第42話 聖者の資格、娑輪馗廻の境地

――邪法に穢された霊魂はいわば猛毒。喰らえはしても、不死身ではない生者には耐えきれない。


 別天べってんの教えを思い出しながら、知ったことかと百舌鳥もずは口を動かした。くり返しくり返し、愛しいものを咀嚼そしゃくする。ずっと忘れていた兄弟の存在を噛みしめる。


 血の味も、脂の味もしなかった。

 肉の柔らかさも、骨の硬さもなかった。

 ただパリパリと軽い歯ごたえの後は、雲のようにおぼつかない、ふわふわした感触が口いっぱいに広がる。ほとんど噛む間もなくしゅわっと消えるそれは、うまかった。

 そして、口の中から声がする。


『オレ、ワかった。ヤマにシアわせでいてほしかっただけなのに。ずっとさみしくて、カナしくて、クルしくて、ワかんなくなってた』


 結局のところ、ミナトの悪罵は本心ではない。

 すべては裏返しにすぎなかった。師の雁金かりがねから受け継いだ一太刀が、弟を妄執から切り離したのだとのすれば、こんなに嬉しいことはない。


『ジブンでジブンのこと、ワスれてたから。オモってたことと、ずーっとずーっとぎゃくのこと、してたから。こんなにクルしかった』


 舌の上にさまざまな味が広がる。つらい記憶の黒しょっぱさ、懐かしい思い出の赤苦さ、己を忘れられた青酸っぱさ、胸が張り裂けそうな白辛さ。

 そして温かな、黄甘さ。

 万華鏡のように、万感の思いが大輪の花となって、ずしりと舌上ぜつじょうに咲き誇る。唾液があふれ、我を忘れるほどの食欲に次々喰らいつき、消えていくそれを少しでも味わい続けようと頬ばる。

 こんなもの、決して他の誰かに食わすまい。渡すまい。これは自分のものだ。


『もう、ぜったい、わすれないでね』


 最後の一口が、喉元でささやいた。もちろん、と飲み下す。その味も歯応えも、苦く辛い記憶と共に、己が血肉のみならず、骨まで刻まれるだろう。



娑馗シャキ聖者ショウジャ鬼来迎キライゴウ悲願ネガイ神廻カナエ霊餌タマエ娑輪シャリン馗廻キエ娑輪シャリン馗廻キエ娑輪シャリン馗廻キエ御殪コロシヲ観世音カンゾン弥釈羅ミシャクラ菩薩ボサツ娑馗シャキ聖者ショウジャ鬼来迎キライゴウ悲願ネガイ神廻カナエ霊餌タマエ娑輪シャリン馗廻キエ娑輪シャリン馗廻キエ娑輪シャリン馗廻キエ御殪コロシヲ観世音カンゾン弥釈羅ミシャクラ菩薩ボサツ娑馗シャキ聖者ショウジャ鬼来迎キライゴウ悲願ネガイ神廻カナエ霊餌タマエ娑輪シャリン馗廻キエ娑輪シャリン馗廻キエ娑輪シャリン馗廻キエ御殪コロシヲ観世音カンゾン弥釈羅ミシャクラ菩薩ボサツ娑馗シャキ聖者ショウジャ鬼来迎キライゴウ悲願ネガイ神廻カナエ霊餌タマエ娑輪シャリン馗廻キエ娑輪シャリン馗廻キエ娑輪シャリン馗廻キエ御殪コロシヲ観世音カンゾン弥釈羅ミシャクラ菩薩ボサツ娑馗シャキ聖者ショウジャ鬼来迎キライゴウ悲願ネガイ神廻カナエ霊餌タマエ娑輪シャリン馗廻キエ娑輪シャリン馗廻キエ娑輪シャリン馗廻キエ御殪コロシヲ観世音カンゾン弥釈羅ミシャクラ菩薩ボサツ娑馗シャキ聖者ショウジャ鬼来迎キライゴウ悲願ネガイ神廻カナエ霊餌タマエ娑輪シャリン馗廻キエ娑輪シャリン馗廻キエ娑輪シャリン馗廻キエ御殪コロシヲ観世音カンゾン弥釈羅ミシャクラ菩薩ボサツ娑馗シャキ聖者ショウジャ鬼来迎キライゴウ悲願ネガイ神廻カナエ霊餌タマエ娑輪シャリン馗廻キエ娑輪シャリン馗廻キエ娑輪シャリン馗廻キエ御殪コロシヲ観世音カンゾン弥釈羅ミシャクラ菩薩ボサツ娑馗シャキ聖者ショウジャ鬼来迎キライゴウ悲願ネガイ神廻カナエ霊餌タマエ娑輪シャリン馗廻キエ娑輪シャリン馗廻キエ娑輪シャリン馗廻キエ御殪コロシヲ観世音カンゾン弥釈羅ミシャクラ菩薩ボサツ


 うなる読経の声が、洞窟の高い天井にびんびんと反響し、腹の底までずっしりと響いた。流れ続ける滝の音をものともしない、何百人という信者が唱えるそれは、拉致監禁された時の忌まわしい記憶を呼び起こす。

 光源は吊るされた提灯と、石灯籠や赤いロウソクばかりの薄暗がり。

 嘘だろ、という言葉は道眞の口を突かなかった。


「あの儀式場か!」


 もはや瞬間移動ぐらいでは驚かない。百舌鳥がキヨイ/ミナトを霊廻たまえしきしたから、向こうが呼んだのだろう、と。

 果たして、道眞たちの正面、湖の前には黒い巫女装束の太蝕天たいしょくてん娑馗しゃき聖者しょうじゃがいた。周囲に、覆面をした白装束の者たちを従えている。


「よくぞ! よくぞ娑輪しゃりん馗廻きえの境地へ至った! 決死の覚悟で霊餌を喰らう荒行を乗り越え、そちはついに〝聖者しょうじゃ〟の資格を持つ――百舌鳥ヤマト!」


 娑馗聖者は随喜ずいきと言ってよい喜びようで、手を大きく広げて三人と一匹、いや百舌鳥を出迎えた。満悦の笑みが妖しく大きく開く。

 四つの虹彩と四つの瞳まで、喜色に輝いているのが離れていても分かった。


「おんどりゃら、俺がミナトを喰うたのも、計画の内やったのか?」


 百舌鳥の顔からは急速に血の気が抜けている。立つのも辛そうな様子だが、やはり生身の体で霊餌たまえを口にしたからだ。そして、それも敵の思惑通りだとすれば。

 道眞どうまは歯がみしながら、百舌鳥に肩を貸した。悪態をつく余裕もなく、素直にそれを受け容れる彼に、相当弱っていることを察する。

 娑馗聖者は「ふ、ふ、ふ!」とはしゃいだような笑い声を立てた。


「計画、と言うほど立派なものではないさ。其の方らはいくつも撒いた種のうち、たまたま芽吹いて、花をつけただけ。甘美な果実までもう一押し、というところよ。百舌鳥ヤマト、御身おんみもむざむざここで死にたくはあるまい?」


 しゃりん、と娑馗聖者は錫杖を振り鳴らした。

 背後の湖に流れこむ滝が止まり、水のカーテンに隠されていた黒い鳥居の断頭台――人柱じんちゅう無苦むく首途かどでの鳥居が姿を現す。


「今こそ聖痕しょうこんの儀を受け、神餌かみえへと変生へんじょうせよ。聖者とは、神餌が生者と霊餌を、霊餌が生者と神餌を、そして生者はどちらかを喰らって神餌となることで至れる境地」

「ざ……っけんなや! バケモンに、なる……ぐらいなら、ミナトの魂ご、と……成仏、しちゃる!」


 怒鳴る百舌鳥の声には張りがない。拒絶の言葉に、娑馗聖者は鷹揚にわらっていた。


「神餌になるのが厭ならかまわぬ。まだ人の身でありたいならば、ほれ、そこの」


 白蛇のように長くつややかな指が、つ、と道眞を指した。


「よく神餌がおるだろう? 羽咋はくい道眞を喰らえば、神餌と霊餌の毒は相殺され、そちは生きながらえる。さらに、聖者としての格も上がる!」


 道眞はすでに七体の神餌と霊餌を喰っている。最初に生出敬一郎を、次に〝狩り鐘さん〟を。だが、聖者となる条件はそろったのに、娑馗聖者は彼を呼ばなかった。

 おそらく、神餌よりも生者の方が、聖者として格上なのだろうと道眞は推測した。


「神餌も霊餌も、〝餌〟の一字がつくことを疑問に思わなかったかえ? これぞすべて娑輪馗廻。食物連鎖、あるいは輪廻転生のごとき捕食関係よ。神餌も霊餌も、〝娑馗聖者〟を生み出すための大いなる儀式にすぎぬ」


 腹の底から苦々しい怒りが噴き出し、道眞は泡をふくほど怒鳴り出しそうだ。唇を噛んで堪えながら、自分たちが掌の上で踊らされていた事実を受け止める。

「三度まみえることはなかろうよ」と言った時の娑馗聖者は、さほど道眞にも百舌鳥にも期待していなかったのだろう。だが、自分たちは聖者の想像以上に順調に霊餌を狩り、ついには百舌鳥が生身のまま霊廻式/魂餌食までしてしまった。

 しかし、道眞には理解しかねる。


「どうしてこんなことをするんだ? 何のために死者の眠りを妨げ、けしかける。聖者なんてものを作って、何がしたいんだ! あんたら!」


 娑輪馗廻と娑馗聖者の目的が見えない。宗教的狂気と言えばそれまでなのかもしれないが、道眞は問わずにはいられなかった。


「羽咋道眞、そちにもその気があれば、聖者となれるぞ? すでに神餌と霊餌双方を喰らったのだからな。ゆえに敬意を表して答えて進ずる」

「前置きが長いねや……!」


 百舌鳥の悪態にほほほと笑い、娑馗聖者はのたまった。


「我らの目的は、あまねく衆生救済よ」

「うわっ、ラスボスみたいなこと言い出した」


 それまで黙っていた茅が茶々を入れる。道眞たちと違って、初めて訪れる場所に、大勢の信者。異様な状況に少し固まっていたらしい。

 赤目黒猫のリリンコを腕に抱きしめつつ、茅はエンガチョ、と舌を出した。


「死は救済でなくては、世に救いと言うべきものはなし。したがって、惨たらしい死などあってはならぬのだ。もし、非業の死を遂げたものあるならば、その無念を晴らすが聖者の使命。死者をよみがえらせる力こそ、聖者の権能!」


 娑馗聖者は茅を無視して言葉を続けると、今度は百舌鳥を指さした。


「百舌鳥ヤマト。そちの愛しき兄弟は、迂生うせいが引き立てねば、誰がその無惨な生涯のつじつまを合わせてくれた? ことによると、そちもあの俗悪なる男になぶり殺されておったろうに。其の方らも、霊餌狩りの中で見てきたはずであろう?」


 娑馗聖者が言う通り、これまで遭遇してきた霊餌はすべて、悲惨な死を遂げた者ばかりだった。たとえば道を誤り、割腹自殺をした雁金かりがね古都ことひさ

 父親に虐待死させられた有栖川ありすがわみはと。いじめを苦に自殺したつくり物に、花を踏みにじられ病死した明日あさがお姫、顔を傷つけられたはぎこさん……。


「人類が自然の摂理に逆らって幸福の追求を始めた時から、倫理道徳、弱者救済の観念が生まれた。であれば、死者を救済することは、人として当然の行いではないか。非業の死を遂げた者は、物語の中では怨霊と化して祟りをなす。だが現実には、自然には、そのような奇跡は起きやせぬ。だから、聖者が恨みを晴らす機会を作るのだ」


――死者こそは、この世でもっとも弱い弱者である、と。


 娑馗聖者は説法でもするように、とうとうと語った。道眞に体重を預けていた百舌鳥が、自分の足に力を入れて腹の底から怒鳴りつける。


「ふざけんなや! 無関係な人間をさんざ巻き添えにしくさって」

「それでい。それでこそ佳い!」


 しゃりん、と錫杖を突き鳴らし、娑馗聖者は笑った。


「無念の死を、すべての死者を、誰もがおそれて生きる世界こそ正しき在り方よ! そのために、御殪ころしを観世音かんぞん弥釈羅みしゃくら菩薩ぼさつの代理人として、聖者がこの世に君臨する!」


 錫杖を天へ突き上げ、娑馗聖者は呵々大笑する。その口ぶりから察するに、死者をよみがえらせる娑輪馗廻の邪法は、聖者によって可能となるらしい。

 別天の話では、死者蘇生は不死不滅の彼岸花〝散んだ花〟を薬にすることで可能になったと言う。彼らが崇める御殪観世音が、その力の根源ということだろうか?

 聖者も、太蝕天一人とは限らないようだ。だが、今は考えても仕方がない。


「弱者救済とか聞こえの良いことを言って! 結局お前らは、勧善懲悪のお涙頂戴を作っては、放ったらかしにしているだけじゃないか。葬儀を舐めるなよ。弔いを侮るなよ。僕は葬儀屋だって、言ったよな?」


 何がそんなに面白いのか、と道眞は腹の中がふつふつと煮えたぎる心地だ。葬儀屋として、言ってやらなければならない。

 百舌鳥が倒れてしまわないようバランスを取りながら、娑馗聖者を指さす。


「お前たちがしていることは、救済でもなんでもない。生者も死者もおとしめれば、みんな平等に不幸になるっていう、救いようのない馬鹿げた理屈だろうが!」

「哀れな俗流の神餌よ。其の方は残念ながら、御殪観世音菩薩さまの法悦を知らぬ。人はただ生きているだけで間違い、苦しみ、道を誤る。俗世の迷妄に囚われるな」


 こいつらと話すことはもうない。道眞たち三人は口に出さないまま意見を一致させた。百舌鳥が愛刀・神立かんだち浄宗きよむねを支えにして、道眞から身を離す。

 あたりには何百人という白装束の信者。場所は地の底と言っても差し支えない洞窟。以前はあえて逃されたが、自力で脱出するのは絶望的だ。


「ところで一人、会わせたい者がいるのだがな」


 道眞たちが進退を見極めているのを察したように、娑馗聖者は一人の信者を前へ呼んだ。一枚布を垂らしただけの覆面に隠されて、顔は分からない。


 平信者の格好をした女性が覆面と頭巾を外すと、ベリーショートの髪の、華やかな顔立ちが現れた。邪教の施設内に不似合いな、はつらつとした人だ。


 こんな場所でなければ、道眞も好感を抱いただろう。だが、なぜ娑馗聖者はこの女性を会わせたがったのか。その疑問は、女性の第一声で氷解した。


「かーやっ」

「おかあ……ちゃん……?」


 茅が道眞たちと出会ってから、ずっと音信不通、行方知れずだった茅の母。

――追切おいきりいずみだ。

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