『AIのべりすと』補助による百合短編『幻影の腐臭』

「使う?」


 彼女はそう言って、消毒用エタノールが詰まった小さなボトルを、私の手へ押し付けるように差し出した。

 缶バッジで飾られた通学用鞄の中へ、紛れ込んだ異物。業務用の大きなタンクで買い求めたエタノールを、彼女は丁寧にボトルへと注いで、霧吹きの頭部分を取り付けて持ち歩いているのだ。


「いらない」


 私がそう答えると、彼女はボトルを引っ込めた。


「いつもそれだね」


「うん…………」


  私はうなずいてから、彼女の言葉に返事をした。

 私たちはいつものように、放課後になると教室を出て、下駄箱へ向かう階段の途中で別れる。そして互いに別の帰路を辿る。

 彼女が消毒用エタノールを持ち歩くようになってから、どれだけの日々を過ごしただろう。

 彼女は決して潔癖症などではなかった。むしろ、同世代の少女達と比べるに、多分に奔放の性があった。

 野山に混じりて竹を取りつつ――とは行かぬまでも、野草を積み、野の花を頭に飾り、蝶を手に留める。少年のように眩く笑って、疲れを知らぬかのようにどこまでも駆けていくのが、常であった。 

 そして私はいつも、それをのんびりと歩いて追いかけていくばかりだった。

 ある時は山菜を採りに行き、またある時は川魚釣りに出かけた。木陰に座って、他愛もない話をしたこともあるし、二人して寝転んで空を見上げたこともあった。


 その日もそうだった。

 夕暮れ時になって、私たちは学校の裏山の麓にいた。

 裏山には、針葉樹がまばらにならぶ林がある。背の低い草に覆われた、道なき道だ。

 髪を逆立てる強風の中を、私達は肩を並べて――肩を寄せ合って歩いていた。風圧に負けて彼女がよろめくと、私がそれを支える。私がたたらを踏むと、彼女が受け止めて押し返す。他愛なく戯れながら、それでも一歩ずつ前へ進む。

 やがて木々が途切れると、視界が開けた。

 眼下に、湖が広がる。


「わあ!」


 彼女は歓声を上げて、駆け出していく。

 湖畔に立つ一本の木の下まで走って行って、彼女はくるりと振り返った。風に煽られて乱れた髪を整えることも忘れて、彼女は満面の笑みを浮かべていた。


「見て! 綺麗でしょう?」


 彼女は嬉しげに目を細めて、両手を広げて見せる。

 そこには、一輪の白い花があった。


「うん、綺麗」


 私は答えてから、彼女と同じように微笑んだ。


「アネモネの花。たった一輪だけ、ここで見つけたの。寂しそうな顔もしてないのが、逆にかわいそうになっちゃって」


「かわいそう?」


「うん」


 彼女は上機嫌のままに私の手を取り、指を絡めた。

 私もまた、指を絡め返した。それが友情の証であると信じていたからだ。

 幼少期の無知と無関心が故の、接触深度に比例せぬ無邪気な友情。そんなものを携えて、

 私たちはこれからもずっと一緒に生きていくのだと思っていた。


「じゃあ、こうしよう」


 彼女は名案を思い付いたというように声を上げ、繋いだ手を解いて、再び私に近づいてきた。


「今度来るときはさ、二人で一本ずつ持ってこようよ」


 彼女はそう言って、私に向かって手を差し出す。私は少し考えてから、


「いいけど」


 と答えた。


「うん! 約束だよ」


 彼女はそう言って、私の手を取る。

 そして二人は、再び歩き出した。


「…………」


 私はふと、彼女の顔を覗き見た。

 彼女は悪戯っ気の溢れる笑みを、繋いでいない方の手で隠しながらこちらを見て、


「寂しいアネモネには悪いんだけど、実はね。もっと、もっと素敵な場所を知ってるの」


 と言った。


「見に行きましょう?」


「ええ」


 一も二もなく、私は賛同した。

 ほんの数分、私達は歩いた。緩やかな傾斜を昇り、人の足跡のない草地を進んで、誰の目も無い方へ。そうして、やがて、私達だけが文明から切り離されたように周囲が静かになったころ、彼女のお目当ての場所に辿り着いた。


「綺麗でしょう?」


「ええ」


 私は本心から、そう言ったのだ。

 赤い花畑が、そこに広がっていた。

 誰の手によるものかは知らないが、必ずや人の手が入っていると確信し得る、見事なまでに鮮やかな景色だった。一面に赤、敷き詰められた赤、地面を覆い隠す赤。赤く小さな花々が、春風に身をよじっていた。

 彼女はなんと無邪気に、私の手を解き放ち、我が身ひとつで赤の波の中へと駆けていった。

 私は、その全てを見ていたかったが為、ゆっくりと歩いて、彼女を追った。


「どう? すごいでしょ?」


 彼女はくるりと振り返って、得意げな表情でそう言う。


「うん。すごく綺麗」


 私が答えると、彼女は満足げにうなずいた。


「ねえ、ここをあなたの秘密の場所にしてもいい?」


「もちろん」


 私が答えると、彼女はにっこりと笑った。

 それから、彼女は何事かを呟きながら、地面にしゃがみ込んだ。


「?」


 私が首を傾げると、彼女は立ち上がって、


「大丈夫、ただのおまじないだから」


 と言ってから、もう一度、その場に座り直した。

 私は彼女の隣に腰を下ろした。


「おまじない?」


「うん」


「どんなことするの?」


「それは秘密」


「どうして?」


「だって、恥ずかしいじゃない」


 彼女は頬を染めて、照れたような仕草をして見せた。

 ……綺麗だったと、今でも言える。林の向こうに切り離された、小さな赤を集めた楽園。共有の秘密であるという意識が、その赤をより鮮やかに見せていたにせよ、それは本当に綺麗だったのだ。

 けれども、私の心ではなく魂を揺さぶった、真実美しかったものは、その赤の中で子供のように輝く、彼女のかんばせだった。

 穢れのない在り方だった。

 人の世に生まれ落ち、油膜のような感情にさらされながら、染まるを知らぬ白衣の如く。誓って言える、彼女は美しかったのだ。


「もっとこっちに来てよ」


 呼ばれるままに、腰を浮かせて身を寄せた。


「私、お花って好き。だからね、あなたに見せたかったの」


 私も花は好きだ――と、私は答えた。

 彼女は首を振った。そして頬を膨らませ、童女のやり方で不平を示した。


「違うの、そうじゃないの。あのね、私は――」


 小さな体の目一杯で、自分の不満を示そうとして、彼女は花畑の中で跳ねるように立ち上がって、二歩。――足を滑らせた。

〝ぐじゅっ〟という悍ましい水音を聞いた。彼女は赤い花の中に沈んで、一瞬だが私は、ここが冥界の海ではないかとさえ思った。

 その時――彼女が、ぞっとするほどに悲痛な絶叫と共に、赤い海の中から立ち上がった。

 言葉にならぬ叫びを上げ、焦点の合わぬ瞳を涙で飾りながら、彼女は私へと駆け寄り、すがりつこうとしたのだ。

 酷い臭いだった。

 腐肉が、腐水が、皮膚だったものの断片が、赤黒い水となった臓腑が、彼女の衣服を飾っていた。突き出された掌は、転んだ際に押しつぶしたのだろう、蛆の屍が張り付いていた。


「いやぁあああっ!」


 彼女は私に抱きつこうとして、しかし、私の体をすり抜けてしまった。

 彼女はそのまま、私の背後にある花畑に倒れ込んでしまった。

 私は、彼女を助け起こそうとした。

 けれど、触れられなかった。

 彼女に触れられなかった。

 私は、彼女を助けることができなかった。

 きたない。

 私はそう言って、すがる彼女を振り払った。

 アネモネの花に埋もれた小動物の亡骸。腐り果てた肉塊を、彼女は踏みつけてしまったのだ。


「使う?」


 彼女は消毒薬を差し出す。私は首を振り、彼女は悲しげな顔をする。だからその度に私は言う。

 綺麗だよ。だから、大丈夫。

 嘘ではない。だって私は覚えている。揺れる赤よりも尚鮮やかに笑う彼女が、どんなに美しかったかを。

 けれども――彼女の手が私に触れる時、鼻腔には幻影の腐臭が漂う。

 やがて悍ましさに耐えきれず私が嘔吐し、その口元を手の甲で拭った時、彼女は本当に幸せそうに言うのだ。


「ありがとう」と。


「汚くないの?」「ええ」


「触られても怖くない?」「ええ」


「私、きれい?」「ええ」


「あなたは?」「ええ」


「あなたは、綺麗?」「ええ」


「はい、どうぞ」


 私はありがたく、エタノールの霧に両手を晒した。


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