第21話 オムライスには嘘つきのケチャップをかけよう

 財布、運転免許証、クレジットカード、健康保険証、スマートフォン。

 身分証明になるおよそすべてを娑輪しゃりん馗廻きえの教団に奪われた百舌鳥もずだが、即座にそれで人生が詰まないのが近代法治国家の良い所である。 


 先立つものが必要なため、いくばくか別天べってんに金を借りることになったのは……さすがに仕方がない。百舌鳥はまず職場である、尼崎あまがさき警察署にて盗難届けを出した。

 同僚たちの表情をよそに、娑輪馗廻の件は伏せ、ただ淡々と済ませる。

 次に本人申告制度、カード会社への連絡、携帯ショップで新しいスマートフォンの購入。自宅は大家に話して鍵を開けてもらった。


 これらを滋賀から尼崎に移動して一通り済ませたころには、とっぷり日が暮れていた。まだやることは残っているので、そのまま自宅で休むことにする。


(娑輪馗廻のせいで、くさくさしよるわ。今夜は飲むか)


 ピリ辛キュウリ、長芋と出汁醤油、鶏の唐揚げなどのコンビニつまみにビール缶を二つあけ、百舌鳥は機嫌良く寝転がった。

 ほんの一日二日のことなのに、自分のパイプベッドが妙に懐かしい。





 児童養護福祉施設『みもざえん』の子供たちは、月に一回の〝オムライスの日〟を心待ちにしている。かつて洋食屋で働いていた園長がその腕を奮い、二十数名の子供たちにごちそうを振る舞ってくれるのだ。


 黄金色の卵はバターのかぐわしさと温かい甘さをまとい、夢のかたまりみたいに柔らかい。その中に包まれているのは、みんな大好きケチャップライス。

 トマトケチャップとウスターソースが、フライパンで香ばしく焦げながらご飯の一粒一粒にくっついて、それだけで幸せな気持ちになる!


 しかも、ケチャップライスには友だちがたくさんだ。

 甘く飴色になるまで炒められた玉ねぎ、カリッと焼かれた輪切りのソーセージ。ニンジンやピーマンが苦手な子だって、オムライスに入っていれば気にしない♪

『みもざ園』では、間違いなくカレーライスを超える人気メニューだ。予算と施設長の多忙さから、月に一回がギリギリというのは大人の事情である。


「あら、ヤマトくんは?」


 一人の女性職員が、不在の子に気がついた。食堂で今か今かと待っている子どもたちは、どうでも良いじゃないかとしらけてしまう。

 小学校三年の男子が手を挙げた。


「せんせー! ちこくするひとが悪い思う!」

「そうやそうや! 先に食べてええかー?」


 こうしている間にも、ホカホカうっとりのオムライスは冷めてしまう。

 同調して騒ぎ立てる男子たちに女子も黙っていない。食堂に集まった子らの半数に早く食べようと急かされ、職員は折れた。


「うーん……しゃあないわなあ、みんな楽しみにしとったし」


 職員は「手を合わせて、いただきます」の号令をかけると、自分の食事は後回しにして、ヤマト少年を探しに食堂を出た。


 百舌鳥ヤマトはとても難しい子供だ。犯罪に巻きこまれて父親は惨殺、母親は婚姻届も出生届もないため不明。

 本人は激しい暴行と栄養失調、そして精神的ショックで一年ほど入院し、最近『みもざ園』に入園したばかりだった。


(まさかどっか、一人で泣いとるんやろか)


 ヤマトの体験は凄惨なものだ。ハサミで舌を切られた彼は、言葉を話せるようになるまで、ずいぶんかかったという。

 精神的ショックを引きずっていることもあり、彼の滑舌は不明瞭だ。そのことをからかう子には厳しく言い聞かせているが、やはり虐められているのではないか?


 一ヶ月前、ヤマトと他の子どもたちが、取っ組み合いのケンカをしていた所を職員が止めた。彼の話す言葉は、どうしても聞き取りづらい。

 どうやら子どもたちが彼のしゃべり方や、舌の形が変なのをからかったのが原因だったようだったが……ヤマトもヤマトで、その反撃が凄まじかった。


 血が出るまで相手の腕や耳を噛み、ひっかき傷を残し、石を握りこんで何度も何度も殴り、一人は鼻を折られたほどだ。これには園も厳重注意せざるを得なかった。

 そして現在。今のところ、小さなトラブルはあるが、それ以上大きな波風は立っていない。それとも、既に見えない所で何かが起きているのだろうか。


 子どもたちは難しい。みんな傷ついて、寂しくて、自分が抱えているものが恋しさなのか憎しみなのかも判別できなくて、それぞれ違う形でもがいている。

 そんな子どもたちを受け容れ、彼らが安心できる家にするのが、彼女の仕事だ。ヤマトくんにとって、ここはまだ家じゃない。早く見つけてあげないと。


へーんへぇせーんせぇ


 階段にさしかかった時、探していた子の声がした。ほっと安心して上を見た彼女は、びくりと背筋をひきつらせて固まる。


ほないひょうどないしようおへおれ目ーえとうて目ぇいとうてナミダがほがはん止まらん


 出生届がないため、ヤマトの年齢は推定六歳。

 一年入院してみもざ園に来たので、現在は推定七歳。一二五センチほどの小さな体は、両目から流れる赤い水で真っ赤に染まっていた。


「ヤマトくん!? ヤマトくん、どないしたの! 何があってん!?」


 職員は階段を駆け上って、踊り場に立つヤマトを抱きしめた。

 誰かの嫌がらせで何かの薬品でもかけられたのだろうか? まさか施設に変質者が? 早く医者に診せなくてはと心臓が早鐘を打つ。

 小さな体は、ぎゅうっと彼女にしがみついた。耳元で、ついさっきまで泣いていたような、湿り気のする声がささやく。


あがらんわからん……あがらんわからん……れもでも、」


 続く言葉は、妙に場違いなように彼女は思った。


こうの今日のオーウアイスオムライスヒヒャップケチャップえっあいえいっぱいでゑ々あおねええやろね



 猪ノ口いのくち騎士ないとくん、八歳。

「やっぱほんまなんやな、舌がヘビみたいにまっぷたつって」


 笹岡ささおか良衛りょうえいくん、八歳。

「ニホンゴしゃべれよ、ニホンゴ!」


 桐渡きりわたり匡由まさよしくん、九歳。

「な? こいつなにゆいよるか、わからんやろ?」


 東雲しののめ多加史たかしくん、十歳。

「みーせーろ! みーせーろ! みーせーろ!」


 秋枝あきえだ戦車郎たんくろうくん、十一歳。

「〝あいうえお〟って言うてみぃや。ほーら、あいうえお!」


 宇高うだか亮哉りょうやくん、十一歳。

「舌がまっぷたつやから、アタマん中もまっぷたつなんやけ?」


 布田ふだ唯一ゆういちくん、十二歳。

「なん言いよるのか分からんよ! 年上の言うこときけや!」


 その七人は大人の目を盗んで、ヤマトを悪し様に罵り、殴り、蹴り、殴り返されると、数の力で袋叩きにしたり、物を隠すなどのいじめをくり返していた。

 彼らにとっては、ヤマトは人間ではなく、気持ちの悪い病気にかかった野良犬と同じだ。石を投げつけ怪我させて、目に見える所から追っ払う。


 みもざ園のお楽しみイベント、『オムライスの日』。

 七人が待ちに待った最初の一口を食べようとした時だった。


「じゃぅぇぇっあ゙……ッ!?」

「おがおぃぅあぉい!?」

「うがあああああッッッ!!」

「ほぎいぁぅぶらッッ」

「ぁんへ、ぁ、アーッ! アーッ!」

「はぁーっ! ぁあぎぃいい……ぃ!」

「ういぽッ、ぶ、ゔゔ」


 口から吐き出された血と泡が、素敵なオムライスの上にびしゃびしゃかかる。吐血でも喀血かっけつでもない、七人の子どもたちの舌は、縦真っ二つに切れていた。



「ヤーマぁ」


 髑髏どくろのように虚ろな目から、血の涙を垂らす顔が自分を見下ろしている。それは百舌鳥自身の顔を、悪趣味に歪めたパロディのようだった。


「キこえてる? ミえてる? やーまっ」

「おどれがキヨイか」


 着ている物までそっくり同じTシャツだ。百舌鳥はキヨイの胸ぐらをつかみ、自分の上から退けながら起き上がった。


「やっぱりキこえてる! やっとキこえた!」


 はしゃいだ声。相手は幽霊のはずだが、百舌鳥の舌には赤苦い喜びの味が広がっている。ほどよく砂糖を入れたコーヒーのようで、かえって気味が悪い。

 百舌鳥は再び、はしゃぐキヨイの胸ぐらをつかんで立ち上がらせた。


「思い出したで、『みもざ園』の児童七人舌裂き事件! あの後、俺はすぐ別の施設に移されてすっかりわっせとった忘れていたが……あらおんどりゃの仕業やな!」

「そー」


 こくり、とキヨイはあっさり肯定する。何も悪くないと思っていない軽さだ。


「なんでそんなんをした」

「オレ、ヤマ、きょうだい」


 道眞たちに「事件の記憶がない」と百舌鳥は話したが、より正確には「事件とそれ以前の記憶」がすべてなかった。

 だから、もしかしたら、自分が知らないだけで兄弟は存在するのかもしれない。かといって、それがキヨイであるとは思えなかった。


「おんどりゃなんぞ知らん!」


 兄弟ならば、なぜ舌を切るのか?

 全身を切断された父は、舌も切り落とされていたという。もし自分に兄弟がいたなら、家から離れた場所でバラバラにされ、それが今も見つかっていないのだろう。


「ウソつき。オレ、キられてから、ずっとキえないよう、したのに。ウソつき」


 嘘をついているのはどちらだ。直感的に、百舌鳥はキヨイに忌まわしさを感じている。こいつからは常に、怨みの強い黒の味がして、舌がしびれそうになるのだ。


「ヤマ、ぜんぶシってる」

「なら、おんどりゃの知っとることすべて吐かんかい」


 にーぃーっと、三日月のように口を持ち上げて、キヨイはゆっくりと首を傾げた。


「モズはさあ、ウソつきのトリなんだってえ」


 ふいに、朧気だった質感がハッキリする。足裏に畳の感触、後ろにはパイプベッドがあり、周囲は自分の部屋だ。その壁に、天井に、床に、ばくりと大きな口が開く。

 キヨイとそれらは一斉にがなり立てた。


ウソつきウソつきウソつオレはヤマのきょうだいウソつきウおもいだせつきウソつシんじゃえウソつきウシんじゃえつきウソつシんじゃえウソつきウおもいだせつきウソつきオレは繝溘リ繝�ソつきウソつきウおもいだせない?つきウソナンデ?きウソつきウソナンデ? ナンデ?きウソつきウオレは繝溘リ繝�つきウソつきウソヤマのきょうだいきウソつきウソおもいだせないきウならつきウソつコロしてやるウソシねつきシねウソシねつきウソつクルしんできウソつきクルしんでウソつナいてきウソつわめいてきウソつきチをハいてウソシねつきシねウソシねつきシねウソシねつきシね



 腹の中身をわしづかみにされ、まるごと引きずり出される気分で目を覚ます。ど、ど、ど、ど、と自分の鼓動が遠雷のように重く響いていた。

……夢の中でまた夢を見るとは……。


 今が現実かどうかも疑わしくなって、百舌鳥は手狭なキッチンに立った。水道水は味気なく、コップ一杯飲もうと思ったのに、半分ほどで嫌になってしまう。

 エアコンをかけていたというのに、ひどい寝汗でTシャツがじっとりと濡れていた。布が貼りつく感触は、まだ悪夢の残滓がしがみついてくるようで。


「……くそっ」


 百舌鳥は服を洗濯カゴに放りこみ、シャワーを浴びて寝直した。

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