第二輪 毒味するもの、餌食の行方

第22話 焦げつく少女と矛盾冷蔵

 七月三十日、朝七時。かやは祖母の別天べってんとともに、べたべたとお札を貼った扉を開け、ウォークイン冷蔵庫へ入っていた。

 木材の飴色と緞通だんつうの赤を基調とする家屋には不釣り合いな、業務用冷蔵庫。農家や飲食店で使われる、三畳ほどのプレハブが廊下の突き当たりに設置されている。

 中にはパイプベッドが置かれ、浴衣姿の青年――羽咋はくい道眞どうまが仰向けになっていた。


「……ほんとに死んでるみたい」


 茅がこぼした感想は、常ならば不謹慎な発言だ。

 だがこれは生ける死者、動く屍という矛盾の体現であるのはもちろん、道眞の状態は「眠っている」などというものではない。

 閉じられた目蓋まぶたを墨の一筆が横断し、両手両足と首を一つの白い髪縄けなわいましめられている。それは眠らぬ死者へ、別天が施した封印だ。

 茅が見ている前で、別天は唱文しょうもんを唱えながら足の縛めを解いた。


「これより行者ぎょうじゃ別天より解放げほうせんす。よろず、ち、もも、たり、横さまならずや、十文字じゅうもんじ。立てさまならずや、十文字」


 道眞の両手は胸の前で組まれ、首とまとめて縛り上げられていた。それを丁寧な所作で別天がほどいていく。


「ここの、や、なな、けて返すに返さぬ神はなし。千早ちはや雲井くもい遥かにへだて、本元ほんもと在所ざいしょへ還り給えや、返し給えや、今日の聞神きさがみみずのと


 両手を体の脇に伸ばすと、次は足首の縄。


「むゆ、いつ、よ、三業さんごう池水ちすいに宿るところなし、なだに積もりてふちとなる。生死のばくを告げたらば、時を切ってゆるすなり」


 コップに汲んだ清水で指先を濡らし、道眞の両目蓋をすっと横一文字に撫でる。ガーゼで拭えば、墨汁は跡形もない。


「行者、今、からめの綱をほどき、ほとほと三途さんずの道に、放ち道切り。一つうぶありがし、二つ哭き有働うどうせむ火長ほなが縛呪ばくじゅ徐解じょかい


 ぱんっと別天が柏手かしわでを打つと、道眞が目を見開いた。むくりと上体を起こして、何度か深呼吸をくり返す。


「おはようございます」

「おはよう、道眞さん」

「おはよ、ドードー」


 死体が動いて、しゃべって、自分はそれに挨拶しているなんて、おかしくておかしくて、茅は笑ってしまいそうだった。だが楽しい笑いではない。


(死んでいるのに動いているって、どんな気持ちなんだろ。おとうちゃんは帰依させられちゃったから喜んでいたけど、おばあちゃんに助けてって言った……)


 そして体すらなくなっても、まだこの世にいる霊餌の気持ちとは。分からない、茅にはまったく分からないが、たぶんずっと分からない方が良いのだろう。


 羽咋道眞は生ける死者だ。

 たとえ娑輪しゃりん馗廻きえ御殪ころしを観世音かんぞんに帰依していなくとも、生者の世界にいてはならないもの。彼の封印とその解除の場に立ち会って、茅はその認識を新たにした。



 七月二十八日。


「茅ちゃん、道眞さんとヤマトさんには、決して気を許しちゃ駄目よ」


 二人が身辺整理のためお彼岸屋敷を出た直後、別天は孫娘にそう告げた。玄関ホールで見送りに立ったままだから、よほど急いで教えたかったらしい。


「なんで? 二人とも、悪い人じゃないんでしょ」


 その時の茅にはよく分からない忠告だった。出会って間もないが、少女は自分の倍ほども生きている男たちに、信用と頼もしさを感じていたから。

 道眞は礼儀正しく、優しげで安心できる人。百舌鳥は、ちょっと乱暴だけどそこが中学の男子みたいで親しみが持てる人、という印象だ。

 しかし祖母は、「そう、悪い人じゃない」とひどく真剣な顔で言う。


「人の善し悪しじゃなくて、存在自体が危険なの」

ドードー羽咋道眞神餌かみえで、もずもず百舌鳥ヤマトはキヨイが取り憑いているから?」


 ええ、と眼帯の老婦人はうなずく。


「たとえ帰依していなくとも、道眞さんは動く死体。あの人は眠る必要がないから、夜の間は私が封印させてもらう、と本人にも伝えたわ。それにヤマトさんに取り憑いているキヨイも、得体が知れない……二人とも、いつ自分の意志に関わらず、私たちに危害を及ぼすか分からないのよ。だから、二人きりになったりしちゃ駄目」


 約束してくれる? と別天は小指を出した。


「分かったよ、おばあちゃん」


 ゆびきりげんまん、ウソついたら針千本飲ます。

 ゆびきった。



 そして再び三十日……茅は割り当てられた自室のベッドでごろごろしながら、スマホを見て着信を待っていた。いまだに、母の泉と連絡がつかないのだ。

 室内にはゲーム機や、人体模型パズル、ペーパークラフトなど、祖母や父と遊ぶつもりで持ってきたオモチャが、所在なく転がっていた。


 道眞と百舌鳥に出会ってから二日が経っている。そんなに長く連絡がとれないなんて、絶対におかしいし、初めてだ。

 昨日は祖母の別天とともに、警察署へ行って捜索願を出すことになった。茅の自宅である追切おいきり家は名古屋なので、手続きは煩雑になってしまったが。


 あせる、とげる、はどちらも同じ「焦」の字だが、今の自分はまさにそんな気持ちだと茅は思う。

 体の端っこの端っこ、爪一枚ぐらいの細いふちが真っ黒になって、じわじわと自分の身が炭に近づいていくのに、どうしようもない……そんな状態だ。


「どうして?」


 茅が口に出した言葉は、一度に色んなことを問うている。どうして、いつもの夏休みじゃないんだろう。どうして、父はいなくなってしまったのだろう。

 どうして、母の安否も分からないのだろう。


 最期に父は安らかだったから、その死を受け容れられていると茅は思う。けれど、少し前……あの凄惨な姿は、どうしてもまぶたの裏まで焼きついていた。

 バラバラ死体と言葉にするのは簡単だ。でもあれは、そんなんじゃない。

 手も足も顔も乱切りにして、ぐるぐる混ぜ合わせた後、引きずり出したあばら骨にぶっかけた、ゴミ屑のように扱われた父の姿は。


(ダメダメダメ、思い出すな、あたし!)


 自分の顔がカッターナイフで切り刻まれて、血と涙をわんわん流しながら助けを求めたら、うんことおしっこをかけて笑われたような最悪な気分。

 それでも、何倍もマシだ。だってその場合は、まだ誰も死んでいないのだから。父は、生きていないのに死んでいて、殺されたのに死んでいなかった。


「ワケわっかんない……」


 ぼす、と茅は枕に顔を埋める。


(おかあちゃんは、おとうちゃんみたいに、娑輪馗廻にさらわれてないよね?)


 何度も打ち消した考えが、いつまで経っても晴れない黒雲のように頭にのしかかる。コールタールのような粘性の液体からできた、べとべとした嫌な雲が。


 祖母は地図を広げ、紐で吊した昔のお金を振り子にして無事を占ってくれた。

 すると、茅の自宅と、その上で停まった古銭がぶすぶすと焦げだしたのだ。虫眼鏡で光を集めでもしたように、白い煙まで立てて。


――大丈夫よ、茅ちゃん。


 別天はそれだけ答えて何も教えてくれないが、良くない兆しだということぐらい、自分にも察しがつく。はっきりと言ってくれれば、と茅は唇を噛んだ。

 道眞も百舌鳥も、茅を心配してくれているのは彼女も分かっている。だが、「子どもだから」「危ないから」と大事なことから遠ざけられるのは嫌だ。


 納得できない。納得なんかしない。自分はもう十四歳で、子どもと言うには大きくて、大人と言うには若すぎて、つまりとっても損する年頃なのだ。

 だったらこの事件にがっぷり噛みついて、絶対に離さない。


 祖母から百舌鳥が帰ってきたと知らせを受けたのは、それから少し後だった。

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