第37話 あたしは食べた。あなたも食べて。

 気がつけば、かやは自室のベッドで横たわっていた。むくりと起き上がり、顔を洗い、道眞どうま百舌鳥もずがホールでローテーブルを囲んでいることを確認する。

 すり硝子と色硝子を通した朝陽は、室内を白く照らしてこざっぱりとしていた。二階から漂い流れる、かすかな血の臭いさえ無視できそうな明るさ。


「二人とも、朝ご飯食べた?」

「……そういえば用意しとらんかったな」


 一晩中道眞と話していたのか、百舌鳥にはうっすら無精ヒゲが見える。


「じゃ、あたしがご飯作るね」

「えっ、茅ちゃん」

「おい……」


 休んでいていいよ、と背中にかけられる道眞の声を無視して、茅はずかずかとキッチンに入った。エプロンを身につけ、下ろしたままの髪をきゅっと結う。

 卵のパック、ベーコン、バター、レタス、プチトマト、キュウリ、赤玉ねぎ、目に付く食材を冷蔵庫から取り出し、木の天板に並べた。


 ガス火を起こしてフライパンをかけ、温まったところへ大量のベーコンと卵を割り入れる。食パンは片っ端からトースターへ、焼き上がったものからたっぷりバターをつけた。野菜を洗ってはちぎり、薄切りにし、サラダを盛りつける。

 お湯を沸かし、道眞用にレモングラスのハーブティーと、インスタントのコンソメスープを作った。たちまち五、六人前の朝食ができあがる。


「なんじゃこら……」


 山盛りのベーコンエッグとバタートーストを前に、百舌鳥が絶句した。

 茅はくっと顎をそらし、「腹が減っては戦は出来ぬって言うでしょ」とのたまう。エプロンを外して着席すると、早速大人たちにお手本を見せることにした。


 トーストにベーコンエッグとサラダを乗せ、マヨネーズとケチャップを軽くかけたら、二つ折りにして茅の特製サンドイッチの完成だ。

 真ん中からかぶりつくと、半熟の黄身が簡易オーロラソースと混ざり、具材と絡み合う。カリカリしたベーコンの塩気と脂、ザクザクしたトーストの香ばしさ、シャキシャキした野菜の青臭さと薬味。複雑で豊かな味わいに、茅は食欲を爆発させた。

 美味しい。がつがつ、がつがつと、普段のマナーなど忘れた勢いで食べ尽くす。それはこれからの戦いに、決して欠かせない栄養のかたまりだ。


「ほら、もずもず! ドードー! 早くご飯食べて!」

「お、おう」

「い、いただきます」


 ぽかんとしている大人たちを怒鳴りつけると、ようやく着席して食事を始めた。足元では、リリンコが道眞に開けてもらった缶詰を無心にむさぼっている。


 道眞と百舌鳥は、単に勢いに圧倒されていたわけではない。大きなトーストサンドにかぶりつきながら、茅がボロボロと涙をこぼすのを指摘できなかったのだ。

 あんなことがあったのに、否、あったからこそ、前へ進もうとする意志が固い。その生命力と、傷つき引き裂かれた子供心を前に、二人は黙るしか無かった。


 茅は、三つ目のサンドイッチを食べたあたりで食事を終える。「ごちそうさまでした」と手を合わせた後、唐突に話を切り出した。


「おばあちゃんから、『私に何かあった時はこれを使いなさい』って金庫の鍵を渡されているの。ドードー、もずもず、食べ終わったらいっしょに見てくれる?」

「さすが別天先生、用意周到だ」


 でも、と道眞は言葉を続ける。


「きっと、それは凄く大事なものだと思う。まずは茅ちゃんが一人で見て、大丈夫と思ったなら僕らに見せるといい」


 ことによると、弁護士とかそういう話になりかねない。そもそも、別天の死についても、本来は警察に届けるべき案件だ。

 だがその場合、容疑者として拘束されるのは間違いなく百舌鳥なのである。


「茅、おどれは俺を責めんのか。やったのはキヨイでも、俺さえおらなんだら」

「そんなこと言ったって、仕方ないじゃない!」


 がたりと茅は椅子を蹴倒し、立ち上がった。


「あたしだってキヨイはゆるせない! ゆるせないよ! でも、もずもずに怒るのは、違うじゃない……」


 飲みかけのオレンジジュースを喉に流しこみ、茅は一息つく。


「おばあちゃんは言っていたの。ドードーも、もずもずも、人の善し悪しと関係なく危険だって。だから絶対に信じたり、二人きりになったりするなって」


 だから、茅は二人に言っていない秘密がたくさんある。別天に渡された金庫の鍵も、その一つだ。願わくば、それが役に立つことがなければ良かったのに。


「本当に、そうなっちゃったよね」


 震える唇をぎゅっと噛み、茅は後から後から沸いて出る悔しさに耐える。悔恨に苦悶する少女の表情は、いかに男たちの胸に刺さったことか。


 三人は食堂を後にすると、別天の寝室に隠されていた金庫を開けた。顕微鏡を入れるケースのように小さいが、しっかりした作りの金属の箱だ。

 中には一封の茶封筒があった。茅は手紙の中身に目を通すと、道眞と百舌鳥にも「見て」とそれを渡す。


 それは、自分に何かあった場合、孫娘の茅に財産を渡すこと。成人になるまでは、後見人として彼女の従弟(茅のいとこおお叔父おじ)の別天重蔵じゅうぞうが面倒を見ることが書かれていた。すでに向こうにも、話は通っているそうだ。


「おばあちゃんは、こうなることが分かってたんだね……」


 手紙の中身を確認し終えると、茅は二人の男たちをキッと睨みつけた。


「まさか今さら、重蔵さんの所へ行けとか言わないよね?」


 口に出さずとも、三人は〝これ以上キヨイを放置しておけない〟という点で意見が一致していた。今ある手がかりは、百舌鳥の故郷・古宮ふるみやむらだけ。


「茅、次に殺されるんは、おどれかも分からんど」

「でも、ドードーがあたしの身代わりになっているんでしょ。キヨイがドードーともずもずの命を繋げているなら、あたしには手を出せないはず」

「今もそうなら、な」


 百舌鳥は自分の首を押さえた。


「あれから三週間が経っとる。俺の傷は、おそらくその程度で完治するようなものとちゃうが、葬儀屋はこれまでいくつもの霊餌たまえを喰ろうてきた」


 生出おいずる敬一郎けいいちろう、〝狩り鐘さん〟、〝知恵者猫さま〟、〝つくりモノ〟、〝はぎこさん〟、〝明日あさがお姫〟、〝伝説の人魚〟。合計七体の魂が、羽咋道眞に取りこまれている。今の彼は、自身をふくめて八人分の霊魂を持つのだ。


「それに霊酒くしびき。もしかしたら、それをつこて俺の傷を治し、葬儀屋がおらん状態でも、生きていけるようになっとるとしたらどうや?」


 飛躍しているようだが、茅はなんとなく百舌鳥が言いたいことを察した。

 もとはといえば、キヨイは死に瀕した百舌鳥の命をつなぎ止めるため、道眞を利用していたのだ。今まではかりそめの生命を与えられていたが、その裏では、キヨイが百舌鳥本来の命を修復していたということは、ありうる。


「キヨイは用済みになったから、別天のバアさまを殺したんやろ」


 百舌鳥は震えるほど拳を握って、血を吐くようにがなり立てた。


「バケモンや! 俺も、葬儀屋も!」


 否定してあげたいところだが、あいにくと今の茅にそんな余裕はない。道眞までもが「ああ」と百舌鳥の言葉を引き継いで肯定した。


「別天先生がもういないってことは、僕を封印できる人がいないってことだ。いつ、君たちに牙を剥くか、自分でも保証できない」


 それに、と道眞は深く息を吸いこんだ。


「こんなときに、僕は、別天先生を食べたいと思っている」


 食べている間は、死んでいることを忘れられるんだ――と彼は続けた。

 魂に歯を立ててバリバリと噛み砕き、それが粉々になって口の中へ広がる快感。飲み下す時の喉ごしと充足感。舌でも腹でも、全身を使って味わい尽くしたい。

 体中に広がる味の世界を想像するだけで、よだれが止まらなくなりそうだ、と。


「食卓ではいつも、君たちが食べている物を欲しいと思ったことはないけれど、〝食事できる〟ということが、羨ましかった。こんなに長い間、食べることばかり考えているのは初めてだ。死んでからずっとそうさ、そのくせ、すまし顔で隠していた」


 だから、と吐き捨てる道眞の声は苦しげだった。胸元をぎゅっと押さえ、生者ならば冷たい汗を流していそうな、内腑ないふの痛みに耐える顔つきで。


「霊餌や神餌かみえは人を殺して食べる。だから僕も――」

「待て、葬儀屋」


 百舌鳥はがしっと道眞の肩をつかみ、無理やり自分の方へ引っぱる。さっきまで怒りで赤みを帯びていた顔が、常温に冷えていた。


「なんか、おかしい思わんか? 生出も、別天のバアさまも。これまでたたこうてきたどの霊餌でも、キヨイは一度も相手を食わなんだ」

「確かにそれは、前から奇妙だとは思っていた」


 道眞はもの思いするように顎を撫でたが、それは一時のことだ。


「でも現実として、別天先生はあいつに殺されたんだ。だから、君たちを一刻も早く遠ざけなくちゃならない」

「アホ抜かせ!」


 百舌鳥は道眞の背中を力いっぱい叩いた。

 ばしーん! と大きな音が、別天の部屋に響く。


「おんどりゃにはキヨイを霊廻たまえしきしてもらうって仕事があるんや、古宮村までついてきてもらうど。茅も、それでええか? 危険人物二人といっしょで平気ならやが」

「うん、平気!」


 茅は足元の黒猫を抱き上げて。


「リリンコちゃんも忘れないでね!」


 ぱちりとウィンクしてみせた。

 そうして三人は、旅立ちの準備を始める。


「古宮村のある岡山県まで、中国ちゅうごく縦貫じゅうかん自動車道じどうしゃどうをつこてざっと三時間半。盆終わりやから、実際はもっとかかるやろな」

「北海道だろうが沖縄だろうが、行くしかない」

「だいじょうぶだよ、ドードー、もずもず。村でなんの手がかりがなくっても、あたしにはまだ〝奥の手〟があるからね」


 ふふんと胸を張って教えると、百舌鳥が「なんやそら?」といぶかしんだ。


「奥の手だから、まだヒミツ」


 それは、茅が別天から託された物だ。万一の時は、きっと役に立つだろう。


(ドードーがいつもお腹が空いて苦しかったなら、キヨイは、なんで食べないんだろう? もしかして、お腹が空くことより、もっと辛いことがあるのかな)


 キヨイが祖母を殺したことを、茅は許せそうにもない。そもそも、悪いのは娑輪馗廻とはいえ、父の生出を無惨な姿にしたのもあいつなのだ。

 けれど霊餌である以上、その行動の裏には必ず無念の苦しみがある。これまでの戦いを経て、茅はそれを感じていた。言ってみれば、キヨイが憐れでならないのだ。


 これからの旅で、彼の正体を明らかにしてみせる。そして願わくば、彼も、道眞も、お腹いっぱい食べられるような幸福が訪れればいい。

 祖母の死にうちのめされそうな胸の奥で、それでも茅は温かな願いを秘めていた。

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