第36話 夜の海に眼を開き

 八月十五日、盆が終わる前日。


 夕立と思われた雷雨は、そのまま夜半まで降り続いた。始まりは空の底が抜けたように唐突で、目で形を確かめられそうに大粒の滴が屋根を叩く。

 そろそろ道眞どうまに封印を施そうと、別天べってんは寝間着の浴衣姿で和室を出た。廊下は夏の夜とは思えない涼しさで、水族館のようにひんやりしている。


 窓の外には、闇に白く光る雨脚が行き交っていた。かと思えば、ひときわ大きな雷鳴がとどろき、一瞬ホワイトアウトして闇につつまれる。

――停電だ。


(ブレーカーが落ちちゃったみたいね)


 別天は部屋に戻って懐中電灯を取ると、配電盤がある一階のバスルームを目指した。地を打つ太い雨と、空を叩く雷の響きが、間断なく重低音を奏でる。


 パッと灯りが復旧し、廊下の向こうに立つ人影が見えた。

 闇に沈んでいた緞通だんつうの赤や壁の白が浮かび上がり、暗さに慣れかけた別天の目を刺す。まばゆい道の先にたたずむ影は、両目から血の涙を流す百舌鳥もずだ。


「キヨイ!」


 別天の声は、再びの闇に呑みこまれた。


 稲光が、視界いっぱいに広がった、わらう男の顔を照らし出す。


 さくり、と。鋭い冷気が別天の腹に差し、一瞬遅れて灼熱の痛みがそれを焼き払った。熱が液状に吹き出すのは血潮、やっと刃物で刺されたと理解する。

 しまった、という気持ちと、やはり、という確信が別天の胸を満たした。盆が終われば夏が終わり、秋が来る。そうしたら、照魔鏡を持った早忌沢はやみざわが帰国するのだ。


「鏡は嫌い?」浴衣の袂から白い髪縄けなわを飛ばす。「それとも自分の顔が?」

「オレをミるな」


 ばつん! と血濡れた裁ちバサミで、キヨイは結神縁けっしんえんを切った。闇の中であっても、髪縄は別天の神経同様に動きがよく分かる。

 じくじくと痛む傷は、腹がまるごと果実になって、それを真っ二つに割られたような気分だった。果汁も果肉も、今にもすべて廊下にぶちまけそう。


(冗談じゃないわね、結神縁をただの縄みたいに切断してくれちゃって。どれだけ底なしの怨念呪力なの?)


「オレをミせるな」


 ハサミをくり出す手に、別天は結神縁を巻きつけた。同時に、髪縄を自分の傷口に巻いて応急処置とする。焼きつくような痛み、痛み、痛み。


「ミるのはヤマだ」


 だから、お前はいらないと殺しに来たのか。

 知恵者ちえしゃねこは、霊廻式された後も別天に自動書記でこのことを知らせてくれた。「あなたは十日前、キヨイに殺されない」と。

 質問の答えをあべこべに言う知恵者猫の性質を考えると、それは「十日後にキヨイに殺される」ということ。――だから、別天は鏡について嘘をついた。


きため賜え、結神、縁……!」


 キヨイと綱引き状態になりながら、別天は必死で足を踏ん張る。

 高齢の別天が、力比べで彼と勝てるはずもなし。なんとか拮抗出来るのは、結神縁の霊力だ。それも、いつまでもつことか。


「ヤマがメをひらく。ひらかなきゃダメ」


 キヨイの声が遠く、指先が冷たい。足元のしめった緞通の感触は、自分がいかに出血多量であるかを知らせてくれる。

 痛みはいつしかかどが取れ、まろやかなまでに別天の意識を満たしていた。頭の後ろから奈落の闇が迫って、そちら側へ倒れこみそうになる、危うい苦痛。


「そうね」


 別天は己に、口を動かすことを強いた。


「あなたには、きっと……、大事なこと、なのでしょうね」


 そう言ったつもりだが、思い通りの言葉になったかは怪しい。


「でも、そのために孫を、巻き添えにするな、ら……、いくら貴方が憐れな亡魂ぼうこんでも、許さないわ。だから……」


 刃先がざっと腹の中に入り、内臓に触れられた吐き気に突き上げられる。魚のように切り開かれた傷は喉にまで達し、彼女の声をただの吐息に変えた。

 指はもう何本か無く、蝕むような痛みと喪失感が自我を穴だらけにする。


 ずん、と心臓を貫く刃先。


 こうなったら、もう、仕方がない。


(みんな。あとは、おねがいね)


 自分は、やれる限りのことはやった。だから、もう、道眞と百舌鳥に任せるしかない。あの二人なら、きっと孫娘によくしてくれるだろう。

 最期に思い浮かべるのは、愛する夫の顔。


(正宗さん。やっと、そちらへ逝けます)


 別天の意識は、夜の海に投げこまれた線香花火のように、きらめいて消えた。



 目の前の光景を認識した時、百舌鳥にこみあげたのは「またか」と、「とうとうやったか」という相反する感慨だった。

 停職の原因となった同僚への暴行もそうだ。気がつけば自分は血塗れで、眼前には傷つけられた誰かが倒れている。あの時は打撲と骨折で済んだのだが。


「バアさま……」


 機械仕掛けのような几帳面さで屈み、死体を軽く実況見分する己を他人事のように感じる。腹を切り裂かれ、心臓を刺された別天現子は、間違いなく死んでいた。

 血塗られた百舌鳥の手には、不自然な空白がある。返り血を浴びた時に、ハサミでも握っていたのだろう、という形の。


 虚空に別天の感情が、ペンキのようにかすれて飛び散っているのを感じる。黒く、鋭いしょっぱさの驚き。ここで倒れるという無念の白辛さ。

 それが最後には、黄金色に輝く蜂蜜とバターの黄甘さに収斂していく。少なくとも最期は、安らかな思いだった。それが分かっただけでもマシか。

 気を取り直して、別天の部屋から掛け布団を拝借する。遺体にかけたタイミングで、かすかに肉が焼ける匂いとともに、道眞がやってきた。


「……なんだ、この血の臭いは?」


 別棟から渡り廊下を通ってきた彼は、眼で見るより先に不穏な出来事を察知していた。百舌鳥は淡々と、ただ事実だけを告げる。


「キヨイが俺の体をつこて、別天のバアさまを殺しくさった」


 えっ、とか、そんな、とか、バカな、とか、そういう意味合いの言葉がないまぜになった声を道眞が上げる。どれであっても言っていることは変わらない。

 見れば、道眞の手首がぐるりと巻き付くような火傷に覆われていた。おそらく、別天が結神縁で抵抗したのだ。彼がまとう焼けた肉の匂いの元はこれか。

 キヨイはまんまとそのダメージを道眞に押しつけ、別天を殺害した。


「先生の状態、酷いのか」


 どういうことだと聞くより先に、そう確認してきたのはいい根性だと百舌鳥は思う。自分で確認して見ろと言うと、道眞は本当に布団を持ち上げてみた。

 凄惨な遺体にまったくひるんだ様子がないのは、さすが葬祭業者だ。


「……茅ちゃんに見られる前に、僕が寝ている冷蔵庫へ運びこもう」

「ああ……」


 こうして相談していると、まるで殺人の共犯にでもなったような気分だろうか。日ごろ死体を扱い慣れている葬儀屋でも、これは少し特殊な状況だろう。

 道眞が封印を施され、眠りにつくウォークイン冷蔵庫は、別天が後付けで設置したものだ。そのため、屋敷のインテリアとの調和など知ったことではない。


 ガレージにあるスズキ・ハスラーには、戦いで傷ついた道眞を運ぶための折りたたみ担架が積んであった。それを使って、別天の遺体を運びこむ。

 口元の血をぬぐえば、綺麗な顔をしていたのが幸いだった。



「茅ちゃん、起きているかい?」


 その日、茅はいつものように夜更かししていた。停電にもかまわず、巨大な箱庭の世界でブロックを一個ずつつみ、色んな建物を作るサンドボックスゲームだ。

 ベッドにコロンと寝転がって、ああでもないこうでもないと試行錯誤する。そんな時、ふいに部屋の扉をノックされた。


「別天先生が、殺された」


 道眞の声が信じられないことを告げる。


「うそ」で、あってほしい。「どうして?」

「キヨイに襲われたんだ」


 全身の毛穴から脳の電気信号が飛び出して、ばちばちと音を立てる気がした。自分自身の体が世界をまるごと拒絶しようとするような、反射的拒否感。


 足元がふわふわと頼りないのも、道眞と百舌鳥の声が水中で聞くように遠いのも、茅が世界とつながる五感を拒むから。

 それでも、見なければならないものを前にして、強制的に接続される。自分が立つ、今この時、この場所に。意識が固定される。


 道眞がいつも寝ていた冷蔵庫、そのパイプベッドに横たわる祖母の姿は、眠っているだけのように見えた。つまり、苦悶の表情はない。それだけで救われる。


 首から下は布団がかけられていたが、首元に小さく赤黒い傷口が覗いていた。否応なく父、生出の凄惨な死に様が脳裏に呼び起こされる。

 自分の奥深くにエレベーターがあって、それが不意に上昇し、チンと音を立てて扉が開いたら、あの日の屍がそこに乗っているのだ。


――かやぁ……くるしいよぉ……。


 昇降機のケージから、黒々とした血液がどばっと溢れでて、茅の心を呑みこむ。感じるのは、冷たいほどに熱い怒りと悲痛。

 自分が狂うかもしれない、という危惧をこれまでの戦いで何度抱いただろう。霊餌との戦いで感じたそれは、脅威に対する恐怖からだが、これはまた違う。

 感じたことがないような激情が、少女を自壊に追いこむのだ。


「お……ぉっ、ばあっ、ちゃ、ん……」


 ガクガクと、顎が笑い出しそうに震えていた。

 祖母は高齢だから、茅が高校や大学に行く年齢にもなれば、その死を見送ることはあるだろう。その時は当然、父も母もそろっている。だがそうはならなかった。

 父が殺され、母の消息もつかめない今、別天は唯一の肉親だ。


「おばあ……ぁぁぁ……っちゃあぁっ」


 夜の海に突き落とされ、溺れる心地。つかまるものも、支えるものも何もない、無限の奈落で心細さにもがき続ける。


「おっ、おっ、おばあぁぁ! ちゃあぁあん!」


 気がつけば道眞が少女の体を、百舌鳥が肩を、それぞれに抱きしめていた。それなのに、一人だけ落下し続けている絶望感が途切れない。


「ああぁぁあぁぁぁ……! ああぁぁぁぁあああ…………!」


 涙は心臓が吐き出す血飛沫のようだった。

 目は傷口のように熱く痛んだ。

 喉に絡みつく悲鳴自体が、茅を内側からズタズタに切り裂く。


 そうして意識が途切れたのは、気絶したからか、泣き疲れて眠りに落ちたのか、少女には区別がつかなかった。

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