第三輪 みおつくしても、進んで
第35話 鏡も、明かりも、先が見えなくても
お彼岸屋敷の書斎『
装丁も立派な古書や大判の本が詰めこまれた書棚が、ずっしりと壁面を埋め尽くす様は圧迫感が強い。だが、ある種の人間には落ち着きを与えてくれるだろう。
眼帯の老婦人、
ふつっと糸が切れたように、別天の手は彼女の制御を外れ、まったく予期していなかったことを書きだした。一週間と少し前、甥の
あの時は我知らず書いていたという感じだが、今回は強引に書かされている感覚がある。知恵者猫こと
「これは……!」
現れた文章に、別天は息を呑んだ。
◆
「みんな、暗号のことは覚えているかしら?」
翌朝、恒例のミーティングで別天はそう切り出した。黒地に春夏秋冬、四季の花づくしの小紋に、帯締めの赤が華を添える。
ホールのローテーブルに出されたのは、〝知恵者猫さま〟が、茅の左手を通して書きつけた言葉。
『えちさがそうおYかむおYS。彼に見つからないように』
「解いてしまうんですか? 別天先生」
白黒市松文様の羽織に、藍色の着物を合わせた眼鏡の青年、
知恵者猫は最後の最期に、キヨイに悟られないよう、彼の不利になる情報を託したと道眞たちは見ている。
「あんまり簡単な暗号だから、キヨイが自力で解くかもしれないでしょう? だから、こちらから先手を打っておこうと思ったのよ」
別天は広げたメモ用紙に『ETISAGASOUOYKAMUOYS』と書きつけた。その下に『SYOUMAKYOU(W)OSAGASITE』と続ける。
それをデニムのキュロットと、タンクトップ姿の少女、
「しょうまきょうお、を? さがして?」
赤目黒猫のリリンコはといえば、最近は暑いのか、人の膝に乗ってこない。代わりに中庭の前で、開け放たれた扉から入る風で涼んでいる。
その向こうには、季節を問わず咲き誇る彼岸花が、冷たい真紅を揺らしていた。
「知恵者猫の答えは必ず正反対になる。
大きな図体に、きっちりYシャツとネクタイ姿の
「ドードー、ショウマキョウって、何?」
道眞が口を開く前に、「鏡は昔から、〝魔性のものを照らし出す〟として魔除けに使われてきたのよ。照魔鏡はその中でも、特別
すらすらと別天が説明する。
「あ、つまりラーの鏡だね!」得心。
「地獄のエンマ大王は、亡者が生前に犯した罪をすべて暴く鏡を持っとるとか聞いたことあるな。葬儀屋、あらなんて鏡やった?」
「なんで僕に聞くんだ、百舌鳥。まあ知っているけど……浄玻璃の鏡だよ」
かように鏡とは、古来より特別な神秘の品だったのである。
「うちの藏にも色々な鏡があったよね。その中のやつを使うの?」
「ええ、もちろん心当たりがあるわ」
別天はメモ用紙に『紫陽花鏡/神』と書いた。
「〝紫の鏡〟という怪談を知ってるかしら? 二十歳までこの言葉を覚えていると死ぬ、というものなのだけれど」
「あたし十四だよおばあちゃん!?」
茅がソファの上で尻を跳ねさせると、別天は軽く吹きだした。
「大丈夫よ、ただの怪談なんだから」
「怪談でも
もともと茅は、「聞いたら呪われる」「やってくる」「殺される」系統の怪談はあまり信じてはいない。だが、
「そうだけど、その怪異は昔、私が仲間といっしょに葬ったわ。〝紫の鏡〟はバリエーションの多い怪談だから、あれ一つとは限らないけれど」
「ちっとも安心できない~!」
ぷんぷんと拳をふりふり、抗議する孫を放置して、別天は話を続けた。
「とにかく、紫鏡の怪異〝
「……
「ダジャレかいや……」
百舌鳥が呆れたように、ぱかりと口を開ける。
二股に裂けた赤い舌が、無防備に覗いた。身近なものがありえない形になる違和感に、ついまじまじと見てしまいそうで、でもそれは失礼だと茅は自分を戒める。
彼と出会って十日近く経つが、茅はいまだにその
(こういうのを、〝目のやり場にこまる〟って言うのかなー)
茅のそんな葛藤を知ることもなく、道眞たちは相談を続ける。
「その紫陽花鏡は今、屋敷にあるんですか?」
「いいえ」
「あらへんのかい!」
別天の返事に、茅は百舌鳥ともども拍子抜けしてしまった。
「〝紫陽花神さま〟を倒した時に、鏡自体は砕けてしまって……修理したいと引き取ったのが早忌沢さんだから、彼女に頼めば渡してもらえると思うけれど」
「その人って、確か海外にいて、秋まで帰ってこれないんじゃなかったっけ?」
嫌な予感がして茅が訊ねると、「そうよ」と的中してしまう。
「だから紫陽花鏡を試すのは、少し先の話になるわね」
「やったら」と百舌鳥が提案する。「照魔鏡以外の方法も試した方がええんちゃうか。この屋敷のありったけの鏡を集めて、キヨイ……俺を囲むとかな」
「紫陽花鏡は、私が知る限り最も強力な魔鏡よ。中途半端な霊力をぶつけるのは得策とは言えないわ。生兵法は怪我の元、とも言うでしょう?」
「バアさまは熟練の兵法家や思うがな。そのあんたが言うんなら、やめとくか」
前に進んだのかどうなのか、微妙なミーティングだったが、後はいつも通り。次なる標的の霊餌を相談して、明日狩りに出かけようということになった。
◆
◆
◆
「ねー、ねー、もずもず! キヨイといっしょにフラダンやろ!」
百舌鳥が書斎でスクラップブックを眺めていると、
「おばあちゃんが、キヨイとはできるだけ仲良くしなさい、って言うからさ。ゲームなんかいいじゃないかな? って」
そう言う茅はしぶしぶといった風はまったくなく、むしろウキウキした様子だ。相も変わらずネクタイ姿の百舌鳥は、開いていた資料を閉じた。
彼の前髪は、もうほとんど真っ白に色が抜けている。
「しゃあないな。休憩がてら、つきおうちゃるで」
フラダンとは、『大乱戦フラッシュダンサーズ』という対戦ゲームの人気タイトルを略したものだ。
様々な
茅はゲーム機をテレビと接続し、リビングのソファに二人並んで座った。百舌鳥自身がゲームをするわけではないので、コントローラーには触れない。
「まずはあたしがCPU戦でお手本見せるね! カズスムク使おうっと」
カズスムクというのは漆黒の軍服に眼帯、二本の角を生やした美青年の
茅は軍刀や拳銃、時には体術などのさまざまなアクションを使いこなし、最後にカナリアが舞う必殺演出の奥義で華麗にフィニッシュを決めた。
ことり、と独りでに2Pコントローラーが動く。
「おっ、早速やる気だね、キヨイ。好きなキャラ選んでね」
画面の中をぐるぐるとカーソルが回り、一人の美丈夫を選択する。
「ハイエンドワイトのニフリートだ! この人は動く死体っていう設定なんだよ、ドードーと同じだね」
茅は百舌鳥の方を見て、ピストル形にした手を向けた。
「そういえば、ニフリートとかコージャン
「どっちも筋肉ムキムキしか共通点あらへんやろが」
茅は引き続き、帝国軍人のカズスムクを選択。ステージ内に落ちているアイテムを拾って活用したり、相手をステージ外にぶっ飛ばす(フラッシュさせる)したり。
何度か対戦を重ねていると、百舌鳥が「ゲームの中やったら、俺も直接キヨイをぶちのめせるやろ?」と気づいて参戦。
途中で道眞も加わって、四人対戦というまさに大乱戦が繰り広げられた。
〝知恵者猫さま〟の怪から、十日が経っている。
茅の母・追切泉の消息は不明なままだ。
祖母の別天は不動産収入の他に『心霊治療家』を営んでいるが、その仕事内容は家内安全に安産祈願、地鎮祭にペット供養とごく地味なもの。
彼女は休業宣言を出しつつも、仕事で得た人脈を駆使し、茅、百舌鳥、道眞、リリンコらと来る日も来る日も怪異/霊餌狩りを続けていた。
他者の姿を盗むドッペルゲンガーの怪異〝
〝
手で触れた箇所の皮を剥ぐ〝はぎこさん〟の残虐さにおののき。
たまの息抜きにびわ湖で
気がつけば、お盆が終わろうとしていた。
(いつまで、こんなことが続くのかな)
そんな考えが、自室に戻った茅の脳裏をよぎったのは、疲れのせいだろうか。
娑輪馗廻との戦いは、決して一夏の冒険などではない。夏休みが終わっても、冬がやってきても、一年経っても十年経っても終わらないかもしれない、そういうたぐいの戦いだ。父の仇を討つと決めた時、茅はそう覚悟した。
出来ることは何でもやりたかった。少しでも戦力になりたくて、百舌鳥に剣の教えを請い、毎日竹刀を振っている。娑輪馗廻と決着がつくのが五年後にせよ十年後にせよ、毎日稽古をつけていれば、それだけ強くなるはずだ。
しかし、分かっていても、疲れは溜まってくる。
霊餌との戦いは、無念の思いを抱える死者との対峙。
黒々とした人間の悪意と苦しみを、何度となく目の当たりにする。それが、やすりのように少女の心を削っていた。
たとえ大人であっても、きつい体験に違いない。それが分かっていたから、道眞も百舌鳥も別天も、最初はあんなに茅を関わらせたがらなかったのだ。
(ごめんね、今さら気づいて。でも、あたしはギブアップなんてしないよ)
父の仇を取り、母を取り戻す。そのためにはまだまだ、茅は立ち止まるわけにはいかないのだ。胸の中、ぎゅっと拳骨のように決意を握りしめる。
握った手は震えても、堅く閉ざした指を開くことはない。
自分を信じて、勇気を出せ、追切茅! と己を励ました。そうすると、ざわついていた心の芯が再び静まりかえるのを感じる。
「やってやるんだ。何があっても、やってやるんだ」
早口に言葉を吐き出すと、一語ごとに体に力がみなぎった。
茅は置いてあった竹刀を取ると、素振りのために部屋を後にする。誰かがその横顔を見ることがあれば、思いを吹っ切った人間特有の潔さを見ただろう。
しかし少女の心は、その夜の惨劇によって引き裂かれることとなった。
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