第40話 舌は二つに裂け、彼は二度殺される
一瞬と言えば一瞬だったが、人体に取り返しのつかない傷をつけるには、充分すぎる時間だった。父の体重をはね返す勢いで、ヤマトは魚のように体を跳ねさせる。
白目を剥いて痙攣する我が子の様子を、ヒロムはゲラゲラと面白がった。この男には、我が子といえどカエルや虫と同じなのだろう。
(こんな腐れ外道が、俺の親父やったんか)
ただの、しょうもない男であれば良かった。せめて、我が子には人並みの愛情を注げる、善良な一市民であってくれれば。
それは大それた望みだったと、
泣き笑いの涙を拭いながら、ヒロムはハサミを握りかえて、自分の腹に突き立てた。づぶ、と土の詰まった袋を刺したような、そして水っぽい感触の音。
『あ?』
なんだこりゃ、と続ける間にも、ヒロムの手はづぶっづぶっとくり返しハサミを突き立てる。自分で自分の手を押さえるが、開いた刃が頬を切りつけ、思うようにいかない。そのうち、裁ちバサミはヒロムの左手首を捕らえた。
ぢょぎん、と。
『ぎゃあぁっ!』
明らかに裁ちバサミのものではない切れ味で、骨まで綺麗に切断される。ぼとっと手首が落ち、血が吹き出す様をヒロムはあわあわと見ていた。
キャキャキャキャ。キャキャキャキャ。キャキャキャキャ。
キャキャキャキャ。キャキャキャキャ。キャキャキャキャ。
キャキャキャキャ。キャキャキャキャ。
キャキャキャキャ。キャキャキャキャ。
キャキャキャキャ。
キャキャキャキャ。
妙にかん高い子供の笑い声がする。それはいつしか、百舌鳥ヒロムにまとわりつく黒い
『なッんなっ、だよこれは! 助っけて……くれよぉおっ!』
ヒロムの右手は左腕を更にちょきん、と輪切りにした。
その次は二の腕。右足首、左足首。右足。左足。右太腿、左太腿。陰部。
ボキボキと音を立てて、ヒロムの右手がねじ曲がる。なんと骨を折りながら、右手で右手を切らせているのだ。その頃にはもう、怨霊の姿はくっきりしていた。
『おぉ前、ミ、ナト……か……? やめっろぉ、やめっ、助……っけ』
無理やり右手で右手を切断したヒロムの手から、ミナトは裁ちバサミを奪った。手足を失って芋虫のようになった父の上にのしかかり、腹に刃先を突き入れる。
『ゆっゆ許……してえ! ゆるしてええ! くれえええ!』
『ぼくたち、いつもゆるして、ごめんなさい、ってゆったよね?』
『あ、ああぁ、ああ』
その時、自分が許してやったことはどの程度あったのか。弁明を取り繕うにも、百舌鳥ヒロムはすでにいつ気絶してもおかしくなかった。
いや、今でも意識が覚醒していること自体、呪いなのかもしれない。
『ゆるしても、ごめんなさいも、やめてってイミじゃないでしょ?』
ミナトはヒロムの口に手を突っこみ、舌を引っ張り出した。
『わるいこは、エンマだいおうにシタをきられるんだって』
ミナトの行いは復讐と言うよりも、災禍のようだ。確かにその男は腐れ外道だったが、何事にも節度というものがある。
少なくとも、一六個のパーツになるまで切断するというのは、道理が通らないと百舌鳥は感じた。逮捕されて、裁判を受けて、定められた刑に服役する。その一連の行程を百舌鳥自身、手ぬるいとは思う。だが、法には守るべき一線がある。
(けど、その法が俺やミナトに何してくれた?)
国の税金で養われ、大人になったことぐらい百舌鳥も理解している。けれど、こんな手遅れになるまで、警察も役所も百舌鳥家には踏み入らなかったのだ。
万人を救える機構など理想論。
それでも……という止まない仮定。二律背反の感情が、目の前でくり広げられる惨劇以上に百舌鳥の心を責めさいなむ。
過去の景色の中で、百舌鳥ヤマトはかろうじて意識を保っていた。顔から出る物はすべて出して、失禁しながら、死んだはずの弟が父を切り刻む姿を目に焼きつける。
そしてことり、と気を失った。
ぱきん、と何か硝子が割れたような、弾けたような小さな感触が響く。それはきっと、百舌鳥ヤマトの中で、百舌鳥ミナトの存在が壊れた音だ。
あの時、自分はミナトを殺した。
幼いころの百舌鳥にとって、父はあらゆる恐怖と苦痛の象徴だったものだ。その父を惨殺した弟の霊もまた、百舌鳥にとって恐怖の対象でしかなかった。
舌を裂かれた激痛と飢餓、人間が破壊される恐ろしさ、それらすべてから逃げるため、ヤマトは過去を置き去りにして逃げ出した。逃げて逃げて、忘れた。
だから今、過去の爪が惨たらしく体にかけられている。
過去の景色は流れ続けた。ヤマトが警察に保護され、養護施設を転々とする間にも、ミナトはずっと兄弟に取り憑き、寄り添っている。
過去の百舌鳥自身の味が、二股に裂けた舌に広がった。無差別の怒りと憎しみが、コールタールのようにどす黒く、塩辛く、喉にまで絡みつくような味だ。
百舌鳥の記憶通り、幼いヤマトは周囲に当たり散らして生きていた。いつもイライラして、何かを殴ると少しスッとする、ということを覚えてからずっとそうだ。
あんな凄惨な体験をしたならば、そのような
――いたいよくるしいよさむいよつらいよさびしいよねえやまきこえる? きいてよぼくおこってるんだこんなにいたいのにこんなにさびしいのにきこえないんだねねえおこってよぼくのぶんまでおこってよみんなみんなたのしくいきているやつらはぜんぶしんじゃえしんじゃえしんじゃえころしちゃえ――
短い人生で尊厳を踏みにじられ、串刺しで長く苦しみながら死んだミナトの霊が、そうささやき続けていたから。
(ガキのころの自分は、正直頭がおかしい思っとたけど。まさか、ミナトに取り憑かれとったせいなのか? そんなにずっと、俺の傍におったのか!?)
何でもかんでも殴りつけ、暴れるヤマトに誰もが手を焼き、施設をたらい回しにされた。ある時は、ヤマトの体をミナトが乗っ取り、同じ施設のいじめっ子たちの舌を切ったこともある。転機が訪れたのは、小学校五年の時だ。
『――ヤッ! トオオオオオ!!――』
剣術の師、
百舌鳥が人が変わったようにおとなしくなったのは、心の傷が癒えただけではない、まさに〝憑きものが落ちた〟から。目頭に熱い物がこみ上げる。
(俺が知らん内に憑きもの落としをして……せんせは、ほんまもんの剣豪や……)
しかし、ミナトを一度は鎮めたのが雁金ならば、再び活性化させたのも雁金だ。彼が
年月を経てミナトは新しい手管を覚えていた。百舌鳥をそそのかせて暴力に向かわせるより、自分が直接体を乗っ取って動かす方が楽だ、と気づいたらしい。
百舌鳥の体を使ったミナトが同僚を殴り、停職処分へ。そして、娑輪馗廻の教団に捕らわれ、娑馗聖者と再会した。
「過去から今までが、ぜんぶ繋がったど……」
景色は元の廃屋になっている。もはやここに用はない。
「ミナトはまだ、あそこに埋められとるはずや」
映像でしか知らないはずの死体遺棄現場は、村のどのあたりなのか百舌鳥の脳に刻まれていた。きっとミナトが、キヨイが、導いているのだ。こちらへ来いと。
◆
道中、無人になった金物店に不法侵入すると、運良く商品だったであろうシャベルを手に入れられた。もはや所有権を遺棄された物品、窃盗にはあたらない。
ヒロムが百舌鳥ミナトの遺体を埋めた場所は、過去に起きた土砂崩れの現場からは遠く離れ、廃屋で見た時とまったく変わらず存在していた。
多少の草木は繁茂しているが、少し刈りこめばすぐ作業に取りかかれる。リリンコは近くの草むらで虫を取って遊んでいた。
百舌鳥、道眞、茅の三人で掘っていくと、茅が立ったまますっぽり入れるほどの深さになった所で、それに行き当たる。
夏の白々しい木漏れ日の下、じっとりとした暑気が一段と不快さを増した。
「……ミナト」
現れたブルーシートを凝視し、百舌鳥は弟の名を呼んだ。二十年間、ついぞ口にしなかった名前を、二十年間うち捨てられた屍に、ようやくかけられる。
ショベルを投げ捨て、指で土を掻く自分を、冷静に
道具を使うのももどかいしいほどに、己をせき立てる欲求。早く、早くと。
持ち前の腕力に物を言わせ、百舌鳥は苦もなく土中の包みを引きずり出した。それをしかと胸にかき抱き、掘った穴から出て地面に横たえる。
ブルーシートを広げると、黒茶けた白骨死体と、ミミズか何かの虫がうぞうぞと出てきた。余計な客を手で払いのけ、百舌鳥はしゃれこうべを持ち上げる。
「ミナト……すまん。ずっと
目蓋を閉じた闇の中、棘のようにぎりっと神経を刺す悔恨の情。
しゃれこうべと額を合わせると、突き立つ棘は枝葉のように生い茂り、胸の奥に果ての見えない原生林と化す。
「つぎはヤマのバン。ヤマがわすれられるバン」
百舌鳥の口から出た言葉がミナトのものだと気づくのに、道眞と茅は一拍の間を要した。はっと身構えると、血涙の顔がぐるりと二人を見やる。
リリンコは茅を守るように前へ出た。
「ヤマのスキなの、ぜんぶ、ヤマをしらなくなるバン」
しゃれこうべを放り捨て、ミナトの手に裁ちバサミが現れる。切っ先が木漏れ日にきらめいて、道眞を射貫いた。
「ヤマ、オモいだした。いのち、ひとつなった。もう、オマエいらない!」
「キヨイ、いや、百舌鳥ミナト」
道眞は切っ先の向こうに立つミナトの姿を凝視する。普段は血色の良い顔は青ざめ、生白い皮膚がべたりと
切れ長の三白眼は、血を流す虚ろな眼窩と化し、その奥に鬼火が揺れる。
「お前は百舌鳥に忘れて欲しくなかった。思い出してもらうだけじゃ、まだ足りないか。どうしても僕たちとやり合うって言うんだな?」
我ながら間抜けなことを言っている、と道眞は思う。
百舌鳥ミナトがどんなに凄惨な経緯を経て霊餌となったかを知ったが、おとなしく
「オレ、ヤマとゴチソー、タべたかった」
ぎゅるるる、と百舌鳥の腹が魂に呼応して鳴る。へそのあたりをさすりながら、ミナトは心底嬉しそうに顔を歪めて言った。
「タマエジキ、ゴチソー! ヤマといっしょ!」
その一言で道眞のある疑問が消えた。
「そうか! お前が生出さんの時も、別天先生の時も、一度も
別天が日々
それを死んだ後もずっと覚えていて、ごちそうを食べるなら兄弟もいっしょにと、彼は願っていたのだ。ならばそれは、なんとささやかで無垢な願いか。
「――
童子が、裂けんばかりに口を開いて嗤った。
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