第25話 うつるとは月も降らず、水も昇らず
「離さんかい! 何しくさるんや! このクソジジイ!」
座敷の柱に縛りつけられた百舌鳥ヤマト十一歳は、壮年の男を罵った。こんな仕打ちを受ける覚え自体はありまくる。
数ヶ月前、ゴミ捨て場で木刀を拾った百舌鳥は、人、動物、物、構わずなんでもそれで殴りつけて過ごしていた。
そして今日は生け垣の隙間から平屋の家に侵入し、そこにあった窓硝子や植木鉢を叩き割っていた所を、五十がらみの家主に捕まった次第だ。
「そこは
「ぺっ」
吐いた唾は、四角い眼鏡の男の少し手前に落ちた。もうちょっとで膝か手に命中したのに、と悔しがっていると、家主は動じた風もなく訊いてくる。
「なんでわしの家のものを
「別に。おどれの家が不用心なのが悪いんやろ」
「そらそうや」
意外にも眼鏡男はうなずいた。その手元には、百舌鳥から奪った木刀がある。これからの展開が、彼にはなんとなく予想がついた。
今のところ落ち着いた黄甘い味しかしないが、この男から怒鳴られ、罵られ、さんざんに殴られて放り出されるに違いない。
それが素手でも木刀でも、百舌鳥にとって大した違いはない。
とにかくずっと、ムシャクシャしていた。養護施設をあちこちたらい回しにされて覚えたのは、まず最初に自分が相手をいじめれば、平穏に過ごせるということ。
心地よい生活を手に入れたと思ったら、それでも後から後から不平や不満、苛立ちが尽きることなく湧いてきて、どうしたらいいのか分からなくなった。
けれど、そんな迷いは一時のこと。「人を殴るとスッキリする」と百舌鳥が学習するのは早かった。物よりは動物、動物よりは人間、殴り返されたらそれはそれ。
痛いことなんて怖くない。それより、ワケの分からないイライラばかりが、わずらわしくて仕方ない。寄らば殴るぞ以外のことなど、彼は何も考えていなかった。
「どれ、ちょっと待てや」
壮年の家主は百舌鳥と木刀を置いたまま、座敷を出て行った。
さては刃物でも取りに行ったかと身構える。半年前、魚屋で暴れて商品を台無しにして、店主に刺身包丁で追いかけられた時は、さすがに肝が冷えたものだ。
いくら痛いのは平気でも、死ぬのはまだ嫌だった。
(……まさか殺しはせんやろ)
人を殴ろうとする人間は、一種独特の気配を必ずただよわせるものだ。あの男にはそういう物がまったく見えないし、舌にも感じない。
足音もなく男が戻ってきた時、百舌鳥は全身が総毛立つのを覚えた。
男からは何の味もしなくなっている。ハサミで切られて以来、人の感じていることや考えていることが、不思議と舌で感じられたというのに。
じっと口の中に意識をこらすと、かすかに薄黄色いものが感じられた。それは退屈している時の感情だが、冴え冴えとした甘みが少し差しこんでいる。
男は百舌鳥が今まで見たことがないほど、冷静で平静なのだ。
「自ら澄めるものから、うつるとは月も降らず、水も昇らず」
「は?」
「水月の境地。言うてもこら尾張柳生やけどな」
意味が分からない。こんなに味が薄い人間など初めてで、混乱していた百舌鳥は男が持ってきた物にやっと気がついた。
時代劇でしか見たことがないような、日本刀だ。すらりと抜かれる刀身が、真昼の光を十字に反射する。男は鞘を畳に転がして、剣を中断に構えた。
まさか、嘘だろう? こんなのは子供だましの脅しだ、日本刀で自分を真っ二つにするはずがない。百舌鳥は
相手が本気かどうか、いつもなら味を見れば分かった。百舌鳥は舌を口から出してめいっぱい伸ばしたが、それでも、薄い薄い黄色い味しか感じない。
二つに割れた舌は、見る者はたいていビックリするが、この男はそれにも動じなかった。剣を構えたまま、時が止まったように静止している。
だが切っ先は、ピタリと百舌鳥の額を指していた。
「――ヤッ! トオオオオオ!!――」
あっ、斬られたと確信する一閃。
頭のてっぺんからちんちんの先まで、スパッと通り抜けるものがあった。ものすごい速さで遠くからやってきて、また気の遠くなるどこかへ去って行く風。
それは百舌鳥の体を突き抜けて、よく分からないイライラも、どす黒いモヤモヤも、ぜんぶ持っていってしまったようだった。
「よっし!」
手応えあり、と男が振り下ろした刀を鞘に収める。そしてぺちぺちと、両手で百舌鳥の頬を叩きながら目を覗きこんできた。
自分を見る男の瞳は、妙にまばゆい。ずっと見つめていたいのに、なんだか目玉がむずむずして見続けられない、惹きつけられる明るさ。
「ざわざわした物がのうなったな? さとちゃーん! ちょっと子供に出せそうなお菓子持ってきて! 大至急!」
はーい、と女の声。どうやら一人暮らしではなかったらしい。百舌鳥を柱に縛りつけていた麻縄を解きながら、男は話しかけてきた。
「われ、いくつや」
自分が縛った腕をもみほぐす、男の手が温かい。
「……じゅういち」
素直に返事している自分に驚く。なんだか急に、逆らうのも面倒になってしまった。疲れたとか、ビビったとかいう問題ではない。
男が言う「ざわざわした物」、自分がワケも分からず振り回されていた苛立ちが、すっかり消えたみたいに心がくつろいでいる。
男の妻らしき壮年の女性が、座敷に入ってきた。
「コトさーん、これでいいかなー?」
色鮮やかな小鳥が飛びこんできたみたいに、ぱっと部屋が明るくなるおばさんだ。手にした盆には、二人分の湯飲みと
「さとちゃん、ありがとー」
盆をちゃぶ台に置いて、女性はすぐに去って行った。どっかと座布団に座り、男がこちらへ来るようにうながす。百舌鳥はおずおずと、対面に正座した。
いつの間にか、わけの分からない相手に対し、敬意のようなものが胸裡に生まれている。怖いのではなく、恐れ多いとでも言うような、生まれて初めての感情だ。
「さっき、おれになにしてん」
「その前にこっちの質問が先や。なんぼ不用心やからって、なんで人の家に入って物をめいだ? 誰の家でも、暴れられたら良かったのか?」
ぐ、と答えに詰まりながら百舌鳥は必死に考えた。考える、ということ自体を今までほとんどしていなかった気がする。頭の中を占めるのは苛立ちと、それをどうやって晴らすかということばかりで。ただただ、衝動に従って生きてきた。
それを言葉にして説明するのは、たぶん、これが初めてだ。
「……ムシャクシャしとったんや。なぐったり、めいだりしとらな、頭おかしなりそうで……ほかにどないしたらよかったか、わからんし、誰も教えてくれんから」
たったそれだけを話すのに、百舌鳥は十分以上かかったが、男は辛抱強く聞いた。
「まあ、その舌の様子じゃ、なんか酷い目におうたみたいやしな。そやからって許される思うなよ? とりあえず、菓子食うたら、めいだもの
「うん」
他人の言葉に素直にうなずいたことなど、いつ以来だろう。
「さっきの質問に答えよか。あらな、
「ケンジュツ」
「わしは
常識的に考えれば、にわかには信じがたい話だ。だが百舌鳥は十一歳という幼さと、身をもって体験させられたこともあって、疑いなくそれを飲みこむ。
「つづらはらいちもんじ……かっこええな」
「そうやろ、そうやろ。弟子入りするか?」
百舌鳥は改めて雁金見上げた。
生い茂る森のようにもっさりした頭に、四角い眼鏡。さんさんと日光を浴びてのびのび育った若木みたいに、まっすぐで活き活きした印象を覚える。
大人も子どもどいつもこいつも、百舌鳥にとっては代わり映えのしない影法師のようなものだった。そんな灰色の世界に、雁金はどかーんと開いた大輪の太陽だ。
「おれ、百舌鳥ヤマト」
「ヤマト。ヤマ坊か」
人に名前を聞くときはまず名乗りなさい、とは教わったものだが、それを実践したことはない。今日この瞬間まで、進んで人に名を名乗ったことはなかった。
今日はどうして何もかも、初めてづくしなのだろう。
それはきっと、これが特別な出会いだからに違いない。
「せんせの弟子になったら、おれもあれが出来るんけ? 自分で自分のイライラをぶったぎって、スッキリできるか?」
「そらモチのろん。剣術、武術ってのはな、悪いものから自分や友だちを守って、健康に過ごして、人生をもっと楽しゅう生きるためにやるもんなんやで」
「人生を……楽しく……」
世の中に剣道というものがあって、それは竹刀という棒で人をぶっ叩くスポーツだという知識は百舌鳥にもある。
ただ、お互い防具でガチガチに固めていては、面白くないだろうと興味を持たなかった。剣術と剣道の違いは知らないが、雁金の言うことはことごとく新鮮だ。
「うちの流派は
百舌鳥は首振り人形のように、こくこくとうなずきながら聞いた。そう語る雁金自身が、めいっぱい人生を楽しんで、キラキラ輝いて見える。
「古い言葉で言うたら、〝当流は天下の道に
すっ、と百舌鳥はその場に土下座した。
これまでさんざん悪行を重ねては、周りの大人たちに猛烈に怒られてきたが、いつも痛くもかゆくもなかった。殴りたいなら気が済むまで殴ればいい。
そんな自分でも、人に誠心誠意頼み事をする時は、このようにするものだと知っている。土下座して、声を張り上げて、これで伝わるかとドキドキしながら叫んだ。
「お願いします。おれを雁金せんせの弟子にしてください!」
「ええど」
あまりに軽い返事に、百舌鳥は畳の上でころげそうになった。頭を上げると、雁金はスタスタと横を通って、天袋を探っている。
「ほれ、これやるわいヤマ坊。
放り投げられたそれを、あわあわとキャッチした。同年代より二回りは体格の大きい百舌鳥に、それは確かにぴったりだ。
「
「おう、そやけどその前に最中食わんかい。それから掃除な」
「はい!」
人と争ったり、もめ事を起こしたりすることは相変わらず続いた。だが、百舌鳥少年が変わり始めた境目は、まさにこの日だったのだ。
◆
『
「せ……せんせ?」
雁金古都久が割腹自殺をして三年。電話帳に残していた死者の番号に応えたら、読経のようなものが百舌鳥の耳に流れこんできた。
イタズラなら無視すればいいが、間違いなくこれは雁金の声だ。
『
「せんせ、俺は幽霊は信じんが、あんたはほんまに化けて出たみたいやな。俺に何言いたい? 何して欲しい? お経じゃ分からんわい、きちんと話してや」
ぷつりと読経が途切れ、長い沈黙が続いた。一分、三分、やがて。
『しゃきしょうじゃさまを、まて』
「さき……なんやて?」
読経よりはまだ意味を結びそうな言葉だが、それでも百舌鳥には分からない。そもそも、この雁金はいったいどうしているのか。
乾いた血のような赤黒い色に、舌がヒリヒリするほど苦くて渋い。麻薬中毒者の多幸感に近く、錯乱気味の黒が加わってひどく不快な味だった。
確かなことは、恩師はすでに正気ではない、ということ。
『またあおうなぁ、ヤマ坊』
もう会えない人は、懐かしい呼び方を遺して電話を切った。
その日から、百舌鳥の周りでは奇妙な出来事が続き、今に至る。
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