ガラテアに花を、ピュグマリオンに愛を

百舌鳥

 等身大の人形が腰掛けている。

 様々な姿をした小さな人形が数多く立ち並ぶ部屋だった。その中でも、眼前の人形がひときわ強力な印象を放っている。

 ブラジャーとショーツ以外は何も身につけていない、まろやかな曲線を惜しげもなく晒した下着姿。ゆるくウェーブをかけたピンクブラウンのロングヘア。 丁寧に下地を塗り込み、コンシーラーと薄塗りのファンデーションで整えた肌。仕上げに軽くはたいたきめ細やかな粉が、陶器のような仕上げに一役買っている。綺麗に整えた眉と、陰影を彫り込んだまぶた。色づく花弁のような、柔らかな桃色をにじませた頬。そして。

 細筆にとった紅を、人形の唇にさす。ぷっくりした山形の輪郭をかたどり、中央へと向けて濃くなるグラデーションを意識しながら丁寧に筆を動かしていく。龍の画へ睛を点ずごとく、人形へ血を通わせる最後の作業。


「できました」


 緊張感から解放され、わたしは殺していた息を吐いた。手鏡を取り、人形へ差し出す。


「ああ――とても綺麗。ありがとう、英理」


 私が息を吹き込んだ人形が、にっこりと微笑む。亜衣香さんの笑顔、それだけで。私は生きていけるのだ。


***

 いつかの三徹明けの朝もかくやという勢いで、亜衣香は目の前のマネキンを睨みつけていた。背後を通る通行人が思わず距離をとる姿がガラスに反射している。己が乙女にあるまじき鬼の形相となっていることは自覚しているが、そんなことよりも目の前のショーウィンドゥに立つマネキンのほうが亜衣香にとっては問題だった。

「お客様、お客様……」

 自分を呼ぶか細い声。無視したい気持ちも大きかったが、流石にそうするわけにもいかず、亜衣香は声のもとへ目を向ける。この店の名札をつけた店員が、ひとり不安げに佇んでいた。

「あの、お客様……は、本日当店へいらっしゃると連絡をいただいておりました松前亜衣香さんでいらっしゃいますか?」

「ええ。こちらこそ失礼いたしました。『ラ・プラージュ』製品企画部所属、松前亜衣香と申します」

 名乗り、店員に会釈する間にも。亜衣香の注意はマネキンから逸れることはなかった。



「ええ、店頭のマネキンですね。先ほども、あのマネキンに展示した服を上下セットでお買い上げになったお客様がいらっしゃいました」

 アパレルブランド『ラ・プラージュ』楡木通り店バックヤード。亜衣香は先ほどの店員こと、この店の店長を務める高木の話に耳を傾けていた。

「マネキン自体の集客効果も高く、当店のリピーターとなってくださるお客様も多いようです。お陰で暫定的ですが、前年前月比八十%増の売り上げを――」

ぎり、と亜衣香は奥歯を噛んだ。マネキン、マネキン、マネキン。『服が売れているのはマネキンのおかげ』と言わんばかりの論調で話が進んでいく。それに反論できないことそれ自体が、亜衣香を最も苛立たせていた。

 店頭に立つマネキンが纏っていたのは、水色のスキッパーブラウスと花柄のフレアワンピース。どこのブランドでも売っているようなありふれたデザイン、ありふれた価格の服だと断言できる。そう認めるのは癪だが――他でもない、亜衣香がデザインしたものなのだから。

「製品番号T-SB679とB-FSK875は今シーズンの新作ですが、他ブランドに優越するような独自性のあるデザインではありません。シーズン終盤に予定されたセールで捌ききることを想定した製品です」

 つとめて淡々と亜衣香は口にする。では何故、本部や亜衣香の予想を覆す勢いで服が売れているのか。答えなど、わざわざ確認するまでもない。


 そのマネキンは、美しかった。

 服飾を扱うアパレルショップで用いられる一般的なマネキンは、衣服の着脱がしやすいようにと手足の存在しないトルソーや、首から上が存在しないヘッドレスタイプが多い。たまに首から上が存在しても、顧客に服以外の印象を与えないように細かな造形は省かれていることがほとんど。

 一方で。この店に届いたのは、目鼻や口が丁寧に作り込まれたリアルタイプのマネキンだった。それだけではない。華やかな色が縁取る目元。優しい毛並みに整えられた眉。すらりと通った鼻筋。極めつけに、生きているかのような血色を宿す唇。

 そう。マネキンの顔には繊細な化粧が施されていた。


 バックヤードを出た亜衣香は、高木と共に再びマネキンの前に立っていた。

「松前さんのデザインされた服だそうですが、本当によくお似合いです」

 今更亜衣香が服飾デザイナーであることを思いだしたような高木の台詞も、亜衣香の耳には空々しく響く。結局はマネキンありきで売れている服なのだ。

 同じようなマネキンが、他にも本部から複数の店舗に送られていることを高木は知っているのだろうか。正確には、マネキンの素体自体はほぼ共通だが――それぞれのマネキンに施されたメイクも、展示される服も異なっていることを。

 同時に、何故か。マネキンに展示するよう指示された服は、全て亜衣香がデザインした服であった。さほど大きくはないブランドとはいえ、亜衣香含め数人のデザイナーがコンスタントにデザイン案を提出しているというのに。狙い澄ましたかのように、亜衣香が手がけた製品だけを。

(このマネキンは、間違いなく『売る才能』がある。私よりも、ずっと)

 亜衣香にとっては、それは才能の無駄遣いであった。同時に、服飾デザイナーとしての亜衣香の誇りを踏みにじるものに他ならなかった。

「高木さん。マネキンに展示する服に関する指示書ですが、その指示を出したのは営業企画部の田中でよろしいでしょうか?」

「はい。本部の田中さんだったと記憶しております」

 営業企画部の田中。売り上げを伸ばすマネキンの話を聞きつけた亜衣香が――企画が亜衣香の耳に入っていなかった時点で既に苛立ちを覚えるのだが――今までに足を運んだ店舗でもその名前が出てきた以上、彼こそがこの企画の仕掛け人だとみてよいだろう。製品企画部に属する亜衣香とはほぼ交流のない相手だが、連絡先は把握している。

 高木に一礼して『ラ・プラージュ』楡木通り店を出る。懐から携帯を取り出しながら、亜衣香は田中を問い詰める文言を頭に浮かべていた。



 ワンタッチで通話を終了させる。結論から言えば。田中は、亜衣香の服ばかりが選ばれた理由を知らなかった。


「何よそれ。コーディネートに合わせたメイクを施したマネキンを作成し、販売促進に繋げる――あなたの考えた企画よね?」

「確かに企画の立案者は僕だけれど、カタログの中から服を指定したのは社外のマネキンの塗装担当者なんだ。君の服ばかりが選ばれたのは本当に知らなかった」

「じゃあ、その担当者に会わせて。社外とはいえ、あなたならコンタクトがとれるでしょう?」


 求める成果が得られなかったことに青筋を立てつつ、亜衣香は一旦引き下がる。それから数時間後。田中からの着信で告げられたのは、当該のマネキン塗装担当者が亜衣香に会うことを了承したという連絡だった。

 『ラ・プラージュ』本社での仕事を超特急で終わらせ、本社最寄り駅に駆け込む。改札を突破せんばかりの勢いで走り抜け、駅前のファミレスチェーンに駆け込む。荒い息を整えながら、亜衣香は田中から聞き出していた名前を店員に告げた。

「松前、亜衣香さん……?」

案内された席に座っていたのは、不安げな表情を浮かべた一人の女性であった。

「ごめんなさいね、急いできたから息が切れてるの」

 コップの水を一気に飲み干した亜衣香による、品定めするような視線を感じ取ったのか。目の前の女はただでさえ自信なさげな姿をいっそうに縮こまらせた。

「それで、あなたが」

「はい、新田英理と申します。……すみません!」

 名乗るなり深々と下げられた頭に、亜衣香は面食らう。

「ちょっと待って。いきなり何を謝るって――」

「だって、人形のことでいらっしゃったんですよね。田中さんから聞きました。私が、私なんかが松前さんの服に合わせて作品を作るなんて大それた真似しちゃって、本当に」

「よし、一回顔を上げてくれないかな。新田さん、あなたが仕掛け人なのは分かったから、話を整理しましょう」


 はい、と英理は下げていた頭をこわごわと上げる。その様子がまるで叱られるときの子供のようで、亜衣香は胸にわだかまっていた苛立ちが薄れていくのを感じた。


 英理の話によれば、確かに彼女がマネキンのメイクを塗装した人物に間違いないようであった。販売促進を企図してマネキンにメイクを施そうというのは田中が発案した企画であったが、実際のデザインや合わせる製品の選定を行うデザイナーが社内では選定できなかった。その末にマネキン製造会社社員の知り合いであった英理に白羽の矢が立ち、くだんの企画へ至ったという流れだったらしい。英理の本業はフィギュアの造形・塗装であるらしく、その技術を見込まれたのではないかと亜衣香は推定する。



「大体は分かったわ。細かい流れはいい、私が聞きたいのはただひとつ――どうしてあなたの関与した企画で選ばれた服が全て、私のデザインしたものなのかってこと!」

 テーブル越しに英理に指を突きつける。

 一方で。指を突きつけられた英理の顔は、きょとんとしたものだった。やがて、愕然とした表情へ。そして一転、喜色が溢れる。

「本当ですか? あの服たちは、みんな亜衣香さんがデザインしたものなんですか?」

「ええ、そうだけど……だから何? あなたが意図したものでしょう」

「いえ」

 英理はゆっくりと首を横に振る。

「私は、服のデザイナーまで知らされてはいません。当てずっぽうで亜衣香さんがデザインした服ではないかと思ったものを選んだのですが――まさか、その全てが的中していたとは」

「……は?」

 思わず、行儀の悪い声が出てしまった。怪訝な顔になる亜衣香とは対照的に、英理はうっとりした表情で自身の鞄を漁っている。

「はい。こちらを見てください」

 差し出されたのはスマートフォンの画面だった。一瞥した亜衣香は息をのむ。

 画面に表示された写真に写っていたのは、トルソーに着せられた一着のワンピース。亜衣香にとっては見覚えのありすぎるワンピース――亜衣香が『ラ・プラージュ』に入社する前、服飾専門学校を出た直後にフリーランスのデザイナーとして手がけた最初の服だった。

「『あるもあ』……」

「ええ。セレクトショップ『あるもあ』。四年前に亜衣香さんが制作した服を販売していた店。私はそこで、亜衣香さんの作品に出会いました」

 裸の爪を短く切り揃えた英理の指が、スマホの画面を操作する。数着の衣服の写真が右から左へと流れていった。いずれも、かつて亜衣香が手がけた服だ。

「どうして」

「決まっているじゃないですか」

 亜衣香がファミレスに足を踏み入れたときの、不安げに縮こまっていた女はいなかった。花開くような満面の笑みで、英理は告げる。


 「私は、松前亜衣香さんのファンなんです。四年前、『あるもあ』で亜衣香さんの服に出会ったときからずっと」


 マスカラで伸ばしに伸ばした亜衣香の睫毛が、ぱちぱちと瞬きをする。しばし何も反応できなかったのは、英理が口にしたのがあまりにも予想できない言葉だったからだ。

 亜衣香がフリーズしていたのを、はたして英理はどう受け取ったのか。無表情で固まる亜衣香に英理は首を傾げ、ややあって顔色がみるみると青ざめていく。

「あの……すみません、すみません! 私なんかが、いきなりそんな、ファンだなんて迷惑ですよね。人形の件で十分なご迷惑をおかけしたというのに」

 逆戻りだ。出会ったときを思い出したかのように頭を下げ始める英理の姿に、亜衣香は我に返る。

「落ち着いて。私は別に怒っていない、ただ……ちょっとビックリしただけ」

「そうですよねそうですよね、こんな人間にファンだって言われて勝手に服を作品に使われるなんて気持ち悪いっていうか私も」

「だから、怒ってないってば」

 らちが開かないとみた亜衣香は、強硬手段をとることにした。

「ひゃん!?」

 つまり、俯いた英理の手をとって握りしめた。英理の肩が撥ね、口をぱくぱくさせている。落ち着かせられたかは疑問だが、これ幸いとばかりに亜衣香は説明にかかった。

「私は知りたかっただけなの。誰があのマネキンを作ったのか、何故私の服ばかりが選ばれたのか」

「でも、連絡くれた田中さんは、松前さんが苛立ってるって……」

 田中め余計なことを。天を仰いだ亜衣香は、やれやれと首を振る。認めなければならない。自分のこの苛立ちは、誰に向けられたものなのか。

「ええ、企画を知ったときからずっとイライラしていた。でもね、新田英理さん、あなたにじゃない。もちろん田中にでもない。私が苛立っていたのは、マネキンに凌駕されるようなものしか作れない私自身にだった」

「そんなことありません!」

 驚いた。亜衣香はてっきり、先ほどと同じように英理がまた謝り始めるのかと思っていたが、英理は店内に響く大声で否定したのだ。一瞬ののち、周囲の席から注目を浴びていることを自覚した英理は赤面して縮こまる。消え入りそうな声で、しかしはっきりと英理は述べる。

「私が受けた依頼は、あくまでも『ラ・プラージュ製品の販売を促進するような人形をデザインしてくれ』というものです。人形の印象が服の印象を押しつぶしてしまうようなら、それは私に非があります。松前さんは胸を張ってください」

「……そう。じゃあ、新田さんも同じね。胸を張ってちょうだい」

 えっ、と間の抜けた声があった。亜衣香はにこりと笑ってみせる。

「だって。田中から聞いてない? この企画、とっても売り上げを出している。おめでとう、あなたの『人形』は誰に恥じることもない成功作よ」

 ネイルアートの施された亜衣香の指が呼び鈴にかかる。応えて近づいてきた店員に、亜衣香はワインボトルを一本オーダーした。

「ねえ、乾杯しましょう。今更になっちゃったけど――出会えた記念に。聞きたいことも、沢山あるしね」




「ふぃい、飲んだ飲んだ」

「ご、ごちそうになりましたぁ……」

「いいのいーの、わたしの奢り。それよか見せなさいよぉ、あんたの部屋」

 夜半。千鳥足で歩く亜衣香と、それを支える英理の姿があった。

 

 意気投合に、酒の力は実にてきめんであった。はじめは恐縮していた英理も、亜衣香に進められるがままワインを口に運ぶことで饒舌になっていく。


「それで、どうして私のデザインした服だって分かったの?」

「確証はありませんでしたが……色選びと生地、そして縫製ですね。亜衣香さんは何回も服が繰り返し着られることを想定した生地の使い方をしている。縫製も、そうです。デザイン面が素晴らしいのはもちろんですが、着る人のことを第一に思っている」

「へぇ。よく見ているのね」

「すみません、やっぱり気持ち悪かったですよねすみません」

「いえ、悪い気持ちじゃないわ。だから英理もそんなに自分を卑下するのをやめて、ね? 次は『あるもあ』に通ってたって話を聞かせてちょうだい。あなたの作る『人形』の話も」

「はい。個人的に『人形』の造形で一番大切なのは唇の彩色、つまり口紅だと思っていて――」


 酔いもあってか感情の起伏が激しくなった英理と、なだめつつも根掘り葉掘り話を聞き出そうとする亜衣香。気づけばファミレスを出て付近のバーに場所を移し、空いたグラスの数は片手の指を越え、そして亜衣香のマンションに向かう電車はなくなっていた。タクシーの呼び方を酔った頭で思い出そうとする亜衣香に、同じく酔った頭の英理が「私の部屋がすぐ近くだから泊まりませんか」と声をかけ、そして現在に至る。


「亜衣香さんも引かないでくださいよぉ」

「だいじょーぶらいじょーぶ、さっきも散々話聞いたしぃ」

 英理が鍵を開けるな否や、倒れ込むように亜衣香が室内に入る。英理の手で照明がつけられた途端、亜衣香は息をのんだ。

「すごおぃ、フィギュアばっかり」

「本業がこういったフィギュア製作関連なので……あっちょっと、ベッドはあちらです、床で寝ないでくださぁい!」

 英理の慌てた声を意識の端に聞きながら、大勢のフィギュアに囲まれて亜衣香の意識は闇へと落ちていった。




 頭が痛む。流石に飲み過ぎた。頭痛を堪えながら、亜衣香はベッドから起き上がる。

 知らない天井だった。途切れ途切れの記憶をたどる限り、ここは英理の部屋だろう。そう結論づけた亜衣香は、のそのそと寝室を出る。

 部屋の四方を囲む棚に、所狭しと並べられたフィギュア。それらに見下ろされて、ソファーの上で英理が寝息を立てていた。亜衣香の気配に気づいたのか、英理ももぞもぞと目を開ける。

「あー……亜衣香、さん?」

「おはよう、英理。世話になっちゃったわね。ところで、それ」

 亜衣香が指さしたのは、英理が着替えていた服だった。ぼんやりした目で自身を見やった英理は、一瞬で目を見開く。

「うわ、そのすみません! 酔った勢いで出してきちゃったみたいで」

「別にいいわよ、部屋着としてデザインしたんだし。……しかし、懐かしいわね。私が『あるもあ』で売っていた、昔の服」

 英理に被さっていたのは、かつて『ラ・プラージュ』に所属する前の亜衣香が独自に製作していた服だった。セレクトショップ『あるもあ』で販売されていた作品に英理が一目惚れし、亜衣香が現在の職場に就職してからは『ラ・プラージュ』ブランドに関われる機会を虎視眈々と窺っていたのだという。

「しかし、少しだけ申し訳ないわね。昔からのファンだって言われると」

「どうしてですか?」

 英理の声に、亜衣香の胸の奥底が締め付けられる。捨ててきたものが今になって思い出される。

「気づいてるでしょう? 私は、『ラ・プラージュ』に入って、個性を捨てた。企業が求めているのは奇をてらった独創性のある服じゃない、確実に売れる製品。もう私は、あの頃のように自分のやりたいことを詰め込んだ服は作れない」

 英理の横、ソファーに亜衣香は腰を下ろす。英理に見せられたかつての作品に、過去に置いてきたと思い込んでいた心の一部が再びくすぶり始めていた。

「……亜衣香さんは、『ラ・プラージュ』に入ったことを後悔してますか」

「いいえ、それはない。お給料も数倍になって安定したし。理想と個性だけで生きていけると信じるほど、夢見がちじゃないってこと」

 ふう、と亜衣香は息を吐く。その横顔を見つめていた英理は、ややあって口を開いた。

「亜衣香さん。私の、人形になってくれませんか」



「メイクは慣れてるの?」

「自分にはあまりしませんが、やり方や道具の扱いは知っています。色の使い方や造形は、よく分かってる」

 英理が要求したことは、かみ砕いて言えば――亜衣香をメイクさせてほしいということだった。特に断る理由もなく亜衣香は承諾し、英理に持ち歩いていたメイクポーチを渡す。そこからの英理の手際は、見事の一言だった。

「すごい……これが私?」

 我ながら月並みな一言だ。そんなことも気にならないくらい、英理の技術は圧巻だった。鏡から目を離せない亜衣香に、英理は告げる。

「亜衣香さんのデザインは、確かに『ラ・プラージュ』に入ってから変わりました。けれど……着る人のことを思いやる、その根底は変わってない。私が、保証します」

 亜衣香さんに、自信を取り戻してほしい。英理の唇が紡ぐかたちを、亜衣香は鏡越しに見ていた。

 そうね、とひとつ呟いて。亜衣香は、昨夜から着ていたブラウスの袖から腕を引き抜いた。一気にブラウスを脱ぎ捨て、タックパンツに手をかける。

「え……亜衣香さん、亜衣香さん!?」

「閃いた。この服、邪魔」

 狼狽する英理をよそに下着姿になった亜衣香は、部屋の片隅に置かれた自身の鞄へ向かう。メモ帳とペンを持って鏡の前に座り込んだ亜衣香は、猛然と手を動かし始めた。

 数分後。描かれたスケッチと共に、晴れやかな顔で亜衣香は立ち上がる。

「ありがとう。おかげで、いいイメージが浮かんだ」

「それは……亜衣香さんの、デザイナーとしての新作ですか?」

「ええ。今回はとってもいいものができる気がする。だけど、これだけじゃ案として心もとない。だから、ねえ――」


 もっと。わたしを、あなたの『人形』にして?


 ずっと憧れていたひとの言葉を、英理は拒めるはずがなかった。



 ***


「美味しかった?」

 亜衣香の言葉に、英理ははっと顔を上げる。先に食べ終わっていた亜衣香が、にこにこと英理を見つめていた。

「どうしたの、ぼうっとして」

「いえ……少し、出会ったばかりのことを思い出していました」

「そう? まあいいわ、午後から雑誌の取材だから、昼食を食べ終わったら向かいましょう。目を通しておいてね」

 亜衣香が指し出したのは、取材の要旨を記載した原稿だった。『ラ・プラージュから独立したデザイナーによる新進気鋭のブランド』『独創的なマネキンを用いた展示形式が話題沸騰』『デザイナーと アーティストの二人三脚』等々、刺激的な文面が踊っている。

「あの、雑誌の取材って私も出る必要があるんでしょうか……? 生きている人間は、ちょっと苦手で……」

「何言ってるの、もちろん出るわよ。二人で立ち上げたブランドなんだから」

 英理の人見知りを、亜衣香はばっさりと一刀両断してみせる。そして、思い出したかのように手を叩いた。

「ああ、そう。ご飯食べたら落ちちゃった、取材前に塗り直してくれるわよね?」

 誘うように。とんとん、と亜衣香の指先が唇を叩く。

「ええ、喜んで」

 何はともあれ、この愛しい『人形』に血の色を吹き込めるのは自分だけなのだ。ポーチの中から口紅を取り出す英理が浮かべたのは、これ以上ないほどに満たされた笑顔だった。

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