第39話 百舌鳥、早贄を立てるのこと


【※注意※】

【今回は本作でも特に痛い・汚い描写があり、強い嫌悪感や不快感をもたらす可能性があります。閲覧の際にはご留意ください】



 百舌鳥もずたちが探索するまでもなく、寝室から子供の金切り声が響く。


――ちっくしょう! 使えねえなあ!


 あの金髪の男、百舌鳥ヒロム……正確には、その過去の幻だか残留思念だか……の罵声が続いた。


――穴が狭すぎて●●●が痛えじゃねえか!


 ああ、最悪も最悪だ、と百舌鳥ヤマトは胸の内を冷たく焦がされる。あの男が自分たち兄弟を利用して、何をやっていたかは分かっていたとはいえ。


――この役立たずがぁっ!


 尋常ではない子供の悲鳴がした。

 頬を張られたとか、拳骨を落とされただとか、その程度では決して出てこない、はらわたを引き裂かれるような、けだものじみた生命の危機を訴える叫び。


 百舌鳥は弾かれたように走り出し、狭い家の中を飛ぶように寝室へ向かった。はたしてそこにあったのは、敷き布団と、その上で死にかけている子供だ。

 今度は色の付いた影法師ではない、はっきりと実在感を持った像を結んでいる。


 がりがりに痩せた五歳か六歳かという男の子が、布団の上で四つんばいになって、血の小便をぴゅうぴゅうと垂れ流していた。

 顔面は涙と鼻水と血反吐にまみれて、人間らしい尊厳などみじんも感じられない。


 そうなった原因は明白――幼児の高く掲げられた尻に、ホウキの柄が深々と突き立って、その子を串刺しにしているからだ。


『繝溘リト……繝�ナト……』


 そっくり同じ顔貌かおかたち、同じ痩せ方をした子供が、傍らで兄弟に呼びかけていた。おそらく、それが幼い日のヤマト自身だ。


『ミナ繝�、しっかり……』


 そう言いながら、自分でももう助からないと分かっているのだろう。だが、呼びかけずにはいられない。その時の百舌鳥には、安楽死という概念はなかった。

 それを知っていれば、自分はトドメを刺しただろうか。先が鋭利ではないホウキの柄は、内臓に大きな損傷を作らず、死亡までかなりかかったはずだ。


「ああ……そうか」


 口を動かすと、思った以上に間の抜けた声が出て、我ながら驚く。

 目の前の光景に、自分自身の体験が呼び起こされて、百舌鳥の意識は現実から遊離していた。呑みこまれるな! と己を叱咤し、気を取り直す。


『……ミ繝�ト、ミナ繝�……』


「み、

 な、

 と」


 ふっとその言葉が口をついた時、布団の上で死にかけている百舌鳥の目が、一瞬こちらを見た気がした。

 パズルを崩した逆回しのように、ぱちりぱちりと欠片がつながる。



 ようやく、ここまで来たのだ。


「思い出せたのか!? 百舌鳥」


 確認する道眞どうまの声には、気遣うような響きがあった。それでようやく、自分は酷い顔をしていたのではないかと気づく。


 かやには以前否定してみせたが、百舌鳥は父親を殺した犯人をいつか見つけてやりたくて、警官を志した部分があった。しかし、それにしても、これはないだろう。


 息子たちに性的虐待をくり返し、あげく串刺しにして殺すとは。百舌鳥が捜査一課で取り扱った事件でも、とりわけ胸くそが悪い。

 そういう親も世の中にはいる。

 だが、なぜそれが自分の親なのか。


「葬儀屋、なんやそのシケた面は! 調査が進展したんや、まずは喜ばんかい」

「軽口を叩く元気があるなら良かった」


 ふっと微笑して、道眞はオーバーオールの少女を見やる。


「……茅ちゃん、大丈夫かい? 具合が悪かったら、ここを出た方がいい」

「ううん」


 両親に愛されて育った茅には、百舌鳥ヒロムのような人間は想像の埒外と言うほかはないだろう。知恵者猫さまの一件で、娘を虐待死させた父親を見たとはいえ。


「気分は悪いけれど、あたしも、最後までいるよ」


 それでも、茅は気丈に強い意志を顔中にみなぎらせていた。ここまで来てしまったら、多少のことではもう動じないのだろう。


――ざかっ!


 と、砂嵐のようにざらついた何かが、三人と一匹の体を通り抜けると、景色が屋外に変わっていた。小川のせせらぎが聞こえる、夜の山中だ。

 ヒロムが足元に懐中電灯を置き、数メートルほどの深い穴を埋めている。穴の底には、ブルーシートでぐるぐるに巻かれた物体があった。

 おそらくは、ミナトの遺体だ。


 あんな人非人にんぴにんでも、酒瓶やゴミにまぎれて、死体を腐らせておくのは耐えられなかったらしい。そう思うと、百舌鳥は笑い出しそうだった。

 決して愉快なわけではない。しかし、可笑しい。


 あるいは――、可怪おかしい。

 ことによると、こうして墓穴をきちんと掘って埋めるその行為こそが、ヒロムが我が子にした一番丁寧な世話だったのではないか、とさえ思える。


(確かあん時は、親父に『ミナトをすてないで』って泣きついたなあ……)


 長い間失われていた記憶は、最初からずっとそこにあったもののように、なじみ深く意識の上に取り出せた。だが、まだ肝心な部分が抜けている。


 自分がなぜ、大事な弟の百舌鳥ミナトを忘れてしまったのか。


 百舌鳥ヒロムを殺したのは、いったい誰なのか。


 それは自ずとある結論が導き出されることだったが、百舌鳥は判断を先延ばしにした。どうせ放って置いても、キヨイの方から開陳してくれるに違いない。


 ヒロムはミナトの遺体をきっちり埋めると、地面をならして去って行った。

 そして、もの凄い勢いで雲が流れ、陽が落ち、また昇り、早送りで時間が流れていくのを見せられる。やがて、女の歌う声がしてきた。


『GONSHAN. GONSHAN.何處どこへゆく♪ 赤い御墓おはか曼珠沙華ひがんばな、曼珠沙華♪ けふも手折たおりにたわいな♪』


 しゃりん、と涼やかな金属の音とともに、どこからともなく、漆黒の巫女装束が現れる。真昼の日差しを受けて、長い髪は墨を流したように映えた。

 四つの瞳に四つの虹彩を持つ、異形の祭司者――大蝕天たいしょくてん娑馗しゃき聖者しょうじゃ


『GONSHAN. GONSHAN.何本か♪ 地には七本、血のやうに♪ 血のやうに♪ ちやうど、あのの、年、の、かず……♪』


 しゃりん、と錫杖を突き鳴らし、死者へ呼びかけように歌い出す。


『咲きや極月ごくげつ、栄える正月、んだ花がご神慮よ、花をいさめてお乗りやれ。安座あんざしおす、ふくれずぐ、三六さぶろく錫杖、見指みさしざ見指みざし、福れず舞い。娑輪しゃりん御縁ごえんをかけたらば、切って放つは、道に九つ、びらりやびらり。だんだん四迷しめい、だん引けい、赤い御墓おはかを一の宿。骨ぐづ字号じごう、髪すく御魂みたま娑輪しゃりん馗廻きえに寄りござれ。さらさら御座作おざさ、たたへてうんてぞ、がんたびくらひ、ときじくかぐの花。だんだんざみ、たんざりかん、りさんきひじん。ぞがはにえにざね』


 それは死者に呼びかける呪歌だ。


んだ花がご神慮、幽冥かくりよの大神おおかみ御殪ころしを観世音かんぞん弥釈羅みしゃくら菩薩ぼさつ霊餌たまえを喰らひ給えと願い奉る。憐れみ給え、恵み給え。此岸しがんでも彼岸ひがんでもなく我岸ががんせよと。天地たかはにしきの実身さねみとなりて。蘇我土重新実ぞがはにえにざね。ぞがはにえにざね。ぞがはにえにざね』


 ミナトが埋められた地面から、黒い灰のようなものがふつふつと沸いてきた。

 それは聖者の奉唱によって徐々に勢いを増し、やがて、ぼんやりと子供の形をとる。単純化された輪郭は、不格好な泥人形か焼死体のようだ。

 ぽっかりと虚ろに開いた眼窩からは、絶えず血の涙が滴っている。


わらしや童、可愛い童。どうして泣いておるのかえ?』


 月のような白金の美貌が、慈愛をたたえて声をかけた。だがそれに返す言葉は、壊れたラジオかレコードのような、抑揚のない反復と涙だけ。


『……キレイはきたない、きたないはキレイ……』


 ミナトは長い間同じ言葉をくり返していたが、娑馗聖者は辛抱強くそれを聞き、あれこれと話を振っては、時に黙って聞き手に回った。


『汚いのはいやかえ。では、そうさな、そちを〝キヨイ〟と呼ぼう』

『き、よ、い』


 その名付けに、初めてミナトが反応する。


『清らかという意味じゃ、分かるか? 汚れがなく、美しいさまを言う』

『おれ、きよい?』

『清らかだとも。キヨイの名にふさわしいとも。さあさ、可愛い童にお菓子をあげよう。迂生うせいはそちの母となり父となり、考妣かぞいろとして慈しもうぞ』


 娑馗聖者は懐紙の包みから、色とりどりの金平糖を取り出した。黒いもやなのに、ミナトが喜色を露わにするのが分かる。

 娑馗聖者は幼い亡霊を膝に抱き、話し、笑い合った。時間とともに、亡霊は生きていたときの姿をくっきりと取り戻していく。

 服は血や糞便こそないものの、何日も洗っていないような不潔な感じがする衣服。そして、目からは変わらず血涙が垂れ続けていた。


『ねえ、かぞいろさま。ヤマも、かぞいろさまのコになれる?』

『それは、むろん、できるとも。あのような男は父でもなんでもない、塵芥ゴミクズよ。そちと、そちの兄弟を手ひどく扱う奴に復讐したくないかえ?』

『ふく、しゅう』


 その短い生涯のどこかで、ミナトは〝復讐〟という語を知り、語義を理解していたようだった。それを本当の意味で使うのは、おそらくこの瞬間が初めてだ。


『このままでは、そちの大切なヤマとやらも、同じ目に遭うことは分かりきっておる。だから、二度とふざけた真似をできぬよう、きっちりらしめ殺しておやり』


 亡霊の口が、粘着質なうごきでにいーっとつり上がる。大きく、赤い孤を描く傷口そっくりの笑顔。自分が受けた理不尽な苦痛を仕返す、その甘露を知った恍惚。


 ざかっ! と砂嵐の波が空間を走り、百舌鳥たちは再び家の中に居た。


『蛇の舌って見たことあるか? 二つに分かれてるだろ。ああいうのを、人間じゃ、スプリットタンって言うんだってよ』


 リビングで、ちゃき、ちゃき、ちゃき、とヒロムが大きな裁ちバサミを鳴らしている。彼はキッチンに立ってガスコンロに火を点けると、刃をあぶった。

 幼いヤマトは、恐怖に凍りついた目で父の行動を見ている。


『あれでフェラされると、すげーイイらしいんだよな』


 話しながら、ヒロムは焼酎の瓶を開け、よく熱した裁ちバサミに振りかけた。じゅわっと音を立てて酒精が白く空中に漂う。


(まさか)


 まさかこの男、それで消毒したつもりか? 百舌鳥は絶句した。焼酎程度の度数では、殺菌や消毒には使えない。でなくとも、我が子をそんなもので。


『ヤマト、舌出せ。お前でマジ気持ちイイか確かめるからよ』

『や、やだ。おやじ……』


 ヒロムは焼酎瓶で、ヤマトの側頭部を殴りつけた。瓶こそ割れなかったが、ごつっという鈍い音が上がる。


『とっとと出すんだよ、オラァッ!』


 割れんばかりの大声を上げ、ヒロムは息子の口に手を突っこんだ。舌先を指でつかんで固定し、小さな体に膝を乗せて押さえつける。


(やめろ)


 ばちっと暗闇にひらめく火花のように、百舌鳥の思考が明滅した。


(やめてくれ)


 ヒロムは、ハサミの刃先をヤマトの舌にあてがう。


『暴れるなよ。動くと変に切っちまうからな。ちょっとの辛抱だ』


 百舌鳥の全身から吐瀉物のように冷や汗が噴き出した。もうこれ以上見たくない、折れてもいいから首を全力でねじ曲げ、目をそらしたい。

 なのに、図体ばかりでかい体は、微動だにしなかった。そして。


 ぢょきん。

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