いつつ、いのりをほどく、ひがんばな

第一輪 祈願、聞き届けたり

第38話 廃屋の声と記憶の影法師

 一九九八年、梅雨。

 百舌鳥もずヒロム、自動車修理工、享年二十八歳が自宅で殺害された古宮ふるみやむらバラバラ殺人事件。十六分割された遺体のそばで保護されたのが、当時、推定六歳の百舌鳥だ。

 捜査は難航し、犯人につながる手がかりは見つけられないまま迷宮入り。

 その後は事件の影響か、あるいは土砂崩れの頻発ひんぱつ、山火事などの災害もあって、古宮村は急速に過疎が進んだ。そして二〇〇三年に廃村が決定。

 現在、無人となっている。


 スズキ・ハスラーで山あいの道路を走っていると、ついに『桃の花路はなみちと自然のさと 古宮村へようこそ』という、ペンキのあせた看板が見えてきた。


 遠目には典型的なさびれた田舎だが、近づけばもはや人が住めないほど朽ちている、というのが百舌鳥が古宮村に抱いた第一印象だ。

 駅はなく、風が吹いたら潰れそうなバス停を途中で見る。手入れされなくなった街路樹としげみがレンガの通りに添い、廃屋が軒を連ねた。


 家という物は一年放置するだけで駄目になる。閉め切られれば空気がよどんでカビが生え、ダニや細菌が繁殖し、水分の無くなった排水設備から虫が侵入する。

 ツタに覆われているものもあれば、屋根が落ちているものもあり、傷み方の程度はさまざまだ。水道やガスといったライフラインが切られると、家は文字どおりその生命を絶たれるらしい。ミイラのように干からびた、住宅たちの共同墓所だ。


 工務店、理髪店、靴屋兼駄菓子屋、服屋といった個人経営の店舗が並ぶ、こぢんまりとした商店街。わずかに遊具が置かれ、雑草が生い茂る公園。

 草木が伸び放題の原っぱは、黒い防草シートを張ったものを見かけて、元は田畑だったことが分かる。雑木林、お地蔵さん、自動車工場……。


「ここが俺の実家らしいで」


 地図を確かめながら村内を巡った百舌鳥は、平屋の一戸建てでスズキ・ハスラーを停めた。降りて確かめると、『百舌鳥』と表札がかかっている。

 珍しい名字だから、まさか間違いということもあるまい。


 ドアノブにはぐるぐると鎖が巻きつけられ、ご丁寧に南京錠がつけられていた。

 とりあえず外を一周してみると、生け垣の向こうに見える庭も、壁も、さほど荒れているように見えなかった。ややみすぼらしいが、普通の空き家だ。


「窓は一つ割れとるけど、それだけやな……」

「思ったより綺麗におうちが残ってるね」


 百舌鳥は車に積んでおいたボルトカッターで、玄関の錠前を切断した。ベンチの親玉のような工具で、少々力がいるが、百舌鳥の筋力ならそう苦労しない。

 南京錠を壊し、鎖をほどいて扉を開け放つと、かやがひょいっと中へ入ろうとした。


「お邪魔しまーす」

「待てや」


 百舌鳥はオーバーオールの少女の肩をつかんで止める。どうしたの? と不思議そうに振り返る顔に、怒りよりも不安がこみ上げた。


「ここから先は何が出るか分からん。勝手な行動すな」

「キヨイの手がかりがあるかもしれないから? でも、もずもずやドードーといっしょにいるのと、こうして探検するのと、もうどっちも変わらないよ」


 そう言われると、肩をつかむ手から自然と力が抜ける。実際、やったのはキヨイとはいえ、百舌鳥はこの手で茅の祖母を殺したのだ。


「自暴自棄にはならないでくれよ、茅ちゃん」


 少女に続いて、道眞どうまが廃屋に踏み入る。廃墟探索には不向きであろう着物姿だが、そのちぐはぐさが、動く死体にはふさわしい気がした。

 百舌鳥は袱紗に包んだ愛刀・神立かんだち浄宗きよむねをきつく握りしめる。ここで本当に、自分の過去とキヨイの接点が見つかるのか――見つかって欲しくないのか。


 意を決して踏み入ると、室内は今も現役のゴミ屋敷、という風情だった。開いた酒瓶に缶ビール、口を閉じた大小のゴミ袋で足の踏み場もない。

 百舌鳥は三人と一匹で固まって家の中を見回った。台所、風呂場と脱衣所、寝室、リビング。ゴミに埋もれた中に、わずかだが化石のように古い血痕が見える。


「百舌鳥ヒロムは、ここで殺されとったらしいわ」


 窓から午後の光が明るく差し込んでくるが、それがかえって残骸と化した家庭の虚ろさを引き立てていた。背もたれや座面を引き裂かれ、クッションが飛び出たソファ。ひっくり返されたダイニングテーブル、足が折れた椅子。

 テレビは今どき見ない箱形に、つまみでチャンネルを切り替える旧式も旧式。ホコリで白くなったその画面に、茅たちの姿が映っている。

 リリンコは何か臭いものを見つけて、床をひっかき、埋める仕草をした。


 血痕はソファを中心に黒々と広がっている。百舌鳥はマグライトを取り出し、丹念にその痕を見つめた。十六分割された人体が、かつてここにあったのだ。

 出生届も婚姻届も未提出の父親だ、ろくな人間ではなかろうとは百舌鳥も想像していた。しかし年月の経過とは別に、荒んだ家に嫌な気分になってくる。


「もずもず、なんか〝味〟する?」

「二十年も前やど、無茶を言うなや。どないしても確かめるんやったら、この血ぃ剥がして食うぐらいやが、さすがにそら遠慮したいな。何の味かも想像がつく」

「まあ、十中八九、断末魔の味、だろうね」


 そういうことだ、と三人が話していると、リリンコがリビングを横切って浴室の方へ向かった。続いて、水道が止まっているはずのこの家で、水音がする。

 しゃたたたた、と。まるで、誰かがシャワーでも使っているような音だ。


「な、なんか、ちっちゃい子の泣き声がしない?」


 茅が言った時には、百舌鳥にも道眞にもそれは聞こえていた。


――くさい、くさい、くさい。おれ、きたない。においがとれないよ。


 小学校に上がったかどうかの、幼い子供がしゃべっているようだ。


――だいじょうぶ、だいじょうぶ、繝溘リトくさくない。


 浴室の何者かは独り言なのか、自分に自分で言い聞かせている。

 そして、一部が百舌鳥にはうまく聞き取れなかった。身に覚えのある感覚に、やはりここにはキヨイに関する何かがあると確信する。


――あ、そうだ! きれいはきたない、きたないはきれい。

――なあに? それ。


 声は一種類しか聞こえてこないが、それが一人二役のように会話していた。


――せんせえがホンでよんでくれた。まじょやアクマのくにでは、なんでもあべこべなんだって。だから、アクマのくになら、繝溘リ繝�はきれいだよ。きたなくないよ!


〝綺麗は汚い、汚いは綺麗〟。それは、キヨイ自身も使っていたフレーズだ。百舌鳥は浴室の扉に手をかけ、開こうとしながら、しばしためらった。


――じゃあ、おやじもきれい?

――おやじはきたない。きたないまま。

――でも、きれいっておもわないと。


 自分の中で相反する二つの力がぶつかり合い、硬直する。この扉を開けて今すぐ中を確認したい、だがしたくない。正負二つのエネルギーは差し引きゼロだ。

 なんてことないすり硝子の開き戸が、地獄の門のように重たい。


「百舌鳥? 大丈夫か」


 道眞の言葉に、なにくそと一押しを受けて、百舌鳥は浴室を開け放った。すると、そこは水の気配もない、無人の空間がぽっかり口を開けている。

 水色のタイルには薄くホコリがつもり、今まで誰もいなかったし、水が使われた形跡もないことを証明していた。


「やっぱりいないかあ……まだ出てきたくないんだね」


 この数週間でさんざん超常現象に遭遇した茅は、すっかり慣れた調子だ。

 つくづく肝の据わった娘だと百舌鳥は思う。それに引き換え、自分はYシャツを汗でぐっしょり濡らしている始末。どちらが子供か分かったものではない。


 息をつく間もなく、ばしんという打擲ちょうちゃくおんと子供の悲鳴、そして怒鳴り声が廃屋に響き渡った。さっきまでいたリビングの方からだ。

 全身の毛を逆立てて驚くリリンコを、茅は抱き上げた。


――お前ら、俺がお情けで飼ってやってるって分かってんのか!?


 リビングでは、ボロボロのソファに、ぼんやりと男の影が座っているのが見える。

 色のついた影法師は、金髪の男性とおぼしき形をしていた。どういうわけだか、ジャージのパンツを下ろして局部を露出している。


――歯ぁ立てんじゃねえって言ってんだろうが!


 男の手の先には、髪の毛をつかまれた幼児の頭があった。目鼻立ちさえはっきりとは見えない朧気な姿だが、くり返しビンタされ、鼻血を噴くのが分かる。

 歯を立てるなという言い方と、男の格好から、百舌鳥は最悪の想像を導き出した。


 男の幻は幼児を床に投げつけると、立ち上がってズボンはき直し、腹を蹴り始めた。泣き声が一段と苦痛を訴える、ぎざついたものになる。

 やがて、ぶりぶりと、大便をひり出す音がした。


――きったねえ! クソもらしやがったな繝溘リ繝�!


 男は真っ赤になって怒り、名前の分からないその子の頭をつかんでがんがんと床に打ちつけた。酒瓶の蓋が当たって額が切れ、血が流れ出す。


――ああっくせえ! くせえ! おいっ、ヤマトぉ! ちゃんと掃除しとけよ。臭いが残っていたらただじゃおかねえぞ!!


 どたどたと足音を立てて、男の声と姿が遠ざかり消える。どうやら玄関へ向かったようだ。しこたま蹴られた子供は、うずくまって泣いている。

 そこにもう一人、うり二つの子供が現れた。ふっと、二人の姿がかき消えると、また浴室の方から水音と泣き声がし始める。


――くさい、くさい、くさい。

――だいじょうぶ、だいじょうぶ、くさくない。


 さきほども聞いた会話。同じ声だから一人と勘違いしたが、そうではない。子供は二人いて、容姿も声も双子のようにそっくり同じなのだ。


「今のが、俺の親父と、昔の俺か? 俺は、双子やった……?」

「百舌鳥、もしかして何か思い出せそうなのか」


 道眞が気遣うように、ぽんと肩に手を置く。それにスイッチを押されたように、百舌鳥の中で何かが弾け、ふいに記憶がこみ上げてきた。


「母親は、物心ついた時にはもうおらなんだ……。たぶん、親父に愛想尽かして出ていったんやろな。それで、あのクソ親父は、自分のガキをオモチャにしよった」


 内縁の妻という性欲処理の相手を失った百舌鳥ヒロムは、息子たちを「使う」ことを思いついた。事実上、子供の体を介した自慰だ。


『俺にお前らを養う義理はねえんだよ。エサが欲しけりゃ、芸を覚えな。じょうずにできたら、なんでも食わせてやるよ』


 そう言われ、ありとあらゆるいやらしいことをさせられた。行為の意味も知らず、汚いと厭わしく、けれど餓えには勝てず。何かにつけて殴る父に怯えながら。

 体の芯からこみ上げる戦慄に、百舌鳥は自分の頭を両手でわしづかむ。


「俺には確かに、兄弟がおった! なのに……まだ、名前も思い出せん!」


 浴室での会話のように、いつも互いに慰め合い、その存在だけが辛い生活での支えだった。なのに、百舌鳥ヒロムが殺害され、保護された時にも弟のことを自分は口にしなかった。それはなぜだ? なぜ忘れていた?


「どうやら、ここに来たのは正解らしいな」


 道眞の黄甘い冷静な声に、百舌鳥も少し落ち着きを取り戻す。

 こんなにも簡単に記憶が戻るなら、自分はもっと早く古宮村に来るべきだった。だが「廃村には何の手がかりもない」と捨て置いたのは、無意識の恐れに違いない。


 忘れていた記憶を思い出すとは、これまでのよく見知った自分が、見知らぬ自分へと変わっていくことだ。すべて思い出した時、自分がどうなってしまうか分からない。奈落の上で、ちっぽけな灯りを頼りに綱渡りするような気分。


 茅が何も言わず百舌鳥の手を握る。リリンコがすねに体をこすりつけてくる。自分は一人ではないから、この綱渡りを続けられるのだ。


「この家の中、徹底的に探すど。キヨイはきっと、ここで俺に見したいものがあるに違いあらへん!」


 今現れた二つの幻が、その証拠だ。百舌鳥は足腰に活を入れ、力強く宣言した。

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