『幻影の腐臭』の原文

「使う?」

 彼女はそう言って、消毒用エタノールが詰まった小さなボトルを、私の手へ押し付けるように差し出した。

 缶バッジで飾られた通学用鞄の中へ、紛れ込んだ異物。業務用の大きなタンクで買い求めたエタノールを、彼女は丁寧にボトルへと注いで、霧吹きの頭部分を取り付けて持ち歩いているのだ。

「いらない」

 私がそう答えると、彼女はことさら哀しげな顔を作って、私に罪悪感を背負わせようとする。何度繰り返したかも分からない、ひとときの交愛だった。

 彼女は決して潔癖症などではない。むしろ、同世代の少女達と比べるに、多分に奔放の性がある。

 野山に混じりて竹を取りつつ――とは行かぬまでも、野草を積み、野の花を頭に飾り、蝶を手に留める。少年のように眩く笑って、疲れを知らぬかのようにどこまでも駆けていくのが、常であった。 

 私はいつも、のんびりと歩いて追いかけていくばかりだ。

 目を閉じて彼女を想う度、まぶたの裏に浮かび上がるのは、彼女の笑みでも横顔でもない。たくましくもなんともない、彼女の、何も背負わない後ろ姿なのだ。


 私達の関係性が捻じ曲がった理由を、私は克明に記憶している。

 とある春の日のことだった。

 髪を逆立てる強風の中を、私達は肩を並べて――肩を寄せ合って歩いていた。風圧に負けて彼女がよろめくと、私がそれを支える。私がたたらを踏むと、彼女が受け止めて押し返す。他愛なく戯れながら、午後の陽光の中を歩いていた。

 休日で、急ぎの用件は何もなかった。私達は無目的に、通学路から大きく外れた野の道を、靴を汚すことも厭わずに歩いていた。

「久しぶりだね」

 と、彼女は言った。

「小学校の頃はさ、よく、こんな風にさ。変なとこ、歩いてたよね」

 そうだね、と私は応えた。

「中学生にもなったらさ、なかなかそんなことしないじゃん。……だから、ちょっと楽しいかも」

 彼女は上機嫌のままに私の手を取り、指を絡めた。

 私もまた、指を絡め返した。それが友情の証であると信じていたからだ。

 幼少期の無知と無関心が故の、接触深度に比例せぬ無邪気な友情。そんなものを携えて、私達は、舗装されていない道を歩いていた。

 道に迷う懸念は無かった。人が踏み固めた土が、くっきりと道筋を示していたから。地域の大人達も、連れ立って歩く女学生二人を、なんら珍しくもないものとして、目に留めることもしなかった。

「ねぇ」

 ふと、彼女が言った。悪戯っ気の溢れる笑みを、繋いでいない方の手で隠しながら。

「面白い場所、知ってるの。見に行きましょう?」

 一も二もなく、私は賛同した。

 誰かの足跡の上から右手へ逸れて、背の低い草に覆われた、道なき道へ。針葉樹がまばらにならぶ林の中を、ほんの数分も歩いた場所に、〝それ〟があった。

「綺麗でしょう?」

 ええ。私は本心から、そう言ったのだ。

 赤い花畑が、そこに広がっていた。

 誰の手によるものかは知らないが、必ずや人の手が入っていると確信し得る、見事なまでに鮮やかな景色だった。一面に赤、敷き詰められた赤、地面を覆い隠す赤。赤く小さな花々が、春風に身をよじっていた。

 彼女はなんと無邪気に、私の手を解き放ち、我が身ひとつで赤の波の中へと駆けていった。

 私は、その全てを見ていたかったが為、ゆっくりと歩いて、彼女を追った。

 ……綺麗だったと、今でも言える。林の向こうに切り離された、小さな赤を集めた楽園。共有の秘密であるという意識が、その赤をより鮮やかに見せていたにせよ、それは本当に綺麗だったのだ。

 けれども、私の心ではなく魂を揺さぶった、真実美しかったものは、その赤の中を子供のように駆け回る彼女の姿だった。

 穢れのない在り方だった。

 人の世に生まれ落ち、油膜のような感情にさらされながら、染まるを知らぬ白衣の如く。誓って言える、彼女は美しかったのだ。

「こっちに来てよ」

 呼ばれるままに、少し足早になった。

「私、お花って好き。だからね、あなたに見せたかったの」

 私も花は好きだ――と、私は答えた。

 彼女は首を振った。そして頬を膨らませ、童女のやり方で不平を示した。

「違うの、そうじゃないの。あのね、私は――」

 私が横へ立つのを待ちきれなかったのだろう。彼女は花畑の中で、大きく一歩を踏み出して――足を滑らせた。

〝ぐじゅっ〟という悍ましい水音を聞いた。彼女は赤い花の中に沈んで、一瞬だが私は、ここが冥界の海ではないかとさえ思った。

 その時――彼女が、ぞっとするほどに悲痛な絶叫と共に、赤い海の中から立ち上がった。

 言葉にならぬ叫びを上げ、焦点の合わぬ瞳を涙で飾りながら、彼女は私へと駆け寄り、すがりつこうとしたのだ。

 酷い臭いだった。

 腐肉が、腐水が、皮膚だったものの断片が、赤黒い水となった臓腑が、彼女の衣服を飾っていた。突き出された掌は、転んだ際に押しつぶしたのだろう、蛆の屍が張り付いていた。

 きたない。

 私はそう言って、すがる彼女を突き飛ばした。

 アネモネの花に埋もれた小動物の亡骸。腐り果てた肉塊を、彼女は踏みつけてしまったのだ。


「使う?」

 彼女は消毒薬を差し出す。私は首を振り、彼女は悲しげな顔をする。だからその度に私は言う。

 綺麗だよ。だから、大丈夫。

 嘘ではない。だって私は覚えている。揺れる赤よりも尚鮮やかに笑う彼女が、どんなに美しかったかを。

 けれども――彼女の手が私に触れる時、鼻腔には幻影の腐臭が漂う。

 やがて悍ましさに耐えきれず私が嘔吐し、その口元を手の甲で拭った時、彼女は本当に幸せそうに言うのだ。

「はい、どうぞ」

 私はありがたく、エタノールの霧に両手を晒した。

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『AIのべりすと』補助による百合短編『幻影の腐臭』 烏羽 真黒 @karasugakaa

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