第三輪 意味を賜る、荒御魂
第24話〝狩り鐘さん〟の怪
二〇一五年六月某日、神戸市某所、雨の白昼。
傘も差さず濡れネズミの男が、肩の切り傷から血を流しながら、息せき切って走っていた。商店街の人混みをかきわけ、突き飛ばし、転がるような勢いで。
男の名は
絶えずあふれては雨に流される滝華の血と、彼を追うレインコートの男が手にした凶器に悲鳴が上がった。左手に抜き身の日本刀、右手に鞘。
レインコートの男は還暦を迎えているだろう。四角い眼鏡をかけた彼は、息も絶え絶えに走る中年の滝華と違い、決して焦った様子はない。
スタスタと落ち着いた歩みは、不思議と相手に引き離されることはなく、着実に距離を詰めていた。ゆっくりに見えるのに、速い。
商店街を抜けた先は、開けた四つ辻だった。中央に火の見やぐらの鉄塔が建ち、半鐘が吊り下げられている。やぐらに足をかけて滝華は叫んだ。
「なぜだ! なぜ私を殺そうとする、
やぐらの上ならば足場が不安定になって、日本刀を取り回せまいという判断だった。登っていく滝華を見て、雁金は鞘を捨て、刀の峰を口にくわえる。
二人の間には五メートル以上の距離があったが、彼はとん、とん、とん、と天狗のように軽々と飛んでやぐらを登り切ってしまった。
「何が不満だったんだ! あんなに――」
超人的な身体能力に恐怖しながら滝華は叫ぶ。ざわざあと激しい雨が、その言葉を途切れさせた。少しでも雁金から距離を取ろうと、滝華はやぐらの屋根に登る。
「――――足りないとでもいうのか?」
「それや」
やぐらの上で、雁金は日本刀を手に持ち替えた。
事態を見守っていた野次馬は、彼が刀を横なぎに振り抜いた時、きんっと澄んだ音を聞いたと言う。それはやぐらの屋根を切断した。
「やめ…えぇっ、助け――うわああああああっ!!」
滝華は一〇メートル近い高さを真っ逆さまに落ちていく。再び刀を口にくわえた雁金は、悠々とやぐらを降りた。
屋根の下敷きにこそならなかったものの、滝華は泥水にまみれながら起き上がることもできない。地上に戻った雁金は、改めて刀を手に提げた。
「――たら――
「ゆ、許してくれ。許してくれ。殺さないでくれ!」
「許す?」
両手を合わせて伏し拝む格好の滝華を、雁金は
「許すも許さんもあらへんねや」
刀の切っ先が持ち上がる。滝華はとっさに、近くに転がった半鐘を頭に被った。日本刀は刃こぼれしやすいのだ、分厚い青銅をそうそう斬れるとは思えない。
「――ヤッ! トオオオオオ!!――」
雨粒が雁金を中心に、丸くはじけ飛ぶような
――かぁん!
鐘の鳴る音が続き、ぐらりと滝華の体が傾いだ。
真っ二つに割れた半鐘が転がり、どぷりと広がる血の池が雨に打たれて泡立つ。何が起こったのか、しばらくして気づいた野次馬たちは恐慌に陥った。
「われも、わしも、
刀を振るって血を落とし、雁金はそれを逆手に持ち替える。そのまま一息に自分の腹を貫くと、横へ縦へと十字に切り裂き、その場に崩れ落ちた。
◆
「――以上が、滝川令雄殺人事件、および雁金
八月一日水曜日、
百舌鳥、
「白昼人通りの多い中での事件やったから、
事件の舞台となったやぐらは取り壊され、現在は跡地にフェンスが建つのみ。百舌鳥は当時まだ現役の警官だったので、この件を徹底的に調べたらしい。
「事件の数週間前、せんせと滝華がいっしょに歩きよったちゅう目撃証言があるけど、それ以上の関係は不明や。それと、ここで言いよる白取ちゅう男。こいつは八年前、雁金せんせの妻・里子さんを交通事故で死な
「その白取氏は、今どうしているんだ?」道眞が挙手して訊ねる。
「事件の前後から行方知れずや。ただ、白取自身も、『神々祇会』の幹部やった。白取、滝華の間に何らかのトラブルがあったようやが、せんせとの関係は不明や」
恩師の凶行を語る百舌鳥の口調は、交通違反の切符を切るときだってこうだろうなという無機質さで、彼は本当に刑事さんなんだなと茅は思った。
今日も彼女は二つ結びの髪に赤いオーバーオール姿で、膝には定位置ですといわんばかりに、黒猫のリリンコが収まっている。ちなみにメスだ。
人間たちが怪異対策のミーティングをしていることなどおかまいなしに、ぴすぴすと鼻息を立てて眠っている。その姿は、つやつやのおはぎみたい。
「じゃあ、次は私から」
百舌鳥にかわって、別天がソファから起立する。
その周囲には、彼女が書き続けている大量のメモ束が散らかっていた。中身は判読不明だが、
「雁金さんの話を聞いて、関係のありそうな怪異を探してみたの」
別天は新しいメモ用紙に「神戸の切り裂き魔・
「切って欲しいものを何でも切ってくれる怪異、〝狩り鐘さん〟。ちょうど神戸のあたりで囁かれている噂よ。彼を呼び出す儀式では、こんな呪文を唱えるの」
※
狩り鐘さん、狩り鐘さん、お切りください。お一つお切りください。
人を呪うには腕二つ、人を呪えば首三つ、人を呪って玉四つ。
五つの鐘を鳴らしたら、六つの子を振りましょう。
七つ足音聞こえたら、狩り鐘さんお切りください。
悪縁/不運/災難をお切りください。
お代は私のこの髪/爪/首です。
※
「頭に三角コーンをかぶって、振り子を抜いたハンドベルを振りながら、ベルが鳴るまでくり返すの。そしてベルが鳴ったら、切ってほしいものを切ってもらえる代わりに、赤い糸で鈴を結んでおいた体の一部を切られる、という噂よ」
「三角コーン……?」道眞がけげんな声を出す。
「三角コーンって、道路にトゲみたいに置いてある、あの赤い三角コーン?」
呪文がちょっと長いなあと思いながら聞いていた茅も、確認せずにはいられなかった。そんなものを被るおまじないが、女子の間で流行ったりするだろうか。
眼鏡をかけたままだと無理だろうし、髪型だって崩れてしまうに違いない。長い呪文だって、メモにでもしないと絶対忘れられて変わってしまう。
道眞が確認を取った。
「百舌鳥、生前の先生は、そんな物をかぶるようなエピソードがあったのか?」
「三角コーンか……」百舌鳥の歯切れが悪くなった。
「〝狩り鐘さん〟は〝おかねが好き〟だからだそうよ」
かわって別天が口を開く。
「だからハンドベルを持つし、お寺の『鐘』に形の似ている三角コーンを被ると、呼び出せるのですって」
別天はホッチキスで留めた資料のコピーをめくる。
屋敷の二階にある書斎『
死者が残した無念の思いを核に、怨霊としてよみがえらされた
「〝お賽銭とお鈴を持って呼びましょう。鈴が鳴ったらご来訪。切りたいものを願いましょ。ただし、お代はあなたの体〟……という記録もあるわね」
もちろん、願いが大きければ大きいほど、多くのお代を払わなければならない。
ある少女は、『恋敵の首を切ってください、お代は私のこの手首です』とお願いし、七回呪文を唱えた時、りーんとハンドベルが鳴ると、鈴を結んでいた手首が落ちたと言う。そして同時刻に、恋敵の少女は自宅で首を切断されていたそうだ。
興味深そうに百舌鳥はメモを取った。
「実際にお代を払った人間がおったんやったら、そこも調べたいとこやな」
「それなら、私がだいたい見当をつけてあるわ」
別天は赤いマジックを取り出すと、地図の二箇所に丸をつける。
「一つはこの四つ辻。そしてもう一つは」
「雁金せんせの自宅やな」百舌鳥は即座に気づく。
「その二箇所で儀式を実行した者にだけ、〝狩り鐘さん〟は姿を現し、願いを叶え、契約の対価を奪っていく。髪や爪を切られた程度だと、大した噂にはならないでしょうけれど。手首を切られた子の話も、それらしい小さな記事を見つけたわ」
「おばあちゃん、すごい……探偵みたい」
孫の賞賛を別天はくすぐったそうに受けた。だが喜びと言うには影のある微笑は、娑輪馗廻との戦いに一度挫折し、退いた苦渋が隠れている。
「対価を差し出せば、悪縁でも災難でも気に食わない相手でも、何でも切ってくれる怪異か……」
「なんや、葬儀屋。意見があるなら言うてみぃ」
「何というか、殺し屋みたいな怪異だなと思って。雁金先生ってのは、お金をもらって剣の腕を振るう人だったのかい? 道場主としてではなく、さ」
道眞が考えを述べると、百舌鳥は「まさか」と鼻で笑った。
「せんせはそんなんが好かんかったんやで。剣は〝よう生きる〟、〝人を活かす〟ためのもので、復讐心だのカネを積まれてだので、使うものとちゃうってな」
「じゃ、ひょっとして〝狩り鐘さん〟ともずもずの師匠は別人なんじゃない?」
百舌鳥からは事務的な説明しか受けていないが、茅にも雁金は大切な人だったということは、そこはかとなく伝わってくる。
いずれ対決しなくてはならないとはいえ、恩師が〝狩り鐘さん〟のように変わり果てたオバケになっていたら、嫌な気分になるはずだ。茅はそう心配になった。
「かもわからんがな……そこの部分以外は、せんせに
今から八年前、雁金古都久は交通事故で妻を亡くした。軽トラックとの衝突で、首から上が無くなるという
気が動転していたのか、その時運転していた白取は、近くにあった三角コーンを死体に被せ、首がないのを必死で隠そうとしたそうだ。
だから〝狩り鐘さん〟は、妻の面影を求めて三角コーンを被った者の前に現れる。滑稽な儀式も、そんなエピソードが付加されるともの悲しく見えなくもない。
別天邸にいて分かる情報はこんなところだろう。一行は真実を確かめるべく、現地へおもむくことにした。
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