九十九堂霊異記

長崎ちゃらんぽらん

前編

昔の人は言いました。この世のあらゆる万物は長い時間や経験を経て神に至り九十九神となるのです、と。




 世界には摩訶不思議で奇妙な事象が溢れている。大概は勘違いや自然現象の産物で、ある人の言葉を借りれば「火の玉はプラズマ」なのだ。


だが、そんな発達した科学ですら説明できない事象もまた、確かに存在している。それらは時に神話や伝説、風習として連綿と伝承されてきた。今ではネット上での噂話として知られるモノもある。


そしてここ、七月も半ばに差しかかろうとしていた多神町にもそんな事象に悩まされている者が居た。


「ここ、でいいんだよね」


 熊谷理恵は手にしたメモと、目の前の建物をおどおどと見比べる。


 地図ではあっているし、古ぼけた看板が掲げられ《九十九堂》としっかり記されている。間違いなく、目的の場所なのだが、彼女はふんぎりがつかず、暖簾をくぐれずに居た。


 本看板こそ屋号になっているが、軒先にかけられたボロボロの立て看板、というか暖簾には「便利屋・よろず請負」と書かれている。よくよくみれば小さく「電球交換から不倫調査まで」とも記されていた。暖簾内に三業種が混在し、胡散臭いことこの上ない。


昔ながらの店構えに、歴史を感じさせる町家作りの建物が、町の郊外という立地条件とあいまって、妖しさを引き上げていた。骨董とでも書かれていれば、むしろ信頼度が上がるのだが。


「本当に信用できるのかしら?」


 九十九堂などと立派な屋号だが、彼女にしてみれば摩訶不思議堂としか言いようがない。


 かと言って、入る以外の選択肢は無いのだ。うだうだしていても仕方がない。


紹介状の入ったカバンを抱く腕にぎゅっと力を込めて、暖簾をくぐる。


「ご、ごめんくださーい」


 ひんやりとした土間の空気が伝わってきて、緊張から声が上ずる。


「お帰りなさいませ、ご主人様」


「え?」


 返って来た挨拶の、あまりの場違いっぷりに理恵は顔ほうけたまま、声の主に顔を向ける。


「あ、これは申し訳ございません。お帰りなさいませ、お嬢様」


 相手は、彼女の姿を見止めると、恭しく頭を下げて言い直す。


 その姿に、彼女はハンマーで殴られたような衝撃を受け、目を見開き、大口を開けて固まってしまう。


 そこに居たのは、紛れも無くメイドだった。黒のワンピースにフリルのついた白いエプロン、頭には同じくフリル付カチューシャという服装。そして、両手を前で合わせて丁寧に頭を下げるその姿。彼女がメイドでなければ、世の中のメイドと呼ばれる存在は名称を変えなければならないだろう。


 返事はおろか、格好というか、相手の存在自体が場違い過ぎだった。


「えっと、何なりと御用をお申し付けくださいませ。コンコン」


 顔を上げたメイドは、面食らう理恵に少々戸惑いを見せながら、両手を顔の横に置き、招き猫のようにして笑いかける。語尾からして、狐をイメージしているのだろう。よくみればカチューシャには三角耳、腰にはふさふさの尻尾もつけられて、狐を連想させた。


(こ、これは!)


獣耳メイドと言う、あまりにもあざとく狙いを決めたサービス攻勢。変な店どころか異次元に迷い込んでしまった気持ちに襲われる。


だが、それ以上に、日本人離れした腰まである美しい、稲穂のようなブロンドの髪と白い肌、整った顔立ちにモデルのようなプロポーションはテレビから抜け出してきたようで、理恵は見惚れてしまった。


「あの、私、何か粗相をしてしまったでしょうか?」


 固まっている理恵の顔をメイドは心底申し訳なさそうに覗き込む。


 彼女は慌てて首を振った。


「いえいえ、そんな事はないですよ! ただ、その、こんな場所でメイドさんが見られるとは思ってなかったので」


「最近のお手伝いはこう言う格好をしているものではないのでしょうか?」


 メイドは首を傾げながら自分の格好を見直す。


 その様子に、彼女は騙されているに違いない、と直感する。きっと何も知らずに海外からやってきた留学生か何かで、ここはバイト先。店主に唆されてこんな格好をしているのではないか、と。


「違います。格好も口上も、やっているのはかなり特殊なお店だけです」


「そんな!?」


 力強く否定すると、暫しの間を置いてメイドは顔を真っ赤に染める。


 あわあわと口を動かしたまま固まってしまう。完全に二人の立場が逆転していた。


「あの、その、似合ってはいると思いますよ」


「え、あ、ありがとうございます」


 フォローを入れると、もじもじと手を摺り合わせて俯いてしまう。理恵より年上なのだが、その仕草は実に可愛らしい。


 先ほどの仕草は狙った感じがあったものの、今の姿を見ると、素直な人なんだな、と思えた。


「そ、それで、御用は何でしょうか?」


 俯き、耳まで真っ赤にしつつ、メイドは消え入りそうな声で尋ねてくる。


 理恵ははっとなり、手にしていた紹介状を差し出す。


「あの、これを! お願いします!」


 それを受け取り、書き主を確認した途端メイドの目付きが変わる。今しがたのおどおどしていた姿はどこへやら。背筋をただしたその姿はキャリアウーマンのような凛々しさをまとっていた。


「お客様、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」


「あ、熊谷理恵です」


「ありがとうございます。それでは熊谷様、どうぞこちらへ」


 ニッコリと笑みを浮かべ、彼女は掌で奥を示して歩き出す。


 理恵は促されるままに、付いていくのだった。




店奥の座敷へ理恵を案内し、メイドは少々お待ち下さいと告げて部屋を後にした。


座布団に座り、一息を付くと、途端に不安が襲ってくる。獣耳メイドのインパクトもあってあまり考えずに紹介状を出したが、やはり早まったような気がしていた。


何しろ、店先にわざわざメイドを立たせるような店だ。これから出てくる店主の人柄など知れたものではない。


そんな彼女の不安を後押しするように部屋の真上から声が聞こえてくる。木造という事もあってか、よく響いていた。


「秋介さん、酷いじゃないですか!」


「何だよ朝っぱらから」


 メイドとは別に寝起きと思しき声が聞こえてくる。まだ若い男性のモノだった。


「もうとっくに九時は回ってます。それより、この服です!」


「どうしたんだ、そんな格好で?」


「どうしたんだ、じゃないですよ! これ、普通のお手伝いの格好じゃないって、どうして教えてくれなかったんですか!」


「聞かれなかったし、服なんて似合ってればいいじゃないか」


「え、に、似合ってますか?」


「お前に似合わない服探す方が大変だろう」


「そうですか? ふふ、ありがとうございます」


のろけ同然の会話に、理恵は頭を抱えそうになる。客が待っている事を忘れているとしか思えない。


「んで、わざわざそんな事のために俺を起こしたのかよ?」


「違います! お客様ですよ!」


「ああ? こんな朝っぱらから?」


「あの、もう一度言いますけど、もう九時回ってますからね?」


 メイドのトーンがやや低くなる。さすがに寝ぼすけな店主に思う所があるようだ。


「まだ九時だろ」


 途端に、ドンと言う鈍い音が響き渡り、しばしの沈黙が流れる。


「くそぉ。で、そのお客さんの用件は?」


「これですよ」


「こいつは――まったく」


 紹介状を見せたのだろうか。何やらバタバタとした音が聞こえ、三分と立たずに理恵の背後の障子が開かれる。


「すみません、お待たせしました」


入ってきたのは、一人の青年。寝癖だらけの頭に浮かぶたんこぶを気にしながら、彼は理恵と向かいあって席に着く。


彼女よりは、さすがに年上のようだったが、それでも大して離れていない印象を受ける。メイドの方が年齢は高そうだった。


「初めまして。九十九堂店主の高夜秋介です。熊谷理恵さんですね。よろしく」


「あ、はい。よろしくお願いします」


理恵は普通に頭を下げて挨拶を返してしまう。店主が出てきたら何か一言くらい言ってやろうと思っていたのだが、挨拶以上の言葉が口から出てこなかった。


高夜秋介なるこの店主。見た目は寝癖もあって言葉を無くすほど良い訳ではないし、かといって物腰や雰囲気は店と客の立場で考えれば普通だというのに、会うなり彼女は毒気を抜かれてしまったのだ。


「こちらは読ませていただきました。どうやら、困っている事があるようですね」


 秋介は紹介状をテーブルの上に置く。頷くと、彼は机の上で手を組み、神妙な面持ちで理恵に尋ねる。


「詳しい内容を聞かせてもらいましょうか。今すぐにはお答えできませんが、恐らくお力になれると思いますから」


淡々と告げるその様子に、この人なら何とかしてくれるかもしれない、という考えが理恵の中で組みあがって行く。明確な理由を聞かれると言葉に詰まるのに、ただ確信だけが存在していた。


「ゆっくりで結構です。それこそ、お茶でも飲んでね」


 秋介の言葉を待っていたかのように、先ほどのメイドがお茶の用意を持って入って来る。


 理恵は、妙に澄んだ頭で、着替えなかったんだと、思うのだった。




 最近、理恵の家では妙な事が頻発していた。子供が飛び跳ねるような足音が聞こえたり、他に誰も居ないはずなのに人影が駆け抜けたりするのは序の口で、出したお茶が勝手に倒れてお客さんにかかったりする始末。先日も、モノが客に倒れ掛かり、かばった彼女は足を挫いていた。


 原因は全くわからず、あえて言うならポルターガイストが一番しっくり来る状況だった。


「それで今度父が帰ってくる事になったんですが、心配はかけたくないし、父にも何か起こるんじゃないかと思ったら」


「何とかして帰国までには解決したい、と」


「はい。それで、たまたまクラスメイトに、神社の子が居たので、相談したんです」


 一通り事情を話し、一度家へ来てもらった所、彼女はもっと適役が居ると言って、秋介の手元にある紹介状を渡してきたのだ。そして学校の休みを利用して尋ねた次第であった。


「ええ、よく知ってますよ。あなたのクラスメイトは一応、幼馴染の妹さんですから」


「そう、だったんですか。じゃあ、九十九堂さんはやっぱり、拝み屋さんと言う事でいいんですか」


 やや乾いた笑みを浮かべて、秋介は頭を掻く。


「まあ、そう言う事もやってます。ウチはご存知の通り、便利屋ですからね」


 普通の便利屋は拝み屋や祈祷師みたいな事はしないと思うのだが、今はそれを突っ込んでいる所ではなかった。


 今家で起きている事態を解決できるなら、藁にも縋りたい思いだった。


「お、お願いします! 何とかして解決してください!」


「一応、確認します。どんな意味でも、方法でも構わない、と言う事でよろしいですか?」


 秋介の質問の意味は、理恵にはすぐにわかった。確かに、神社でやる厄払いなんかとは少々違う。気分の問題とかではなく、自分が今頼んでいるのは本当の意味でのお祓いに近い。普通なら、オカルトだ、と笑い飛ばせるような事だが、今の彼女にはここしか頼れる場所がなかった。


「もちろんです!」


「わかりました。そう言う事でしたらお力になりましょう」


「あ、ありがとうございます!」


 頭を下げ、目一杯の礼を告げる。理恵はようやく、人心地つき、お茶に手を伸ばすことが出来た。少し温くなっていたが、飲むにはむしろ丁度いい温度だった。


「おい、葛葉。出かけるから、用意を頼む」


「あ、はい。わかりました」


「ぶふっ!?」


 メイドへの何気ない呼びかけだったが、理恵がお茶を噴き出すには十分過ぎた。


「げっふ、げほ!」


「だ、大丈夫ですか?」


「大丈夫でっ、す」


 むせ返る理恵を心配しつつ、メイドは布巾を取りに部屋を後にする。


 落ち着いた彼女は、メイドが出て行ったのを確認して、秋介に尋ねる。


「あの、く、葛葉さんと言うのは、彼女の?」


「ええ、名前です」


 彼は静かに頷く。見た目からは思ってもみない名前に、理恵は恐る恐るさらに続けた。


「えっと、ハーフの方ですか?」


「いいえ。生粋の日本生まれの日本育ちですよ」


 何であれ、あのルックスだと先祖はアジアではなく欧州系に行きそうなもの。葛葉と言う名前を想定するのは不可能だった。だが、仮にも店主が言うのだから、今の彼女は日本人で名前は葛葉。それでいいか、と理恵は己を納得させる。


「すぐに片付けますね」


 葛葉は戻ってくると、理恵が汚してしまったテーブルを手際よく拭いていく。


 彼女がまた布巾を洗いに出て行くと、秋介は理恵がお茶を飲み終えるのを待って、声をかける。


「それでは、これから早速あなたの家にお伺いさせていただきます」


「は、はい。よろしくお願いします」


「申し訳ありませんが、先に出ていてもらってよろしいですか? すぐに支度をして、私もいきますので」


 そう言われ、彼女が外で待っていると、九十九堂の隣から軽妙な音を立てて車がゆっくりと姿を現す。


やや色あせ気味の真っ赤な、軽のピックアップトラックだった。店の風貌とはマッチしていたが、車体からは郷愁が滲み出てきているようにすら思えた。


「乗ってください」


「あ、はい」


 正直、躊躇う所だったが、足を挫いていた事もあり、彼女は助手席に乗り込む。


ボンネット型の軽トラで、思ったより足が伸ばす事は出来たものの、やはり狭かった。


「それじゃあ、行きますよ」


 シートベルトを締め、彼女は頷く。再び、あの軽妙な音を立て、マー坊の愛称で親しまれる軽トラは多神の街中へと消えていく。


 普段から乗っていないのか、マニュアル車だからなのか、家へ着くまで、彼女を酷いノックが襲い続けるのだった。




 理恵の家は多神町の駅前住宅街にある一戸建てだ。彼女が生まれた時に建てたので十五年以上過ぎた事になるが、乗ってきた車に比べると明らかに家の新しさが目立っていた。


 車を降りると、足首だけでなく体の節々も痛くなっていた。遊園地の絶叫マシンだってまだ体に優しいと思える程によく揺れた。


「いやぁ、大丈夫でしたか? 久しぶりに運転したのでどうにも揺れてしまいましたね」


 己に対して苦笑しながら、秋介も車を降りてくる。


その姿に、もう二度と九十九堂さんの車には乗らない、と彼女は心を決めた。いや、用は二度も無い方がいい。


 秋介は助手席側のドアの鍵も閉めると、じっと彼女の家を見つめた。


「良い家ですね」


「普通の家ですよ」


 理恵の言う通り、住宅としては周囲に同じような建物がいくつも建っており、珍しいとかデザイナーズと呼ばれるものではない。


 だが秋介は首を振った。


「外観じゃありませんよ。この家は、良い気に満ちてます」


「気、ですか」


 拝み屋っぽい発言ではあるな、と彼女は思いつつも、そんなに良い気に包まれているならどうして怪しげな現象が起きているのだろうか。


 彼女は、九十九堂の腕にやや不安を覚えてしまった。


「さあ、行きましょうか」


 何故か促されて、彼女は家のドアを開ける。


 靴を脱いで玄関を上がり、秋介も後に続くと、ズボンのベルト穴にぶら下がっていた細いステンレスの筒状のアクセサリーがカラカラと音を立てた。


瞬間、ガタッと音がしてパイプ式の簡素なシューズラックが揺れる。


「おっと」


 半歩体を轢くと、彼のつま先すれすれにラックが倒れ込んだ。ガシャンと言う音がして、靴が散らばる。


「だ、大丈夫ですか!?」


「早速、歓迎されているようですね」


 手をかけると、ラックは簡素な見た目の割りにそこそこの重さがあった。


「これは結構痛そうだ」


 そう言って、秋介は靴を元に戻していく。


「ひょっとして、その挫いたのもこんな感じでしたか?」


「ええ。その、そこの上着掛けが」


 彼女が指したのは、脇に立てられたポールタイプのコートハンガーだった。突き出たハンガー部分が勢い良く突っ込んでくればかなり痛そうだ。


 こちらは木製で、シューズラックよりも足元はしっかりしている。ちょっとした地震程度ではびくともしなさそうだ。これが突然倒れら、確かに原因は不明だろう。


「なるほど。まあ、悪い気配は感じませんがね」


 コートハンガーに気をつけながら、秋介も靴を脱いで家へ上がる。


 彼は玄関脇にある応接間へ通されると、すかさず理恵に指示を出す。


「お茶を出してもらっていいですか?」


「あ、はい」


 普通ならあつかましい以外の何者でもない行為だが、今回だけはわけが違う。


 理恵もそれを理解しており、快く返事を行った。


 座布団に腰かけた秋介は、仏壇へ目をやる。昨今の住宅と同じで、仏間と兼用のようだ。


 中々立派な仏壇で、本尊は大日如来らしい。まだ新しく、飾られたばかりのようだ。


 誰が飾られているのか、上に掛けられた遺影に目をやる。まだ若い女性の写真だった。実に、目や口元は理恵に似ている。


柔和な微笑みと、写真全体から溢れる落ち着いた雰囲気は、親の暖かさとでも言うべきものすら感じさせ、理恵の母親であるのは間違いなさそうだった。


「九十九堂さん。お茶を持ってきました」


「ありがとうございます。あの、失礼ですが、こちらはお母さんですか?」


 秋介の質問に、お茶を入れていた理恵は体を強張らせる。しかし、一瞬の事で、すぐに湯飲みを秋介の方に置くと、微笑を浮かべる。


その姿を見ながら、秋介の中で今回の事態が一つずつ繋がっていく。


「ええ。二ヶ月程前に、病気で亡くなりました」


「と言うと、四十九日は」


「つい先日間済ませました」


「なるほど」


 秋介はお茶を一口飲むと、そのまま天井に目をやった。


 大方の事情は飲み込めた。原因も間違いないだろう。問題は、何が起こしているか、だ。


 その時、再びズボンのアクセサリーがカラカラ音を立てる。


 秋介はすぐに顔を戻すと、お茶を一気に飲み干す。湯飲みをテーブルに置くと、彼の方へ跳ねる様にしてそれは倒れた。中身を飲み干してなければ、盛大にこぼれて、火傷の危険もあっただろう。


「ま、またっ」


 理恵は、現象が起きた事はもちろん、まるで予知するように秋介が回避している事にも驚いた。


 だが、そんな彼女を横目に、秋介は立ち上がると、部屋の戸を開け放つ。


「ああ!」


「っ!」


「すぐに離れるべきだったな」


 そこには、一人の少女が、影から部屋の中を覗くようにして立っていた。


 見た目は十になるかならないかで、服装も年相応のワンピース。じっと秋介を見つめる瞳は、敵愾心むき出しだ。


「さて、おイタはおしまいだ」


 見た目は少女という事もあり、手荒な真似はしたくなかったが、秋介は逃がさぬよう首根っこを捕らえるために手を伸ばす。


「っ!」


「おわっ!?」


 だが、直前でアクセサリーが音を立てたので、慌てて手を引っ込める。ギロチンよろしく、バンッと派手な音を立て、とてつもない速度で戸が閉まった。


 あのまま腕を出していれば、よくて骨折。最悪腕が飛んでいたかもしれない。


「いやいや、可愛い見た目に反して過激じゃないか」


 秋介は自分の腕の様子を確かめるようにさすりながら、引きつった笑みを浮かべる。


「つ、九十九堂さん! い、今のは一体!?」


「今での事態の元凶ですよ。何か、はこれから確認しないと行けませんけどね」


 その時、二人の耳にまるで町内放送のように遠くから同じ言葉を繰り替えすように声が届く。


「出テ行ケ。出テ、行ケ」


「っ!?」


 理恵は耳を塞ぐが、頭に直接入ってくるようで、まったく効果はなかった。


「何なの!?」


「嫌がらせの一種ですよ。今までのと同じ、ね。しかし、選別もできないとは、まだまだ若いな」


 理恵の肩に手を置き、秋介は彼女の瞳をじっと見つめ、両手を耳から離させ、深呼吸するように伝える。


「落ち着いて。大きく、息を吐いて」


「ふうう」


 たったそれだけの行為だが、理恵は気分が少しだけ和らいで行くのを感じた。


「大丈夫ですか?」


 静かに頷くと、秋介は改めて立ち上がり、戸に手を掛ける。


「いいですか。これからちょっと騒がしくなるとは思いますが、ここから出ないようにお願いします。あなたは大丈夫だと思いますが、出たら保障しかねますので」


 何故ここにいたら大丈夫だと言えるのかが気になったが、口元こそ笑っていたが、その目は邪魔するなと言われているように見えて、理恵はアドバイスに従う事にする。


「わ、わかりました」


「それでは」


 応接間を出た秋介は、戸をゆっくりと閉めて周囲を見回す。


 先ほどの少女が、隣の部屋から、やはり影から顔だけのぞかせ、じっとこちらを見つめていた。


「出テ行ケ」


 応接間で届いたような声が、またも秋介の耳に届く。


先ほどからアクセサリーがカラカラと音を立てっぱなしだった。センサーのような役目をしてくれていたが、もう当てになりそうにない。


「そうは行かない。お前を彼女の前に連れ出さないと行けないんでねっ!」


 秋介は彼女目掛けて駆ける。せいぜい三歩の距離。相手の反応よりも早く辿り着く自身があったが、彼の視界の端で何かが光る。


「ちっ!」


 踏み止まり、体を後ろへ反らせると、鼻先を廊下にあった電話の子機が掠めて行く。壁に当たって受話器からツーと言う音が漏れた。


 かわされたのに気づいた少女はすぐに次の行動に移る。なんと、秋介の方に向かって走り出したのだ。


「このっ!」


 抱きかかえるように両手を繰り出すが、小柄な体がスルリと彼の股下を抜けて行き、アッカンベーと舌を出して、今度は二階へ駆け上って行く。


 追いかけようとして、彼はたたらを踏む。足元には、電話機の横に置かれたコルクボードから抜けたと思しき画鋲が、わざわざ針を上に向けて落とされていた。


「ったく、ガキの悪戯じゃねえか」


 軽く飛んで画鋲をよけると、彼は溜息混じりに頭を掻く。


 どうやら、相手は見た目どおりの子供のようだ。映画でも留守番をする羽目になった少年が泥棒退治に似たような事をやっていたが、アレは少年が実に上手くやっていた以上に、泥棒が冷静さを欠いて敗北を招いていた。


 ここで自分が無闇に追いかけた所で、またろくでもない嫌がらせを仕掛けてくるだろうし、子供の悪戯なら落ち着いて考えれば読めるものだ。


 階段の前に立った秋介は上の階を見上げる。一枚のカーペットが二階まで続いており、上がってすぐの所に気配を感じる。


 大体、何をやろうとしているか気づいた彼は、おもむろに自分の右目に指を突っ込んだ。




 彼女はじっと、階段を上がってすぐのところにある、洗面台の影に身を潜めていた。


 何としても、あの人には悪いが、あの男だけは追い払わなければならない。あの男は、危険だ。


 息を潜め、じっと追いかけてくるのを待つ。


 ギシッと階段を踏み締める音が響く。


 来た、と少女は体を強張らせる。一段、二段と数えながら、じっと階段に目を凝らす。


 そして、男の頭が視界に入ると、引き寄せるように腕を動かす。同時に、階段に敷かれていたカーペットが、上に向かってスライドする。


「うおっ!?」


 悲鳴と共に、ドカッという体が倒れるような音が響く。見事、相手の足を滑らせることに成功したのだ。


やった、と拳を握り締めると、何かが宙を舞ったのに気づく。それを追うと、目の前にポトリと落ちた。


「~~っ!?」


 同時に、彼女は声にならない悲鳴を上げて、腰を抜かしてしまう。飛来したのは、目玉だった。


 あうあうと口を動かし、立てないながらもその場を離れようとした所で、彼女は抱え上げられてしまった。


「よし、捕まえたっと」


 振り向くと、そこには先ほど倒したはずの秋介の姿があった。


 彼は不敵な笑みを浮かべて落ちた眼球を拾い上げ、不思議そうな顔をする少女に告げる。


「義眼だよ。偽者さ」


 秋介は、昔、とある理由で右目を無くしていたのだ。今回は、相手のしようとしている事に気づいたので、足を滑らせた振りをして、義眼を放り投げ、逆に彼女を驚かせる事にしたのだった。


「まあ、ちょっと刺激が強かったか」


 秋介は義眼を付け直しながら、階段を降りて行く。少女はバタバタと暴れるが、子供に殴られているだけなので、痛くも痒くもなかった。


「おいおい、そんなに動くなって。落とすぞ」


「っ!」


 秋介の言葉に、少女は体を強張らせ、押し黙ってしまう。


「恨み言の一つくらい言ったっていいんだぞ。それくらいは聞いてやるからさ」


 だが、彼女は黙ったままだった。一階に降りると静かになったのに気付いたのか、戸を開けて理恵が顔を覗かせる。


 彼女は、秋介の脇に少女が抱えられている事に気付いて、応接間から出てきた。


「捕まえたんですね」


「ええ。ほら、何か言う事があるだろ?」


 秋介は少女を抱えたまま、理恵に向かい合わせるが、彼女は顔を逸らして、黙っていた。


 ふと、秋介はあることに思い浮かべる。


「……喋れないのか?」


 少女は語らず、何も示さない。しかし、沈黙こそが答えとばかりに、治まっていたアクセサリーがカラカラと激しく音を立てる。


「っ!」


 彼は、確かに少女が喋っている所を見ていなかった。口を動かさずとも語りかけられるはずだが、それもして来ないと言う事は、他にも居る、と言う事になる。


 秋介の考えを肯定するように、肩越しに彼の背後を見ていた理恵の顔が青くなった。


「くそっ」


 振り向くと、リビングにおかっぱ頭の和服に身を包んだ少女が佇み、秋介を鋭く睨みつけていた。抱えた少女の顔に花が咲く。


「ソノ手ヲ、放セッ」


 声が、先ほど聞いていたのと同じ声が放たれ、テーブルに置かれていたガラス製の灰皿が円盤よろしく宙を飛び、秋介の顔面目掛けて飛び掛ってくる。


 完全に不意を付かれた。しかも、後ろには理恵が居る。うかつに避けられず、かといって殺人すら容易い凶器が相手だ。片手では防ぎ切れない。


「ちっ、葛葉!」


 彼は咄嗟にズボンにぶら下げていたアクセサリーを引く。筒状になっていたソレは、ボールペンのキャップのように先端がポンと抜け、空洞の口を覗かせる。


 そこから金色の靄のようなものが飛び出した。影絵のようにぴんと立つ三角耳と突き出た口を形成する。続いて、二本の前足まで飛び出した。


 呆気に取られながらも、狐だと理恵は思った。


 靄の狐はアクセサリーから全身を抜き出すと、素早く秋介の前に体を飛び出させると、大きな口を開けて灰皿を飲み込んでしまう。


「ナッ!?」


 驚くおかっぱ少女に、靄の狐は飛び掛り、あっという間に地面に押し倒した。


 唸り声を上げた狐は、灰皿を吐き出すと、再びその大きな口を開けて少女の頭に覆い被せる。


「ヒ、ヒイイイイッ!?」


 少女が悲鳴を上げると、狐はベロンと舌でその顔を一舐めする。


 少女は白目を向いて気絶してしまった。その途端に、おかっぱ少女の姿が見る見るうちに縮んでいき、狐の足元に一体の人形を残して消失してしまう。


 理恵は目を丸くする。だが、変化はそれだけに留まらない。金色の靄狐の姿もまたゆらゆらと揺らめき、やがて二本足で立つ人のような輪郭に変わり、彼女の見知った人物が姿を現す。


 メイド服に身を包んだ、金髪の女性。九十九堂のお手伝い、葛葉だった。彼女は片手に人形を持ちながら、相変わらず朗らかな笑みを浮かべていた。


「え、ええええええっ!?」


 立て続けに起きる現象に、そこそこオカルトチックな事態を覚悟していた理恵の脳はその処理速度を超え、オーバーヒートを起こした。


 視界が白くなり、ぐらりと体が揺れる。


「おっと」


 秋介は慌てて、抱えていたワンピースの少女から手を放し、理恵を抱き留める。


 所在なさげにワンピース少女は秋介と葛葉を見比べる。


 そんな彼女に、葛葉はニッコリと笑いかけ、ぺろりと舌なめずり。ビクッと体を震わせた少女は、先ほどのおかっぱ少女同様に姿を変えていく。コトンと言う音を残し、少女が立っていた場所には銀のロケットが残されていた。


 それを拾い上げながら、葛葉は尋ねる。


「秋介さん、大丈夫ですか?」


「ああ、おかげさんでな。しかし、参ったな」


 秋介は理恵に目を向ける。彼女はううううと唸り声を上げていた。事情が事情だが、完全にうなされている。


「とにかく、横にして、休ませてあげましょう」


 秋介は引きずるようにして、彼女をリビングのソファに寝かせる。


「葛葉、助かった」


「いえいえ。でも、そうですね。油断が過ぎません?」




「ごめんなさいね、理恵。あなたには迷惑かけてばっかりで」


「大丈夫だよ、お母さん。私、もう十六だよ? 家の事は任せておいて!」


「そうね。理恵はしっかりものだものね」


 そう言って、母はいつも理恵の頭を撫でてくれたものだった。病気で細くなり、実際はだいぶ冷たかったが、それ以上に暖かく感じたものだ。


父が留守がちの為、彼女と母は、他の家よりもよっぽど仲が良かったと自負している。だからそんな母が「お父さんをお願いね」と言い残してこの世を去った時、彼女は今まで以上にしっかりあらねばと心に決めていた。父に余計な心配はかけさせない、と。


「う、う……お母さん!?」


 ひんやりとした感触に、理恵はがばっと体を起こす。濡れたタオルがずり落ち、彼女は自分がリビングのソファに寝ている事に気がついた。


「夢?」


「目が覚めたみたいですね」


 タオルを換えに来たのか、葛葉が顔を覗き込んでくる。


 こっちは夢じゃなかったのか、と少し落胆したところで、テーブルに人形とロケットが置かれているのに気がつく。


 そのどちらも、彼女は見覚えがあった。


「これは――」


 母の形見だ。病室で最後まで握り締めていたロケットと、枕元にずっと置いてあった人形。


 ちゃんとしまっておいたと思ったのだが。念のためにロケットを開くと、中には自分の小さい頃の写真と裏蓋に父の写真が入っていた。人形もまた、自分の名前が刺繍されていた。


 顔を上げると、向かい合うように座っていた秋介がその二つを指して告げる。


「それが、あなたを悩ませていたものですよ」


「え?」


「気を失う前、二人の女の子を見ましたね。その正体です」


 いきなりの事に驚きつつも、彼女は気絶する前の事を思い出す。確かに、葛葉に抑え付けられた女の子は人形に姿を変えていた。


「って、そうだ、葛葉さんもっ! 一体何がどうなってるんですか!?」


 テーブルを叩くように立ち上がると、秋介は片手を上げてそれを制した。


「落ち着いて。ちゃんとご説明しますよ。葛葉、お茶を。勝手に使わせていただきますが、よろしいですか?」


 理恵は静かに頷く。彼女にとって見れば、台所を借りられる事など、これからの話を考えれば問題ではなかった。


 理恵がソファに座り直すと、秋介も背中を大きく預けて話し始める。


「理恵さん。あなたは九十九神と言うのをご存知ですか?」


「古い物が妖怪になるっていうのですか?」


「ええ。正確には、神格や霊魂が宿ったこの世のあらゆるモノの事です。有名どころで言えば、唐傘お化けや猫又でしょうね。もちろん、物であっても人間に化ける事もあります」


 年老いた猫は時に猫又という妖怪になると言われているが、確かにその考え方で行けばそれは九十九神と言えた。


「じゃあ、ひょっとして葛葉さんは」


「はい。私は狐の九十九神になります。端的に言えば、妖狐、ですね」


 そう言いながら葛葉用意したお茶を差し出してくる。湯飲みをもう一つ、秋介の隣において、彼女もまたソファに腰かける。


「ウチは代々、九十九神の力を使って生計を立ててきた、憑物筋なんて言われる家柄の一つなんですよ」


 民俗学などで言われる憑物筋とはちょっと違い、妖怪と契約を結んでその力を利用するため、恐れと共に忌み嫌われて、そう揶揄されているのだという。


「まあ、妖怪を憑かせているとでも、捉えてください」


「は、はぁ。でも、そのパイプみたいなのから出てきてたのは」


 九十九神だからではすまないのでは、と理恵が尋ねると、秋介はパイプを見せてくれる。細くてほとんど中を窺い知れないが、何かが書いてあるように見えた。


「これは修験道から派生した、術の一種です。昔の修験道はこうした筒にオサキや飯綱と言った狐の九十九神を入れて、予言やお祓いなんかにその力を利用したそうです」


 ちなみに、管に入る狐は、そこから、管狐などと呼ばれたりもしている。


「な、なるほど」


 カラカラとなっていたのは、葛葉が中から彼に危険を教えていたようだ。


「さて、話を戻しましょうか。先ほども言いましたが、神格や霊魂が宿ったものが九十九神です」


すなわち、必ずしも長い期間を経る必要ない、と秋介は続ける。怨念のように強烈な思い魂として物という依り代に宿る場合もあるからだ。呪いの人形のように。


そして、理恵の目の前にある二つも、思いが宿っていると彼は告げる。


「じゃ、じゃあこの二つは怨念が?」


 理恵はロケットと人形を複雑な表情で見つめながら、座る位置をわずかにずらした。


 だが、彼は首を横に振る。


「いいえ。逆です。それには、非常に優しい、あなたのお母さんの念が宿っています」


「ど、どう言う事ですか?」


「来た時から、この家に邪な気配は一切ありませんでした」


 言われて見れば、最初に来た時も彼はそんな事を言っていた。


 いい、家だと。


「あなたが寝ている間に少し調べさせてもらいましたが、どうやらその二つはあなたのお母さんの形見のようですね」


「あ、はい。ロケットは母がずっと。人形は入院中、会いにいけない代わりに、と名前を縫って私がプレゼントを」


「そして亡くなる直前まで傍にあった、と言う事ですね」


 理恵はぐっと奥歯を噛み締めながら頷く。あまり思い出したくはなかった。最後の母はあまりにも衰弱していて、見ていられなかったのだ。


「つまりですね。その二つにはあなたのお母さんの念が宿っています。しかし、それは決して怨念などではありません。あなたとお父さんを案ずる優しい想いです」


「それなら、それならどうして!?」


どうして嫌がらせをしていたのか。母が自分や父のこれからを案じてくれていたと言うのであれば、何故自分達の周りに迷惑をかけたり、果ては自分が捻挫までしたのだろうか。


「いいですか、熊谷さん。その原因はあなたにあります」


「わ、私?」


「ええ。あなたは立派だ。留守がちなお父さんの為に、家の事をしっかりやっている。最近四十九日を終えたと言う事でしたが、その後もお母さんを慕ってお客さんが来ていたのでは? そして、その対応も全てあなたがやっていた」


「も、もちろんです」


 そうしなければならなかった。父の為にも、母の居ない分、自分がしっかりしなければと言い聞かせて来たのだ。


「それは素晴らしい事です。しかし、だからと言って、お母さんの死の悲しみまで抑え込む必要はありません」


「わ、私は別に抑え込んでなんか、居ませんっ」


「なら、どうしてそんなに苦しそうな顔をしているんですか」


 その言葉に理恵は、何とか表情を取り繕う。しかし、それこそが秋介の指摘を裏付けてしまう。


「自分がしっかりあらねば。その為に、お客さんの前で気にしない振りをすると言うのは以外と苦しいものです。まして、あなたの年頃なら。そして、そこの二人はそれを敏感に感じ取っていた。だから、苦しそうな顔をさせるお客さん全てを敵とみなして、必死に追い払おうと、近付かせまいとしたんでしょう」


 九十九神は、大概が超常的な現象を引き起こす力を持つ。ポルターガイストもその一つだった。


「そんなっ。でも、それなら私は捻挫をしたのは!」


 揚げ足に近いのはよく分かっていた。だが、自分の耳にまで届いたあの声といい、守ろうとしたにしては矛盾がある。


 それについては、と葛葉が口を開く。


「二つとも、まだ九十九神になって日が浅い。力の加減やフォローをするには幼すぎます。ただ、子供だからこそ、全力であなたを守ろうとしたんです」


 同じ九十九神だからこその言葉に、理恵は返す言葉がなかった。そして、己の中で積み上げてきた壁が一気に崩れ落ちる。


「あ、ああ――」


 自分がしっかりと、平気だと、笑えるくらいでなければ。母との約束、そして父を安心させるために。


 その結果、母の残した意思とでも言うべき九十九神に心配をかけていたなんて。


 抑え込んできたものが、眦から溢れ出す。


「うああああああああっ!」


 その時、テーブルに置かれた人形とロケットが体をゆすったかと思うと、それぞれ少女の姿を取って、理恵に駆け寄り、両脇からその肩を優しく抱きとめる。


 理恵もまた、そんな二人を抱き寄せ、わんわんとこおよそ二ヶ月分の溜まったものを吐き出すのだった。




「あ、あの、ありがとうございました!」


「いいえ。それより、これからはあまりその二人に心配はかけないようにしてください」


「はい、大丈夫です」


 理恵はにっこりと笑う。目こそ赤く腫れていたが、その顔は明るく、心のつかえや、抑えている様子はまるで無かった。


 未だに葛葉にびくついているのか、ロケットであるワンピース姿の少女は、人形のおかっぱ少女と理恵の影に隠れている。


「ふふ。いいですか。これからは彼女の言う事ちゃんと聞くんですよ」


「ワ、ワカッテイル」


 葛葉がおかっぱ少女の頭を撫でると、やや震え気味の声で、彼女は答える。やはり、こちらも内心は怯えているようだ。


「怖がられてしまいました」


「頭から食いそうだったからな。正直、ヒヤヒヤしたぞ」


「気をつけます」


 葛葉はしょんぼりと肩を落とす。秋介はその背中を叩きながら、理恵に挨拶する。


「それじゃ、熊谷さん。失礼します。何かありましたら、また言ってください。大丈夫だとは思いますがね」


「はい。お二人を見習って、もっとお互いに理解しあって頑張ります。本当に、ありがとうございました」


 理恵は感謝の気持ちを込めて、深々と頭を下げる。他の二人もそれに続く。


 手を振って出て行く秋介たちを見送り、彼女は改めて母の形見である二人とちゃんと向き合っていかないと、と心を決める。秋介と葛葉のようになれた時、きっと自分はもっと、本当の意味でしっかりした人間になっているに違いない。


 直後、父から帰国日を告げる電話があり、どう説明するべきか、頭を抱えることになるのだったが。




 赤信号で車を止めた秋介は、隣で鼻歌を歌う葛葉に声をかける。


「ご機嫌だな」


「だって、私達を見習ってって言ってくれたんですよ。嬉しいじゃないですか」


「そうか?」


 秋介は首を傾げると、葛葉がむっと頬を膨らませる。


「そうですよ。私たちは彼女達と違って契約関係ですけど、私は秋介さんだから契約したんです。そんな事知らない熊谷さんが、理解しあえる関係だって言ってくれたんですよ」


 今回は母親の形見と言う事もあってか、存在自体あっさりと受け入れてもらえたが、普通なら化物だなんだと言われて恐れられ追い出されてもおかしくはない。


まして、葛葉は狐だ。理恵に言われた事がよほど嬉しかったらしい。


「まあ、悪い気はしないか」


「はい」


 葛葉は目を閉じ、そっと秋介の肩によりかかってくる。信号が青になると、彼は照れ隠しのようにアクセルを強く踏んで発進する。


「もっと、九十九神を理解してくれる人が増えればいいのに」


 そんな、彼女の呟きは、エンジンの唸り声に掻き消された。


 真っ赤なマー坊は、町の喧騒へと消えて行く。その傍らに九十九神が座っているなど、誰も気づくことはなかった。




 九十九神。それは神であり、霊魂が宿った万物。この世のどこにでも存在する不思議。




 熊谷家のポルターガイスト現象を解決した数日後、九十九堂の暖簾を一人の少女がくぐる。


 短く切りそろえられた髪や人懐こさとあどけなさが残る顔、凹凸の少ない体型は、少年のようだ。Tシャツにハーフパンツと言う格好も、ボーイッシュさを際立たせていた。ショルダーリュックも合わせるとメールボーイでも通りそうだ。


「こんにちはー!」


 元気一杯に彼女が挨拶をすると、入口の戸がビリビリと揺れる。頭に三角巾をつけ、エプロン姿の葛葉は、掃除用の箒をもったまま挨拶を返す。


「いらっしゃいませ~。あ、夏美さん。こんにちは」


「葛葉さん、お兄ちゃんは?」


「奥に居ます。でも、まだ寝てるかも知れませんね。ハンティングとか言って夜更かししてたみたいですから」


「んもぅ、それじゃまたゲームだね。葛葉さんも容赦しないで起こしちゃえばいいんだよ」


 夏美と呼ばれた少女は、台風のように通り庭を通って、秋介の私室である二階へ駆け出していく。


 そんな彼女を見送り、葛葉は頬に手を当て、ちょっとだけ意地悪な笑みを浮かべた。


「相変わらず、お元気みたいですね」


 下が騒がしいな、と思いながら秋介はパソコン画面にへばりつく。


 銀河連邦の兵士になり、数多の星の戦場を駆け巡るオンラインTPSをプレイ中だった。昨日は丁度、クランで暴動を治めるTDMコンテストに、新ステージの追加とイベント目白押しで寝る間を惜しみすぎて、朝日を拝む羽目になっていた。


「サイドから敵のスナイパーを挑発してくれ。そしたら、俺が仕留める」


 スナイパーである彼は、ヘッドセットに向けてクランの仲間に指示を出す。


 追加されたステージである遺跡で、敵のスナイパーに阻まれ、中々取り付けずにいたのだ。作戦時間は後わずか。何としても遺跡に取り付いてもらわねば。


 陽動に出た仲間を狙って発砲した所で、彼はバックファイアを目安にレンズを向ける。照準をセットし、発砲キーに指をかける。


「どーん!」


「おわっ!?」


 スピーカーから漏れる発砲音とは違う、高らかな声にボタン操作を誤り、彼の撃った弾は仲間の頭を破裂させる。


「うわああっ!」


 そして、呆気に取られる彼の視界の隅で、作戦のリミットが〇を示した。


 体をプルプルと震わせる中、自分のキャラも含めたクランがワープビームに飲まれて強制帰還させられる。


 母艦に帰還したブリーフィングルームで、秋介は他のプレイヤーから総叩きを食らう。ただでさえスナイパーという不人気キャラだった事もあって、リーダーから暫くクランへの参加を禁止された所で、初期画面に切り替わった。


「ぐあああっ」


 踏まれたような声と共に、頭を抑えたままその場に突っ伏す。


「終わった。とりあえず、何かもう色々と、終わった」


「ありゃりゃ」


 哀愁すら漂ってくる様子に、やってしまったと夏美は襖を開けたまま暫く固まっていたが、起き上がる様子のない秋介を見て、静かにその場を後にしようとする。


「ちょっと待て」


「うっ」


 地の底からでも響いているんじゃないかと思える声に呼び止められ、夏美はその場に立ち止まる。


 ゆらりと、幽鬼の如く立ち上がり、爛々と怒りに燃える瞳が彼女を見つめる。


「おはよう。夏美クン」


「や、やだなぁ。お兄ちゃん。久しぶりだからって、そんな他人行儀に。いつもみたいに呼んでよ」


「今、俺の中で君はあかの他人だ。理由は、わかるよな」


 にっこりと、営業スマイルだってもう少し親しみやすいよと言いたくなる程冷たい、能面みたいな笑みを浮かべて秋介は彼女に歩み寄る。


 ヤバい、と思ったが、もはやヘビに睨まれた蛙。夏美は一歩も足を動かす事ができなかった。


「安心しろ、ぶたないからさぁ」


 すっと上げられた両手が拳を握り、彼女の頭を左右から挟みこむと、そのままグリグリと、万力のように夏美の頭を締め付ける。


「いっ、痛い痛い痛い痛いいいっ!」


 悲鳴を上げる夏美に、秋介は一言も発さず、ただ無心に頭をグリグリとし続ける。


 ようやく夏美が解放される頃には、悟りでも開いたように穏やかな表情になっていた。




「ううう、酷いよぉ」


 九十九堂の居間で、磐田夏美は頭を抑えていた。秋介怒りのグリグリより解放されたのはよかったが、痛みが後を引き、目には未だに涙が浮かんでいた。


「まったく、部屋に入るときはノックをしろ」


「うん。次からはそうする」


 何回聞いた事だか、とコーヒーを飲みながら、新聞越しに苦笑する。


 磐田夏美は、姉と共に秋介の幼なじみである。家同士で昔から付き合いがあり、彼を兄と慕っていた。


姉の冬乃と違い、見た目通り人懐っこく、九十九堂にも良く出入りしており、同じ様なやり取りがもう何度もされていた。今日は特に、秋介の怒りに触れてしまったが。


「それで、夏美さん。学校はもう終わったんですか?」


朝食をテーブルに並べながら、葛葉が尋ねる。


焼き魚や漬け物などが手際よく並べられていく。


「はい、昨日で終わりました。これでよーやく夏休みです」


両手を組んでぐっと伸ばしながら、テスト期間で来れなかった分通いますよ、と彼女は宣言した。


「お前な。入り浸るのはいいが、宿題や家の手伝いはどうするんだ?」


彼女の家は多神町最大の神社・天龍神社だ。夏は祭りにお盆にと忙しい時期のはずだった。


「あー、うん。行事の件はちょっとね~。まあほら、主役はお父さんとお姉ちゃんだしさ」


夏美は言葉を濁したが、サボる気だったのは明らかだった。


自由にしていたいと部活にすら所属してない彼女には家の手伝いは気乗りするものではありえない。


秋介が新聞越しに鼻を鳴らして笑うと、彼女は唇をとがらせる。


「んもう。それはそれとして高校生にもなって夏の宿題なんてあってないようなものだよ。忘れちゃったの?」


「忘れるも何も、秋介さんは家でそう言う事はやらなかったですからね」


そう言って葛葉はウィンクしてみせる。


「誤解を生む言い方をすんなよ」


「大丈夫だよ、お兄ちゃん。誤解も何も見たままだから」


先ほどの反撃か。葛葉も夏美側について好きに言われ、彼は諸手を上げる。


「はいはい。どうせ俺は不真面目不健康な人間ですよ」


「そこまでは言ってないよお」


フォローむなしく、不貞腐れた秋介はやや乱暴に新聞をわきに放る。


配膳が終わった所で箸を手に取ると、朝食が三人分ある事に気がつく。二人分の料理とは別に、夏美の前にお茶漬けが置かれていた。


「おい、夏美。お前食って来たんだろ」


「えー、いいでしょ。家から走ってきたんだから」


「走ってきた事とウチで朝飯を食うことになんの整合性もないだろうが」


「まあまあ、秋介さん。食事は多い方が楽しいですし」


「うんうん。それじゃ、いただきまーす」


夏美は二人に先んじて挨拶をし、さっそくお茶漬けをかき込んでいく。


秋介は、葛葉と顔を見合わせ、結局はまたむすっとしてしまうのだった。




「お兄ちゃん、はいコレ」


 食事を終え、一息ついていたところで、夏美が封筒を差し出してくる。


 淡い色の封筒は桜の花まで描かれ、いかにもな女物だった。


「何だこりゃ。お前にしちゃ珍しい。恋文?」


 首を傾げる秋介に、夏美は台所の方を一瞥してお茶を淹れに行った彼女が戻ってこない事を確認し、小声で進言する。


「お兄ちゃん。間違っても葛葉さんの前でそんな事言っちゃダメだよ」


「何でだよ。んで、これは何だ?」


「まったくもう。理恵ちゃんからのお礼の手紙だよ」


 一瞬、誰のことだろうかと思ったが、すぐにこの間のポルターガイスト騒ぎの少女だと気づく。


「ああ。またご丁寧に。って言うか、何でお前が持ってくんだよ」


「ほら、理恵ちゃんのお父さん。最近帰国したから、今は水入らずで、あんまり他に時間取れないみたいでね。私とお兄ちゃんのよしみと言うか、紹介した都合と言うかで預かって来たんだよ~」


「そういやクラスメイトだったな」


 理恵は依頼の際に紹介状を持ってきたが、その紹介主は、他ならぬ夏美だった。もっとも、さすがに名義は神社になっていたが。


「で、何でわざわざウチに回したんだ? 冬乃に頼めばよかっただろ」


 夏美の実家である天龍神社だってその筋のプロだ。夏美自身は適性がないとは言え、巫女として優秀な冬乃に頼めば、九十九堂を紹介する必要など無い仕事ではあった。


 秋介の疑問に、理恵は参った参ったと頭の後ろに手をやって笑う。


「ほら、大学生って、結構早く夏休みに入っちゃうでしょ。で、お姉ちゃん丁度こないだまでサークルで旅行に行っててね。人手が足りなくて」


「そこは嘘でも、ウチの店を誉めろ」


 面と向かって言われると、案外ショックは大きいものだ。悪気がないだけましか、と秋介は肩を落としながら封を切って行く。


 入っていた便箋を広げると、年頃の少女らしい丸みを帯びた字が紙一杯に書かれていた。


「何ですか、それ?」


 お茶を持ってきた葛葉も手紙に気づき、夏美と一緒になって秋介の背後から覗き込む。


 内容は、解決のお礼と近況だった。帰国した父親にもありのまま話し、家族四人として仲良くやっているとの事だった。海外を飛びまわって不思議なはないを見聞きしてきた彼女の父親はあまり驚かずにすんなり受け入れてくれたらしい。


「本当にお世話になりました。写真を同封してあるので、どうかご確認ください。写真?」


「んん?」


 封筒を逆さにすると、一枚の写真が滑り落ちる。拾い上げると、仲睦まじい四人の姿が写真に収まっていた。


 九十九神二人が少々恥ずかしそうにしている辺りが微笑みを誘う。


「ふふ。これなら、心配はいりませんね」


「ああ。父親の方も大丈夫そうだ」


 部屋の中でがんばって撮影したようだが、父親の顔は切れてしまっていたものの、口元には力強く優しい笑みが浮かんでいる。


「あ、そうです秋介さん。写真撮りましょうよ」


「嫌だね。魂が抜ける」


「またそう言う非現実的な事ばっかり。いいじゃないですか、一枚くらい」


葛葉は秋介の腕を取って頼んでみるが、彼はどこ吹く風で写真と手紙を封筒に戻していく。


「あれ、葛葉さんはお兄ちゃんと写真撮った事ないんですか?」


「はい。実は一度もないんです」


肩を落とす葛葉に、夏美は仰天して大声を上げてしまう。


「えええっ!? い、一度もっ?」


葛葉が小さく頷くと、夏美はジトっとした視線を秋介に向ける。


「お兄ちゃ~ん。一枚くらい撮ってあげなよ~。さすがに葛葉さんがかわいそうだよ」


再びの二方面攻撃に、秋介は耳をほじりながら「気が向いたらな」と答える。


「ううう、約束ですよ」


返事の代わりに秋介は葛葉の頭をポンポンと叩く。少しだけ葛葉の表情が和らいだので、話を変えるため、お盆に乗ったままの湯飲みに手を伸ばした。


「いいからお茶にしようぜ。冷めちまう」


「あ、はい。そうですね」


お茶が並べられ、席に戻った夏美は、得意げな顔でリュックに手を突っ込む。


「ふっふっふ。お兄ちゃん、実はまだ渡すものがあるんだよね。だから飲むのはちょっとだけ待ってね」


突然の申し出に手を止めた二人に、夏美は四角い箱を取り出した。


「じゃんっ。お姉ちゃんからの大分土産、富来当せんべい!」


「わっ、ありがとうございます」


箱の包みには開運と富来神社の文字が打たれている。 縁起物の土産らしく、富が当たり来ますように、と言った由来のようだ。


「それじゃあ、早速いただきますね」


わざわざ旅先でまで神社とは、と同情する秋介をよそに、箱を渡された葛葉は包装紙を剥がしていく。裏から丁寧に剥がし、タオルのように畳んでから蓋を取る。


「あっ」


中を見た葛葉は雷に打たれたように固まり、あうあうと困った顔で秋介を見つめる。


「ん、おおぅ」


葛葉の訴えに、箱の中を覗いた彼は苦笑いするしかなかった。


「どうかしたの?」


首を傾げる夏美に、秋介は無言でせんべいを指し示す。


「えっ? あ、あれ?」


彼女も中身を確認し、表情を曇らせる。せんべいは全て、きれいに真っ二つに割れていた。


 マスコットキャラと思しき焼印も顔を切り裂いてあり、この上なく縁起が悪い。


「富が割れてるとは、ナイスジョーク」


「ジョークじゃないよ!? っていうか、私にとって悪いジョークだよ!」


「あ、あの、表面だけでしょうから。下はちゃ……」


 フォローしようと、葛葉は二枚ずつの小分けパックの一番上を持ち上げ、そのまま完全に、魂を持っていかれたように彼女の全てが停止する。


 下のパックも全て、真っ二つ。最初からそうであったとしか思えないほどに見事な割れっぷりだった。


 モヤっとさせられて反応に困る、イタズラと呼ぶには地味な行為に、秋介は眉の間を押さえながら呟く。


「俺、あいつに嫌われてる?」


「そ、そそそそそんな事ないよ。お姉ちゃんは人付き合いが苦手で、インターネット経由での会話の方が元気だったりするけど、お兄ちゃんを嫌っているとかそういうのは無いよ。あれで案外乙女なんだから! まあでも、まさか――」


 バタバタと腕を振って、否定する夏美だったが、途中で言葉につまり、そのまま押し黙ってしまう。俯き気味に何か考え込んでいる様子は、思い当たる節がある風だ。


「どうした?」


「え、あ、ううん。とにかく、お姉ちゃんがお兄ちゃんを嫌ってるって事はないの!」


「わかったわかった。じゃあどうせ機械の不良かなんかだな」


 秋介は葛葉の手からパックを取ると、ささっと開けて、割れた枚のうち一枚を頬張り、もう一枚を葛葉の口に押し当てた。


 ようやく、彼女が再び動き出す。


「ひゃっ、あ。どうもありがとうございます」


「お兄ちゃん、いいの?」


「いいのも何も、別に腐ってるわけじゃないし、こっちの方が食いやすいだろ」


 そう言うと、秋介はパックに残った二枚を夏美に渡して、くしゃっと彼女の頭を撫でる。


「はい、おいしいです。夏美さん、ありがとうございます」


「冬乃にもちゃんと礼を言っといてくれよ」


「あ、うん。ありがと」


 手を離すと、そこを抑えながら彼女ははにかみ、自らもせんべいを頬張った。


 小麦粉と砂糖のせんべいは甘く、焼印がほんのりと苦かった。




 お昼まで食べた所で、午後は用事があるとの事で、夏美は九十九堂を後にする。


 葛葉が手を振って見送った直後、滅多に鳴らない店の黒電話がけたたましい音を立てる。秋介と彼女は思わず顔を見合わせてお互いに吹き出してしまう。


「地震速報よりも、よっぽどびっくりだよ」


「ホントですね。でも、まったく鳴らないよりはいいと思います」


 一体最後に出たのはいつの事やら。その上、出るのはほとんど葛葉だったが、たまには自分で出るか、と秋介は受話器を取った。


「はい、九十九堂」




「よいしょっと」


 秋介は照明シーリングライトのスイッチ紐を引っ張る。円形二本の蛍光灯が白い光を放ち、仏間を明るく照らす。二回ほど引き、調節も問題なくできる事を確認すると、腰の曲がった老婦人がお茶を持って入ってくる。


「山崎さん、終わりましたよ」


「いつもいつも悪いねえ」


「いえいえ。こちらこそご贔屓してもらって」


 品のいい老婦人は、多神町の昔からの住人で、九十九堂の常連だった。


 夫に先立たれた彼女は、息子夫婦も東京に出てしまっているため、一人暮らしで、今日のように蛍光灯の交換や倉庫からの物の出し入れでよく九十九堂を利用してくれている。


 電気の交換を追え、踏み台を片付けた秋介は、進められるままにお茶をいただく。


「本当なら、自分でできればいいんだけどねぇ」


「体は大事にしていただかないと。怪我をしちゃ大変ですからね」


「ありがとうねぇ。ところで、九十九堂さん。実は折り入ってもう一つお願いがあるんだけど、構わないかしらね」


「ええ。何でも言ってください」


 便利屋でもある秋介にすれば、こういうお客さんは大事である。多少の事であればドンドンサービスしてしまう所だ。


「それじゃあ、ちょっと探し物を頼みたいのよ」


「何が失くなったんですか?」


「虚空蔵さん所のお守りを探して欲しいんだけど」


 山崎夫人が言うには、彼女の孫が今年受験を控えており、大切な夏と言う事で、隣町の学業成就で有名な虚空蔵寺からお守りをもらったのだが、それがどこかへ行ってしまったのだと言う。


「何日か探してみたんだけど見つからなくてねえ。まあ、申し訳ないんだけど、一応天龍様にもお願いしてみたんだけどね」


 天龍様とは、すなわち磐田姉妹のいる天龍神社の事である。巫女である冬乃の失せ物探しが名物なのだ。どうしても探し物が見つからなかったのであれば、夫人が取った行動は真っ当なものであり、秋介は気にしないでくださいと相槌を打つ。


「そうしたら、無下に断られちゃってねぇ。」


「断られた? 冬、磐田さんに?」


「ええ」


 秋介はお茶請けのコッコを食べながら、眉を曇らせる。


 失せ物探しは、人付き合いが苦手な冬乃が他人と触れる機会で、彼女自身、それを励みにしてがんばっていたと彼は記憶していた。


「失くしたらか探すんじゃなくて、失くさない用に大切にする事が重要だって言ってねぇ。これを期に色々大切にしてくださいって」


 聞けば聞くほど取り付くしまがない感じである。彼の中にある冬乃と言う人物と山崎夫人から聞かされた発言が結びつかない。


 ただ、悪い事を言っているわけではないがタイミングが間違っている点だけは、秋介の良くしる彼女だった。


「それはまた、酷い話ですね」


「でしょう。まあ、ねえ。それで、九十九堂さんも、多少はそう言うのやってらっしゃるでしょう?」


 もちろん、九十九堂では看板にうたってある通り、電球交換から素行調査まで、何でも、昔からやっている。失せ物探しやペット探しもおまかせあれだ。


「その、ねぇ。こんな形で言うのは申し訳ないんだけど、お願いできないかしら」


 天龍神社に断られたから、と言う事で、山崎夫人は本当に申し訳なさそうに言ってくるが、秋介はそんな事は気にしない。二つ返事で引き受ける。


「どうか、お気になさらずに。それじゃあ、さっそく探しましょうか」


 立ち上がりとりあえず、辺りを見回す。灯台下暗しと言う事もあるが、彼がいの一番に思いつくような場所は山崎夫人が探しているだろう。


 そうなれば、聞くのが一番手っ取り早い。昔ながらの和風民家なので、広間二つに居間、床の間で構成されており、飾り物などもおおよそ同じ様に配置されてあるものだ。


 彼は左目を瞑ると、視界は完全に闇に閉ざされる。右目は欠損しており、レンズとして世界を見る事は叶わない代わりに、秋介にとっては便利なモノを見る事ができた。


黒に塗りつぶされた視界の左上にうっすらと光が点る。電気が光っているのとは違う、点としての光だった。


 目を開けると、その方向を改めて見やる。


 奥の鴨居にこの家の提灯が掛けられていた。


 彼は、おもむろにそちらへ近付いていくと、じっと提灯を見つめる。少しだが、提灯がその体を揺らした。


 秋介は、山崎夫人に聞き取れぬよう、小声で声をかける。


「やあ、ちょっと話せるかな?」


「あ、ああ。あんた、俺がわかるのか?」


 秋介同じく気を使っているのか、小さい声だったが提灯から答えが返ってくる。


 この提灯も、九十九神だった。秋介は自分の右目を指す。


「こいつのおかげでね」


 そう、秋介の右目は視力を失った変わりに、神力や気配を視覚として捉える事ができるようになっていた。彼が感じた光は、この提灯の九十九神が放った気配だったのだ。


「それに、多少お前さんみたいなのには付き合いがあってね。それで、聞いてたろ? お前さんならわかるんじゃないのか?」


 この家に代々受け継がれてきた中で九十九神となったのだろう。ここに飾られて、住人を見守り続けてきた提灯。そして、夏は戸を開け放している今ならば、直線で秋介が居た部屋も見えていたはず。


話を聞くにはこれ以上ない相手だった。


「あ、おう。お孫さんへの贈り物だろ。知ってるよ」


 戸惑い気味に、提灯は肯定の答えを返す。


「話すのは初めてか?」


「お、う。本当なら俺が直接言えればいいんだが。いきなり声をかけたら驚きそうで」


 山崎夫人の年を考えたら、その拍子に怪我でもさせる可能性が高い。そうなっても一人暮らしの彼女では通報もままならない。


 提灯の気遣いは仕方のない事だが、それだけに彼も心を痛めているようだった。


「この体が動けば文句はないんだが」


「気にしない事だ。それが普通だからな」


 器物が九十九神となっても、かならずしも自由に動き回れるわけではない。まして、人に化けられるモノは限られてくる。


 動けてもせいぜい昔の絵巻に書かれている、茶道具や唐傘お化けのような姿が関の山。それで動き回ればやはり夫人を驚かせてしまう。


「そういう力になるのも、九十九堂の役目だ。さて、お守りの場所を教えてくれ」


「ああ。確か、お孫さんへの贈り物は仏壇の裏だ。彼女は良く大切なものはその隣にある書棚の上に置いておくんだが、地震で裏に落ちてしまったのを見た」


 東海地方に属するこの多神では地震が多い。ありえる話だ。


「なるほど。そりゃ見つからないわけだ」


 先ほど秋介が見たとき、隣に置かれた本棚には本や手習いの道具などが入っていて、お年寄りには動かす事や、まして奥を覗き込む事は難しい状態だった。


「わかった。ありがとう」


「いや、こっちこそ。これで少し、楽になれるよ。ありがとう」


 秋介は片手を上げて会釈し、さっそく仏間に戻る。


 傍から見てれば、何を言っているのかわからずとも、一人で話をしているようにでも見えたのだろう。不安げな山崎夫人を横目に、彼は、仏壇の隣の本棚を少しずらす。


 出来た隙間から手をいれ、仏壇の裏を探る。紙に包まれた厚みのある感触に、ソレを掴み、秋介は手を引き抜くと、虚空蔵寺と書かれた小さな紙袋が握られている。


 中身は、学業成就のお守りだった。


「どうぞ」


「ああ、そんな所に。本当にありがとうねえ。でも、よくわかったのねぇ」


「ええ、まあ」


 丁度いい目撃者が居たのだが、、彼は言葉を濁す。


「次からは、九十九堂さんにお願いさせてもらうとしましょうかねぇ」


「いえいえ。それこそ、失くさないようにする事が肝心です」


「あらあら、それもそうよねぇ。嫌だわ、私ったら」


 その後もしきりに、お礼と今後も贔屓にする旨の話が続き、話が長引きそうになった所で、秋介は次の仕事があると言って何とか山崎邸を後にした。


 葛葉から何度も連絡があったのも幸いし、あっさり出る事が出来たのは助かった所だ。


 天龍神社の話は気になる所だったが、秋介は電話が先だと、九十九堂にリダイヤルする。しかし、すぐに通話中として切れてしまう。


「うん?」


 妙だと思いながら、彼は工具箱を荷台に放り込むと、愛車のマー坊に乗り込む。再度店へかけるが、やはり通話中だ。


 ここから店までは遠くない。電話するよりも帰って話を聞いたほうが早そうだ。


 秋介は、安全確認し、アクセル全開で山崎邸を飛び出した。




 店に戻ると、葛葉が電話の前でてんてこ舞いになっていた。


 脇には大量のメモが散乱し、わずか一時間程度の間に顔には疲れが浮かんでいる。


 電話が終わった所で、声をかけようとしたが、再び電話が鳴り響く。


 彼女は、秋介が戻ってきた事に気付くと、電話と彼を見比べ、大焦りで、どっちに対応していいのかわからずに、オロオロするばかりだった。


「ふん」


 秋介は電話線を引き抜くと、電話は完全に沈黙した。


「しゅ、秋介さ~ん! た、大変だったんですよぉ!」


 ようやく落ち着くことができた葛葉はそのまま彼に泣きついてくる。


「よしよし、落ち着いて」


 肩を叩き、頭を撫でてなだめる。


「で、何だこの状況は?」


「だから、大変なんですよ。お仕事ですよ、お仕事!」


 またも大慌てになり、葛葉は散らばったメモを拾い上げ、順番を確認する。メモ帳一冊使い終わったんじゃないかと思える量が、彼女の手の中にあった。


「仕事って、おい、まさかそれ全部そうか?」


「そうなんですよ。これ、全部依頼です」


 一件一枚として四十件は楽にありそうだ。


「山崎さんの所へ行ってから、すぐにこうなっちゃって。次から次へと電話が入っちゃうんですよ! それで、何とか合間を見て秋介さんに電話しても繋がらないし」


「そいつは悪かったな」


 本当に泣き出しそうな勢いだったので、秋介は素直に謝る。


 こうなると、先ほどの電話も仕事だった可能性が高い。と言うよりも、他の事情であの電話が音を立てる事はないと言ってよかった。


 リダイヤルしても出ないわけである。


「で、全部受けた、と?」


「こんなにたくさんの依頼があるのは滅多にないので、つい」


 葛葉は肩をしぼめ、しょぼくれてしまう。


 だが、彼女の気持ちもわからないではない。何しろ普段は閑古鳥が鳴いているのだ。舞い上がるなと言う方が難しいだろう。


 それに、メモを見るとちゃんと日付と時間まで調整されている。やるべき事は果たされているので、文句はない。


 彼はふっと葛葉に笑いかける。


「気にするなよ。これなら何とかこなせるだろ。葛葉、ありがとな」


「あ、は、はいっ!」


 彼の言葉に、葛葉は花でも咲いたように顔を上げる。


「じゃあ、順番通りやってくるとするか」


「お、お気をつけて」


「わかってるって。それと」


 やっぱり怒られるとでも思ったのか、彼女はびくっと体を震わせる。


「は、はい、何でしょう?」


「今日は、繋ぐなよ。こっちで、先方への連絡はするから」


 電話線を指しながら、彼は携帯を振ってみせる。急ぎでかけてくる客には悪いが、メモの予定だけでも三日分はある。今日の分が終わったらもう少し調整しないと、次の話は受けられない。直接来るなら仕方がないが、電話は勘弁してもらおう。


「はい、わかりました」


 正直、彼女も電話には参っていたのだろう。葛葉は、安堵の表情を浮かべて頷いた。




「うおおあああぁ、死ぬ!」


 叫びながら、秋介は居間の座布団に頭からダイブした。


 あの大量依頼の日からはや五日。一年分近い件数をこの間に消化する事となってしまった。


 筋肉痛になるような作業がなかった事がせめてもの救いだが、それでも疲れるものは疲れるのだ。


 今日行って来た最後の家は、子供の引越しに際して昔の人形がどうしても見つからないと言うもシンプルな調査た。結局はもう使っていない屋根裏に箱に入れられて置いてあった。この人形が九十九神になっており、蚊の鳴くような声でずっと呼びかけていたのだが、誰も気づかなかった結果だ。


「入口まで塗り固めて、今更探してくれってのも大概だよなぁ」


 自分勝手だとも思ったが、ひょっとすると知らず知らずのうちに人形の声を聞き続けたおかげでギリギリ思い出したとも取れる。秋介はポジティブにそう考える事にする。


「お疲れ様でした。秋介さん、今日は奮発して鰻ですよ」


 葛葉が持ってきたおぼんからタレと脂のいい匂いが立ち込める。


「なあ葛葉ぁ。気持ちは嬉しいが、タイミング遅くないか?」


 精をつけるにしても、今のところ、次の仕事はない。電話のベルを酷使させまくった大量の依頼は本日を以って終わってしまったのだ。


「確かに丑ではないですけど、明日に疲れを残さない為にはいいじゃないですか」


「まあ、いいか」


 打ち上げと考えよう、と秋介は体を起こす。


 テーブルを見ると、丼が置かれているのだが、程よく焼けたウナギの上には、デンと分厚いたまご焼きが乗せられていた。


 テレビでもやっていた、きんし丼と言われるものだろう。見た目のインパクトは絶大で、秋介の食欲はむしろ減退していく。うなぎの香りと葛葉の腕を考えれば間違いなくおいしいのであろうが、人間、本当に疲れていると中々食欲は出てこないものなのだ。


「うう、こりゃ、精はつきそうだな」


「はい。がんばりました」


「じゃあ、いただくか」


 秋介は覚悟を決めて、箸を取る。三段になった丼の食事に悪戦苦闘しながら、一口一口ゆっくりと口に運んでいく。


 そんな彼の様子を、嬉しげに見つめながら、葛葉が改めてねぎらいの言葉をかける。


「本当にお疲れ様でした。それにしても、どうしてこんなにお仕事が一度に来たんでしょうか?」


「ああ、多分、天龍神社が原因だな」


「どうしてですか?」


 秋介はこの五日間に来た依頼の大半が失せ物探しで、しかも天龍神社でちゃんと対応してもらえなかった客が多かった事を告げる。


「なるほど。でも、冬乃さんに限って、そんな事あるんでしょうか?」


 やはり、葛葉の中でも、知っている冬乃と客の言う彼女では結びつかないらしく、首を傾げる。


 秋介は山崎夫人から依頼が来た日の夏美の様子を思い返す。あの時点で、何かあったのは間違いないだろう。少なくとも、彼女には姉の異変に思い当たる節があったのかもしれない。


「まあ、最近会ってないからわからないな」


「そうですね。どうでしょう、仕事も落ち着いたわけですし、今度会いに行くのは?」


「それもいいかも知れないな」


 久しぶりに顔を出すかと思った矢先、秋介の携帯が鳴り響く。


『秋介さ~ん、お電話ですよ~』


「ぶふっ!?」


 何故か葛葉ボイスのコール音に、彼は肝吸いを気道に入れてしまう。


「ごほっ、ごほっ! 何だこりゃ!?」


「ちょっと、細工してみました」


 モジモジと指を絡ませ、頬を赤らめながら葛葉は答える。


 滅多に鳴らない上に、外出時はマナーモードにしているので、まったく気づけなかった。そもそも初期設定から何もいじっておらず、完全に油断していた。


「その、目覚ましはさすがに恥ずかしかったので……あの、迷惑でしたか?」


「いいや。問題はそこじゃない」


 秋介は首を横に振る。電話で呼ばれるのも目覚まし代わりも、基本的には普段の生活と変わらないで、ボイスを登録されるのは構わなかった。


 問題は、そう。勝手に入れられた事だ。


「言ってくれればいくらでも入れさせてやるから、不意打ちだけは勘弁な」


「はい、わかりました。じゃあ、さっそくメールの着信ボイスから」


 彼女は獲物を狙う瞳を向け、手をわきわきと動かすが、秋介にあっさり制止される。


「電話が先だ。はい、もしもし」


「あ、お兄ちゃん?」


 電話の主は夏美だった。思い詰めた口調で、彼女はそっと告げる。


「ちょっと、相談したい事があるんだけど」




 電話を受けた翌日、秋介は天龍神社へ車を走らせていた。甲高い音を立ててマー坊が坂道を上っていく。


天龍神社は、川の主であった龍を祀り、治水と街の繁栄を祈願したのが始まりである。そのため、九十九堂よりもさらに北はずれ、町の西側を流れる天龍川沿いの、三方原台地に立っていた。


駐車場に車を止めると、夏休みだと言うのにガラガラで、聞こえてくるのはセミの鳴き声だけ。静けさやと歌いたい所だが、それには閑散とした、あまりに寂しい空気が漂っていた。


正面の鳥居に回ると、その下で、夏美が巫女服に身を包み、落ち着かない様子で二人を待っていた。


「よう、待たせたな」


「夏美さん、こんにちは」


「こんにちは。お兄ちゃん、来てくれてありがとう」


「まあ、ちょうど時間が出来たからな。で、相談ってのは冬乃の事か?」


 夏美はキョロキョロと辺りを見回してからゆっくり頷く。他人に聞かれる事を恐れているようだ。


「とりあえず、こんな所じゃなんだから社務所で話そう」


 腕を引かれるようにして秋介は鳥居をくぐる。葛葉も一緒に鳥居をくぐると、鼻をひくつかせ、目を細めた。


「何だか、妙な匂いがします」


「そうか?」


 秋介も鼻を動かすが、何も感じない。もっとも、狐の妖怪である彼女が普通の匂いを感じているとは限らない。


「お掃除はちゃんとしてるよー。銀杏には早いし」


「いえ、そういう意味ではなく、この場所にそぐわない、澱んだ香りです」


 やはり彼女の鼻は、化学的な臭気ではない、もっと違う匂いを嗅ぎ取っていた。


 正体がつかめないのか、何度も鼻を動かしながら首を傾げる。


 何か起こっているのはこれで確定だ、と秋介は判断する。


 神社は聖域であり、通常、葛葉の言う澱んだ香りと言うのは存在していない。常駐の神職すら居ない場末の社ならいざ知らず、天龍神社ではわけが違う。


神様がいる事もあって、初めて訪れた時に葛葉が、清浄すぎて却って不安と漏らした程だ。


「こいつは、重症かも知れないな」


 秋介が気を引き締めると、夏美の表情はどんどん暗くなっていくのだった。


 社務所に通されると、よほど客が来ないのか、通りに面したに部屋通される。一応、販売用の受付からは離れた所に腰を落ち着けた。


「お兄ちゃん、ごめんっ」


開口一番、夏美は両手を合わせて頭を下げた。


「やっぱり、お前か」


「え、え?」


葛葉だけが事情を飲み込めず、オロオロとしてしまう。


「鳥居の脇に掲示板があったろ」


「はい」


「そこにウチのチラシがあったんだが、気づかなかったか?」


指摘され、葛葉は思い返すが、見てないものはどうがんばった所で出てこない。


「すみません、まったく見てませんでした。でもチラシと言うのは?」


「私が勝手に、作っちゃったんだ」


夏美が言うには、姉の失せもの占いの調子がどうにもおかしく、フォローとして作成したそうだ。神社の面目もあって堂々と案内はできなかった為、掲示板に貼り出す形となってしまったのだ。


「溺れる者は藁でも掴むからな」


噂を聞いてやってきた客はともかく、本気で困っている相手はその一枚を見逃す事はない。


いくら多神に昔からの家が多いとは言え、九十九堂を頼ってきた客は多く、年齢もバラバラだった事を考えれば、効果はあったと言える。


「相談しないでこんな事して、迷惑かけて、本当にごめんなさい」


「いえいえ、迷惑なんて。困った時は言いっこ無しです」


それに、と葛葉は秋介にジトっとした目を向ける。


「ちょっと忙しいくらいがちょうどいいんですよ。秋介さんは進んで売り込みとかをしたがりませんから」


やる事はきちっとやるんですけどね、と補足するが、やはり彼女なりに、普段は部屋でゲーム三昧の彼には思う所があるようだった。


「別にいいだろ。必要な客が必要な店をみつけるもんだ」


 耳をほじりながら、秋介は臆面もなくそう返した。今度は夏美がジト目を彼に向ける。


「お兄ちゃん。一応自営業なんだから、それはまずいと思うよ。せめて何か広告だしなよ~。葛葉さんに甘えすぎ」


「何だよ。半端な広告なんて出す方が間違いだ。テレビの妙な引きと一緒で却って不快を煽る。そんなリスクや予算考えたら、ウチみたいな便利屋は黙って客待ちで良いんだよ」


 秋介はさすがに耳が痛くなり始めたのか、それは置いといて、と右から左へ手を動かす。


「それより、冬乃だ冬乃」


「あ、うん。そうだね」


「いったい、彼女に何があったんですか?」


 葛葉の質問に、しかし夏美は首を横に振った。何があったのかは、まるでわからないが、とにかく様子が変わったのだと言う。


「で、具体的には?」


「ん~、何て言っていいのかな。まず失せ物占いがかなりいい加減と言うか、見つける気がないみたいなんだよね」


 場合によっては占いすらせず説教までし始める始末。占ったとしても、当てずっぽうに近い指摘をするにとどまっているようだ。


 彼女の話しは、秋介の店に来た客の愚痴と一致する。


「さらに困った事に、占いだけじゃないんだよ」


 そう言って、夏美は受付台の下からおみくじの入った棚を取り出す。棚の引き出しには番号が書かれており、お客さんは番号を引いて対応する番号のくじを受け取るのだ。


「ちょっと見てもらっていいかな?」


秋介は真ん中の引き出しを開け、葛葉と一緒に一枚ずつめくってくじを見ていく。一般的な割合にそって、凶一枚に対して吉系が多めに設定されている。


おみくじは、国内最大シェアを誇る女子道社に依頼したものではなく自社奉製なので、吉凶の次に売りである失せものの運勢が記載された、一風変わった構成だが、これ自体に問題はない。


だが、二人は同時におみくじの異常に気づき、眉をひそめ、首を傾げた。


「ん?」


「あら?」


秋介は葛葉に目配せし、彼女も頷く。二人はそれぞれ別の引き出しを抜いて、中身を確認する。


「どうだ?」


「一緒です」


秋介は引き出しをテーブルに置き、引きつった笑みで、籤の一点を差して尋ねる。


「中身は全部、コレか?」


「うん、そう」


 がっくりとうな垂れんばかりに力なく、夏美は首を縦に振る。


 秋介の指の先には、でかでかと失せものの運勢が書かれている。《見つからず》と。


「気づいたら、全部こうなってたの」


「何て言いましょうか、地味ですね」


「それだけに質が悪い」


占いであしらわれ、せめてと引いたおみくじまでこれではやられた方はたまったものではない。


くじの奉製も占いをしている冬乃の担当なのだが、そこには占いの適当さ以上に陰湿な悪意がのぞいていた。


「それなのに、お姉ちゃん笑ってるの」


「笑ってる?」


「うん。お客さん達の困った顔見るのが楽しくてしょうがないみたいに」


そう言って俯く彼女の表情は暗く、雨が降り出しそうだった。


「あれはお姉ちゃんじゃない。外見は一緒だけど、あんなのお姉ちゃんじゃない」


抱えた腕が小刻みに揺れる。


「お父さんは、私達には、その、甘いから」


 秋介の記憶では二人の父親は確かに超が付く程の親バカである。まして、冬乃はこの神社で失せモノ占いを一手に引き受けている、言うなれば看板娘だ。強くは言えまい。


「お兄ちゃん、お願い。助けて。もう、私どうしたら良いかわかんなくて」


五日前の元気な様子はどこえやら。彼女は完全に参ってる。


あのバカ、と冬乃に内心毒づきつつ、秋介はそっと夏美の頭を撫でて笑いかけた。


「出来るだけ調べてみるから、とりあえずそんな顔すんな」


「はい。夏美さんの頼みとあれば、たとえ火の中山の中!」


 葛葉は胸をドンと叩くが、後半のセリフが完全に間違っている。


「水の中だ、水の」


 どちらにせよ、彼女なら難なく飛び込んで帰ってくるだろう。


 夏美は二人の言葉に目の端をぐっと拭い、鼻声になりつつ、笑顔を見せた。


「ありがとう。それと、お兄ちゃん」


「何だ?」


「そこは、任せておけって言って欲しかったかも」


「それは無理。俺、見得は切らないから」


 結果を保証するとめんどくさいし、と告げて秋介は耳の穴をほじる。


「少しくらいは切っても良いと思いますよ。秋介さんなら大丈夫ですから」


「じゃあ、変わりにやってくれよ」


「わかりました。夏美さん、任せておいてください!」


 コブシを握り締めて、葛葉は大見得をきる。無条件の信頼とでも言うべきものがそこにはあった。


「いいなぁ」


 ボソッと、意識する事すらなく、夏美の口からそんな言葉が零れるのだった。


「で、冬乃には会えるのか?」


「うん。今なら卜占室に居ると思う」


「よし、葛葉」


秋介は葛葉に向き直り、腰にぶら下げたパイプアクセサリーを引き抜く。


穴の開いた方を向ける、彼女は目を閉じた。夏美の目の前で葛葉の体が溶けるように姿を変える。


狐の影絵が立体化したようになったかと思えば、掃除機に吸い込まれるようにして、の穴の中へ消えていく。完全に体が収まると、秋介はアクセサリーの蓋を締める。ぶら下がったパイプがカランと音を立てた。


「すごーい。本当に入っちゃうんだ」


「見るのは初めてだったか?」


「うん。不思議だねー」


夏美はやや緊張気味にパイプをつつく。くすぐったそうにパイプが自ら震えて音をたてた。


「わっ。ま、まずかったかな?」


「大丈夫だよ」


「よかったぁ。でも何で入れちゃったの?」


「念のためさ」


冬乃の身に何が起きたわからない内に葛葉と相対させるのは、刺激を与えたり警戒される恐れがある。


「それに、この中でも外の気配とかはわかるからな」


「へー。管狐って言うんだっけ?」


「まあな。何だ、興味あるのか?」


じっとパイプを見ていた夏美は、秋介の質問に大きく首を横にふって、はにかむ。


「ないない。私、ほら、そっちの才能ないし」


「まあ、才能が無いって事はないだろ」


彼女も一応は天龍神社の巫女だ。鍛錬をすれば使えない事はないだろう。


「それより、さっきの葛葉さんに驚いちゃった」


「葛葉に?」


「ほら、真っ黒になっちゃったから。てっきり、もっと普通のオキツネ様みたいになるのかと」


「ああ。これに入る時はああなるんだ」


普通の狐の姿、と言うかそれが本来の姿だが、そちらになるよりもあの方が都合がいいらしく、彼女の好きに任せ、秋介はあまり気にした事はなかった。夏美は興味津々と言った調子でそんな話に聞き入っていた。


「お前、本当に興味ないのか?」


「……少しだけ」


親指と人差し指を丸めて、顔をそむけながらぼそりと夏美は答える。


「でも、使いたいとかじゃないよ」


 あくまでも知識として、と言う事らしい。


「ま、興味があるのは良い事だ。今度、お薦めの本を貸してやるよ」


目を輝かせながら顔を上げた夏美の背中を秋介は、ポンと叩く。


「その前に、冬乃の件を解決したらな」


「うん! それじゃあ行こうっ、お兄ちゃん」




 卜占室はその名の通り、占いをする場所である。拝殿の脇にポツンと立つ木製の小屋がそれだ。ホームセンターのログハウスをそのまま建てたような外観に、ひんやりとした霊気が満ちて、何も用のない人間は入るのを躊躇ってしまう。しかし、それこそが占いをするには丁度いい静謐な空間を生み出しているのだ。


 拝殿から渡り廊下を通り、二人は入口の前に立つ。夏美はふうと大きく息を吐いて、戸をノックする。


「お姉ちゃん、居る?」


「夏美、何か用?」


 落ち着いた、消え入りそうな声が返ってくる。冬乃の声だ。トーンや口調におかしい所はない。


 居るのを確認した彼女に、秋介は先を促す。


「あの、ちょっと急なお客さんなんだけど」


「ちゃんと予約してもらって。他のお客様に申し訳ないでしょ」


「あ、あの、占いじゃなくて、お兄ちゃんが久しぶりに会いに来てくれたから」


「高夜さん?」


 暫しの沈黙。慌てた様子もないので、何か考えているのだろうか。


「いいわ」


「お兄ちゃん、お願い」


「おう、サンキュー。後、こいつを頼む」


 秋介は礼を言いながら右手を差し出す。夏美は何も考えずに受け取ると、コロンとそれは手の中で回る。


 彼の義眼だ。見えないの走っていたが、いきなり渡され、瞬間、夏美の目が点になる。


「わっ! え、これ?」


「ちょっと預かっててくれ。それと、笑顔笑顔」


 彼女の頬を摘んで何度か持ち上げると、そういい残して、秋介は戸を開けて中に入る。


 中は薄暗く、明かりは壁にかかった燭台型ライトだけだった。


 水を張った桶が置かれたテーブルを挟み、奥に冬乃の気配を感じ取るが、姿はよく見えない。自分も席に着けば顔は見えそうだ。


 彼はおもむろに席に着く。


「お久しぶりですね、高夜さん」


「おう、ひさ――」


 まずは無難に挨拶を交わそうとした秋介だったが、彼女の姿を見た途端に言葉に詰まり、口を開けたまま固まってしまった。


 目の前に居たのは、夏美とは対照的に、色白で、腰まである長い髪を首の後ろでまとめた、巫女装束の女性。ミーハーな客も多いであろう占いとは言え、きちんと千早を着ている辺りは、生真面目な冬乃らしい。だが、彼の思考を停止させたのは、彼女の顔だった。


 やや垂れ気味の優しく儚げな光を湛えた瞳に、柔和な笑みを作る口元。格好と相まって大和撫子を具現化したような女性がそこには居た。


「……」


 無言で秋介は立ち上がり、卜占室から出ると、驚きと期待に満ちた顔で夏美が彼を見上げた。


「お兄ちゃん、早かったね」


 彼はがしっと夏美の肩を掴むと、目をやや血走らせつつ、唸るように呟く。


「おい、誰だあいつは?」


 乾いた笑みは、今にも獲物に襲い掛かろうとする肉食獣に近いものがあり、夏見は少しばかり危機感を持った。


「ちょ、お兄ちゃん。お姉ちゃんだよ、忘れちゃったの?」


「冬乃!? あれが!? それなら俺に聞くまでもなく、別人じゃないかっ」


 記憶にある磐田冬乃とは似ても似つかない相手だ。疑ったり期待するまでもなくおかしい。


「どこにもベンゾーさんの面影がないぞ!」


 両手で眼鏡を作りながら、彼は主張する。秋介の記憶では、冬乃はぐるぐ眼鏡におかっぱ頭と言う見た目で、某アニメのキャラから女版ベンゾー、通称ベンコと呼ばれていたのだ。


 そんな夏美がダメだこりゃとばかりに頭を振る。


「ちょ、お兄ちゃん。いくら何でもそれは酷いよ。それは高校までの話だよ」


 夏美曰く、冬乃は地元だった高校までは確かにベンコだったが、大学で見事なデビューを果たしたという。


「マジか?」


「本気と書いてマジだよ」


 そう言って、彼女は携帯を取り出し、高校の入学式に来てくれた姉の写真を見せる。


 そこには、服装以外は先ほど見たのと同じ女性が映っていた。


「何てこった……こいつはとんでもない誤算だ」


「お願いだから、もう一回、ちゃんと会ってね」


「わかってるよ」


 深呼吸をして気を取り直すと、秋介は改めて卜占室の中へ入り、イスに腰掛ける。


彼女と向き合い、真っ先にパイプに手をやるが、反応はなかった。


「悪い悪い。久しぶりでちょっと驚いた」


「いいえ。それに久しぶりと言っても半年ぐらいじゃない?」


「まあな。昔よりは、垢抜けたか」


「そうね。さすがにあのあだ名はね」


組んだ手の指をぐるぐるさせ、秋介と目線を合わせようとはしない。見た目は変わったが、性格は確かに彼の知る冬乃だった。


「ま、元気そうで何よりだ。そうそう、煎餅はありがとな。おいしくいただいたぜ」


そう告げると、彼女の指がピタリと止まる。


「そう。それは何よりだわ。今日はわざわざそれを言いに?」


「いいや。ちょっと頼まれたのさ」


秋介は大仰に首を振ってぶっちゃける。


彼は別に何か推理をしに来たわけではない。診察に来たようなものだ。医者が症状を遠まわしに聞かないように、彼も正面からつつく事にした。


「夏美ね」


「まあな。最近、荒れてるみたいじゃないか」


「そんな事ないわ」


「お前がそのつもりでも相手はそう思わないもんさ。おかげでウチは繁盛したよ」


「そう。全く、懲りない人達ね」


秋介の皮肉も、彼女はあっさり一蹴し、鼻で笑う。薄暗がりの中でもはっきりと読み取れる侮蔑に、違和感を覚えるが、葛葉は反応を示さなかった。


「懲りない?」


「ええ。懲りてないわ。モノを探してくれなんて言ってくるけど、身勝手な話じゃない」


本当に大切な物であればそう簡単に無くす事など有り得ない。代々受け継ぐようなものであればなおさらだ。また、しまったものであれば必ず出てくるものだ、と彼女は言う。


「結局は、言う程大切ではなかったり、利用したくなったから引っ張り出そうとしてるだけ。それを大慌てで頼ってくる事が、身勝手でなければ何だって言うの?」


「だからって、片っ端からむげにしていいもんじゃないだろ」


「私だって、明らかに困難なモノはお手伝いしてるわ。あくまでも、本気で探せば見つかるものを、安易に頼ってくる相手だけよ」


彼女の話に、一定の理解を示すのは簡単だった。秋介自身、客を身勝手だと思った事は少なくない。


「だが、それはここで説くもんじゃない」


冬乃は目を鋭くする。ひんやりとした空気がさらに冷たくなった。


「説教なんざ後でいくらだってしてやりゃいいんだ。だが、ここは説教室や懺悔室じゃない。やらなきゃいけない事を間違えるな」


「私は占わないわけじゃないわ。結論を提示しないだけ」


言葉にも苛立ちが見え始めるが、葛葉は反応しない。秋介は、冬乃に対してだけではなく、この事態に奇妙な感覚を覚えた。


彼女の目は、本気だ。だが、言葉がついてきていないような印象だった。


「それにしたって限度がある。ウチに頼みに来たって事は、お前の言葉は何も伝わってないって事だ」


秋介を腰を上げて、彼女の胸の真ん中に指を差す。


彼女はむっとするが、払うような事はせずにじっと睨みつける。


「俺が思うにだ。お前、ここのどこかで楽しんでないか?」


言いながら差した指で胸を叩く。


物事を説くには道筋がある。そんな事は彼女とて百も承知のはず。それを無視して尚、押し付けるのは、夏美の話と合わせればそうした欲求によるものとしか思えなかった。


冬乃は、ついに秋介の手を払いのける。


「バカを言わないで。楽しむ? 私が?」


一瞬だが、秋介の右目がうずき、彼女の手を覆うように黒い霧のような物が浮かび上がって見えた。


はっと葛葉の様子を確認するが、ピクリともしない。寝ているのでなければ、葛葉は冬乃が危険だと判断していないらしい。


この事態に、秋介の脳裏にある予測がよぎる。


「こっちが無いから、的外れになるのかしら?」


「生憎と、俺の右目は優秀なんでね」


 言った途端、彼の手の中で管が揺れる。葛葉が妙な所で反応したらしい。心の中で溜息をつきながら、秋介は冬乃を見下す。


「ともかく、おみくじなんて楽しんでる良い例じゃないか」


「あれも、くじの運勢では結果は変わらないって言うちょっとした説法よ。本人に自覚があれば失せものは見つかるわ」


用意していたように冬乃は答える。少しだけ余裕が戻ったようだが、秋介はお返しとばかりに笑い飛ばす。


「はっ、よく言うよ。ガキの悪戯と同レベルで何が説法だ。人が困った顔するのが面白かっただけだろう」


「違うわよ!」


バンッと台を両手で叩いて冬乃は立ち上がり、鼻を突き合わせて秋介をにらみつけた。


その体からは、冬場に走り込みでもしたようにもうもうと、しかし生憎黒い色の靄が立ち上っていた。


秋介の右目はその靄にはっきりと反応する。


「なら、探せば見つかると書きゃあいい。そうして占いの帰りにひかせてりゃ、お前の主張に客だって少しは理解を示したさ」


「そうやって答えを出したら意味がないのっ。あくまで気づかせなきゃ!」


「違うな。お前は答えを言いたくなかった。相手を困らせたかったからだ」


「違う! 私は、本当に必要な事に気づいて、やるべき事をやってるだけよ!」


秋介は淡々と冬乃を攻める。


彼女が強く反論すると、そのたびに靄が一層激しく存在を主張した。


「バカやろう。だったら夏美があんなに苦しむわけないだろうが!」


「な、何で夏美の名前が出てくるのよ?」


虚をつかれたように冬乃は目を見開き、腕を抱えて顔を背けた。彼女の昂りが弱まると、合わせるように靄も収まっていく。


秋介はその様子に、思わず拳骨をお見舞いしようと上げていた腕を収めた。


「お前がそんなことやってるから、あいつはかなり落ち込んでるし、苦しんでるんだぞ」


「そんな、そんな事言われたって――」


冬乃はごにょごにょと口ごもって俯いてしまう。靄もたちまち成りを潜めてしまった。


「私が悪いって言いたいの?」


絞り出すように彼女は尋ねてくる。秋介は溜め息混じりに頭を掻く。


「それこそ、俺が答える事じゃない。お前が考える事だ。よーく、な」


踵を返し、戸を開ける。


「久しぶりに会えて良かったよ。それじゃ、また、後で」


それだけ言い残して、卜占室を後にする。


台に置かれた桶の水面に浮かぶ自分と向き合いながら、冬乃はぼそりと呟いた。


「あなたは結局、夏美の味方なのね」


彼女の言葉は、戸が閉まる音にかき消され、秋介には届かない。


その体から三度靄が立ち上り始めるが、気付く者は誰も居なかった。




「あ、お兄ちゃん。どうだった?」


卜占室を出るとと、立ち聞きしていたわけではないらしく、夏美が駆け寄ってきて尋ねて来る。


「大体状況はわかった。とにかく拝殿に行くぞ」


「う、うん」


 秋介は足早に拝殿へと向かう。話すべき事は色々とあったが、冬乃に聞かれぬようにしなければならなかった。


拝殿に着くとすぐに秋介はパイプを引き抜く。中からヌルッと葛葉が出てくる。夏美と話す前に、確認しておきたい事があったのだが、何故か彼女は、赤らめた頬を両手で押さえてくねくねと体を揺らしていた。


「ちょっと、葛葉さん大丈夫ですか?」


「お前、何してんだ?」


「んもぉ、優秀だなんて恥ずかしいですよ~」


 言いながら、秋介の背中をポンポンと叩いてくる。事情が全く理解できない。夏美はなおさらだった。


「何の話だよ?」


「さっきのお話で、優秀だって言ってくれたじゃないですか」


 秋介はゆっくりと会話を思い出す。どうやら、彼女はとんでもない勘違いをしているようだ。


「アレは、お前じゃない」


 率直にそう告げると、ヘビに睨まれた蛙のように、彼女は固まってしまう。視線をキョロキョロとさせながら、そろっと葛葉は尋ねた。


「え? あの、秋介さんの右目って私の事ですよね?」


「わざわざお前をそう比喩する事に何の意味があるんだよ」


 秋介は単純に、自分の特殊な右目を指していたのだが、彼女はそう取らなかったようだ。


 勘違いに気づき、一層顔を真っ赤にして完全に硬直する。


「うううう~」


「ったく。大体、お前はこいつよりよっぽど優秀なんだ。そんな程度の誉めで喜ぶなよ」


「――は、はい!」


 溜息混じりにフォローすると、相変わらず顔を赤らめつつも、立ち直る。


「それで、だ。葛葉。お前の感想は?」


「そうですね。神社に蔓延してるのと似た空気をまとってましたね。でも――」


「でも?」


「冬乃さんは、冬乃さんでしたね。ちょっと濁ってましたけど、彼女のちゃんとした匂いがしました」


「え?」


 葛葉の答えが予想外だったのだろう。夏美は言葉を失くす。


 しかし、秋介はやっぱりな、と呟いて頷く。葛葉の答えは、彼の考えを裏付けた。


「いいか、夏美。今葛葉の言った通り。アレは冬乃だ」


「どう言う事? 何か悪い物とか霊が憑いてるんじゃないの?」


「憑いていると言えば憑いてるんだが、お前が想像しているのとはちょっと違う」


 夏美はまるで釈然としないので、不安を内包した表情で首を傾げる。


「だから先に言っておくぞ。冬乃の、最近の妙な言動は全部、あいつの意思に基づいてる」


「えええっ!?」


「あ、なるほど」


何故か葛葉までもが声を上げる。夏美と違い、何か合点がいったような感じだったが、むしろそれが秋介を驚かせた。


「お前、今気付いたのか」


「すみません。まさかそうだとは思わなくて」


「ったく、安易に可能性を捨てるなよ」


「お姉ちゃん? え? どういう事なの?」


夏美は目を白黒させ、パニック寸前だった。気持ちが情報に追いついていない。早く結論を伝えないと、今にも頭から煙より悪いモノが出そうだった。


 秋介は彼女の肩に手をかけて、答えを告げる。


「冬乃は、穢れに憑かれてるんだ」


「ケガレって、えっとあの、心をすさませる陰気の一種みたいなの?」


「そうだ」


 夏美は、結論を得たことである程度情報の整理がつき始めたらし、顔に落ち着きが戻ってくる。


しかし、すぐに大きな落胆に染まってしまった。


穢れとは、夏美の言う通り心をすさませる性質を持った、陰気の一種である。


悪意や怨念と言った陰気や消えゆく霊の残滓が埃玉のように固まり、他の塊と合わさって出来上がったもので、目には見えないが、世界中のどこにでも存在しており、ある意味雲のようでもある。


 清浄な場を嫌い、それを避けて移動しており、日陰や路地裏には溜まりやすい。そうした場所で「嫌な感じ」を受けるの原因の一つが穢れだったりする。


 そして、霊のように明確な個を持たないが、人に憑いて、その人の心の奥にある、普段抑えている感情や欲求を刺激し、心のバランスを逆転させてしまうのだ。


 今までの冬乃の言動は、確かに秋介が言った通り、彼女の心に基づいたものだった事になる。


「そっか……私、お姉ちゃんの何見てきたんだろ」


「誰にだって裏表はある。気に病むな。ただ、後で受け止めてやれ」


秋介は夏美の頭をくしゃりと撫でる。彼女は小さく首を縦に振った。


「でも、何でお姉ちゃんに?」


「かなり強く気持ちを抑制してると、却って穢れに憑かれやすくなるからな」


 禁欲に近いレベルだと、反動でバランスが逆転しやすいのだ。


神に仕える身である以上、一般人よりもよほど抑えているモノは多いだろう。


「くわえて、穢れは特に霊的な感受性の高い人物、つまり依り代につきますからね。冬乃さんが高い霊媒体質をもつ巫女であるのを考慮すれば、むしろ当然だと思います」


 まるで免疫のない赤子とウィルスのような関係だ、と葛葉は告げる。


「あ、はい。それはわかってますけど、その、境内に入ったら消えたりしますよね?」


「それがまさに問題だ」


 秋介は渋い顔をする。


 穢れはその性質上、神聖な神社はもっとも苦手な場所だ。消毒液にでも漬け込まれるようなもので、普通はいくら巫女という依り代に憑いて来ても弾き出されて消滅してしまうのが関の山だというのに、冬乃はどうにも違っていた。


「むしろ境内に穢れが集まりやすくなっていますね」


葛葉が到着時から感じていた境内の一種煤けた空気は穢れにとって住みやすい環境へシフトしつつある兆候だった。


とどのつまり、神の加護と言うべきもがまるで機能していない事になる。


「冬乃さんの穢れを祓うにしてもこの状態じゃ、あっと言う間に元鞘です」


「祭神がサボってると言われてもしょうがない状態だ」


「でも、天龍様は特に何も言って来てないよ?」


 首を傾げる夏美に秋介は軽くデコピンを放つ。


「いたっ」


「よく考えろ。天龍の世話係は誰だ?」


「それはお姉ちゃん、って、あっ!」


どこのお社であれ、祭神が本殿から出てくる事はまずない。通常は世話係を兼ねる巫女を通じて神託や儀式の手配をさせるのだ。


天龍神社も例外ではなく、その巫女はもちろん冬乃である。今の彼女から、祭神からの情報や忠告が降りてくるわけがない。


「それだけならここまで淀んだ気を垂れ流したりしないでしょうから、天龍様にも何かあったと思う方が自然でしょう」


「えっ、天龍様にも!?」


決まりではないが可能性は高い、と秋介は補足する。そっちを解決しなければ、葛葉の言った通り冬乃を完全に何とかする事は出来ない。


「だから夏美、頼みがある」


「えっと、何となく予想はつくけど、何?」


「天龍に会わせてくれ」


「うう、やっぱり」


案の定な返答に夏美はがっくりと肩を落とした。




夏美は天龍が苦手だ。小さい頃は姉と一緒に本殿に出入りしていたのだが、物心がついた頃から態度が変わり始め、ついには謝絶されてしまった。


冬乃が正式に巫女となった為、上下関係を厳格にしたと言うのは理解出来たが、古式な体制と夏美の性格では折り合いがつかなかった。姉が留守な時にお世話は代わっているが、食事を入り口に運ぶくらいで顔すら合わせる事はなく、苦手意識が固まってしまったのだ。


「うぅ」


本殿の前に立った彼女は困ったように秋介達に視線を送るが、むしろ、早くと促されてしまう。


夏美は大きく唾を飲むと、本殿の戸を叩いた。


「て、天龍様。夏美です。少しよろしいでしょうか」


少々どもりながら呼びかけて待つが、返事はない。


恐る恐る再度戸を叩いて呼びかけるが、やはりうんともすんと返ってこない。


「あれ?」


夏美は気を緩めながらも首を傾げる。居ないはずはないのだが、中からなんの動きも感じられなかった。


「ちょっといいですか?」


 葛葉が夏代わりに戸を叩いて耳を澄ます。わずかだが、衣擦れのような音と呼吸音が聞こえて来る。普通の人では気づけないか反応も、彼女の耳はしっかりと捉えていた。


「いらっしゃるみたいですね。秋介さん、どうしましょうか?」


 秋介は葛葉の呼びかけに、階段を上って戸に手を掛ける。


 居るのはわかっているのだし、今更返事を期待する事はできない。彼は一気に戸を押し開けた。


「はいよっと、失礼」


同時に、枕が部屋の奥から飛んでくるが、勢い足りずに秋介の足元に着地する。


「無礼、者めっ」


枯れた声を響かせながら、ズルズルと一人の少女が這い出てくる。


夏だと言うのにくたびれた掻巻に身を包み、荒れ果てた栗毛と角を揺らしてこちらを睨むその姿はホラー映画のクリーチャーを思わせた。


血色はかなり悪いが辛うじて人に見えるので、ハリウッドよりはJホラーの怨霊だな、などと思いつつ秋介は彼女に尋ねる。


「えっと、天龍様でいいのかな?」


「いかにもっ。吾は天龍神社の主神にして水分神、天龍のミナモぞっ」


大見得を切って、本来ならこちらを跪かせたいのだろうが、声からしてまるで覇気がない。


鹿のような角と栗毛。それに縦長の瞳孔を持つ瞳と、龍が対話用に取る一般的な特徴を持っているのだが、今の彼には風邪で弱った少女くらいにしか見えなかった。


「吾が社に土足で入った挙げ句に見下ろすとは不届き千万っ。腸を喰らいて黄泉路に叩き落としてくれるわっ」


秋介の態度が気に入らなかったのか、ミナモと名乗った彼女の姿に変化が現れる。


口が突き出し、扁平な三角の、蛇に近い顔付きになっていく。このまま本当に絵巻にあるような龍の姿に戻って噛みついて来そうな勢いだった。秋介は目を閉じ、一旦息をつく。


「葛葉」


「はい。天龍様、失礼いたします」


葛葉は本殿に上がると、秋介の脇で膝をついてお辞儀すると、膝立ちでミナモに近づき、手を差し出した。


「お手を」


「主はキツネか、何のまねじゃっ」


彼女はすぐに葛葉の正体を見抜き、怪訝な眼差しを向ける。葛葉は笑みを絶やさず、強引に彼女の手を取って、立ち上がらせる。


それに合わせて、秋介は腰を下ろし深々と頭を下げた。


「非礼は詫びる。すまなかった。ただ、時間が惜しかったのもわかって欲しい」


「あ、う――む」


 あっさりと跪かれたミナモは、毒気を抜かれて逆に口ごもってしまう。


 言葉遣いにこそ畏敬の念はないが、それ以上の誠実さがそこにはあった為だ。


「俺は高夜秋介。九十九堂の店主だ。夏美に頼まれてな、冬乃を元に戻す為に来た」


「二人の知り合いか。それで、こっちの狐は?」


「私は葛葉と申します。秋介さんと契約した管狐です」


 その言葉に、ミナモは驚きを隠さず、品定めでもするように二人を交互に見る。


 何かを言いたげであったが、彼女は黙って肩の力を抜いた。


「飯綱使いがまだ居ったとはな。二人の知り合いと言う事じゃが、力を惜しまぬか」


「そりゃあ、もちろん」


「わかった。詳しい話をしよう。夏美」


「は、はい」


 ミナモに呼ばれ、社へ入るに入れずオタオタしていた夏美はびくっと体を震わせる。


「お主がこやつらを呼んだのじゃろう。お主が吾れに説明せずしてどうする。はよう入ってくるのじゃ」


 唐突に入室の許可が出たことで、彼女は目をパチパチさせるが、ミナモからさらに一睨みされると、大慌てでお辞儀をし、最低限の礼だけ守って敷居をまたいだ。


 ミナモは外の景色を一瞥してから付け加る。


「くれぐれも、戸は厳重に、な」


 ギギッと戸軋んだ音を立て、本殿と外界は完全に遮断されるのだった。




「なるほどのう。ええい、吾とした事が――迂闊じゃ」


秋介から冬乃の状況を聞かされたミナモは脇息に体を預けたままギリギリと爪を噛む。優れない顔色で目をつり上げるその姿は、心の病と勘違いされても仕方ない迫力があった。


夏美は完全に気圧されて秋介の背中に隠れる始末だ。


「しかし、それなら夏美がなかなか顔を出さなかったのも納得じゃ」


「え、わ、私ですか?」


ミナモも冬乃に異変を覚えており、事実を確認する為、夏美と話をしたいと言いつけたらしい。


「初耳です」


「用事が忙しいからなかなか顔を出せんとかわされておったが、そもそも話はしておらんかったわけじゃな」


そう話すミナモの表情が一瞬やわらぐが、すぐに三白眼に戻り、再び爪を噛み始める。


「それにしても穢れごとき見抜けんとは口惜しい。して、時間がないと言っておったが、侵食はそんなに進んでおるのか?」


「かなりキてる。いつ代わってもおかしくない」


「ねえ、お兄ちゃん。何の話?」


二人の会話に完全に置いてけぼりをくらい、夏美は秋介の服を引っ張って尋ねる。


葛葉が、二人に代わって説明する。


「夏美さん。先ほど、穢れに個はないと言いましたが、実は裏があります」


「裏?」


 穢れには本来個は存在していないのだが、一定の要件を満たすと、個、つまり自我を持つのだ。


「穢れに憑かれた人は、やがて自ら穢れを受け入れ始めます。穢れにより半ば強引にとは言え、欲求を解放させられた人は、そのとき、少なからず開放感や快感を覚えます」


一種のハイと言った所か。クスリと一緒で、より多くの穢れを取り込めば、それだけハイになれる。


「そうして、完全に穢れを受け入れた時、穢れが明確な人格を持って、元の人格に乗り変わってしまうんです」


「普段の冬乃が表に出る事を拒む、と考えてもいい。その代わりを穢れが担うのさ」


それは穢れが支配した、言うなれば影の心の部分を肥大化した人格である、と彼女は続ける。


時折、ある日を境に突然人が変わったと言われる場合も、その影響による所がある。


「じゃあ、今度こそ本当に、お姉ちゃんがお姉ちゃんじゃなくなっちゃうって事?」


 不安そうに俯く彼女を尻目に、秋介は冬乃との話を思い出す。夏美の話をした時、何やら思う所があるようだった。


「時間の問題だろうな」


まだ踏み止まってくれては居るのだろうが、と思いつつも隠すことなくそう告げる。


「そんな、どうして」


言ってくれなかったのか、と問い掛けそうになるのをぐっと押さえ込む。


言われてたからといって、自分に出来る事はない。逆に慌ててしまい、秋介たちの足を引っ張った事だろう、と想像できてしまった。


「よくこらえたの。主は間違っておらぬ」


 ミナモは夏美に珍しく、否、久方ぶりに柔らかな視線を向ける。


「何より、吾がこんな状態でなければお主にそんな気遣いをさせることすら無いと言うのに」


 一体、天龍のそんな顔を見たのは何年ぶりになるのだろうか。彼女は本当に弱っている部分もあるのだろうが、夏美にはもっと内面的な部分で参っているように感じられた。


「境内の状況もかなり芳しくないが、調子はどんな感じだ?」


「力が弱まっておるせいか、まるで体温が上がらぬ。こうしておらんとすぐにでも伏せって身動きが取れぬのじゃ」


 龍というのはもともと、蛟と呼ばれるヘビの一種が九十九神になったものである。ミナモのように水神としてよく知られるが、その性質上とかく寒さに弱かったりする。力が落ちれば体温も下がるので、当然の結果だ。


 夏場に掻巻を来ているので、ある程度は想像していたが、それでも神社の神聖な場を保持できないというのは予想以上の悪さだった。


 冬乃を戻すには、やはりミナモの方を先に解決しなければいけない。


「原因に心当たりは?」


「数日前より、冬乃と吾の契約に綻びが出ているようでな」


「は? 綻び?」


「うむ。そのせいで、吾の神力が漏れておるようじゃ」


 神力とは、神通力とも呼ばれる霊的な力の事だ。そして、それによってミナモや葛葉達は超常の力を振るうのだ。秋介や冬乃のように、心得のあるものが使う術も、この力によって行使される。


「け、契約と神力に関係があるの?」


 夏美がそっと尋ねると、ミナモはがくっと肩を落としてしまう。


「まったく。少しは成長したと思うたが、そっちはからっきしじゃな」


「えっ? 神様の力を利用させていただくだけじゃないんですか?」


「まあ、普通はそう言う認識になるか」


人と神の契約は、その力を利用させてもらうだけではない。


その代わりとして、人は神に神力を供給するのだ。それにより、神は永続的に力を振るう事ができ、神社の神聖さを保ち続ける事にもつながっているのだ。


「充電池?」


「まあ、似たようなもんだな」


電池と言うのは言い得て妙だな、と彼は笑みをこぼす。


人と神が神力を融通しあう契約は確かに電池の回路に例えられるかも知れない。


人が神の力を利用するのは電池の直列、人が神に神力を供給するのは並列と見ることもできそうだった。


「でもやっぱり充電池か」


「こほん」


秋介の思考がずれ始めたのを見抜き、葛葉がわざとらしく咳払いをする。


「そんなわけで、契約に綻びがでたせいで、天龍様の神力が無駄に外に出て行ってしまっているわけです」


それは充電器が故障した挙げ句漏電させられているようなもの。これで弱るなと言う者がいたなら、秋介は献血後にマラソンさせてやる所だ。


「しかし、そうなるとその綻びを修復しないといけませんね」


「確かに、そうだが――」


 よりによって面倒な事になった、と秋介は頬杖をつく。冬乃を何とかするためには天龍の問題を解決しなければならない。にもかかわらず、その為にはやはり冬乃、と言う事になる。


 天龍の問題が契約に関わってくるとは。


「大体、契約に綻びなんて聞いた事がない」


 契約に問題が生じた場合は、大抵が双方の意見の食い違いや行動理念に齟齬が生じた時で、そうなれば力の差から契約した人間が身を滅ぼして終わる。


 通常、0か一かなのであり、今回のようなケースは実に稀だ。


「秋介さん、唸っていても仕方ありません」


「わかってるよ。いつ頃そうなったんだ、ミナモ?」


「言葉遣いをお主に求める気はないがのう。せめて、さんを付けよ」


「罰が当たらないからな。呼びやすいようにさせてもらうよ」


 期待などまるでなく、呆れた調子の彼女に、秋介も軽く返す。


「やれやれ。吾でなければ、今頃お主、本当に罰が当たっておるぞ。して、ふむ。契約に異常が起きたのは七日ほど前かのう。冬乃が帰って来た日じゃ」


「帰って、ってああそうか」


冬乃は大学のサークルで旅行に行っていたのだ。縁起物の煎餅の件も穢れの影響なら納得が行く。


「私も違和感を覚えたのも旅行後だから、天龍様の話は間違いないと思う」


「大分に行った、のは関係ないか」


 夏美の補足からも、全ての元は旅行にありそうだが、それだけでは説明がつかない。そもそも、旅先でも神社に行っていたはずで、どうやって穢れに憑かれたのと言うのやら。旅先で神社に行って穢れに憑かれるなど、それでも笑い話にならない。


「冬乃さんの性格からも、穢れが付け入りやすかったとも考えられますが、やはり不可解ですね」


 冬乃が総合的に穢れに憑かれやすいとしても、巫女として天龍に仕え、その加護を受ける身でもある。普段なら穢れが嫌う聖なる気を纏っているし、仮に憑かれても対処方法はよく知っているはずだった。


「かなり侵食されちまっているからな」


 天龍の調子が悪くなり、加護に力が回らなくなったとしても、説明しきれない。


 何か契約の異常に関わる形で、より穢れを受け入れやすい状況を作っていたはずだ。


 秋介は頬骨をコツコツと叩きながら情報を整理して行く。


 契約に影響を与え、穢れを引き寄せやすくする事態とは何か。


「ん?」


ある一つの仮説が浮かび、秋介は思わず首を振った。


「まさか、な」


確かにソレならば今回の全てに説明は付くが、有り得るのか、と問われれば迷うことなくノーと答える内容だった。


だが、冬乃とて、すでに彼の知らない側面が増えている。ひょっとしたら、と言う思いが再びよぎる。


「何か思い当たったんですか?」


 そんな秋介の逡巡を、葛葉が見逃すはずもない。


「いや、どうなんだろうな?」


 彼は夏美に目をやりながら、首を傾げる。ここで、彼女の前で言っていいのだろうか。


「どんな考えでも構わぬ。申してみよ」


ミナモも興味深げだ。


四人寄って唸るよりは一パーセントの閃きか、と秋介はゆっくりと口を開く。


「一つ確認させて欲しい」


「何じゃ?」


「契約はどうやった?」


その質問に気を悪くしたのか、ミナモは目を細める。


「どうとは何じゃ? 吾は血を飲むような真似はせねわ」


「まじかよ……うああ」


ミナモがそっぽを向くように答えると、彼は顔に手をやり天井を仰いで呻く。結論と言う外枠を埋めるのに必要なパズルのピースが全て揃ってしまった。


「ええい、一体なんだと言うんじゃっ」


「血を使わない契約で、異常が出る原因を考えてみてくれ」


よりわかりやすく、言わせんな恥ずかしい、と付け加えるか、と秋介が思った矢先、葛葉が真っ赤になった顔を押さえてモジモジし始める。


どうやら彼女は気づいたらしい。


「むむ?」


眉をひそめながら、ミナモは葛葉に視線を送る。まだ気づかない彼女は、秋介に再度尋ねるのもしゃくだったので葛葉に答えを求めてた。


「あわわ。あ、え、えっと、ふ、冬乃さんもお年頃ですからね。おおお、おかしくはありませんよね」


あわあわとどもり、やはり夏美の方を気にしながら、葛葉は何とかそう答える。


「冬乃の年頃じゃと――っ!?」


ミナモもようやく答えにたどり着き、俄かに頬を赤らめ、脇息に頭突きせんばかりにうなだれる。


「た、確かにそれなら納得は行くが、その、のう」


やはり彼女も夏美をちらちらと見ながら言葉を濁らせる。


「えっと、お兄ちゃん。私、ひょっとして邪魔?」


知識が薄く経験が皆無な自分が話について行けないのは仕方ないが、突然の腫れ物扱いに夏美は困惑を隠せない。


「いや、そう言うわけじゃないが」


「でも、だって」


葛葉はかなり気まずそうで、ミナモは顔を合わせまいとしているようだ。自分よりも露骨な態度に、秋介は頭を振って諦める。こっちで切り出すしかなかった。


「ちょっと説明し辛いんだよ」


とは言え、やはり真正面に言うのもはばかられる。夏美も高校生なら知識はあるはずなので、秋介は開けるべき引き出しを示す事にした。


「いいか。まず九十九神と契約するには大まかに二通りのやり方がある」


何故契約方法の話になったのか、と彼女は思ったが、無関係でないだろうとそのまま耳を傾けた。


「一つは血を酌み交わす事」


国や地域に限らず古来より血液は、神秘的な力、神力が宿るものとされている。日本神話では、血から多くの神が生まれたとされ、生命の象徴でもある。


それを酌み交わす事により、命や神力と言った己の根源を共有する、契約が完成するのだ。


「酌み交わすって、飲む、んだよね」


想像して、顔を少し青くする。血を飲むと言う行為に拒否反応を示していた。


「まあ、当然の反応じゃな。だが、先ほども申したが、吾はそんな方法は取らぬ」


「じゃあ、もう一つはどんな方法なの?」


じっと見つめてくる夏美に、秋介は頬を掻き、そっと視線を逸らして呟く。


「えーっとだな。その、もう一つは、直接接触による神力の同調だ」


「直接接触って、え、それだけ?」


血を飲むインパクトが強すぎたせいか、彼女は不思議そうに目を瞬かせる。


「あー、いいか。神力の同調ってのはトランシーバーみたいなもんでな」


「うん。お姉ちゃんと天龍様の神力の周波数を合わせるんだよね。そのために直接触れ合う。二人三脚みたいな感じだよね」


もう少し噛み砕いて説明しようとするが、夏美は案外しっかりと理解していた。ただ一点、接触についての認識が完全にとんちんかんな事を除いては。


秋介はおもむろに腕を上げる。


「夏美。接触ってのはこう言う事だよ」


パンっと音を立てて、彼は両手を結ぶように合わせた。


「え?」


「だから、こう」


もう一度、秋介は両手を合わせる。


「しゅ、秋介さん。それは、むしろ、指で丸を作って、拳で表現しちゃいけませんよ」


そう言うと、葛葉は音に合わせるように頬をさらに赤らめて明後日の方を向く。


「え、ええええ!?」


二人の反応もあって察しがついたのか、徐々に夏美の顔から血の気が引いていく。そのまま青を通り越し、真っ白になって、水銀体温計が破裂する勢いで今度は真っ赤に茹で上がる。


「そんな、え、うそっ、え、うえっ!?」


 秋介の言う接触。それは、交接だった。




交接は、交際の意味と性交の二つの意味があるが、九十九神との関係において、両者はとても重要だった。


交際は言うまでも無いが、性交もまた古くから切り離せない行為なのだ。海外の神話の中には、セックスを神々の戦いの擬似行為としているものもある程だ。


 また、日本を含む多神教の地域では、人と人ならざる者のセックスは無数に転がっている。結果として半神半人という、伝説の英雄達も生まれている。


 日本では、安倍晴明が有名だ。彼の母親は、信太森葛葉稲荷神社に祀られている白狐で、葛葉の名の由来にした、と秋介は説明する。


「体を重ねることにより、九十九神と人の神力が同調して、契約が結ばれる」


 血を神力の宿る生命の象徴としているように、生命に直結する性交は、神力のやり取りに適していたのだ。


「それで、その、血の場合と違い、交接によって結ばれた契約だと、力のやり取りは基本的に丹田で行われます」


 言いながら、葛葉は下腹部、臍の下辺りをさする。すなわち女性の場合は胎内。子宮と言う事になる。生命の象徴でもあるのだから、当然と言えば当然だ。


 そして、それこそがミナモの不調に繋がっていた。


「んで、冬乃は力をやり取りしている丹田に、余計な穴が開いたせいで、一方的にミナモの力を垂れ流しちまっているんだよ」


 穴と言うのは、つまり、処女でなくなったと言う事だ。


そのため契約自体は有効なので神力のやり取りはそのまま、蓋と言うべき処女膜がなくなった事で綻びが生じてしまったのだ。


世間話のように飄々とした秋介に対し、他の三名は皆顔がまっかっかであった。


「あ、穴って、お兄ちゃん……」


「しゅ、秋介さんっ。その、言い方はもう少し考えてください」


「ん、いや、ここまで来てぼかしても仕方ないだろ。さすがにお前に話すべきかは迷ったけどな」


まるで悪びれる様子は無く、彼は夏美にそう告げる。二人も味方が居るはずなのに、彼女はひょっとして自分の反応が間違っているのでは、と少しだけ不安になってしまった。


「裏を返せば、男女間で契約した場合は最初から穴が開いちまうんだが、それを子供という、契約の証に変換してるんだ」


 同姓同士であればそのままお互いの力になるが、男女間ではそうもいかない。その解決策が、子供であり、陰陽師などの術師で名を残しているのは女性か、高名な神や妖怪の親を持っている事が多いのもそのためだと、秋介は付け加える。


 何だかんだで、興味のあった夏美は耳を傾けてしまうのだった。


「それは、わかる気がする。でも、天龍様とお姉ちゃんがそんな関係だったなんて」


 あまりにも衝撃的な事実に、彼女はズンと凹んでしまう。天龍様に仕える巫女としての清廉なイメージが完全に崩壊してしまった。


「血を酌み交わさぬ以上、他に方法はないのじゃ。そ、それに元服しておるのじゃから、今更どうこう言われる筋合いなどないわ」


 あまりの凹みっぷりに、ミナモはそう釈明し、鼻を鳴らしてそっぽを向く。


 彼女の元服が、辞書どおりだと、法律上問題がないわけではないのだが、神である彼女にそれを求めるのはナンセンスだ。笑って秋介はそれを聞き流す。


「あ、す、すみません。そんなつもりで言ったんじゃないんです。でもそうなると、お姉ちゃんは――」


「天龍様とは別の方と関係を持ち、その、しょ、処女を捧げたと言う事になりますね」


「うーん、でもお姉ちゃんに限って、有り得ない気が……」


夏美は、秋介達の説明に納得していたが、どうにも腑に落ちない様子だった。


神とのまぐわいはともかく、それ以外で彼女が他人に体を許すかと言われれば、秋介だって首を横にふる。身内の夏美ならなおさらで、疑問を抱くのも無理はなかった。


「夏美。お主の気持ちはわからんでもないが、事実は事実じゃ。今は対策を考えるのが先じゃ」


「そうですね。原因が原因ですから」


「え? お姉ちゃんと契約を直すだけじゃないんですか?」


普通に考えれば、綻んだのだから契約をし直せばいい。手っ取り早くもう一度体を重ねるなり、血を酌み交わせば済みそうなものだ。


無論、夏美が考え付くことなど、他の三人はとっくに承知だ。だが、ミナモは顔をしかめる。


「それは、そうなんじゃが、やはり、血を酌み交わすしかないのかのう」


「同性間での契約だと、そうなるな」


 冬乃が失った物は戻ってこない。そうなれば、もう一度同調させる事には何の意味もない。相変わらず垂れ流すだけである。


 手立ては一つしか残っていないのだが、どうにもミナモは気が乗らないようだ。


 元々苦手ではあったが、秋介とのやり取りや力の流れで弱る様子にだいぶ意識が改善されたのか、夏美の中で徐々にミナモに対して不満が募っていく。


「天龍様は、お姉ちゃんを助ける気があるんですか?」


 ボソリと、言うつもりはなかった言葉が飛び出してしまうが、手遅れだった。


 はっとする彼女に、ミナモは真剣な面持ちで間をおかずに答えを返す。


「無論じゃ。お主の気持ちはわかるがのう。正直、吾は血のやり取りは好まぬ。何が起こるかわからんからのう」


「どういう事ですか?」


「いいか、夏美。体を重ねるのと血を飲む選択肢があって、契約の確実性は血を飲む方だろう?」


「うん」


 怪訝な表情のまま、秋介の言葉に彼女は頷く。


 電話で言えば携帯と固定電話だ。最近は改善されているようだが、有線の方が未だにいざと言う時には繋がりやすい。血を飲む契約とは、それに当たると言いたいのだ。


「お前の好みを差し置いて、確実性を求めるならどっちを選ぶ?」


「それは……血、かな」


 少し迷いつつもそう答える。同性間ならセックスでも効果は変わらないが、異性間では契約の力は本人よりも子供に受け継がれる。血縁になるので、一応は本人も使えるのだろうが、実感は少なそうだ、と判断する。


「だが、実際は体を重ねた例の方が多い。今よりも神が畏れられていた時代に、だ。その理由は?」


 禁欲と言うのもあるのだろうが、確かに神に触ると言うのは畏れ多い話だろう。夏美の場合は苦手意識に変換されていたが、明確な関係を小さい頃から築いていれば、セックスを選ぶというのは考えにくい。


 それでも、伝承ではセックスの話がやたら多い。そうなると、必然的に答えは絞られる。


「何か避けたいリスクが、ある?」


「そう言う事だ」


「夏美さん。八百比丘尼はご存知ですか?」


「もちろんです」


知らない方が珍しい伝説だ。


魚の九十九神、人魚。その肉を食べた女性が不老不死となり、住んでいた村から疎まれ、出家し、巡礼の旅に出る話だ。


双方ではないが血肉をくらう点で、血を飲む契約とかなり近い。


「つまり、血を取り込む事で九十九神の神力の影響を受け、肉体が変質する事があるんです」


「結果として比丘尼のように、特異な力を得る事もあるにはあるが、かなり稀じゃな」


比丘尼は一介の村民だった事と死体の肉と言うこともあり、特異な力を得られたが、普通であれば障害を負うか死んでるとミナモは続ける。


「あれ? じゃあひょっとしてお兄ちゃんの目も?」


「ああ。葛葉と契約した時にな」


「はい。なので、隣が私の場所です」


葛葉は言いながら秋介の右隣に座り直す。


ちょっとしたノロケにミナモはわざとらしく咳き込んだ。


「ごほごほ。まあ、片目で済んだのなら儲けものじゃ。まして、他のモノが見えるようになったのであれば、な」


だが、危険な事に変わりはない。秋介も、結果として見える事象が増えただけで、単純に片目を失っていた可能性もある。


それを含めると、冬乃を思えばこそ、ミナモは気が進まないのだった。


「す、すみません。私、そんなの知らないのにあんな事を言ってしまって」


「よい。気持ちはわかる」


「まあ、俺は正直、そっちはあんまり気にしてないがね」


「ほう、なぜじゃ?」


「冬乃と全く新しく契約するわけじゃない。穴埋めと考えれば反動はほとんどないだろ」


「それに、天龍様との契約期間を考えれば、冬乃さんの体は慣らされてますから」


やはり影響は少ないはずと葛葉も続く。


経験者の言葉は重要だ。それで踏ん切りがついたのか、ミナモはふっと笑みをこぼす。


「まあ、他に方法があるわけでもないからのう。ウダウダ言っておられんか」


「それより問題は、ミナモ。あんたの力だ」


「そうじゃったな。このまま冬乃を引きずってこられてもしようがない」


「ええっ?」


 さっそく姉を連れて来ようと意気込んで膝を立てた夏美だったが、二人に出鼻を挫かれ、危うくつんのめりそうになる。


「何やってんだよ」


「うう。まだ何かあるの?」


 もう後は姉を連れて来て穢れを祓うだけ。契約をしなおせば神社の清廉な気も戻る。他に一体何の手順がいると言うのか。


 夏美の言わんとする事は、その顔を見ればすぐにわかる。秋介はピンと指を立てた。


「冬乃を連れて来て、誰が穢れを祓うんだ?」


 ミナモは今の状態では期待できないし、夏美はそもそも心得が無い。となれば必然的に秋介しかいないのだが、それなら、質問の意味が無い。


「お兄ちゃん、してくれないの?」


一抹の不安を覚えつつ、夏美は聞き返す。


「生憎と、俺も葛葉も落とせるが、祓えないぞ」


「ええっ!?」


「私の神力は陰の気質を帯びています。大きな分類で言えば穢れと同じくくりになりますので、祓う事はできないんです」


 落とすと言うのはあくまでも冬乃の体から切り離す所までであり、完全に消滅させる、浄化の肯定まで含めた祓いを、穢れに対して行う事はできない。契約して力の性質がお揃いになった秋介も同様である、と葛葉は説明する。


「電気にだってマイナスとプラスがあるように、神力にも陰と陽がある。まあ、気持ちで言えば後ろ向きと前向きだな。で、陰は当然、後ろ向き。穢れの方に傾いてるんだ」


「じゃあ、天龍様が?」


「それしかないのう。吾の神力は陽の気質ゆえな」


「でも、どうして?」


 ミナモも葛葉も種は違えど、同じ九十九神。力の性質が違うと言うのが夏美には合点がいかなかった。


 特色が違うと言うのであればまだわかるのだが、同じ神力で何故、性質が変わってしまうのか。


「そいつは、ミナモが祀られていて、葛葉が祀られてないからだ」


 九十九神という大きな枠組みの中で、社に祀られたものが神、祀られないものは妖怪と言われる。神として祭られれば、力の気質は陽になり、祀られなければ陰となる。


「稲荷神と、各地の妖狐は同じ狐の九十九神だが、伝承での扱われ方が決定的に違うだろ。それで考えればいい。まあ、冬乃ごと、って言うなら話は別だけど」


「だ、ダメダメ! お兄ちゃん、冗談でもそう言うの止めてよっ」


「ですが、天龍様は――」


 本調子ではないのだ。冬乃がどれだけ穢れを溜め込んだかにもよるが、祓いきれなければ、どうしようもない。


 力の同調や融通をする以上、中途半端な祓いで契約行為をすれば、残った穢れにミナモ自身が侵食を受ける可能性もあった。


「うむう。せめて、一時だけでも力を戻せればいいのじゃが」


 冬乃から穢れを落とすしても、契約事態がダメなので、期待はできない。


「まあ、手が無いわけじゃないが」


「なんと?」


秋介は夏美を一瞥し、その肩に手を置いて、目を丸くするミナモに向き直る。


「夏美と契約すればいい」


「え?」


「なん、じゃと?」


「それしかありませんよね」


 驚愕と困惑とが入り混じった二人とは対象的に、葛葉は冷静で、無条件に秋介の言った事に賛同しているのでは、とすら取れてしまう。


「神が複数の契約をしちゃいけないって決まりはないからな。冬乃の方が有効でも問題ないだろ」


 もっとも、人間の場合は話が別だ。適応性が違うので、単独で複数の九十九神と契約しようものなら、寿命を縮めるだけだ。そもそも契約時のショックで、その場で死ぬ可能性もある。


 つまり、この場でミナモと契約できるのは夏美だけなのだ。


「えええええっ!? いや、ほら、私、その、適性ないし、そーいうのはまだ早いよねっ」


 予想外の提案に、座ったままバタバタと奇妙なダンスを披露してしまう。契約に性行為が伴う事もあって、焦りようはひとしおだ。


「冬乃さんと比べれば、夏美さんは確かに神力は少ないですし、霊感も感応性も弱いですが、一時的に補填する程度であれば十分かと思いますよ」


「でもでも、ほら、天龍様だってご迷惑じゃないかと」


「上手くいくかのう?」


 案外乗り気な様子で、ミナモは秋介に尋ねる。夏美はおおわらわで、パクパクと口が動くも声が出てこなかった。


 そんな様子を横目に、秋介は頷く。


「葛葉と同感だな。冬乃に比べれば物足りないだろうが、一応はこの神社の血筋だ。今回の件を収める分には問題ないだろう」


「お兄ちゃんまでっ!」


 四面楚歌。前門の竜に後門の兄では、もはや残された道は一つだけ。これで頷かなければ、気絶でもさせられて無理矢理行為に及ぶ、法律上のウルトラCが待ち構えているとしか思えなかった。


「うううう~」


夏美は頭を抱え込む。秋介の言う事は、今までの話を総合すれば、確かに手っ取り早い。相手は治外法権の塊。法律や倫理観は問題にならないし、頷けば同意の上。もはや残るは自分の覚悟のみ。


「あ、う、その――」


 答えを、と彼女はゆっくり顔を上げる。そのとき、葛葉がカミソリのように目を細めて入口の方を見つめている事に気付く。彼女は、黙ってじっと視線で扉の向こうを射抜き続けていた。


 夏美の背筋にゾクリと寒いものがこみ上げる。


「ぬ?」


「おっと」


 ミナモがその様子に気付いくと同時に、秋介の右目が疼く。


「皆さん、お客様のようですよ」


 その言葉を合図としたように、扉がバンと開け放たれる。夏の蒸し暑く、まとわり付くような空気が一気に流れ込んでくる。


 そして、そこに立つのは、誰もが思った通り冬乃であった。


 巫女服に襷をかけて髪をまとめており、やる気満々だった。


「夏美、もういいわ」


「お姉ちゃん!?」


「見た目はな」


「え?」


 秋介の右目は、彼女の体から寒い中マラソンでもしてきたように立ち上る、黒い靄、つまり穢れの気をしっかりと捕らえていた。


 だが、何より、ギラギラと黒い光を宿す彼女の瞳が、別人であることを如実に語っている。


 秋介に言われ、改めて見直した夏美もまたそれに気づく。


「そんなっ」


「あら、少しは誑かせられるかと思ったのだけど」


「無茶を言う。それとも、穢れの知性じゃその程度なのかのう」


「と言うよりも、普段の冬乃さんとは逆の行動ですからね」


 方々から散々に言われ、冬乃はむっと眉を潜める。


「どうやら、人格を持っちまったようだな」


「まあ、そう言う事。私は、磐田冬乃であり、まったく別の存在でもあるわ」


「それで、用件は?」


 穢れが人格を持ったとして、わざわざ乗り込んでくるのが、秋介には理解できなかった。


 場所が場所だけに、本殿という、敵陣の真っ只中へ飛び込んでくるとは。


「私としても、こうして体を手に入れたから、さっさと出てって自由にしたかったんだけどね」


「それは無理じゃな。いくら異常が出たとはいえ、吾との契約がある。本来の冬乃を押し込めようと、その繋がりがある限り、遠くへ行くことはできまい」


 一蓮托生とまではいかないが、契約という強力な縁を結んでいる。大分と多神町の距離でもミナモは冬乃との契約で確かに繋がっていた。逃げても、感知されるし、無意識的にこの場所へ戻ってきてしまう事もありうるのだ。


「そう。だから」


 ニッと、この場の誰もが今までに見た事のない妖艶な笑みを彼女は浮かべる。


 瞬間、秋介の右目が、扉の向こう、廊下の端に他の存在を感じ取る。


「天龍、ミナモ様。死んでくださいな」


 途端、咆哮と共に、重い重い、床を踏み抜きそうな足音を立てて二つの影が、のっそりと姿を現す。


 どちらも筋骨隆々、プロレスラーも裸足で逃げ出すような巨躯を誇り、手には金棒を握り締めている。


 唯一の違いは頭部がそれぞれ馬と牛である事だけだ。


「牛頭馬頭がなんでこんなとこに?」


 牛頭馬頭とは、その名の通り牛と馬の九十九神である。地獄の獄卒にも例えられるほどの剛腕を誇り、個体差はあれど非常に強力な九十九神だった。


もっとも、牧畜が進んだ現代日本では明らかに数が減っており、見かける事すら稀だ。


「お兄ちゃん。あれお姉ちゃんの、式神だよ」


「はっ?」


 式神というのは、陰陽師などが使役する、九十九神の一種だ。特殊な式と呼ばれる呪文を書くことで紙を依り代として霊魂を呼び起こし肉体を顕現させる。


 ミナモや葛葉との契約と違い、関係は完全な主従に分かれるのが特徴だ。主従と言う以上、相手を上回る力を主、つまり冬乃が持っている事になる。


「どこで見つけてきたのかしらんが、あいつ、凄いんだな」


「吾が紹介したのじゃが、うむぅ」


「邪魔をしなければ、命は助けてあげるわよ」


「出来ない相談だな」


「そう、じゃあまずあなたからで良いわ。高夜さん」


 冬乃が指で合図をするや、牛頭が金棒を勢い良く秋介の頭目掛けて振り下ろす。


 頭蓋が砕け、脳漿が撒き散らされる。そんな映像はしかし、流れる事無く、脇から出てきた腕が易々と金棒を受止めた。


「いくら式神とは言え、そんな主の命を聞くとは感心しませんね」


 金棒を受止めた葛葉は、ぐっと力を込めて金棒を弾き上げながら立ち上がる。あまりの反動に、牛頭がたたらを踏んだ。


「ぐっ。狐よ、邪魔をするな」


「事情はどうあれ、我らにとって、主の命は絶対だ」


 震える腕を押さえる牛頭を見て、馬頭もさっと身構える。彼らも、冬乃が本来の状態でないのはわかっているのだろうが、命令に逆らえないのもまた、式神の定めだ。


「葛葉、とりあえずその二人にはお引取り願え」


 相手が乗り気でないのを悟っていた秋介は、葛葉にそう告げる。


「死なせるなよ」


「はい、わかっています」


 コクリと頷き、体を半身に開いた葛葉の姿が一瞬にして変貌する。稲穂のように美しかった金髪が、雪のように白くなり、髪と同じ毛色の耳がピンと飛び出す。さらに腰からは影のようなものが触手の如く伸び、九つに分かれた、これまた同じく真っ白な尾を形成する。


「え、ちょ、ちょっと! あなた、ただの妖狐でしょうがっ!」


 彼女の変容に、冬乃が急にうろたえる。どうやら、元々の記憶を持っているようだが、彼女の中ではあくまでも狐の九十九神という認識しかなかったようだ。


 葛葉は、典型的な営業スマイルを顔に貼り付ける。


「ええ。ただの妖狐ですよ」


 言うが早いか、彼女は跳ぶ。


次の瞬間、まるで映像をスキップしたように、牛頭馬頭の顔面を掴んだ葛葉が壁ごと押し破るようにして外へ飛び出していた。


「ぬおおおっ!?」


「うおおっ!?」


 さらに、相手の反撃など許さずに跳躍。九十九神としての超人離れした脚力で、二体を引き連れたまま拝殿すら飛び越え、賽銭箱の手前の石畳に牛頭馬頭を頭から叩きつける。


 相手より二回りは細い腕だというのに、牛頭馬頭がピンポン球並みの軽さだと勘違いしてしまいそうだ。


 鼻血をダラダラと流して起き上がる二体を背に、彼女は両手を組み、掌を外に向けてぐっと伸びをする。その姿は休日に子供の相手をする父親のようですらあった。


「さて、それでは、さくっとご退場願いましょうか」


「うぬっ! まさか九尾の位と相対するとはな」


「然れども、我が主の命を果たすため、引くわけにはいかぬっ」


 二体は、自分達よりも巨大な姿として相手を捉えて危険を知らせる本能を押さえつけ、金棒を振りかざす。


 自分に向けて走って来る葛葉は、クスリと微笑むのだった。


「狩る側がどちらだったのか、思い出させてさしあげましょう」




 葛葉が飛び出した直後、本殿から冬乃の姿が消えていた。すんでの所で彼女の突撃をかわし、転がるようにして外へ退避したのだ。


「ええいっ、九十九堂よ!」


「どうした」


 ゆっくりと腰を上げ、冬乃を追おうとしていた秋介に、ミナモが叫ぶ。


「お主、あの狐は、九尾の、それも白狐ではないか!」


「ああ。だから葛葉だってつけたんだよ」


 変貌した彼女の姿は、妖狐の力のバロメーターである尾が最大数である九つにわかれた、美しき白狐。葛葉稲荷神の名を由来とするにはふさわしい姿だった。


「普段は力を抑えてるから、普通の妖狐と同じ、金髪だけどさ」


「言われんでもそれはわかるわ! それよりもあれほどの九十九神と契約して、右目を交換しただけじゃと!?」


「そうなる」


 強力な神との契約は、それだけ契約する人間に影響が出やすい。九尾の白狐など、ミナモが人間だったら全力で辞退するレベルだ。それを、彼は失うどころか異能を手に入れただけと言う。


ミナモは呆れとも感心とも取れる溜息を漏らす。


「よほど相性が良かったとしか言いようがないのう」


「そんな所だ。おい、夏美」


「あ、え、うんっ。何、お兄ちゃん?」


出来事に唖然としていた夏美は、秋介の呼びかけでようやく意識を引き戻す。


「ちょっとエスコートに行って来る。その間に、お前はミナモと契約しろ」


「あ、う――」


 どうにも煮え切らない返事に、秋介は彼女の肩に手を置いた。


「気持ちはわかるが、冬乃を助けるには、お前の協力が必要なんだ」


 卑怯な言い方だな、と秋介は内心で自嘲する。


そもそも、今日までろくな知識のない者に契約を頼むなど、それこそぶん殴られて、何とかしろよと言われても仕方がないのだが、向こうができない事すら承知の発言だった。


 それだけを言い残し、秋介は本殿を後にする。申し訳程度に戸を閉めていくが、そもそもその脇に大穴が開いているので、大して効果はない。


「あっ、お兄ちゃん。うう」


 今、自分は行動を求められている。姉を助けたいがため、秋介に仕事を頼んだ。そして、彼は原因と対処法まで示してくれた。


 姉がのっぴきならない状況まで来て、自分の力が必要だと言うのなら。


 俯いていた夏美は、顔を上げる。それは、覚悟を決めたものだった。


「て、天龍様。私、やります。よろしく、お願いします」


「よい顔じゃ。なれば吾も心してかかれよう。近こう寄れ」


 満足気に頷いたミナモは、そっと彼女を手招きする。夏美は深々と頭を下げて歩み寄る。


「もっとじゃ。吾の傍まで来るがよい」


 何年ぶりかに、彼女は手を伸ばさずとも触れる距離まで、天龍に近付く。


 ミナモは体を起こし、優しく彼女の顔を両手で包む。


「よいか」


「は、はい」


「では、これより吾、水分神龍ミナモは汝、磐田夏美と契約する」


 宣言と共に、がちがちに固まっていた夏美に対し、口付けをかわし、押し倒すのだった。




「もう、九尾のランクが居るなんて知らないわよっ」


 ギリギリで突っ込んできた葛葉をやり過ごした冬乃はそう毒づく。元々の記憶で、彼女が妖狐である事は把握していたが、牛頭馬頭すら圧倒しかねない存在だという知識はなかった。


「そりゃそうだろ。教える必要もなかったからな」


 埃を払いながら立ち上がった彼女の前に、秋介が立つ。本殿の入り口を完全に塞いでいた。


「拝み屋さん、邪魔をしないでもらえないかしら」


「便利屋だ、便利屋。まったく、心外だぜ」


 拝み屋はその一端に過ぎないのだが、と秋介は顎をなで上げて苦笑する。


 穢れが持った人格は冬乃の心の影に則している。つまり、彼女の心の隅では、九十九堂はそう揶揄する思いがあったと言う事か。


「さっきも言ったけど、私は別に、邪魔さえしなければ事を構える気はないのよ」


「それは葛葉に言ってくれ。あいつ、今おかんむりだからな」


 牛頭馬頭が危険なのは間違いないが、白狐の姿を晒すとは秋介も思っていなかった。式神の定めを考慮しても、彼に手を上げたのがよほど腹に据えかねているらしい。


「あなたが言えば止まるでしょう?」


「まあな。だが、言う気はないぞ。生憎と俺の答えは変わらずノーなんでね」


「そう。それなら、私がやる事も一つ」


 そう言って、彼女は懐から扇子を取り出す。ミナモを模した暴れ龍が描かれた見事な扇だが、骨組みはもちろん、その扇面も金属質な光を放っている。特注品の、鉄扇だった。


「さようなら、高夜さん」


 素早く縁側へ駆け上った彼女は、秋介の胴体と頭を切り離すべく、扇を真横へと振り抜く。


「おっと」


 秋介も冬乃にむかって体を肉薄させ、扇子ではなく腕を受止める。


 野球ボールを受止めたような衝撃が走り抜けた。普通の冬乃ならまず出せないようなパワー。穢れの人格だからなのか、火事場のバカ力状態になっているようだった。


「ったく。程ほどにしろ、っよな」


 相手がさらに力で押してくるのを、腰を落として踏み止まる。


そのまま神力を集中させて握った左手を彼女の腹部へ押し当てた。


パチッと乾いた音が響く刹那、指の動きを感じ取った冬乃は一気に体を引いて距離を取るが、ぐらりとその体が揺れる。


「冗談、でしょ」


 乗り物酔いでもしたように顔をしかめながら、彼女は秋介を睨みつける。


「やっぱり、そう簡単に離れちゃくれないか」


 彼は、改めて親指で人差し指を弾いてみせる。またもパチッと音が響く。


 それは、弾指と呼ばれる所作で、仏教で不浄を落とすとされている。


「何であなたの弾指が、私に?」


 信じられないとばかりに、彼女は見つめてくる。


通常、弾指は己の中の不浄を払うのに使うものなのだ。だが、彼は接触することで、他者に対してその効果を発揮させたのだった。穢れの人格には、それでも車酔い程度の効果は出ている。


「そこはアレンジって事で」


穢れが人格を持つレベルであるため、この程度では気休めで、ちょっと揺さぶる程度のショックを与えただけにとどまったものの、相手の警戒を買うには十分過ぎた。


 秋介が縁側から降りると、冬乃は数歩下がって距離を開ける。


「まったく、とんだ門番様がいたものね」


「このまま大人しくしてもらえると助かるんだが」


今度は秋介が提案する側だった。気持ちの優位性が逆転していた。


「それこそ、出来ない相談よ」


気を締め直すように扇を閉じると、冬乃は駆けるとハンマーでも撃つように秋介の脳天めがけて鉄扇を振り下ろした。


鉄扇は通常鈍器として使われるが、彼女のは面も金属の特別制。閉じられていても、おろしがねのように、色々と持っていかれてしまうだろう。


「物騒な護身具だよ、っな」


扇を受け止めるわけには行かないので、あえて踏み込み腕を掴み、振り下ろされた勢いを利用してそのまま彼女を背負い投げる。


冬乃の体は綺麗な弧を描いて背中から地面へ吸い込まれた。


「かはっ!」


したたかに体を打ちつけ、咳き込む冬乃の腹に右膝を押し付ける。さらに掴んだままの腕を捻り上げて抱くように関節を極める。


単純にして確実。サブミッションはきっちり極まれば、老若男女の区別はおろか、訓練を詰んだものでも耐えかねる。


「あぐっ」


 いくら穢れとはいえ人格を持てば感覚を有する。記憶こそコピーしているようだが、経験はない。未知の痛みに、冬乃の手から扇が零れ落ちる。


 秋介は手っ取り早くそれを左足で蹴り飛ばす。もともとは護身用の道具だが、厄介きわまりない。


「まったく、少しはしとやかにして欲しいもんだ」


 言いながらも、秋介はさらに腕に力を込める。目を見開き、冬乃は声にならない叫びを上げた。


「はうっ。あなた、この体がどうなってもいいの!?」


「心得てるよ、安心しろ」


 葛葉との契約による飯綱の術など、彼が使うのは修験道が主である。修験道は山での厳しい修行があり、怪我への処置などは日常茶飯事だったのだ。結果、外科や整体、柔術にも通じることとなる。


 おかげで、どこまで力を込めればいいのか、相手の体つきで大体把握できるようになっていた。


「よっと」


「っ~~!」


 絶妙な力加減で緩めては締める。やりようによっては、これで相手の呼吸までいいように出来る。


 冬乃も、巫女として舞等の練習をしているので、体力や筋力が低いわけではない。ただ、この状態で抜け出すような訓練はしていないので、組み合いは秋介に一日の長があった。


「本当は折ってもいいんだが、夏美が泣くからな」


 相手が暴漢であれば、この体勢になった時点で確実に圧し折っていた。腕であっても、折れれば激痛でまず立っていられない。痛みが落ち着く頃には全て片付いているだろう。


 秋介としては、手間もかからないのでそうしたい所だったが、夏美は悲しむだろうし、むしろ彼に手助けを求めた己を責めそうなので、その一線は越えられなかった。


 まだ二人は準備が出来ないのか、と彼は本殿へ目をやる。壁の穴から中は覗けるのだが、室内が薄暗がりな上に、下から見上げる形になるので、さっぱり様子が見えてこない。


「――ふふっ」


「ん?」


「あっははははははっ!」


 突然、冬乃がこんな笑い方をするのかと戸惑うほど、盛大に笑い声を響かせる。


「夏美、夏美夏美。まったくお笑いだわ!」


「うん?」


「そんなだから、私が付け入る隙ができるのよ!」


冬乃の叫びに、秋介の右目が反応し、ぞくりと総毛立つ。


後はもう直感だった。彼女の腕を放して後ろへ跳び退き、芋虫のように転がった。そんな彼の道を示すように上空から光の粒が降り注ぎ、地面に蟻の巣のような穴を穿つ。


起き上がりざまに穴の道を見ると、周辺の土の色が変わっていた。


「水弾かよ」


水神たる天龍と契約した事で、冬乃も神力で水を自在に操れる。そこで、大気中の水分を集めて弾とし、撃ち出したのだ。


「危うく穴開きチーズだぜ」


「安心して。やっぱりミンチにしてあげる」


冬乃に向き直ると、彼が思った通り、体を覆う穢れの気とは別に、きらきらと光を反射するいくつもの球が、彼女を囲うように浮かんでいる。


全て、水の塊だった。夏場の湿った空気もあって、水の球はその数を増やし、もう野鳥の会でもお手上げな量になっている。これらが一斉に撃たれれば、ミンチで済めばラッキーだろう。


「そのまま土に還りそうだな」


「あなたが夏美の味方をしなければいいのよ」


まただ、と秋介は思った。穢れの冬乃は先ほども夏美を引き合いに出していた。彼女の、穢れの人格の基はその点にありそうだったが、今はそれを考えている余裕はなかった。


「まったく、俺があいつの味方をするのがそんなに不満なのかよ」


「ええ。だからみんな、消えちゃえばいいのよ!」


冬乃の号令で水弾が牙を向く。レーザーのような軌跡を描き、秋介に襲いかかった。


「くそっ!」


秋介は手を突き出し、神力を集中させると、集中した神力が青白い炎となって具象化する。


「狐火ね」


天龍が水なら妖狐は火の特性を有している。葛葉と契約で秋介も神力で火を操作できるのだ。


狐火は急激に巨大化。壁となって水弾に立ちはだかる。


「でも無駄よ。こっちは水。火気では止められない!」


神力の特性とその関係は、陰陽五行に基づく。すなわち、水は火を殺す。


陰陽五行はあくまで基本。神力の強さで結果が変わる事もあるが、ここは天龍神社。場としても水気に優位であり、葛葉との契約を考えても貫けると冬乃は確信していた。


「さようなら、高夜さん」


水弾が炎の壁を穿ち、秋介の体を引き裂く。


その姿を想定していた彼女はしかし、次の瞬間、驚きのあまりポカンと大口を開けて固まってしまう。


「――え?」


水弾は炎の壁を貫通する事なく、接触と同時に続々と消失していった。


「そんなっ!」


焦燥に駆られ、量を増やし更に水弾を叩き込むが、一つたりとも秋介には届かない。


そしてふと、彼女は違和感を覚える。


神力の差で彼女の水弾が敗れているとして、その威力すら無効にする火力を以て蒸発させているはず。ならばこそ、必ずあるべきものが、そこにはなかった。


「蒸気が、ない?」


水弾を一瞬で蒸発させているならば当然蒸気が発生する。撃ち込んだ量を考えれば、温泉地並に立ち込めているはずだが、そんな様子は皆無だった。


「蒸気は出ないさ。蒸発させてるわけじゃないからな」


 攻撃の手が完全に止まったのを見てか、炎の壁がみるみる内に小さくなり、広げられた秋介の両手にそれぞれ収まり、青い炎をくねらせる。その時、冬乃の目に揺らめきとは別の光が移る。


 それは、一瞬の事だったが、間違いなく電光だった。炎を取り囲む静電気のように、彼女には思えた。


「って、まさかっ!?」


「ご明察、って言えばいいのかな」


 冬乃が事の真相に気づいた時はすでに遅い。秋介が両手を合わせると、炎が消失。彼の手の中から激しい光がほとばしり、爆音が轟く。


「あうっ!?」


 周辺の大気が爆発したような衝撃に、冬乃は吹き飛ばされる。


 土まみれになりながら顔を上げると、バシャバシャとバケツをひっくり返したような音が聞こえ、巨大な水溜りの中心に立つ秋介の姿が見えた。


「水素爆発――まさか、炎から電気を作るなんて」


「百万度の炎を吐く怪物はプラズマジェットも吐いてるって書いてある本から、ヒントをいただいたのさ」


 そう。全てはプラズマだった。


 狐火により爆発的な大気の燃焼を引き起こし、気圧を変化させる事で、電気を発生させる。プラズマのメカニズムを利用し、彼は水を電気分解していたのだ。


 そして、雲と雲がぶつかって起きるように、電気を帯びた炎を両手で合わせることで雷を引き起こし、分解されていた水素に着火。水素爆発を引き起こしたのだ。


「お前の水気は確かに強力だったが、俺の方が一枚上手だったな」


「何て無茶苦茶な。非常識よ!」


 通常、神力が火気の特性を持ったところでわざわざ電気に昇華しようなどとは考えない。神力の操作と言う点で言えば、面倒な事この上ないのだから。英語を解くのにギリシャアルファベットに置きかえるような、手間をかけているのと同義だった。


「無茶も道理にはなるさ」


「あなた、師匠に嫌われるタイプだったわね」


 爆発のショックが抜けきらない冬乃は、苦々しく彼を睨みつける。


 一を聞いて十を知るタイプではなく、一を聞いて他の一を試してみるタイプ。基本を理解しているからこそ横道にそれるため、無下にもできない、厄介者。それがまだ同じ学校にいた頃の秋介に対する、教師達の評価だった。


「記憶は、引き継いでるならちゃんと利用することだ」


 秋介はわざと教師を真似て、ワンポイントアドバイスとばかりに指を立ててそうアドバイスを送る。


「さて、と。まだ動けないみたいだが、一応、ダメ押しだ」


 指を立てたまま、彼はぬかるんだ土を引きずりながら冬乃へ近付いていく。その指に、ポッと狐火が灯る。


「な、何を?」


 返答とばかりに炎ごと指を彼女の首筋に押し当てる。季節はずれの静電気が起こり、電気ショックが駆け巡る。


「あうっ。くっ、あっ」


 ショックは一瞬だったが、体が痺れを起こし全く言う事を聞かなくなってしまった。


「このっ、くうぅ!」


「無駄だよ。肉体である以上はな」


 彼がやったのは至極単純。首から下に電気信号が行かないようにしただけだ。スタンガンと一緒で、電圧を調整したので、意識は飛ばないが四肢は暫く動かない。


 彼女は何度か首を振るものの、体はさっぱり答えない。


「いや、いやあっ!」


「へ?」


「身動きが出来ないなんてっ! 私は、私は自由になりたいのよ!」


 指先一つろくに動かない。覆しようのない事実を改めて突き付けられた冬乃が、突然、唯一動く頭をふりたくり叫ぶ。


 その姿は、うつ伏せの状態もあいまって、非常に幼く映る。


「天龍なんかに、天龍なんかにいいいっ!」


「お前――」


 その時、秋介は何となくだが、勘付いた。察してしまった。彼女が、どうして体を他人に預けて穢れに憑かれたのか。そして、穢れが持った冬乃と言うもう一つの人格の基盤。そこにあった隠された感情に。


「ふむ。耳が痛いのう」


 相手が本来の冬乃ではないとはいえ、何となく声も掛けづらくなってしまった彼の耳に、鈴のように澄んだ声が響く。


「っ!」


「まったく、待たされたぜ」


 冬乃と秋介は揃って、声のした本殿へと目を向ける。そこには、はだけた服でぐったりとした夏美と、彼女に肩を貸して立つミナモの姿があった。


 ミナモの血色はよく、最初に秋介が見た時の、患った様子など微塵もない。心なしか、毛並みまでよくなったようだ。


 夏美との契約は問題ないようで、彼女の体から神力が押さえきらずに滲み出て来ていた。


「お、お兄ちゃん」


「大丈夫か?」


「す、すごかったよぉっ」


 何とか顔を上げた夏美は、やや虚ろな、それでいて上気で頬を赤らめながらそう告げる。


 一瞬、危ないクスリをやったようにすら思えて、彼は天を仰ぎながら溜息をつく。


「随分、お楽しみだったな」


「ふん。必要な事をしたまでじゃ。して九十九堂よ。大儀じゃった」


「そりゃどうも。夏美、約束通り、捕まえといたぜ」


 そう言って、彼は冬乃の襟を掴んで起き上がらせる。相変わらず力が入らない彼女は、その場にへたり込んでしまう。


「お姉ちゃん」


 彼女は悲しげに、冬乃を見つめる。話を聞いていたのだろうか。聞いていたとすれば、彼女も十分、気付いているだろう、と秋介は思う。自分が気づいて夏美が気づかないわけがなかった。


「まったく、あなたは変わらないわね。だから、私がこうして今、ここに居るのよ! 私はあなたの――」


「止めよ」


 先ほどとはうって代わって、低く、全てを均すような声で、ミナモが告げる。


 ドクンッと心臓が跳ね上がりそうになり、冬乃の言葉が続かなくなり、全ての音が、動きが止まる。


「っ!」


「おおっと」


 こりゃ凄い、と秋介は感嘆した。


 言霊だ。この世の森羅万象は九十九神になる。それは、言葉も例外ではない。言葉に神力を持って霊魂を下ろし、神格を持たせる。それが言霊だ。


 その言葉を聞き理解したモノは九十九神と化した言葉に縛られて従ってしまう。


 理解するのが重要なため本来であれば普通の動物などには効かないし神力の強弱で影響にも差がでるのだが、己が社の敷地と言う事もあってか、ミナモの一言がこの空間全てに作用していた。


「先ほどの話、少し聞かせてもらった。まあ、耳の痛い事痛い事。じゃが、それはあくまでもお主の話じゃ。冬乃ではない」


「私は彼女の影を利用して生まれた。私の言葉は彼女の本心よ!」


「それは、冬乃に聞かねばわからぬでな」


 そう言いながらミナモは夏美を縁側の柱に寄りかからせると、下へ降りてくる。


 秋介が蹴り飛ばした扇子を拾い上げた。


「本心とは本当の心。それを持つのは、穢れのお主ではない」


 彼女はじっと冬乃の瞳を覗き込む。秋介の電撃もあってか、逸らす事ができない。


「冬乃よ、聞こえておるか。お主の鬱憤に気づかなんだわ吾の不覚。じゃが、言いたい事があるならば、穢れの力など借りずに自力で申せ。そうでなければ、耳を傾ける意味がない」


「何をっ、うっぐっ!」


 ずっと遠くを見透かすようなミナモの眼差しと言葉に、冬乃は頭痛を覚えて、顔をしかめる。


「くっ、何、これは!?」


「ミナモの言葉がお前の中の、本当の冬乃に届いたんだ」


「そんな、バカなっ! 本来の彼女は、確かに私に、全てを委ねたのに!」


「それは違う」


「何ですって」


「お前には、チャンスがあった。水弾を俺に向けて大量に作った時、あのまま本殿に打ち込んでればお望みの自由が手に入っていたんだ」


 冬乃の肩を叩きながら、正直ヒヤヒヤしていたと、彼は思い返す。


 だが、彼女の視線が自分から放れる事がなかったので、問題ないと確信もしていた。


「それでも、お前は俺を狙った。結局、本当の冬乃は天龍やミナモを直接的に傷つけるつもりなんてなかったんだ」


「嘘、嘘よっ!」


「まあ、その点はそれこそもう、冬乃にしかわからんじゃろうてな」


「それなら、それなら私は一体っ!」


「もともと、お主は在ってはならぬ存在じゃ。考えるだけ無駄じゃ」


「いや、いやよっ! 私はこんな所に縛られない! 自由になるんだからあっ!」


「あっ」


「ええい、何をしておるんじゃ!」


 力の限り、冬乃は体を揺さぶる。体の自由が戻りつつあったが、油断していた秋介の手から彼女は抜け出す。


 状況は圧倒的に不利。天龍が夏美と契約し直した時点で逃げる以外の選択肢はなかった。


 しかし、踏み出した刹那、彼女の前に塊が落ちてくる。


「ひっ! こ、これはっ!」


 団子状にされた牛頭馬頭だった。死んではいないものの、体中に噛み切られたり抉られたりと、人間なら死んでいるような大怪我を追い、気をやってしまっていた。


「行けませんよ。式神さん達は今のあなたでも戦ってくれたのに見捨てるだなんて」


 拝殿の内と外をわける塀の上から金色の目を爛々と光らせた葛葉が冬乃を見下ろす。


 二体の九十九神を団子になるまで叩きのめしたというのに、彼女は目だった傷も見せず、唇を釣り上げて笑ってはいたが、尻尾は地面と平行。怒りの感情をしめしており、一部の人たちにはご褒美レベルの恐怖を誘う。


「まあ、秋介さんに狐火を使わせておいて、逃がすわけはありませんけどね」


「ひいっ」


 冬乃は、完全に追い詰められて腰を抜かす。


 思わぬ展開ではあったが、おかげで逃げられる心配は完全になくなった。ミナモは咳払いをして、扇子を広げる。


「ま、儀式用ではないが問題なかろう」


 そして、扇面に息を吹きかけるようにして神力を集中させる。空気の流れが、ガラリと変わり、彼女を中心に渦を巻き始める。


「ここは吾が庭なれば、天龍の名に置いて命ずる。穢土の気に寄せられし者どもよ、去ね」


 静かに彼女は神力を乗せた扇を振り上げる。その命に応え、渦巻く風は天に向かって吹き上がり、分厚い雲を呼び寄せる。天龍神社をすっぽりと覆い、太陽の光を遮った。


 ポツっと秋介の鼻先に水が落ちてくる。最初の一滴から、土砂降りに変わるまで時間はほとんどかからなかった。


「さすがは、暴れ竜だな」


 天龍はもともと、川を氾濫させて畏れられた九十九神。祀られぬ妖怪であった。


 川の氾濫とは嵐の象徴。冬乃が契約で得た特質の水はあくまで一端。ミナモの神力は、風と雨の特質を兼ね備える。極端なゲリラ豪雨はそれを易々とコントロール出きる事の証でもあった。


「秋介さん、濡れてしまいますよ」


 感嘆しながら天を仰ぐ彼の視界を、九つの白い尾が塞ぐ。扇状になったそれらが、彼を雨から守っていた。


「ぐああああああっ!」


 と、獣のような咆哮が響き渡る。


 叩きつけるような雨に視界は完全に塞がっていたが、考えるまでもなかった。


ミナモによって起こされたこのゲリラ豪雨は、陽の気を以って穢れを祓う。神社から、穢れが次々と風雨に晒され浄化されていき、境内は徐々に聖なる空気を取り戻していく。


 冬乃の体という鎧を纏っていても、その影響は免れない。


 体から祓い出されようとしている、影の冬乃が悶絶しているのだ。


「ふむ、しぶといのう。吾も、そうもたんので、早々に終わらせてもらうとするぞ」


 そう言って、彼女はパチンと指を鳴らす。瞬間、音が衝撃波となって冬乃に押し寄せた。


「があああっ!」


 年頃の女性が、いや、人間が出してはいけない声を上げて、彼女の体から黒い靄がじわじわと流れ出始める。


 ミナモが調節したので、肉体自体には損傷はないようだ。


「ふ、ふふふ。いいわ。今回は、確かに私の負け。出だしで躓いたものね。でも、あなた達が彼女との関係を変えない限り、私はまた、生まれてくるわよ」


 そういい残し、バッタリと冬乃は倒れこむ。その体から一際黒く大きな靄の塊が飛び出し、雨に流されて完全に消失する。


「ばか者め。吾らに何でも押し付ける時点で間違っておるのじゃ」


 ミナモはそう呟き、パチンと扇を閉じる。全てが終わりとばかりに、雨も風もやみ、雲が晴れていく。


 再び顔を覗かせた太陽に照らされて、もぞもぞと冬乃が体を起こす。秋介や葛葉、そしてミナモを見る瞳には、様々な感情が渦巻いていた。


「あ、あ、あの、えっと」


 何を言っていいのか、何から言い出せばいいのか。そんな迷いがあうあうと動く口に現れる。


 ミナモは、しゃがみこみ視線を合わせると彼女の顔を押さえ込む。


「て、天龍様っ」


 顔を背けようとするが、もう遅い。ぐっと一回唇を噛んだ後、ミナモは冬乃に接吻する。


 舌を入れて唾液ごと、唇から血を流し込む。


「んん、ん、あ、いたっ」


 続いて冬乃の唇を噛み、そこから血を飲み干していく。


「っんく」


「ごくり」


夏美は唾を飲み込んだ。


「う、あああああああっ!」


 急激に熱くなる体に、冬乃は己を抱いて再び倒れこむ。頬を上気させて、プルプルと体を震わせ、そのままぐったりとしてしまう。


「契約完了じゃな」


 調子を確かめるように、掌を握っては開き、ミナモは頷く。


「やはり、冬乃の方が安定感があるのう」


「はあ、はあ……」


 熱い吐息を漏らす冬乃が、うっすらと目を開ける。


「冬乃、どうじゃ。変わった所はないか?」


「え、あ、はい」


 そう言って唇を拭う。流れ出した血が手についていた。八百比丘尼のように傷が瞬時に治る様子もない。


 秋介の見立て通り、血の酌み交わしでも影響はほとんどなかったようだった。


「そうか、それではのう」


 冬乃の顎に手を当て、ミナモは無理やり己を覗き込ませた。


「じっくりと釈明を聞かせてもらおうかのう」


「あ、あう。はい」


 消え入りそうなか細い声で彼女は頷く。


 その様子を見ながら、尾をしまい、金髪に戻った葛葉がなにやら後ろ腰に手を組みうずうずしているのに秋介は気づく。


「どうした?」


「しゅ、秋介さんっ」


 期待を込めた目を向けられるも、秋介は一切顔を見ずにぶった切る。


「しないぞ」


「うう、ケチ」


「ケチじゃね――ったく」


 反論しようとして振り向いた秋介は、彼女の頬に一筋の傷がついているのに気付いた。


 ハンカチを取り出し、そこを拭う。


「まったく、これで我慢しろ」


「はい、えへへ」


「やれやれ、吾らよりよほど惚気ておるのう」


 二人の様子に、ミナモは冬乃を担ぎながら楽しげな笑みをこぼした。




 穢れに憑かれていた時の事をしっかり覚えていた冬乃は、隠す事無く、心の内を吐露して行く。


「羨ましかったの」


 全ては、その言葉に集約されていた。


 冬乃は早くから天龍神社の巫女として鍛錬や祭事を行ってきた。学校と神社を行き来する日々。


 そこに元来の内気な性格が災いし、学校でも友人達と関わる事はほとんどなかった。


 秋介も、小中学校の事はよく覚えていた。


 それを恨んだ事などないし、天龍に仕えるという大切な役目を引き受けて入るのだ、と自負もあった。


 だが、一方で妹の夏美はのびのびと外を駆け回っていた。友人も多く、彼女が唯一よく知る秋介とも度々あっていた。


 自由に外を駆ける妹が、彼女にはまぶしく映っていた。自慢の妹であり、同時に羨む相手。


 そうして徐々に羨望を募らせた冬乃は、大学入学を機にイメチェンを試みた。会話下手はどうにもならなかったが、民俗学の研究サークルでそれは苦ではなかった。単なるお付き合いの必要がなかったからだ。


 だが、それでも神社の事があり、なかなかサークルにばかりかまけても居られない。却って縛られていると思い始めてしまう。


「んで、思い切って悪い事でもしてみよう、と」


「別に、悪いことじゃない、わよ。興味だって、ないわけじゃなかったし」


 巫女としての自分をちょっとだけ自由にしてみよう、と彼女はサークルで自分を慕ってくれた後輩と体を重ねたのだという。


「え、でも、う~ん?」


 腕を組んで考え込む夏美を横に、冬乃はさらに話を続ける。


「それが、その、まさかこんな事になるなんて」


 知らなかったのではなく、旅先から戻る間くらいは何とかなると思っていたのだが、その矢先に穢れを溜め込んでしまい、今に至ると言う事のようだ。


「まったく、お主という奴は――」


 ミナモははあと溜息をつく。彼女に言わせれば、祭事さえちゃんと執り行えるならば、他にいくら遊ぼうと構わない、と言う。


 むしろ、冬乃の足を引っ張ったのは失せモノ占いの方だろう。


「あれも、本当に、ちゃんと探すつもりはあったんだけど」


「救急車と一緒だな」


 客の要求と言うのはエスカレートしやすい。どうにかしてくれる、すぐに頼れる相手が居ると、自力でどうにかなりそうな時でも寄りかかろうとしてくるものだ。


 おかげで、予約が埋まって彼女の空きはほとんどなかったのは、想像に難くない。


「でも、穢れに憑かれてたとはいえ、私、みんなになんてことを――」


「過ぎた事は仕方あるまい。失った信頼は倍の努力で取り戻すしかないのう」


「あ、少しくらいでしたらこちらに回していただいても構いませんよ」


「ちょっ、何勝手いてっ」


 さりげなく客をシェアしようと言い出した葛葉を止めようとするも、膝を抓られて、秋介はすごすごと口をつぐむ。


「それに、夏美と高夜さんにも、ごめんなさい。やっぱり、羨ましかったのね。夏美が頼れば、高夜さんはすぐに答えてくれるから」


 本当は相談に乗って欲しかったのだろう。何しろ、夏美や父親には気まずいし、天龍には無理だろう。


「お前の性格じゃ厳しいとは思うが、そういう時はすぐに言え。待ってるだけじゃ、手の差し出しようがないからな」


「ええ、そうね。私が、もっとちゃんと言えてれば」


 どんどんと冬乃は表情を曇らせていく。


 秋介は励ますようにポンとその肩を叩く。


「まあ、反省してるなら良いんじゃないか。おっさんとはもう少し仕事とプライベートの両立で相談した方がいいかもわからないが」


「ええ。天龍様も言ってくださってるし、そうさせてもらうわ」


「お父さんなら、大丈夫でしょ。話せるのは明日だと思うけど」


 寄り合いで留守にしているので、確実に呑んでくる、と夏美は踏んでいた。


 親バカと言うのはこういう時は楽だよな、と秋介は一人ごちる。


 姉妹とミナモのわだかまりも、話がまとまりかかっていた所で、葛葉が口を開く。


「あの、ところで」


「何じゃ?」


「その、こちらはやはり私が直さないといけないんでしょうか?」


 彼女が指を差したのは入口の脇の壁だった。彼女が牛頭馬頭を引きずり出した時に開けた大穴が残っている。


「作業は、宮大工に頼みますから、大丈夫ですよ。式神にも手伝ってもらえばすぐ済むと思います」


 宮大工はその仕事の関係で、式神や九十九神はよく心得ている。協力させるのは特に問題がなく、むしろ出せば感謝されるという。


「ま、金は請求するしかないかのう」


「やっぱり、そうなりますよね。すみません、秋介さん」


 しゅんと肩を落とす葛葉の頭を、秋介は無造作に撫でる。


「気にすんな。まあ、もともとは俺を守るためだしな。気を悪くする理由はないさ」


「はい、ありがとうございます」


 慰められて、泣いたカラスがと揶揄されそうな程にあっさりと、葛葉は笑みをこぼし、秋介の頬も緩む。


「やれやれ。まるで家族じゃな」


「ちょっと、羨ましい」


「ほう」


 冬乃の呟きを、ミナモは聞き逃さず、意地悪な笑みを浮かべて、彼女の肩に腕を回す。


「お主は吾と家族になりたいと申すのか?」


「え、えっと、そういうつもりで言ったわけでは」


「構わぬ構わぬ。じゃが、そうなると当然、どちらが姉であるか、はっきりさせておかねばならんのう」


「え、えっと。それは、ひょっとして」


 何となく、彼女のしようとしている事に気づいた秋介は腰を上げる。


「さて、それじゃあそろそろ行くか。用は済んだしな」


「あ、はい。そうですね。夏美さん、行きましょう」


「え、で、でも」


「いいですから」


 葛葉は無理矢理夏美を立たせると、一足先に本殿から出て行く。


 秋介は、そっと、メモを手渡した。


「何、これ?」


「俺の携帯のアドレスと、ボイチャメインのFPSのサイトだよ。画面の前で掲示板してるのも良いけどな。クラン半ば追放されて、今は独り身なんでね」


 引き篭もりがちな彼女を、他者と、とりあえず繋げる秋介なりの気遣いだった。


「ありがとう。でも、今欲しいのはそっちじゃないのよ」


「馬に蹴られる趣味はないんでね」


 そう言って彼は踵を返す。


「ちょっと、高夜さんっ! あ、天龍様、んん。そんな、私そういうつもりでは」


「ええい。家族なんぞは口実。お主がどこの馬の骨とも知れぬ輩に体を開いた腹いせに決まっておろうが。お主の主人が、お主の体を好きにしていいのが誰なのか今一度おもいださせてくれるわっ!」


「んあ、そこはっ! 待ってください。心の準備があんっ」


 録音しておけばよかったかな、と耳をそばだてて本殿を出た秋介は少し後悔する。


 気を使ってすでに葛葉は夏美と共に拝殿まで移動していた。


「お兄ちゃん、本当にありがとう」


「いや、実際に祓ったのはミナモだ。俺より彼女にお礼を言ったほうがいい」


「ううん。お兄ちゃんが居なかったら、きっとお姉ちゃんと天龍様はここには居なかったもん。ちゃんと、お兄ちゃんはお願いを叶えてくれた。だから、お礼を言わせて」


「秋介さん、ここは素直に受け取っておきましょう」


「じゃあ、どういたしまして」


 秋介の返事に、夏美はにっこりとひまわりのような笑みを浮かべた。


 悪い気はしないか、とこっそり呟き、境内を後にする。鳥居までついてきた夏美は、改めて首をかしげた。


「どうした?」


「ん~、やっぱり納得行かない事があるんだ」


「冬乃が誰かとやったのが?」


「そう。その、なんていうのかな」


 顔を真っ赤にゆで上がらせ、両手の人差し指をつつき合わせながら、彼女は疑問を口にする。


「普通は、しょ、処女って男の人が奪うんでしょ?」


「まあ、そうなるわな」


「じゃあやっぱりおかしいよ。だって、お姉ちゃんの行ってる大学、女子大なんだから」


「……」


「まあっ」


 秋介は頬をひくつかせ、葛葉は驚きのあまり口に手を当てる。


 原因はミナモか、と秋介は結論付ける。他には考えられない。元服の年齢で初の性体験の影響は、無視する方が難しい。


「いいか、夏美」


「うん」


秋介は彼女の両肩に手を置きながらグルグルと思考を巡らせ、結局、ある答えに決定する。


「お前にはまだ早い」


「えええええええっ!?」


「もう少し、大人になったらちゃんと教えてやるよ」


「お兄ちゃん、教えてよーっ!」


 夏美の追及をかわして、秋介は葛葉と共に石段を駆け降りて行くのであった。

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