそうになるのを必死に踏み止まった彼女の目は、普段の冬乃の物であった。


 ミナモの精神が離れてしまったのだ。突然の離脱に頭痛を覚える冬乃だったが、冷静に事態をみすえ、頭を抑えるのを堪えて懐から二枚の御札を取り出し、神力を込めると、人狼目掛けて放つ。


「無駄だ! ちゃちな札や術など、この炎で粉砕してくれる!」


「そうは!」


「させん!」


 さらなる加速を行った人狼だったが、その体は寸での所で止められてしまう。


 彼の視界を覆ったのは二つの影と金棒であった。


「なんと!」


 顔を上げた人狼の前に立っていたのは、金棒を交差させて侵攻を阻む牛頭馬頭であった。


「式神っ。牛頭馬頭とは、面白いが、それでも無駄な足掻きよ!」


 グッと相手が踏み込むと、その力に押されそうになるが、二体の式神は腰を落として必死に踏み止まる。


 熱にやられて金棒も真っ赤な悲鳴を上げ始めるが、決して離さない。


「ここを、通すわけには!」


「ゆかん!」


「ふんっ!」


 さらに一歩、人狼が踏み出すと、二体の上体がそり上がるが、片膝をついてギリギリの防御を保ち続ける。


 その時、二体の背後、冬乃のさらに奥から声が響く。


「そこまでだ!」


 遠江が拳銃を構えて、人狼を威嚇したのである。


 三体と一人はその様子にポカンとして固まってしまう。


「は?」


「え?」


「なん、だと?」


「あの、その、ただの銃じゃ無理です」


「バカ野郎、押し返せ!」


 緩んだ気を引き締める一声を上げると、はっとなった牛頭馬頭が、人狼よりも先に力を込めて押し返す。


「ぬうっ!」


 今度は人狼が上体をそらす番だった。その視界に、白と赤が移り込む。


 鉄扇を手にした夏美が上空から人狼を狙っていた。


「やるな。だが、人間如きに私は倒せん!」


 神力の素質などほとんど無いのを見て取っていた人狼は、逆に炎の拳を構えて、迎撃の体勢を取る。


「それはどうかの?」


 不穏な口調で声が振ってくる。


 はっとなる人狼は、夏美の瞳が縦に切れた天龍の物になっているのに気がつき、目を疑う。


「天龍だと!?」


 資質をほとんど感じない相手に降りていたのだから、先の事件で契約した事を知らない人狼に驚くなという方が無理であった。


「ちょいとわけありでな。言うたであろうが。吾の巫女に手を出すとは、承服しかねると!」


 呆気に取られる相手を見下ろし、ミナモは鉄扇を縦に開く。特別製の鉄線は半円ではなく、警棒の如く直線を描いて展開される。


「だが、水気のないこの場で、その攻撃は我には届かぬ!」


 虚をつかれたものの、人狼は気を取り直して、炎を纏わせた拳を突き出す。


 上空からの攻撃は重力もあって威力は上がるが、反撃を避ける術はない。仕留められると確信していた人狼の顔はしかし、驚愕に染まり上がる。


「ぬぐぁ!」


 武器ごと打ちぬく瞬間、炎が風になびいたかと思うと、拳の先から消失し、逆に鉄線が拳につきたてられ、そのまま爆発したように弾け跳んだ。


「があああっ!? な、何だと!?」


「耄碌したの、主よ。確かに水気を奪われたのは痛手じゃったが、吾は暴れ龍ぞ。神力の性は水だけではないわ」


 ミナモが血でも払うよう鉄扇を振り下ろすと、鉄扇の先端が触れたわけでもないのに、芝生が散り散りにはじけ飛ぶ。


「そうか。風、かっ」


「然り。暴風雨こそ吾が力。水が無くとも風は起こせよう」


 天竜川の暴れ龍とはまさに、暴風雨によりいとも容易く堤を決壊させてしまう彼女の姿を示した言葉であり、神力の性質そのものだった。


 彼女は、水気ではなく、空気に干渉し、鉄扇を中心に暴風を纏わせ、竜巻のような効果を引き起こしたのだ。


「だが、まだだ。その腑抜けのような体に降りては、今の一撃が限界であろう」


「二撃じゃな。さすがに、限界くらいは把握しておる」


 そう言って、ミナモは鉄扇を折り畳み、人狼に背を向ける。


「二、だと?」


 勝利を宣言するその背中に、人狼は不安と驚異を感じ取る。自分はまだ一撃しか受けていない。ならば、二撃とはどういう意味なのか。


 そして、何故、彼女はすでに勝った気でいるのだろうか。


 問い詰めようとした人狼の視界が斜めにずれる。足を動かそうとするが、歩き出す感覚が無い。


「そう、か。見事だ」


 そして悟る。すでに自分の体が、切り裂かれていた事に。


 先ほど眼前で、彼女は一撃を振るっていたのだ。認識と同時に、彼の体は、無数のチリと成って崩壊する。


「ふむ。あっさりと送り過ぎたか」


 死者を思えば、もう少し苦しませるべきだったかと思いつつ、ミナモは目を伏せる。


 夏美の体を使うのはもう限界だった。


「冬乃よ、後は頼む。まあ、二人も大丈夫じゃろ」


 そう言って彼女の意識が夏美から離れる。倒れこみそうになる彼女の体を、牛頭が受け止め、冬乃の前にそっと寝かせる。


「はい、ありがとうございます」


「おっと」


 例を告げると同時に膝が落ちそうになった冬乃の体を、遠江は支えて、葛葉達の方へと目をやる。どちらも、すでに決着に向かいつつあった。




 四方八方から押し寄せる二体の狼を、ダンスのステップでも踏む様にかわしながら、葛葉は攻めあぐねていた。


 尾、耳、髪。ありとあらゆる感覚を利用して、スピードで上を行く相手の攻撃をかわしていたが、その分どうしても打って出れないのだ。


 狼と狐、どちらも神力に付随するのは火と言う事で、お互い術に耐性があるとわかっているため、事態の膠着に拍車をかける。


(さて、どうしたものでしょうか?)


 お互いパワーや技術で言えば一撃必殺が狙えてしまう。こうなると先に手を出した方が負けだ。


「ふむ、よくも動く」


「だが、いつまでもそう余裕でいいのかな?」


 二匹の狼は一対となって語りかけてくる。


「あら、焦りは禁物ですよ」


「主の命を危ぶまんのか」


「秋介さんは自分を頭数に入れていましたから」


「信頼か、それもいい」


「だが、人間を信じるなど愚の骨頂よ」


 足と腕をそれぞれ狙って飛び掛ってくる相手を、円舞のように体を捻ってかわしながら、腕を伸ばすが、相手のスピードに空を切る。


 掴む事でもできればいいのだが、二体相手に意識を使うと中々思うような間合いに入れない。


「随分、人間がお嫌いなんですね」


「奴らは傲慢が過ぎる」


 端的な言葉だが、それだけに嫌悪、侮蔑に満ち溢れていた。


 先の争いを知る術はないが、よほど腹に据えかねているようだ。ひょっとすると、争いの原因もそこにあったのではないか、と彼女は思った。


「全てを己が都合のいいようにせねば気が済まん、それが権利だと勘違いしている」


「そして、具合が悪くなればこちらへ擦り寄ってくる。まるで乞食。信頼する事が間違いなのだ」


「そんなの、人間に限った事じゃないじゃありませんか」


 葛葉は、そうきっぱりと言ってのける。


 かつて人間に住処を追われた事があったが、それは母にも落ち度があった。被害者を自称する気は微塵もない。


 その後、一体どれだけの土地を渡り歩いてきた事か。


一時は生きるのにすら疲れた彼女にとって、人間も動物も、根本的な考え方に違いはないのだ。


「誰だってあっさり裏切るものです。おいそれとは信用なんてできません。ただ、人間にその傾向が顕著だというのであれば同意しますけれどもね」


「ほう。ならば、あの主は、信用に値すると?」


「もちろんです。だから契約したんですから」


「契約か。それらしく言ってはいるが、結局は体よく利用されているだけだろう」


 葛葉は、あげつらうようにして尋ねる狼に、にっこりと笑みを向ける。


「それでもいいじゃありませんか」


「何?」


「秋介さんなら、それでもいいです。そう思えるから、信頼って言えるんです」


 あっさりと、それこそ狼が思わず足を止めてしまう程に、穏やかに彼女は言う。


「私がここ居るのも含めて、強制された事は何もありません。全ては私の意思。必要とされるなら喜んで応えます」


 構え直す葛葉に、狼は身震いする。


 今、彼女の主は、手助けを求めては居ない。彼女に任されているのは、自分達をを打破する事。


 お互いに、相手を必ず打倒すると、呆れるほど愚直に信じているのだ。だから、彼女は焦らない。主の方に目すら向けない。


 九尾をここまで手なづけてしまう相手に、脅威を感じずにはいられなかった。


「良いだろう。ならば、そのふざけた信頼を打ち砕いてくれる」


 何故か一体に集合した狼は、グッと四肢に力を入れると、全身に神力の炎を迸らせる。


 炎自体には、葛葉耐性があり、それほど憂慮する物ではないのだが、彼女の本能が、今まで以上に危険だとシグナルを発していた。


「行くぞ!」


「っ!」


 今までよりも遥かに速いスピードで、狼が突っ込んでくる。


 牙、爪、どちらか一撃でも相当な破壊力になるだろう。 だが、点での攻撃は避けるのも容易い。


 体を半身に引いてなんなくやり過ごす、はずだった。


 狼が着地するのを確認した所で、脇腹の服が切り裂かれ、白い肌に血が滲み出す。


「くう!」


 炎による損害かとも思ったが、触れると、溶けたり焼けた様子はなく、紛れも無く爪によるものだった。


「まだだ!」


 再び飛び掛ってくるのを、今度は大きく右に飛び退くが、同じ様に左脇腹を切り裂かれる。


「つうっ!」


 顔をしかめ、片膝を付きながらも、彼女は冷静に状況を分析する。


 相手のリーチを読み違えたわけでもないのはこれではっきりした。それだけ距離を取る回避行動だったが、持っていかれた。


 考えにくい事だが、相手のリーチが一瞬だけ伸びた事になる。


その時、ある想像が彼女の脳裏をよぎった。


(だからわざわざ集合したわけですね)


「次は、その首をいただく」


 言葉通り、止めとばかりに、猛烈な勢いで疾風のように、彼女の首目掛けて狼が駆ける。


 葛葉は寝転がるようにして避けるが、牙は彼女の肉にギッチリと食らいついた。


「うくうっ!」


 歯を食い縛り、激痛に耐えながら、彼女は、己の右腕に食らい付いた狼の首を左手で掴む。


「ほう、しぶといな」


 噛み付いている狼との横で、もう一体の狼が感心してみせる。


 双頭の姿を取っている今の姿こそが、先ほど葛葉に襲い掛かったからくりの正体だった。


 回避されると同時に、一時的にもう集合していた一体が体を覗かせて攻撃を加えていたのだ。


 ずるりと、葛葉に捕まえられている方から分離し、狼は、改めて彼女の首に狙いを定める。


「終わりだ、愚かな狐よ」


「いいえ、ようやく捕まえました」


 悠然と、牙を突きたてた瞬間、葛葉が不敵な笑みを浮かべてもう一体を押し付ける。


その時、ようやく狼は彼女の体表面に過剰な火の気がある事に気付く。


「何っ!?」


 危険を察知した時にはすでに遅く、葛葉の体から電光が走り、狼二体は激しく体を痙攣させる。


「がああああっ!」


「ぐううううっ!」


 やがて、二体の体の表面から煙が上がり出し、力なく二体はその場に崩れ落ちる。地面へ横たわった後も、その体は、意に反した痙攣をし続けていた。


「あ痛たたた。まったく、女性を噛む時はもっと優しくして欲しいですね」


 首の傷を撫でながら立ち上がる葛葉を焦点が合わぬ目で、狼は見上げる


「な、何故だ? 何故貴様が雷を」


「秋介さんのアレンジです。私はあまり得意ではないんですけどね」


 かつて秋介が行った、火から電気への神力性質の変換。それを体表面で行い、食らい付いた二体に電気ショックを与えたのだ。


 首と腕が電極の役割を果たし、押し当てられた二体の体が閉鎖回路となった。逃げ場のない二体にとって、それは死を宣告する電気椅子となり、体を内部から焼き尽くしたのだった。


「ぐぐぐ、何と――」


「不覚っ」


 アレンジの大元は秋介であるという事実に、狼は歯軋りをして悔しさを隠しきれない。


 それでは、葛葉の主に負けたのと同じ事だった。


「あなた達の負けですよ、狼さん。事情はどうであれ、この町で事を起こしたのは失敗でしたね」


 相手が完全に身じろぎしなくなったのを確認し、彼女は腕の傷をペロリと舐め上げると、冬乃達の方へと目を向ける。


 何故か牛頭馬頭が出ているものの、どうやら無事、決着がついたようで、ふうと彼女は一息を吐く。


 背を向けた方の結果を、彼女が疑う事などなかった。




 ぬかった、と旧主はほぞを噛む。目の前の主はあくまで頭。事実上の脅威は九尾であり、そちらを倒せば崩れると踏んでいたのが、事態は彼の予想を大きく外れてしまっていた。


「おっと」


 旧主の攻撃を、秋介は難なくかわす。


葛葉なる狐と契約をしているので、神力の火による効果が期待できないにせよ、身体能力ではこちらが有利と踏んでいたのだが、未だ触れることすらできずに居た。人狼形態を取り、より確実に、接触すれば命を奪える状況を作っているにも関わらず、である。


 相手も肉体強化しているのだろうが、それでも、焦れさせるには十分な効果を発揮していた。


「ちいいっ!」


 拳、足、次々と繰り出す攻撃を、秋介は手馴れたようにかわす。


 せめて捌かせる事ができれば、とも思うのだが、秋介は決して旧主に接触しようとはしなかった。


 旧主は覚悟を決め、拳を繰り出すと同時に、神力を集中させて言葉を紡ぐ。


「止まれ!」


 言霊により、相手の動きを奪う。人間相手に行うなど、誇りに泥を塗るようなものであったが、目的の為に手段は選んでいられない。


 狐と契約して神力の強さは上がっていても、人間と山の主では差が大きい。相手に防がれる心配はないと踏んでいた。


 だが、拳は空を切る。接触の直前、その場に立ち止まるのではなく、秋介の全身から力が抜け、すとんと膝を落として拳をやり過ごしたのである。


「何っ!?」


「危ない危ない」


 素早く体勢を立て直した秋介は相手の腕を掴むと、肩を引き込むようにして押し倒す。


「言霊はさすがにご遠慮願いたいね」


「貴様、意識を!?」


「聞かなきゃ、どうって事はないからな」


 あまりに手馴れた動作は、旧主に改めて脅威を感じさせた。


 言霊は、相手が聞き、理解しなければならない。そこで秋介は、わざと意識を落とす事で言霊をやり過ごしたのだ。


 相手が言霊を使わなかった場合はいい的となってしまう、大博打レベルの行為であったが、彼の右目は神力の流れを感じる事が可能なので、集中された場所により何をしてくるかは大方予測がつく。


 かつて修行の一環で、意識を無にする術を心得え、特異な右目を持っている秋介ならではの荒技だった。


「ぬううっ!」


 うつ伏せのまま腕を極められた旧主は、もう一度言霊を放とうとする。この距離、そして秋介がこちらを押さえ込んでいる状態で意識を落とす事もできず、確実に効果を発揮できる。


「服従せ――うぐ、がああっ!」


 言葉が完全に発せられる寸前、秋介が体重をかけて腕の関節を逆に引く。


 人の形態を取っていたのが仇となり、激痛に集中した神力も散ってしまう。


「悪いが、今回は待ったなしだ」


 言うが早いか、彼は勢いよく、雪の上に倒れこむように、勢いをつけて旧主の腕を倒す。


 ゴキンッと派手な音が鳴り響き、力なく腕がだらんとその背中に倒れこんだ。


「ぐうううううっ!」


 痛みに悶える旧主の背から、秋介は振り落とされる。


 距離を取ると、完全に外された右腕を押さえながら、旧主は立ち上がる。


「き、貴様っ。よくも、よくも!」


「立てんのかよ……」


 人間はもちろんだが、そこらの九十九神であっても、片腕の関節を破壊されたら痛みで立ち上がるのもままならないのが常なのだが、旧主は立ち上がり、燃え滾る怒りの視線を彼にぶつけて来る。


「当然だ、ここで倒れるなど、我には、我らには有り得ん!」


 痛みで神力の制御を上手く行えないのか、新たに言霊を使う気配はなく、間合いもギリギリ外を保っていた。


「そんなに憎いかよ。人間も、大神も」


「憎い等で済むものか。傲慢にして不遜。いとも容易く、貴様達は境界を踏み越えたのだからな!」


「境界?」


「そう、境界だ!」


 山は主を中心に、異界として畏れ敬われてきた。そして、山を祀る事で人は、その恩恵を享受してきた。食物、燃料、肥料、そして水。


 他の山の生き物達との間での諍いが起きぬよう、主がその調整を行って来たのだ。


 だが、技術の進歩や人の増加により、人間の生活向上の為、森林や山は切り開かれ、もともとあった自然と人との境界は破壊されてしまう。


 それに伴い、生き物と人の間でも多くの諍いが巻き起こり、それは現在でも続いている。


 娯楽としての狩りは、現在、文化的側面もある程だ。


「そのくせ、お前達人間は、疫病や家畜の被害に頭を悩ませると、我々に何とかして欲しいと頭を下げる。そんな都合の良い話など、認めるわけにはいかん!」


 そうした人間の身勝手さに、旧主は怒り、山に踏み込んできた者達を襲い始め、先の争いへと発展したのだ。


「確かに、我らは敗れた。だが、その結果はどうだ? お前達は、我が種を始め、多くの生き物を滅ぼした。その上、それが間違いだったと、外の世界の者達を呼び込み、境界を修正するどころか、さらなる歪みを生み出しているっ」


 封印から解けた当初、旧主とてすぐ今回の行いに思い至ったわけではない。


 山住大神の目を避け、人の世界を覗き、より悪化した事態に怒りと復讐を再燃させたのだ。


「今一度、人間共に我らの存在を知らしめ、あるべき人と自然の境界を取り戻す。そして、かつて人に協力した大神にはその罪を贖わせる。その為に、こんな所で倒れるわけにはいかんのだ!」


 グッと拳を握り締めて熱弁をふるう旧主に、秋介はすっと目を細めた。


「人間が、身勝手だって言うのはそうだな。俺もこんな仕事をしてればそう言う奴にも出会いはするさ」


「ぬっ?」


「あんたの言う境界は、確かに今はほとんどないだろうな。だからあっさりと人間は他の存在を踏みにじる。新たな境界ってやつは確かにこれから作っていかなきゃならないだろう」


「ほう」


 一義的な所で同意を得られると思って居なかったのか、旧主は少しだけ眉を開く。


「だが、それはあんたには無理だ。あんたの言う境界は、今の時代には受け入れられない」


 仮に今、ここで自分達を倒し、山住に攻め入った所で、すぐに周囲の神や主に押しつぶされると秋介は断言する。


「境界は時代だ。あんたの言う境界だって、長い時間をかけて徐々に作られていったんだ。一回ぶっ壊れたのなら、これからまた出来上がっていくさ」


「貴様も、あ奴と同じ、腑抜けた事をいいよる」


 どこか笑うように旧主は呟く。かつて、人間に味方した山住大神を指しているのだろうか。


「だが、それでは間に合わん。人間どもの傲慢さはいずれ世界を滅ぼす!」


「だとしても、今のあんたに境界を語る資格はない。すでに、境界を侵したあんたにはな」


「何だと?」


「復讐心を満たすため、見せしめに人の命を殺めたあんたは、主としてはもちろん、この世界で生きる上で越えてはならない境界を侵しているんだ。そんな奴に、憂いてもらっても迷惑なんだよ!」


「ほざいたな」


 旧主は、秋介の歯に衣着せぬものいいに、頬を引きつらせながら、壊れた右腕も気にせず、四肢を地に突っ張って狼の形態へと変容する。


「だが、我が目的は変わらぬ。そして、それを諦める事もない。我を否定するのならば、止めてみせよ」


 そう告げる旧主の体全体で神力が膨張する。極限まで肉体強化を施しているようで、無理矢理だが、右前足もばね位には使えるようであった。


「我らは敗れたようであるが、疲弊状態。貴様を倒し、鬼門の封じを解けば機会はある」


 今回のような即席の結界や封印は、かけた者を倒せば自動で解ける。


 状況では、五分五分と言えた。


「生憎、仕事でね。あんたを倒して見事解決させなきゃいけないんだよ」


 秋介も呼吸を整えて、両腕を上げる。


「行くぞ!」


 旧主が体をいっそう低くする。一瞬、秋介の右目が相手の口に力の流れを感知する。


「ちっ!」


「動くなっ」


 旧主が言霊を放ち、一気呵成に飛び掛る。ほぼ同時に、秋介は力の限り叫び声を上げた。


「おおおおおおっ!」


 ビリビリとあたり一面にまで響き渡り、相手の言霊を己の耳に届かせない。


「ここだっ!」


「ごっ!?」


 目にも止まらぬ速さで、喉笛を正確に食いちぎらんとした旧主の口はしかし、直感で防御した秋介の手を捕らえる。


そして、逆に、舌を力一杯掴まれてしまい、噛み千切る事も、飛び退くこともできなくなってしまう。


「正確な狙いが仇になったな」


 イヌ科の動物は、こうなると肉体の構造上どうにもできなくなるのだ。


「このおっ!」


 そのまま彼は相手を上空へ無理矢理吹き飛ばし、掌に炎を纏わせて、ありったけの神力を集中する。


「ぬかったな!」


 逃げ場のない上空とはいえ、相手には遠距離でこちらを攻撃する術はない。火であれば、旧主には何の問題にもならない。


 言霊には頼らず、着地と同時にもう一度、今度こそその首を噛み千切ってやると決意した彼の目に、キラリと一筋の光が覗く。


「むっ、がっ!?」


 その光に気づいた瞬間、彼は焼けるような熱さを胸に覚える。視線を向けると、光の筋が彼の心臓を貫いていた。


 光の周辺は完全に焼け焦げ、血が滲むことすらない。


 そのまま、重力に引かれて落下する彼の体は、光の線によって、切り開かれていく。


「こ、これは?」


 地面へ叩きつけられ、ようやく血が流れ出す。


「プラズマジェットだよ。爆発的な燃焼からプラズマを生み出し、方向を与えて打ち出したのさ」


 TPSで鍛えた狙撃力が十分に役に立っていた。


「くく、炎から電気。そうか、狐にもやられたと言うのに、我とした事が」


 倒された他の個体の記憶がようやく巡ってきたのか、自嘲的な笑みをこぼす。


「くくく。良いだろう、今回も、我らの敗北だ。だが、忘れるな。貴様の言う、境界の再形成は決して間に合わぬ。その前に、人を見限り、我と同じ結論に達する者が必ず現れるだろう。いいか、忘れるな。人類は己の咎によって、必ず滅ぶのだ!」


 高らかな叫び。それが、最後の言葉となった。


秋介は、駆け寄ってくる葛葉達の気配を感じながら、旧主の体に、弔いの炎を点す。


「秋介さん、ご無事ですか!?」


「ああ。って、お前の方が無事じゃねえぞ!」


 脇腹裂傷に首の噛傷。どうみても葛葉の方が重傷に見えるが、彼女は舐めとけばこれくらい大丈夫です、と断言する。


「高夜さん、終わったの?」


「ああ、片がついた」


「そう」


 夏美をおぶったまま、冬乃は言葉少なにそう告げて燃える旧主と秋介を見比べ、複雑な表情を炎の明かりに浮かび上がらせる。


「九十九堂、無事みたいだな。まったく、わかっていても信じられんよ」


 燃える狼の死体を一瞥して、遠江はそう頭を振る。


「ああ、遠江刑事。これで、今回の件は完了です」


 そう言って、秋介はポケットから虫除けスプレーを取り出し、遠江に差し出す。


「何だ、こりゃ?」


「あなたは、捜査中に、野良の狼犬に襲われ、持っていたスプレーとライターで撃退した。そう報告して下さい」


 骨は残るので、死体の傷と照合すれば全て丸く収まる。足跡など、ろくな証拠が残っていない事について、犯人が死んだ以上、警察も突く事はないだろう。


「それで、事件は解決。依頼も完了ですね」


「ああ、わかった。後は任せておいてくれ。この礼は今度きっちりさせてもらう」


「ええ、期待せずに待っていますよ」


 早速携帯で署に連絡し始めた遠江を横目に、彼は鬼門の封じ札を取り、破り捨てた。


「葛葉、行くぞ」


 身体強化の影響か、ふらつく秋介の腕を優しく取って葛葉は支える。


 結界はまだ生きたままであったが、鬼門はすでに開通。九十九神として陰の気質を持つ彼女に先導されるように腕を引かれて、秋介はその場を去っていくのだった。




 連続通り魔殺人は、野犬襲撃事件と名称を改められ、秋介の予想通りに片付けられた。


 そして数日後、一時危惧された、天龍神社の夏祭りは無事に開催されていた。


 終盤に差し掛かり、ヒュルル~と独特の打ち上げ音が響き渡り、夜空のキャンパスに色とりどりの花が咲いていく。


 その明かりに照らされながら、秋介は裏庭に三脚を立て、ファインダーで縁側を覗き込む。


「まあ、こんなもんか」


 納得の行くセッティングが出来た秋介は、縁側に腰掛け、今日の夕刊を広げる。


 内容は、山住の旧主の事件の事で、狼犬として警察が発表に対し、ニホンオオカミの生き残りであったのでは、と動物団体が疑問の声を上げたと言う物であった。


「本当に身勝手話だ」


 理由は色々あれど、一度は絶滅に追い込んだものを、今は必死になって生き残りが居ないか探しているのだから。


関連記事として、猪や鹿の被害にあえぐ地域に、ニホンオオカミの近種を放ち、生物環境をかつての状態に近づける試みについてが書かれていた。


一通り読み終えた秋介は、ふと物思いに耽る。


こうしてみると、本当に山住の旧主が言った通り、身勝手な話だと言いたくもなる。


結局外国の狼を居れて、成功するかどうかはわからない。マングース化の恐れもあり、それこそ境界を破った業に今現在、人間は頭を悩ませているのだ。


「境界、か」


 人と九十九神。その橋渡しになればいい。その為に九十九堂は代々、便利屋ついでに拝み屋のような行為を行って来た。そして、その事について、深く考えた事などなかった。


ある意味では、自分達が境界でもあるのだろうか。現行型の境界ができるまでの、繋ぎとしての意味も含めて。


 だが、記事のように、霊的な畏怖を完全に排除した科学的な方法で完全に境界が確立できるのかは未知数だ。旧主の言っていた事態に発展することは十分考えられる。


 その時、自分は一体どちら側に立って入るのだろうか。


 冬乃達とも相対する可能性を当然の事として考えている事に、我ながら驚いてすらしまう。


「悩んだら、本当はまずいよなぁ」


 そうは思うのだが、こうして改めて考えてみると、どうにもすぐに答える事はできそうになかった。


「ただいま戻りました」


思い悩んで居るところへ、葛葉が帰ってくる。体を起こした秋介は、まだ花火が上がっている事に首を傾げる。


 パタパタと走ってきた彼女は、アヤメの柄の入った浴衣姿であった。


「祭りの途中でよく戻ってこれたな?」


「あ、はい。皆さん花火を見たら帰るだろうから、上がって構わないと言っていただいたので」


 夏祭りの手伝いに行っていたのだが、休憩所であれば妥当な判断とも言えた。


「そうか。そりゃ何よりだったな」


「はい。あの、それで、こちらは一体?」


 葛葉は、庭に立てられた三脚とカメラを指差す。年代物の、クラシックカメラで、今すぐにでも撮影ができそうである。


「ああ、一枚撮ろうかと面ってな」


「え、ええええっ!? い、良いんですか?」


 くわっと目を見開き、驚きと喜びがない交ぜになった表情で彼女は聞き返す。


 あれだけ嫌がっていた秋介の言葉とは思えなかったのだ。


「ああ。倉庫を掃除してたら一式出てきたからな。知合いのカメラ屋に出す前に、試し撮りだよ。お前も、撮りたがってたし」


「あ、ありがとうございます。凄く楽しみです」


 彼女の顔は、喜びのあまりへにゃへにゃになっていた。


「じゃあ、早速撮るか」


 秋介は新聞を置いて、カメラに向かい、ファインダーやフラッシュ、セルフタイマーを再確認して行く。


 その様子を見ていた葛葉は、ふいに尋ねる。


「あ、あの、でも、本当に良いんですか?」


「ああ。さっき言っただろ」


「でもその、難しい顔してますよ」


「あ?」


 言われて秋介は、頭を掻く。どうやら、物思いの内容をまだ引きずっていたようだ。


「いや、悪い。写真の事じゃない。ちょっとさっきまで考え事していてな」


タイマーをセットして、葛葉に並んで縁側に腰かけると、彼女がそっと手を重ねてくる。


「大丈夫ですよ」


「うん?」


 そう告げる葛葉は、いつになく柔らかな、包み込むような笑顔を浮かべていた。


「何があっても、私は秋介さんに付いて行きます。だから写真くらい、笑っていて下さい」


その瞬間、秋介の悩みは吹っ飛んでいた。


そうだ何をやっている、と喝を入れられているようですらあった。


 どんな選択をするにせよ、自分の背中を支えてくれる相手が居るのだ。


 悩む必要などない。ただ、いついかなる時も支えてくれる相手の為に、自分は胸を張って正面を行けばいいのだ。


 フラッシュと花火の閃光が二人を包む。


 その時秋介は、自分が今までで一番落ち着いた、穏やかな笑みを浮かべているのに気づく。


そして、隙間を作らぬよう、強く強く、葛葉の手を掴み返しているのだった。




                                      《了》

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九十九堂霊異記 長崎ちゃらんぽらん @t0502159

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